佐渡御書
文永9年(ʼ72)3月20日 51歳 門下一同
はじめに
本抄は、日蓮大聖人が文永9年(1272)3月20日、佐渡・塚原において著され、「日蓮弟子檀那等御中」と宛名されているように、門下一同へ与えられたものである。なかでも「富木殿のかた、三郎左衛門殿、大蔵たうのつじ十郎入道殿等、さじきの尼御前、一一に見させ給うべき人人の御中へなり」とあるところから、まず富木常忍、四条金吾など信徒の中心的存在の人々に読ませ、本抄の趣旨が門下に伝わるよう御配慮なされたものと拝される。
追伸にも「佐渡の国は紙候はぬ上、面面に申せば煩あり、一人ももるれば恨ありぬべし。此の文を心ざしあらん人人は寄合うて御覧じ、料簡候て心なぐさませ給へ」と認められており、本抄の重要性をうかがうことができる。
佐渡で御述作になった重書であるところから、古来「佐渡御書」と呼ばれているが「与門人等書」とか「富木殿等御返事」とも称された。
本抄の大意
はじめに仏法のために身命を惜しまない信心を貫くことが成仏の道であることを示されている。
つぎに、その不惜身命の仏道修行にも摂受と折伏があり、それは時によることを明かされ、悪王が正法を破り邪法の僧等がその味方をして正法を失わんとする時には、身命をなげうって折伏を行ずることこそ、時機にかなった実践であることを述べられている。
さらに、同年二月に起きた北条時輔の乱の因を経文の教示に求めて、北条一門が大聖人を迫害したため予言どおりに自界叛逆難が起きたことを明かされ、大聖人の迫害を喜ぶ謗法の法師等は悪鬼入其身であり、自分達の破滅を招くものであることを示されている。
また、大聖人が難に値われる理由として、世間の失は一分もなく、過去の謗法の重罪を転じ今生に軽く受けて消滅するためであることを明かされ、諸宗の僧こそ仏法を破る外道であり謗法であることを述べられている。そして、人々の謗法を教え顕して助けようとしても、かえって我が身には謗法などないと抗弁しているようすを述べられている。つぎに、般泥洹経に説かれている八つの大難を大聖人が一身に受けられているのは、過去に法華経と法華経の行者を誹謗したためであることを明かされている。その八難が競い起こっているのは、強く法華経の敵を責めたためで、これこそ護法の功徳力であり、過去の謗法の重罪を消して不軽菩薩と同じく成仏できるのであると述べられている。
最後に、このように大聖人が大難にあっておられることから、疑いを起こして信心を捨てるのみでなく、大聖人を批判する門下が出たことに対して、無間地獄に堕ちることをあわれんで警告されている。
本抄の背景
文永8年(1271)10月28日、越後の寺泊から海を渡って佐渡に着かれた日蓮大聖人は、11月1日に配所の塚原三昧堂に入られた。
三昧堂のようすは「里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり・雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし」(1413:妙法比丘尼御返事:16)、「かかる所にしきがは打ちしき蓑うちきて夜をあかし日をくらす」(0916:種種御振舞御書:16)と述べられているように、人里離れた墓地の中の荒れ果てた小堂で、大聖人はそこで厳寒に耐えながら、翌文永9年(1272)4月ごろまで約5ヵ月を過ごされている。
そこでの御生活は「佐渡の国に下著候て後二月は寒風頻に吹て霜雪更に降ざる時はあれども日の光をば見ることなし、八寒を現身に感ず」(0955:富木入道殿御返事:01)、「北国の習なれば冬は殊に風はげしく雪ふかし衣薄く食ともし……現身に餓鬼道を経・寒地獄に堕ちぬ」(1052:法蓮抄:06)などの記述からうかがうしかないが、寒さと飢えの苦しみを一身に受けられていたのである。
佐渡の生活の厳しさから11月23日に、ここまでお供をしてきた年若い弟子達を鎌倉へ帰されて、「小僧達少少還えし候此国の体為在所の有様御問い有る可く候筆端に載せ難く候」(0956:佐渡御書:04)と富木常忍への御状を託している。佐渡の寒苦の中で、大聖人に常随給仕されたのが日興上人だった。
当時の佐渡は念仏者が多く、そのため大聖人を憎悪し、迫害しようとする動きも強かった。それは「此の佐渡の国は畜生の如くなり又法然が弟子充満せり、鎌倉に日蓮を悪みしより百千万億倍にて候」(1132:呵責謗法滅罪抄:01)とか、「彼の島の者ども因果の理をも弁へぬ・あらゑびすなれば・あらくあたりし事は申す計りなし」(1326:一谷入道御書:04)等の御文から知ることができる。
しかし、一方では阿仏房・千日尼夫妻が帰依して、大聖人を外護するために人目をしのんで尊い給仕の誠を尽くしている。また、国府入道夫妻、最蓮房なども間もなく大聖人に帰依している。
大聖人が佐渡へ着かれた直後から、大聖人を亡き者にしようとする動きが始まった。念仏者や禅・律僧の唯阿弥陀仏、生喩房、印性房など数百人が寄り合い、謀議をこらしたうえで「六郎左衛門尉殿に申してきらずんば・はからうべし」(0917:種種御振舞御書:17)と、守護所に押し寄せて守護代の本間六郎左衛門尉重連に大聖人の処刑を迫ったのである。だが、本間重連は「上より殺しまうすまじき副状下りてあなづるべき流人にはあらず、あやまちあるならば重連が大なる失なるべし、それよりは只法門にてせめよかし」(0917:種種御振舞御書:18)と彼らの要求を斥け、法論による対決をすすめた。
そのため、文永9年(1272)1月16日、佐渡一国はもとより、越後、越中、出羽、奥州、信濃等の国々からも海を渡って来た数百人の諸宗の僧が、三昧堂の前に集まった。彼らの口々に大聖人をののしり騒ぐ声は地震か雷鳴のようだったと大聖人は記されている。
大聖人はしばらく騒がせた後、「各各しづまらせ給へ・法門の御為にこそ御渡りあるらめ悪口等よしなし」(0918:種種御振舞御書:07)とさとされ、問答が開始された。そのもようは「止観・真言・念仏の法門一一にかれが申す様を・でつしあげて承伏せさせては・ちやうとはつめつめ・一言二言にはすぎず……利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し」(0918:種種御振舞御書:08)というありさまで、鎌倉の諸宗の学匠達でさえとうてい太刀うちできない大聖人に、浅学のいなか法師が挑んでも勝負になるわけがなかった。
「仏法のおろかなる・のみならず或は自語相違し或は経文をわすれて論と云ひ釈をわすれて論と云ふ……或は悪口し或は口を閉ぢ或は色を失ひ」(0918:仏法のおろかなる:10)という醜態をさらし、「或は念仏ひが事なりけりと云うものもあり、或は当座に袈裟・平念珠をすてて念仏申すまじきよし誓状を立つる者もあり」(0918:種種御振舞御書:12)とあるように、かえって正義にめざめて改宗する者さえ出たのである。
塚原問答が大聖人の圧倒的な勝利に終わり、集まった人が帰ろうとした時、大聖人は本間重連を呼び止めて、いつ鎌倉へ上る予定かと尋ねられた。重連が七月ごろにと答えると、大聖人は「只今いくさのあらんずるに急ぎうちのぼり高名して所知を給らぬか、さすがに和殿原はさがみの国には名ある侍ぞかし、田舎にて田つくり・いくさに・はづれたらんは恥なるべし」(0918:種種御振舞御書:16)と、近く鎌倉に戦さが起こることを予言されたが、重連はそのことばをあやしむばかりだった。
翌1月17日、前日の法論に惨敗した念仏者等は、彼等の棟梁である印性房弁成を塚原によこし、再び大聖人に法論を挑んできた。そのことは、本抄に「今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり日蓮が許に来て云く法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に御往生疑なしと書付て候を山僧等の流されたる並に寺法師等・善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし」と述べられている。その時の問答記録が「法華浄土問答抄」として遺されており、その末尾に印性房弁成が大聖人とともに署名し花押を認めていることは、念仏が邪義であることを自ら承認したことになる。
塚原問答の後、2月に、大聖人は開目抄上下2巻を完成し、四条金吾の使いに託されている。これは、鎌倉で退転者が続出するという一門の危機にあたって、有縁の弟子檀那の疑いを晴らすためであるとともに、末法万年の一切衆生の盲目を開くために末法御本仏の御境界を明らかにされ、「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(0237:開目抄:05)と、末法の人本尊を開顕された重要な御書なのである。
当時の門下の状況については、「寺泊御書」の講義を参照されたい。
塚原問答の予言からちょうど1ヵ月後の2月18日に佐渡へ着いた船便が、内乱の起きたことを告げた。本間重連は家来をつれて、ただちに本土へ向かったが、出発前に大聖人を訪れ、大聖人に手を合わせて「たすけさせ給へ……永く念仏申し候まじ」(0919:種種御振舞御書:08)と誓っている。
この内乱は、「二月騒動」とも「北条時輔の乱」ともいわれ、京都の南六波羅探題だった北条時輔が、北条本家の家督を継ぎ執権となった異母弟の時宗を嫉み、名越教時らと謀って時宗を倒そうとしたことから起こっている。この策謀を事前に察知した時宗側が、2月11日に時輔方とみられた名越教時、仙波盛直らを鎌倉の邸に急襲して誅殺、同15日には京都の北波羅探題北条義宗が時輔の邸を攻め、時輔一族を滅ぼしたのである。
この事件について大聖人は、本抄で「今年二月十一日十七日又合戦あり……薬師経に云く『自界叛逆難』と是なり、仁王経に云く『聖人去る時七難必ず起らん』云云……日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか」と仰せになっている。遠くは「立正安国論」の予言が、近くは竜の口法難の際の平左衛門尉への諌暁が、そのまま現実のものとなったのである。
18日の使いが知らせたのは、まず11日の鎌倉での戦乱の報であったと思われる。京都での時輔誅殺はその後伝えられたもので、その日付を17日と書かれたのは、佐渡に伝わったニュースがあいまいだったためであろう。ともあれ、大聖人の予言の的中と、本間重連の帰伏を知った佐渡の島人の中には「此の御房は神通の人にてましますか・あらおそろし・おそろし、今は念仏者をも・やしなひ持斎をも供養すまじ」(0920:種種御振舞御書:02)と大聖人に畏敬の念を抱き、念仏を捨てて心を寄せる者も出てきた。
また、「かへる年の二月十一日に日本国のかためたるべき大将ども・よしなく打ちころされぬ、天のせめという事あらはなり、此れにや・をどろかれけん弟子どもゆるされぬ」(0927:光日房御書:16)とあるように、幕府も驚いて竜の口法難の時に捕えて土牢に投獄していた日朗ら五人の大聖人門下を急に釈放している。
本抄は、このような状況の下で著されており、大聖人御自身のことによせて、過去の謗法の重罪のゆえに大難にあうのであり、また難にあうことによって転重軽受して重罪を消滅し成仏できることを明かされ、大聖人の予言どおり自界叛逆難が起きたことから、いっそう確信をもって不惜身命の信心に励むよう、門下一同を激励されているのである。
本抄を拝した戸田二代会長が「この御書を拝して、深く胸打たれるものは、大聖人ご自身のお命もあやうく、かつは御生活も逼迫しているときにもかかわらず、弟子らをわが子のごとく、いつくしむ愛情が、ひしひしとあらわれていることである」と述べているように、御本仏の大慈悲を本抄の文々句々から拝すべきであろう。
第一章 (論釈等の送付を依頼する)
この文は富木殿のかた、三郎左衛門殿、大蔵とうのつじ十郎入道殿等、さじきの尼御前、一々に見させ給うべき人々の御中へなり。
京・鎌倉に軍に死せる人々を書き付けてたび候え。外典抄、文句の二、玄の四の本末、勘文・宣旨等、これへの人々もちてわたらせ給え。
現代語訳
この手紙は富木殿の方、四条三郎左衛門尉殿、大蔵塔の辻十郎入道殿等、桟敷の尼御前などの一人一人に見てもらいたいものである。京都や鎌倉の合戦で死んだ人々の名を書き付けて送ってほしい。また、外典抄、法華文句の二の巻、法華玄義の巻四の本末、勘文や宣旨なども、佐渡に来る者に持たせて送ってもらいたい。
語釈
三郎左衛門殿
(1230頃~1300)。四条金吾のこと。日蓮大聖人御在世当時の信徒。北条氏の支族・江間家に仕えた武士。武術・医術に通達していた。建長8年(1256)池上兄弟、工藤吉隆などと前後して大聖人に帰依したといわれる。竜の口法難では殉死の覚悟で供をし、佐渡の地より人本尊開顕の書である開目抄を与えられている。左衛門尉は官名。
大蔵たうのつじ十郎入道殿
生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の信徒。鎌倉の大蔵塔の辻に住んでいた。
さじきの尼御前
生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の信徒。鎌倉の人で一説には印東三郎左衛門尉祐信の妻といわれる。また、日昭の縁故の者ともいわれるが、明らかではない。
京・鎌倉に軍
北条時輔の乱をさす。執権・北条時宗の異母兄にあたる北条時輔は、執権・政村のあとに時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古、高麗の使者が相次いで来朝して京都、鎌倉と折衝を加えるに及んで時宗と対立した。時宗は本抄御執筆の1ヵ月ほど前、文永9年(1272)2月11日、時輔に異心ありとし、大蔵頼季を派遣して時輔に加担していた名越教時らを鎌倉で誅殺させ、同15日北条義宗に京都六波羅で時輔を殺害させた。これを二月騒動ともいい、北条得宗家の内乱であることから人心に大きな動揺を与えた。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難にあたる。
外典抄
仏教以外の経典のこと。ここでは「弘決外典抄」四巻、あるいは天台六十巻に引用されている外典の抄録等ではないかとする説もある。
文句の二
天台大師の法華文句の巻二のこと。法華文句は、妙法蓮華経文句の略称で、因縁・約教・本迹・観心の四釈を用いて法華経の文々句々について解釈している。
玄の四の本末
天台大師の法華玄義巻四とそれを釈した妙楽大師の法華玄義釈籤のこと。本は玄義を、末は釈籤をさす。法華玄義は法華経の題号である妙法蓮華経について、五重玄を用いて解釈している。
勘文
朝廷や幕府の役人が諮問に対して、典拠や故実を勘えて意見を述べた書。
宣旨
天皇の詔。朝廷から出される詔文書。
講義
はじめに、本抄が富木常忍、四条金吾、大蔵塔の辻十郎入道、桟敷の尼など、信徒の主な人々にあてられたものであることを示されている。「一一に見させ給べき」とあることは、本抄を読む一人一人が自分に与えられた書として読んでほしいとのお心と拝される。
大聖人が佐渡に流され、鎌倉方面の弟子檀那にも厳しい迫害の嵐が吹いているとき、富木常忍や四条金吾などは、疑いを起こして退転しようとする門下を必死で励まし、信心を貫かせようとしていたことであろう。大聖人が富木常忍に寺泊御書を送られ、四条金吾に開目抄を賜ったのも、信徒の中心である二人に大聖人の仏法が末法適時の正法であることを示し、ひいては門下一同の疑いを晴らそうとされたものであろう。
本抄は、「日蓮弟子檀那等御中」と宛名されているように、門下一同にあてられたものだが、とくに富木、四条ら信徒のおもだった人にその趣旨をまずよく理解させ、信徒の人々に徹底するよう配慮されたとも拝される。
また最初に「富木殿のかた」とあり、「外典抄・文句の二・玄の四の本末・勘文・宣旨等、これへの人人もちてわたらせ給へ」と依頼された御文から、本抄は富木常忍のもとへ届けられたとも考えられる。それは、文永8年(1271)11月23日の富木入道殿御返事に「貴辺に申付し一切経の要文智論の要文五帖一処に取り集め被る可く候、其外論釈の要文散在あるべからず」(0955:14)とあり、大聖人の命によって経論を集めていたことがうかがえるので、その中の一部を佐渡へ届けるよう依頼されたとも思えるからである。
本抄の追伸にも「外典書の貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかかれ候はぬに、かまへてかまへて給び候べし」と述べられていることから、あすをも知れぬ大難の中で、令法久住のため、門下のためを思って法門を遺されようとする御本仏の大慈悲を感ずるのである。
「京・鎌倉に軍に死せる人人を書付けてたび候へ」とは、同年2月11日に鎌倉で、同15日に京都で起きた二月騒動で、多くの人々が合戦にまきこまれて死傷しており、大聖人門下の武士でも時宗側・時輔側のいずれかで合戦に加わって死亡したものがあったと思われ、追善供養のためにその名を知らせるよう仰せになったものであろう。
第二章 (不惜身命の信心を勧める)
世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を惜む何に況や壮人をや、仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし。
現代語訳
世間で、人の最も恐れるものは、火炎につつまれることと、刀剣の影におびやかされることと、そして我が身が死ぬことである。牛馬ですら命を惜しむ。まして人間が惜しまぬわけがない。不治の病である癩病に罹った人でさえ命を惜しむ、まして健康な人が命を惜しむのは当然である。
仏は法華経に「三千大千世界に満ちるほどの七宝をもって供養するよりも、手の小指を仏経に供養するほうがはるかに功徳が大きい」と説かれている。昔、雪山童子は木の上から身を投げて教えを求め、楽法梵志は紙がないため身の皮をはいで教えを書写しようとした。身命にまさるほど惜しいものはないので、この身を布施として仏法を学べば、必ず仏となるのである。身命を捨てる人が、他の宝を仏法に惜しむようなことがあるだろうか。また財宝を仏法のために惜しむ者が、財宝にまさる身命を仏法に捨てることがあるだろうか。
世間の法にも、重恩に対しては命を捨てて報いるのである。また主君のために命を捨てる人も少ないようではあるが、その数は多い。男子は恥に命を捨て、女人は男のために命を捨てる。魚は命を惜しむために池にすむが、池が浅いことを歎いて池の底に穴を堀ってすむのである。しかし、釣人の餌にだまされて針をのんでしまう。鳥は木にすむ。木が低いからといって木の上枝にすむが、餌にだまされて網にかかってしまうのである。
人間も同じようなものである。世間の浅いことには身命を失うことはあっても、大事な仏法のために命を捨てることはむずかしい。そのために仏に成る人もいないのである。
語釈
癩人
ハンセン病を患っている人。
壮人
壮健な男子。
「七宝を以て……」
妙法蓮華経薬王菩薩本事品第二十三の「若し発心して阿耨多羅三藐三菩提を得んと欲すること有らば、能く手の指、乃至足の一指を燃やして、仏塔に供養せよ。国城・妻子、及び三千大千国土の山林・河池、諸の珍宝物を以て供養せん者に勝らん。若し復た人有って、七宝を以て三千大千世界に満てて、仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢に供養せんも、是の人の得る所の功徳は、此の法華経の乃至一四句偈を受持する、其の福の最も多きには如かじ」の趣旨をとられている。
七宝
諸経典によって異なるが、法華経見宝塔品第十一では金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰の七宝である。
三千大千世界
略して三千世界ともいう。古代インド人の世界観による全宇宙。須弥山を中心として、その周囲に四大洲があり、そのまわりに九山八海があるが、これが人間の住む世界で一つの小世界という。この世界に日・月・須弥山・四天下・四天王等々を含む。この世界を千集めたものを小千世界といい、小千世界を千集めたものを中千世界という。一つの中千世界をさらに千集めたものを大千世界と呼ぶ。この大千世界は小・中・大の三種の千世界から成るので三千大千世界という。三千の世界という意味ではなく、千の三乗の数の世界という意味であり、一仏の教化する範囲とされる。
供養
梵語(Pújanā)の訳で、供施、供給、また略して供ともいう。供給奉養の意で、報恩謝徳のために、仏法僧の三宝に、真心と種々の物をささげて回向することである。これに、財と法の二供養、色と心の供養、亊と理の供養、さらに三種、三業、四事、四種、五種、六種、十種等の別がある。財供養とは飲食や香華等の財物、浄財を供養すること。法供養とは、仏の所説のごとく正法を弘め、民衆救済のために命をささげることで、末法の時に適った法供養は三類の強敵・三障四魔を恐れず、勇敢に折伏に励むことである。色心の供養は、この財法の供養と同じである。三業供養とは天台大師の文句に説かれており、身業供養とは礼拝、口業供養とは称賛、意業供養とは相好を想念することとされる。事理供養とは、一往は昔の聖人たちが生命を投げ出して仏道修行した亊供養と凡夫の観心の法門による供養を理供養とする。白米一俵御書には「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すは・なに事ぞと委細にかんがへて候へば・観心の法門なり、観心の法門と申すは・なに事ぞとたづね候へば、ただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が・身のかわをわぐにて候ぞ、うへたるよに・これはなしては・けうの命をつぐべき物もなきに・ただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が・身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき・雪山童子の身を鬼にたびて候にも・あいをとらぬ功徳にて候へば・聖人の御ためには事供やう・凡夫のためには理くやう・止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり」(1596:15)とある。なおこの供養について最も肝心なことは、正法に対するくようでなければならず、邪法への供養は堕地獄の業因となる。
雪山童子
釈尊が過去世で修行をしていたときの名。涅槃経巻十四等にでてくる。釈尊は過去の世に雪山でバラモンの姿で菩薩の修行をしていた。ここで木の実を食べ、思惟坐禅して無量歳を経た。ある時、帝釈天が羅刹に化身して現れ、童子に向かって過去仏の説いた偈を「諸行無常・是生滅法」と半分だけを述べた。これを聞いた童子は喜んで、残りの半偈を聞きたいと願い、この身を捨て、羅刹に食せしめることを約束して半偈の「生滅滅已・寂滅為楽」を聞いたのである。童子はその偈を石、壁、樹、道に書写してから高い樹に登り、身を投げた。その時、羅刹は帝釈天の姿に戻り、童子の体を受け止め大地におき、その不惜身命の姿勢をほめて、未来に必ず成仏するであろうと説いて姿を消したという。
楽法梵志
釈尊が過去世で修行をしていた時の名。楽法ともいう。大智度論巻四十九にでてくる。楽法が菩薩の修行中、仏にあえず、四方に法を求めても得られなかった時、バラモンに化身した魔が、身の皮を紙とし、骨を筆となし、血を墨として書写するならば、仏の一偈を教えようといった。楽法は即座に自らの皮を剥ぎ、それをさらし乾かしてその偈を書写しようとした。すると魔はたちまちに消えた。この時、楽法の求道心を知って、仏が下方から湧出して楽法のため深法を説き、これを聞いた楽法は無生法忍を得ることができたという。
布施
物や利益を施し与えること。大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなくてはならない六波羅蜜の一つ。壇波羅蜜のこと。布施には財施・法施等、種々の立て分けがある。
魚は命を……鳥は木に……
貞観政要巻六にある。また後漢書巻三十九にも同様のものがある。
講義
本章では、仏法のためには身命を惜しまない信心を貫くことこそ成仏への直道であることが示されている。
大聖人は、文永5年(1268)10月11日、十一通の御状をもって幕府と鎌倉の諸大寺へ公場対決を迫られた時、同時に弟子檀那に対して「定めて日蓮が弟子檀那・流罪・死罪一定ならん少しも之を驚くこと莫れ……各各用心有る可し少しも妻子眷属を憶うこと莫れ権威を恐るること莫れ、今度生死の縛を切つて仏果を遂げしめ給え」(0177:01)と、不惜身命の覚悟を促され、「無量劫より・このかた・をやこのため、所領のために、命すてたる事は大地微塵よりも・をほし。法華経のゆへには・いまだ一度もすてず。法華経をばそこばく行ぜしかども・かかる事出来せしかば退転してやみにき。譬えばゆをわかして水に入れ、火を切るにとげざるがごとし。各各思い切り給へ。此の身を法華経にかうるは石に金をかへ、糞に米をかうるなり」(0910:13)と門下に教えられている。
そして、文永8年(1271)9月12日、竜の口の刑場へ向かわれる途上、大聖人は四条金吾に向かって「今夜頚切られへ・まかるなり、この数年が間・願いつる事これなり、此の娑婆世界にして・きじとなりし時は・たかにつかまれ・ねずみとなりし時は・ねこにくらわれき、或はめこのかたきに身を失いし事・大地微塵より多し、法華経の御ためには一度だも失うことなし、されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養・心にたらず国の恩を報ずべき力なし、今度頚を法華経に奉りて其の功徳を父母に回向せん其のあまりは弟子檀那等にはぶくべし」(0913:12)と、仏法のために命を捨てることのできる喜びを語られているのである。
竜の口で発迹顕本なされた大聖人は、末法御本仏の御境界から、弟子檀那を等しく成仏へ導かんとの大慈悲で、大難を受けることを喜びとする不惜身命の信心を勧められているのである。しかし、多くの門下は、身命を惜しみ、財宝を惜しみ、名聞名利にとらわれて信心を捨てていった。大聖人の御心中はいかばかりであったろうか。「身命に過ぎたる惜しき者のなければ、是を布施として仏法を習へば必ず仏となる」との御文に、大聖人のお心をひしひしと感ずるのである。
ただし、不惜身命といっても、それは命を粗末にすることでも簡単に捨てることでもない。生命は最高の宝であるがゆえに、最高に価値ある生き方を勧めているのであり、どこまでも不惜身命の精神で生きぬき、妙法流布のために我が生命を使いきることが、人間として最高の生き方であることを教えられているのである。
第三章 (折伏こそ時機に叶う修行と明かす)
仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如しされば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩埵王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒・無戒を毀り持戒・正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教・道教を以て釈教を制止せん日には道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経・雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし、畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべしおごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。
現代語訳
仏法を弘通するための摂受と折伏は時によるべきである。たとえば、世間の文武の二道のようなものである。そのゆえに、昔の聖人は時に応じて教えを行じた。雪山童子や薩埵王子は「身を布施とすれば法を教えてあげよう。身を捨てることが菩薩の修行である」と言われたので、身命を捨てている。肉を求めるもののない時に身を捨てるべきだろうか。紙のない世には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とすべきである。
破戒の者や無戒の者を毀り、戒を持ち、正法を修行する者を用いる世であるなら、諸戒を堅く持つべきである。儒教や道教によって仏教を抑えようとする時には、道安法師、慧遠法師、法道三蔵等のように身を捨てても国王を諌めなくてはならない。あるいは仏教のなかで、小乗・大乗・権経・実経が入り雑り、ちょうど明珠と瓦礫、牛乳と驢乳の二乳の見分けがつかないような時には、天台大師、伝教大師等のように、大乗と小乗、権経と実経、顕教と密教の勝劣の立て分けを強く述べるべきである。
畜生の心は弱い者を威し強い者を恐れる。いまの世の諸宗の学者等は畜生のようである。智者が弱い立場であるのを侮り、邪な王法を恐れる。諛臣というのはこういう者をいうのである。強敵を倒して、はじめて力ある士と知ることができる。悪王が正法を滅亡させようとする時、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王のような心を持つ者が必ず仏になることができる。例えば日蓮のようにである。こういうのは傲った気持ちからではなく、正法が滅することを惜しむ心が強いからである。傲れる者は強敵にあうと必ず恐怖の心が生まれてくるものである。例えば、修羅は自らの力におごっていたが、帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小さくなって隠れたようなものである。
正法は一字一句であっても、時と機根に叶うなら必ず成仏することができる。たとえ千経・万論を習学しても、時と機根に相違するなら成仏することはできない。
語釈
摂受・折伏
仏道修行を分けて求道を摂受、弘教を折伏とする。また弘教に摂受と折伏があり、摂受とは相手の誤りを容認しつつ、しだいに誘引して正法に入らせる化導法をいう。折伏とは破折屈伏の義で、相手の邪義・邪法を破折して正法に伏させる化導法のこと。摩訶止観巻十には「夫れ仏法に両説あり。一には摂、二には折」とあり、摂受・折伏が仏法の基本であることが明かされている。
大聖
偉大な聖人。智慧が広大無辺で徳が高く、三世を見通して誤りのない人。
薩埵王子
釈尊が過去世で菩薩行を修行していた時の名。摩訶羅陀王の第三子で摩訶薩埵王子という。金光明経巻四によると、薩埵王子が二人の兄と竹林で遊んでいた時、子を産んで飢え苦しんでいる虎を見つけた。二人の兄は去ったが、薩埵王子は我が身を与えて虎を助けたという。
菩薩の行
菩薩とは菩薩薩埵の略で、無上菩提を求める人のこと。利他を根本とした大乗の衆生をさす。菩薩が仏果を得るために行う修行を菩薩の行といい、六波羅蜜などがある。
破戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。「破戒」とは戒を破る者の意。戒は小乗に五戒・八斉戒・十戒・二百五十戒・五百戒等、権大乗教に十重禁戒・四十八軽戒・三聚浄戒、法華経には衣座室の三軌・四安楽行・普賢四種の戒等がある。末法においては受持即持戒で、正法を受持し、信行に励むことが唯一の戒となる。ゆえに破戒の根本は、一闡堤、すなわち不信になるのである。
無戒
「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。もともと戒を受けないものをいう。
持戒
「戒」とはっ戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
儒教
総じては中国古来の思想をいい、別しては孔子・孟子の流れをいう。修身・斉家・治国・平天下などのことばにもあるように、道徳を重んじ、平和の社会を築こうとしたもの。孔子は紀元前5世紀の人で、仁・義・礼や忠孝の道を説き、門弟3000人といわれ、その言行は論語として残っている。のちに数々の派に分かれ、孟子が性善説を唱え、荀子は性悪説を唱えた。開目抄には「かくのごとく巧に立つといえども・いまだ過去・未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり 国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩も・うやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば父母・主君・師匠の後世をもたすけず不知恩の者なり・まことの賢聖にあらず、孔子が此の土に賢聖なし西方に仏図という者あり此聖人なりといゐて外典を仏法の初門となせしこれなり」(0186:10)とある。
道教
中国三大宗教(三教と言い、儒教・仏教・道教を指す)の一つである。中国の歴史記述において、他にも「道家」「道家の教」「道門」「道宗」「老氏」「老氏の教」「老氏の学」「老教」「玄門」などとも呼称され、それぞれ若干ニュアンスの違いがある。
釈教
釈尊の教え、仏教。
道安法師
生没年不明。中国・北周代の僧。天和4年(0569)北周の武帝は、儒・仏・道の三教の優劣を定めようと論議を起こした。この席で、甄鸞は「笑道論」を作って道教と仏教を批判した。これに対し、道安は「二教論」を武帝に奏し、仏教が儒・道の二教に勝れていることを説いたが、武帝は建徳3年(0574)仏教を廃した。これによって道安は林沢に逃れ、以後、勅があっても命に服することなく没した。
慧遠法師
(0523~0529)。中国・北周から隋代にかけての僧。敦煌(甘粛省)の人。姓は李氏。晩年に浄影寺に住んだので、浄影寺慧遠、浄影ともいう。13歳で出家し、四分律を学ぶ。建徳6年(0577)北周の武帝は斉国を攻略し、ここで儒教を第一として廃仏を行った。この時、五百余人の僧は黙然として従ったが、慧遠は武帝を「陛下、邪法を以って人を化し、現に苦業を種ゆ。当に陛下と共に同じく阿鼻に趣くべし」と諌めた。武帝はこの諫言を容れず、慧遠は西山に行き、法華経・維摩経等を誦していた。しかし、隋代になって仏教の再興を図る文帝に優遇され、大徳六人の一人として浄影寺に住した。著書に「大乗義章」十四巻などがある。
法道三蔵
(1086~1147)。中国・宋代の僧。永道のこと。徽宗皇帝が老子・荘子の学を尊んで、宣和元年(1119)仏を大覚金仙、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏教の称号を廃して道教の称名を用いるとした。この時、法道三蔵は上書して諌めたが、徽宗はこれを聞きいれず、かえって法道の顔に火印を押し、江南の道州に流した。法道は宣和7年(1125)に許されて帰ったが、徽宗は靖康2年(1127)金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
大乗
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
権教
実教に対する語。権とは「かり」の意で、法華経に対して釈尊一代説法のうちの四十余年の経教を権経という。これらの経はぜんぶ衆生の機根に合わせて説かれた方便の教えで、法華経を説くための〝かりの教え〟であり、いまだ真実の教えではないからである。念仏の依経である阿弥陀経等は、この権経に属する。
実教
真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する ①明珠、宝珠の一種。明月摩尼・明月珠ともいう。その輝きが明月のようであるためこういう。実大乗経などを濁水を清める徳のある明珠にたとえる。②瓦礫、瓦と礫のこと。黄金などのような高価なものに対して、価値のないものと対比するのに用いる。三大秘法を黄金とするなら、諸教は瓦礫となる。
牛驢の二乳
牛乳と驢乳は同じ色であるが、牛乳は精製して醍醐を得るが驢乳は精すれば糞になるといわれている。竜樹は大智度論で内外相対・大聖相対を説明するのに用いた語。
天台大師
538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。
【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。
伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。
顕密
真言宗では、大日経のように仏の真意を秘密にして説かれた経を密教、法華経のようにあらわに教えを説かれたものを顕教という本末顚倒の邪義を立てている。真実は、大日経のごとき爾前の経々こそ、表面的、皮相的な教えで顕教であり、未曾有の大生命哲理を説き明かした法華経こそ密教である。寿量品には「如来秘密神通之力」とあり、天台の法華文句の九にはこれを受けて「一身即三身のるを名けて秘と為し三身即一身なるを名けて密と為す又昔より説かざる所を名けて秘と為し唯仏のみ知るを名けて密と為す仏三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」等とある。
畜生
飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241:08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
智者
物事の道理をわきまえた智慧ある者。諸宗の祖師をいう場合もある。
王法
①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
諛臣
へつらう臣下、家来のこと。
方人
味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
修羅のおごり……
観仏三昧経巻一の要旨と思われる。香山の乾闥婆の娘と阿修羅との間に生まれた娘の 悦意を、帝釈が求めて妻とした。ある時、帝釈が多くの綏女と歓喜園で遊戯しているのをみて嫉妬した悦意は、父の阿修羅にこのことを知らせた。阿修羅は激怒し、四兵を出し、帝釈の住む喜見城、須弥山を動かし、また、四大海の水を波動させて帝釈を攻めた。帝釈は、善法堂で大名香をたき、般若波羅蜜を持して仏道を護持する大誓願をすると、虚空から大刀輪が下りてきて、阿修羅の耳・鼻・手・足を切り落とした。阿修羅は恐れおののいたが遁げるところがなく、小身となって蓮の絲の孔の中に入った。
修羅
梵語アスラ(Asura)の音訳。非天・非端正等と訳す。戦闘を好み、つねに帝釈・天人等と争う鬼神をいう。大智度論巻十によると阿修羅には毘摩質多羅・羅?羅・婆梨の三兄弟の阿修羅王がおり、ここでは羅?羅阿修羅王をさす。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
無熱池
無熱悩池のこと。古代インドの想像上の閻浮洲四大河の水源池。倶舎論巻十一には、大雪山の北、香酔山の南にあり、金・銀・瑠璃・頗胝の四宝を岸とし、周囲八百里の大池で、その中に阿耨達竜王が住み、清冷の水を四方に流し閻浮洲をうるおすという。
得道
仏道をおさめて悟りを開く意で成仏のこと。
講義
本章では、弘教の方軌である摂受と折伏は時によるべきことを明かされ、邪智謗法の悪王邪僧が智者を失わんとする時にあっては、折伏こそ時機に叶った修行であることを明かされている。
大聖人は前年の十月に「寺泊御書」で「或る人日蓮を難じて云く機を知らずして麤議を立て難に値う」(0953:11)等と、大聖人の折伏弘教を批判する門下の疑難をいくつか挙げて破折され、また、この文永9年(1272)2月の「開目抄」でも「無智・悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智・謗法の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし……末法に摂受・折伏あるべし所謂悪国・破法の両国あるべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かと・しるべし……時機をしらず摂折の二門を弁へずば・いかでか生死を離るべき」(0235:10)と、邪智謗法の国、破法の国にあっては折伏に限ることを明かされている。
本抄も「開目抄」と同意であり、本抄の最後にあるように「日蓮御房は師匠にておはせども余りにこはし。我等はやはらかに法華経を弘むべし」と大聖人の折伏を批判し、摂受を主張する信心退転の徒の誤りを厳しく破折されているのである。
まず、摂受と折伏は時によるべきことを示され、つぎに仏教史上の前例を挙げて、過去の雪山童子が法を求めた事例、正法時代の戒律を重んじた例、像法時代の中国で仏教が失われようとした時に身命を捨てても王を諌めた道安等の例が、また仏教の中で大小権実が混乱した時、天台大師や伝教大師が強く邪義を破折して正義を立てた例を示されている。
そして、大聖人当時の諸宗の学者は「弱きをおどし強きをおそる」畜生のような心で、智者であり末法の御本仏たる大聖人を軽蔑し、邪悪な権力を恐れ正義をおおいかくして一国を滅亡に導こうとしており、この時は師子王の心をもって正法を守るべきであると末法の時は折伏でなければならないと教えられている。
悪王の正法を破るに……正法を惜しむ心の強盛なるべし
「悪王」とは、当時にあっては大聖人を迫害する幕府権力であり、執権北条時宗や平左衛門尉等を指すといえよう。「邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時」とは、「禅僧数百人・念仏者数千人・真言師百千人・或は奉行につき或はきり人につき或はきり女房につき或は後家尼御前等について無尽のざんげんをなせし程に最後には天下第一の大事・日本国を失わんと咒そする法師なり、故最明寺殿・極楽寺殿を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり御尋ねあるまでもなし但須臾に頚をめせ」(0322:報恩抄:12)等とあるように、極楽寺良観や建長寺道隆をはじめとする諸宗の僧が、大聖人を幕府権力に反逆する者と讒言して亡き者にしようとしたことをいう。
その時に、なにものをも恐れぬ師子王のような心をもって、正法を破る悪王や邪義の僧らを強く破折する者は必ず成仏できると仰せなのである。大聖人は、まさに師子王のお姿であられた。
弘安2年(1279)10月の熱原法難に際しても、大聖人は「各各師子王の心を取出して、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし。彼等は野のほうるなり。日蓮が一門は師子の吼うるなり」(1190:聖人御難事:07)と、門下に師子王の子たる信心を貫くよう指導されている。
いつの時代にあっても、正法を惜しむ心が強く、正法流布のため、令法久住のために、何ものをも恐れず戦い抜く者こそ、師子王の子であり、必ず成仏への道が開かれるのである。「強敵を伏して始て力士をしる」とあり、強敵と戦い勝ってこそ、はじめて勇気と力のあることが知られるように、苦難に直面したときに、本当の信心が現れるものなのである。いざという時にこそ、信心の強さも弱さも、生命の美しさも醜さも、長所も欠点も現れてくることを思えば、そのためにも日ごろの信心を怠りなく励むことが大切になってくる。
日ごろ自らの力におごっている者は、いざ強敵に出あうと恐れる心が出て、帝釈に責められた修羅のように醜く小さくなってしまうのである。極楽寺良観が世人から生き仏のように崇められていながら、大聖人にその邪義を責められ、法論対決を挑まれると門を閉じて逃げまわり、祈雨の勝負に敗れると、大聖人を讒言して竜の口法難を起こしたことなど、まさにそのとおりの姿だったのである。
正法は、たとえ一字一句でもそれを時機に叶って修行すれば必ず成仏できるが、千経万論を習学しても、その実践が時機に叶わなければ、絶対に成仏はできないのである。
大聖人は、この同じ文永9年(1272)5月に、四条金吾に対して「今日蓮が弘通する法門は、せばきやうなれどもはなはだふかし。其の故は彼の天台・伝教等の所弘の法よりは一重立ち入りたる故なり。本門寿量品の三大事とは是なり。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し。されども三世の諸仏の師範、十方薩埵の導師、一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり」(1116:四条金吾殿御返事:09)と述べられ、末法の時機に叶った唯一の正法たる日蓮大聖人所弘の法が三大秘法の南無妙法蓮華経であり、御本尊を信じて題目を唱える修行は狭いようであるがはなはだ深いことを明かされている。
ゆえに、末法には千経万論を習学することは全く意味がなく、三大秘法の南無妙法蓮華経を、自行・化他にわたって行ずる以外に、正しい修行はないのである。
第四章 (自界叛逆難の予言的中を挙げる)
宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、金光明経に云く「三十三天各瞋恨を生ずるは其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん、世間の愚者の思に云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉なんど申す日蓮兼ての存知なり父母を打子あり阿闍世王なり仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり六臣これをほめ瞿伽利等これを悦ぶ、日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如し然を流罪し主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり謗法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしがかくなるを一旦は悦ぶなるべし後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず、例せば泰衡がせうとを討九郎判官を討て悦しが如し既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし法華経に云く「悪鬼入其身」と是なり。
現代語訳
宝治の合戦からすでに二十六年たった。今年の二月十一日、十七日にまた合戦があった。たとえば、外道や悪人によって、如来の正法が破られることはないが、かえって仏弟子等によって仏法は破壊されるのである。師子の身中に寄生した虫が師子を食むとはこれである。大果報の人は、他の敵には破られないが、かえって親しい者に破られる。薬師経に「自界叛逆難」とあるのがこれである。仁王経には「聖人が国を去る時には七難が必ず起こるであろう」と説かれ、金光明経には「三十三天がそれぞれ瞋りをなすのは、その国王が悪事をほしいままにし、その悪事を改めないことによる」と説かれている。
日蓮は聖人ではないが、法華経を説の如くに受持しているから聖人のようである。また、世の中の出来事についてもあらかじめ知ることができたので、それを記しておいたことが違うはずがない。このように現世に言っておいたことが的中したことをもって、後生のことについて言っていることも疑ってはならない。
日蓮はこの関東の北条一門にとっては棟梁であり、日月であり、亀鏡であり、眼目である。この日蓮を国が捨て去る時には、必ず七難が起こるであろうと去年の九月十二日に御勘気を蒙った時、大音声を放って叫んだことはこのことである。竜の口法難からわずかに六十日から百五十日でこのような自界叛逆難が起きたのは華報なのである。実果が現れた時は、どれほど嘆かわしいことであろうか。
世間の愚者は「日蓮が智者なら、どうして王難にあうのか」などと言っている。日蓮は難にあうことをかねてから知っている。父母を打つ子がある。それは阿闍世王である。阿羅漢を殺害し、仏身から血を出す者がいる。それは提婆達多である。六臣はこのことを讃め、瞿伽利等はそれを悦んだ。
日蓮は現在においては、この北条一門の父母である。仏・阿羅漢のようなものである。そのような日蓮を佐渡まで流罪し、主従ともに悦んでいるのは、あわれでかわいそうな人々である。謗法の法師等が、日蓮によって自らの禍が既にあらわれたのを歎いていたのが、日蓮がこのように流罪になったのをみて一度は悦んでいるであろう。しかし、のちには、かれらの歎きは日蓮の一門に劣らないものとなろう。たとえば、藤原泰衡が弟の忠衡を殺し、九郎判官を殺害して一度は悦んでいたが、後に滅ぼされたようなものである。すでに北条一門を滅ぼす大鬼がこの国に入っているのであろう。法華経勧持品第十三には「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのがこれである。
語釈
宝治の合戦
鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、吾妻鏡しか現存しない。
今年二月十一日十七日
鎌倉時代中期の文永9年(1272年)2月、蒙古襲来の危機を迎えていた鎌倉(2月11日)と京(2月17日)で起こった北条氏一門の内紛。鎌倉幕府8代執権・北条時宗の命により、謀反を企てたとして鎌倉で北条氏名越流の名越時章・教時兄弟、京では六波羅探題南方で時宗の異母兄北条時輔がそれぞれ討伐された。北条氏の嫡流を争う名越流と異母兄時輔を討伐した事で、執権時宗に対する反抗勢力が一掃され、得宗家の権力が強化された。
如来
①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。
師子身中の虫
師子の心中に宿り、体内を食み死に至らしめる虫。蓮華面経巻上には「師子はどこで死んでも人々はその肉を食べないが、ただ師子の身中に生じた虫がその肉を食う。そのように、仏法は外部か破壊されないが、内部にいる悪比丘によって破壊される」(取意)とある。このほか、仁王経・梵網経にも同趣旨の文がある。
大果報の人
大果報とは大きい果報のこと。果報の果は過去世の善悪の業因による結果で、報はその業因に応じた報い。また果は受ける結果で、報は外形にあらわれる報い。俗に幸福な人。運のよい人をいう。
薬師経
欲界・色界二界の中間、大法坊等で説かれた方等時の説法のひとつ。訳に四種あり。①東晋の畠戸梨密多羅三蔵訳の「仏説灌頂抜過生死得度経」一巻。②隋の達磨笈多訳「仏説薬師如来本願経」一巻。③唐の玄奘訳「薬師瑠璃光如来本願功徳経」一巻。④唐の義浄訳「薬師瑠璃光七仏本願功徳経」二巻。通常、薬師経は③をさす。仏が維耶離音楽樹下に遊んだ時、文殊師利が昔の諸仏の名字、国土の清浄荘厳の事を請問した。この請いに応じて説かれたのが本経である。
自界叛逆難
仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。
仁王経
釈尊一代五時のうち盤若部の結経である。恌秦の鳩摩羅什(0334~0413)訳の「仏説仁王般若波羅蜜経」と、唐の不空三蔵(0705~0774)訳の「仁王護国般若波羅蜜経」がある。羅什訳のほうが広く用いられている。この仁王経は、仁徳ある帝王が般若波羅蜜を受持し政道を行ずれば、三災七難が起こらず「万民豊楽、国土安穏」となると説かれている。このゆえに、法華経、金光明経とともに、護国の三部経として広く尊崇された。般若波羅蜜とは、菩薩行の六波羅蜜の一つであるが、般若とは智慧で、その実体は法華経文底秘沈の大法を信じ、以信代慧によって知恵を得ることである。末法においては、この三大秘法を受持して広宣流布することが般若波羅蜜を行ずることになる。法蓮抄には「夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・ 小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を、仁王経には小難は無量なり中難は二十九・ 大難は七とあり此の経をば一には仁王と名づけ二には天地鏡と名づく、此の国主を天地鏡に移して見るに明白なり、又此の経文に云く『聖人去らん時は七難必ず起る』等云云、当に知るべし此の国に大聖人有りと、又知るべし彼の聖人を国主信ぜずと云う事を」とある。
七難
正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
金光明経
釈尊一代説法中の方等部に属する経。正法が流布するところは、四天王はじめ諸天善神がよくその国を守り、利益し、国に災厄がなく、人々が幸福になると説いている。訳には五種がある。①金光明経、四巻十八品、北涼の曇無讖訳、北涼の元始年中②金光明更広大弁才陀羅尼経、五巻二十品、北周の耶舍崛多訳、後周の武帝代③金光明帝王経、七巻十八品、梁の真諦訳、梁の大清元年④合部金光明経、八巻二十四品、隋の闍那崛多訳、大隋の開皇17年⑤金光明最勝王経、十巻三十一品、唐の義浄訳、周の長安3年。このうち、①には吉蔵の疏があり、天台大師が法華玄義二巻、法華文句六巻にこの経を疏釈しているため、広く用いられている。わが国では聖武天皇が国分寺を全国に建てたとき、妙法蓮華経と⑤金光明最勝王経を安置した。大聖人が用いられているのは①と⑤である。
三十三天
忉利天のこと。梵語トラーヤストゥリンシャ(Trāyastriṃśa)の音写。三十三天と訳す。六欲天の第二天。閻浮提の上、八万由旬の処、須弥山の頂上にある。城郭は八万由旬、喜見城と名づけ、帝釈天が住む。城の四方に峰があり、各峰の広さが五百由旬、峰ごとに八天があり、合わせて三十二天、喜見城を加えて三十三天といわれる。この天の有情の身長一由旬、寿命については倶舎論巻十一に「人の百歳を第二天の一昼一夜とし、此の昼夜に乗じて、月及び年を成じて彼れの寿は千歳なり」と説いている。この天の寿命を人間の寿命に換算すると、三千六百万歳にあたる。
瞋恨
瞋り恨むこと。
棟梁
家や棟の梁で家にとっての急所。転じて、組織における重要な位置。法門のもっとも根本となる語。仏教界の大事な地位を占める高僧。
去ぬる年九月十二日御勘気
文永8年(1271)9月12日の竜の口法難のこと。御勘気とは主君や役所から咎めを受け、罪を付されることをいう。
華報
未来に受ける果に対して、その前兆として受ける報い、現証のこと。
実果
仮の報いである華報に対して、未来に受ける果のこと。報の華にたとえるのに対して実にたとえていわれている。
王難
王命・国家権力の迫害のこと。般泥洹経の八難「①或被軽易②或形状醜陋③衣服不足④飲食麤疎⑤は求財不利⑥生貧賎家⑦及邪見家⑧或遭王難」のひとつ。佐渡御書には「善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり」(0960:04)とある。
阿闍世王
梵語アジャータシャトゥル(Ajātaśatru)の音写。未生怨と訳される。釈尊在世における中インドのマガダ国の王。父は頻婆沙羅王、母は韋提希夫人。観無量寿仏経疏によると、父王には世継ぎの子がいなかったので、占い師に夫人を占わせたところ、山中に住む仙人が死後に太子となって生まれてくるであろうと予言した。そこで王は早く子供がほしい一念から、仙人の化身した兎を殺した。まもなく夫人が身ごもったので、再び占わせたところ、占い師は「男子が生まれるが、その子は王のとなるであろう」と予言したので、やがて生まれた男の子は未だ生まれないときから怨みをもっているというので未生怨と名づけられた。王はその子を恐れて夫人とともに高い建物の上から投げ捨てたが、一本の指を折っただけで無事だったので、阿闍世王を別名婆羅留枝ともいう。長じて提婆達多と親交を結び、仏教の外護者であった父王を監禁し獄死させて王位についた。即位後、マガダ国をインド第一の強国にしたが、反面、釈尊に敵対し、酔象を放って殺そうとするなどの悪逆を行った。後、身体中に悪瘡ができ、改悔して仏教に帰依し、寿命を延ばした。仏滅後は第一回の仏典結集の外護の任を果たすなど、仏法のために尽くした。
提婆達多
提婆ともいう。梵語デーヴァダッタ(Devadatta)の音写の略で、調達ともいい、天授・天熱などと訳す。一説によると釈尊のいとこ、阿難の兄とされる。釈尊の弟子となりながら、生来の高慢な性格から退転し、釈尊に敵対して三逆罪を犯した。そのため、生きながら地獄に堕ちたといわれる。法華経提婆達多品第十二には、提婆達多が過去世において阿私仙人として釈尊の修行を助けたことが明かされ、未来世に天王如来となるとの記別を与えられて悪人成仏の例となっている。
六臣
阿闍世王の六人の重臣のこと。涅槃経巻十九によると、阿闍世王が父王の頻婆沙羅を殺害した罪で、体中に瘡が生じ悪臭を放った。その時、地獄に落ちるのではないかと悩む阿闍世王に対して、仏の教えを笑い、それぞれ外道の師に教えを請うように勧めた。
瞿伽利
梵語コーカーリカ(Kokālika)の音写。倶伽利・仇伽離などとも書き、漢訳して悪時者・牛守という。釈迦族の出身。提婆達多の弟子である。大智度論十三に「瞿伽利は常に舎利弗・目連の過失を求めていた。舎利弗・目連の二人はある日、雨に値って陶師の家に雨宿りした。暗中だったので、先に女人が雨宿りしているのを知らないでいた。女人が朝、洗濯しているのを証拠として、瞿伽利は男女三人で不浄行をしたと二人を謗った。梵天はそうでないことをさとし、釈迦もまた三度、瞿伽利を呵責したが、受けつけなかった。瞿伽利はのちに、全身に悪瘡を生じ、叫喚しながら死して堕獄した」といわれる。
泰衡
(1155~1189)。藤原泰衡のこと。平安時代末期の奥州の豪族。奥州藤原氏の三代秀衡の嫡子として四代を継いだ。父の遺言によって源義経をかくまっていたが、頼朝の圧迫に耐えられず、ついに衣川の館で義経を攻め滅ぼし、義経に協力的であった弟の忠衡をも殺した。やがて頼朝の討伐を受け、敗走の途中、家臣に殺害された。
九郎判官
(1159~1189)。源義経のこと。平安末期の武将。義朝の第九子で、頼朝の弟。平治の乱で捕えられたが、幼いため鞍馬寺に入れられた。後に奥州の藤原秀衡の保護を受けたが、治承4年(1180)兄の頼朝の挙兵を聞いて参軍した。その後、木曾義仲を破り、平氏を一谷、屋島、壇ノ浦で滅ぼした。しかし御家人の梶原景時らと不和を生じ、さらに後白河法皇から検非違使・左衛門尉等に任じられたが、頼朝の許可を得ていなかったため怒りにふれ、文治元年(1185)行家と反乱を企てたが失敗。ついに奥州に逃れて藤原秀衡の保護を求めたが、秀衡の死後、泰衡に襲われて、衣川で自刃した。
悪鬼入其身
勧持品に「濁劫悪世の中には、多くの諸の恐怖あらん、悪鬼其の身に入って、我を罵詈毀辱せん」とある。六道の一つである餓鬼道の衆生を鬼といい、天竜等の八部衆を神というが、この鬼神、天神、夜叉鬼等の類いを悪鬼という。人に対しては病気を惹き起こし、また思想の乱れを起こす。国家社会に対しては、天変地変や思想の乱れ等を惹き起こす働きをする。ここでは、法然・弘法等の邪宗の僧が、国家権力に取り入って、法華経の行者を迫害することをさす。兄弟抄には「第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に『悪鬼其の身に入る』と説かれて候は是なり」(1082:04)とある。
講義
本章では、文永9年(1272)2月11日に起きた二月騒動こそ、大聖人が、かねて予言されていた自界叛逆難であって、大聖人が北条一門にとって主師親の三徳を具えておられることを実証するものであるとともに、日蓮大聖人を流罪にしたために起こった華報であり、謗法の法師等が流罪を悦んでいるのは我が身を滅ぼす悪鬼が其の身に入った姿であることを明かされている。
宝治の合戦とは、宝治元年(1247)6月に、執権北条時頼が幕府内で最大のライバルだった評定衆の三浦泰村一族を滅ぼした合戦をいい、「三浦氏の乱」ともいわれた。その直後に上総の名門豪族千葉秀胤一族も時頼に滅ぼされており、それ以後、北条一門による幕府の独裁体制が成立している。
三浦氏と北条一族の関係はかなり密接で、三浦泰村の妹が北条泰時の夫人となり、時頼の父時氏を産んでいるので、泰村は時頼にとっては大伯父にあたっている。三浦氏を滅ぼしたことによって、北条氏の独裁体制が確立され、もう内乱はないと考えられていたのである。ところが、二月騒動という、文字どおり北条一門内部の醜い権力抗争が、またも起こったのである。大聖人はそれを薬師経の「自界叛逆難」であり、また仁王経の「聖人去る時七難必ず起らん」の経文どおりであると指摘されている。
「外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。師子身中の虫の師子を食む」といわれているのは、正法を破るものはけっして外敵ではなく、仏弟子の中より師子身中の虫のごとき者が出て仏法を破壊するのであるとの戒めである。
「撰時抄」に「悪人等は釈迦の仏法をば失うべからず、三衣を身にまとひ一鉢を頚にかけ八万法蔵を胸にうかべ十二部経を口にずう僧侶が彼の仏法を失うべし……若し仏記のごとくならば十宗・八宗・内典の僧等が仏教の須弥山をば焼き払うべきにや、小乗の倶舎・成実・律僧等が大乗をそねむ胸の瞋恚は炎なり真言の善無畏・禅宗の三階等・浄土宗の善導等は仏教の師子の肉より出来せる蝗虫の比丘なり」(0286:07)とあるように、仏弟子と称しながら仏法を破っているのが諸宗の祖師等であり、とくに大聖人御在世当時、僭聖増上慢となった極楽寺良観や建長寺道隆をはじめ、大聖人に敵対した道門増上慢の僧等は、すべて正法を破る師子身中の虫だったのである。
また、釈尊に提婆達多や善星比丘がいたように、大聖人にも三位房などがおり、はじめは信じながら後に反逆し敵対する弟子が必ずいるのである。この佐渡御流罪当時も、自ら信心を捨てただけではなく、大聖人を批判して多くの門下を誘いおとして退転させる者が出ている。大聖人は「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し」(1337:生死一大事血脈抄:14)といましめられている。そうした者は、仏法を破壊する魔と見破っていかなければならない。
「世間の作法兼て知るによて注し置くこと是れ違うべからず」とは、「立正安国論」において北条時頼を諌暁した際予言したことが、眼前の自界叛逆難となって現れたことを指しており「現世に云いをく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」とは、安国論の予言が仏法の法理どおりに現実となった以上、念仏等が堕地獄の邪法であり正法によって成仏できることも疑いないと仰せなのである。
日蓮は此の関東の御一門の棟梁なり……大音声を放ちてよばはりし事これなるべし
自界叛逆難の勃発について、大聖人は近くは文永8年(1271)9月10日、幕府へ出頭して平左衛門尉と対面したさい、「世を安穏にたもたんと・をぼさば、彼の法師ばらを召し合せて・きこしめせ。さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば、国に後悔あるべし。日蓮・御勘気をかほらば仏の御使を用いぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流・死罪の後・百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて、此の御一門どしうちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より・ことには西方よりせめられさせ給うべし。其の時後悔あるべし」(0911:種種御振舞御書:09)と警告されている
さらに同9月12日、松葉ヶ谷草庵へ逮捕に向かった平左衛門尉らに対して「あらをもしろや、平左衛門尉が・ものにくるうを見よ、とのばら但今日本国の柱をたをす」(0912:種種御振舞御書:05)と再び厳しく諌められているのである。
そして、「纔かに六十日乃至百五十日に此の事起るか」とあるように、竜の口法難から約2ヵ月後に蒙古から重ねての使者が来ており、ちょうど5ヵ月後に、大聖人が予告されたとおりの内乱が起こったのである。
大聖人は、これらはまだ「華報」であり「実果の成ぜん時」すなわち他国侵逼難が現実のものとなり、北条一門が滅亡するような事態となって、地獄の苦脳をうけるときにはどれほど歎くことだろうかと、大聖人を迫害する北条一門をあわれまれているのである。
なお「此の関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり」「日蓮当世には此御一門の父母なり」とは、「開目抄」の「我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(0232:05)の御文と同じく大聖人こそ末法の主師親であることを示されており、棟梁とは主徳を、日月・亀鏡・眼目は師徳、父母は親徳に配せられる。また「日蓮は愚なれども釈迦仏の御使・法華経の行者なりとなのり候を・用いざらんだにも不思議なるべし、其の失に依つて国破れなんとす……日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし・是を背ん事よ」(1330:一谷入道御書:07)の御文とも同じ趣旨と拝される。
そして、大聖人は、「日蓮智者ならば、何ぞ王難に値うや」との批判を、仏法を知らない「世間の愚者の思」であるとされ、北条一門にとって主師親にあたる大聖人を流罪にして悦んでいるのは、阿闍世王や提婆達多、また彼らの悪行をほめた者と同じであり、あわれな者であると仰せになっている。
そして、それは、奥州に勢力をはっていた藤原泰衡が、源頼朝の圧迫に屈して、藤原家の安泰のためにと、かくまっていた源義経を衣川の館に攻めて滅ぼし、弟の忠衡も頼朝の命で討ったが、のちに頼朝の大軍に攻められて自らも滅びたようなものであると、歴史の先例に譬えられているのである。この故事については「頼朝の右大将家は泰衡を討たんが為に泰衡を誑して義経を討たせ」(0523:小乗大乗分別抄:12)との御文がある。
大聖人を迫害して喜ぶことが、のちに我が身を滅ぼす事になるのであり、北条一門を滅ぼす大悪鬼がこの国に入り、物事を正しい道理を見失わせているのであると述べられている。
第五章 (留難も先業によるを明かす)
日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞囊に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ、又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし、
現代語訳
日蓮もまたこのような大難にあうのも過去世の悪業がないわけではないからである。法華経常不軽品第二十には「其の罪は畢え已って」と説かれている。不軽菩薩が無量の謗法の者に罵詈打擲されたのも過去世の悪業の報いなのである。まして日蓮は今生には貧しく下賎の者と生まれ、旃陀羅の家に生まれている。心こそ少し法華経を信じたようであるが、身は人身にして畜生の身である。魚や鳥を混丸して父母の赤白二渧とし、そのなかに精神を宿している。濁った水に月が映り、糞嚢に金を包んだようなものである。心は法華経を信ずるゆえに梵天・帝釈でさえも恐ろしいとは思わない。しかし身は畜生の身であるから、身と心とが相応しないから愚者が侮るのも当然である。
心も、身に対すればこそ月や金にたとえられるのであるが、その心も過去の謗法の罪をもっている。誰が知ることができるだろうか。我が心は勝意比丘の魂か、大天の神であろうか。不軽菩薩を軽毀した四衆の流類だろうか、久遠下種を忘失した者の余残か、五千人の増上慢の眷属か、あるいは大通覆講の時の第三の未発心の余流なのであろうか。宿業ははかりがたい。鉄は炎に入れて焼いて打つことにより剣となる。賢人聖人は罵詈して試みるものである。日蓮がこのたびに受けた御勘気に世間の罪は一分もない。ただ過去世の重罪を今生に消滅して、来世に三悪に堕すことを脱れることになるのであろう。
語釈
先業
前世・過去世でつくった業因のこと。主として悪業をいうが、業因は善悪には関係しない。
不軽品
法華経常不軽菩薩品第二十のこと。法華経の中で流通分に位置し、法華経を信ずる者と毀る者との罪福を引いて証とし、流通を勧めた品である。この品に常不軽菩薩の因縁を説いているので不軽品と称する。威音王仏の滅後像法に常不軽菩薩が種々の迫害に耐え、「我れは深く汝等を敬い云云」の二十四文字の法華経を唱えて人々を礼拝した話を通して、滅後の弘教を勧めている。
「其罪畢已」
「其の罪は畢え已って」と読む。法華経常不軽菩薩品第二十の文。過去世の罪障が消滅して大利益を受けることをいう。不軽菩薩は衆生の迫害を忍受して礼拝行を続けることによって、過去の罪業を消滅しおわって仏道を成ずることができた。
不軽菩薩
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩で、威音王仏の滅後、その像法時代に二十四文字の法華経を弘めて、いっさいの人々をことごとく礼拝してきた。ときに国中に謗法者が充満しており、悪口罵詈また杖木瓦石の迫害をうけた。しかし、いかなる迫害にも屈することなく、ただ礼拝を全うしていた。こうして不軽菩薩は仏身を成就することができたが、不軽を軽賤した者は、その罪によって千劫阿鼻地獄に堕ちて、大苦悩をうけ、この罪を畢え已って、また不軽菩薩の教化を受けることができたという。なお、不軽菩薩を末法今時に約して、御義口伝(0766)に「過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類は不軽なり云云」とある。
罵詈打擲
ののしり、打ち据えること。
貧窮下賎
貧しく卑しいこと。
旃陀羅
屠者・殺者のこと。施陀利ともいう。獄卒の輩、屠殺者の種類の総称。インドのカースト制度では最下層の階級。転じて身分がいやしいという一般的な意味にも使われている。
赤白二渧
赤は母の血、白は父の精。赤白の二渧が和合することにより識が宿り、人間が生まれることをいう。摩訶止観巻七上には「所謂、是の身は他の遺体、吐涙の赤白二渧和合するを攬って識を其の中に託し、以て体質と為す」とある。
識神
生命・たましい・生命。
梵天
仏教の守護神。色界の初禅天にあり、梵衆天・梵輔天・大梵天の三つがあるが,普通は大梵天をいう。もとはインド神話のブラフマーで,インドラなどとともに仏教守護神として取り入れられた。ブラフマーは、古代インドにおいて万物の根源とされた「ブラフマン」を神格化したものである。ヒンドゥー教では創造神ブラフマーはヴィシュヌ、シヴァと共に三大神の1人に数えられた。帝釈天と一対として祀られることが多く、両者を併せて「梵釈」と称することもある。
帝釈
梵語シャクラデーヴァーナームインドラ(śakro devānām indraḥ)の訳。釋提桓因・天帝釈ともいう。もともとインド神話上の最高神で雷神であったが、仏法では護法の諸天善神の一つとなる。欲界第二忉利天の主として、須弥山の頂の喜見城に住し三十三天を統領している。釈尊の修行中は、種々に姿を変えて求道心を試みている。法華経序品第一では、眷属二万の天子と共に法華経の会座に連なった。
勝意比丘
諸法無行経巻下によると、過去に師子音王仏の末法の世に菩薩道を行じたが、同じ時代に菩薩行を修し、衆生に諸法実相を教えていた喜根菩薩を誹謗した。ある時、喜根菩薩の弟子の家で喜根菩薩を誹謗したが、その弟子と論争して敗れ、さらに家の外で喜根菩薩に向かって誹謗した。このことを聞いた喜根菩薩は七十余の偈を説いて大衆を解脱させたが、勝意比丘は地獄に堕ちて無量千万歳の苦を受け、彼の教化を受けた比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷もまた地獄に堕ちたとある。
大天
摩訶提婆のこと。訳して大天という。中インド・末土羅国の出身。大毘婆沙論巻九十九によると、大天は出家以前は、父・母・阿羅漢を殺害する無間の重罪を犯した。また、出家後は天魔の所為によって阿羅漢は不浄の漏失を免れることができない、阿羅漢は煩悩障の疑惑は已に断じているが世間的な疑惑がある等の五つの悪見を起こしたという。
不軽軽毀の流類
法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる増上慢の四衆の仲間の意。過去、威音王仏の滅後の像法年間に、常不軽菩薩が二十四文字の法華経を唱えてあらゆる人への礼拝を行じていた時、増上慢の四衆は悪口罵詈し、杖木瓦石で迫害した。のちに悔いて不軽に帰伏し、罪の大部分を消したが、余残によって千劫の間、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けた。やがてこの罪を消して、再び不軽の教化にあって仏道に住したという。
失心の余残
法華経如来寿量品第十六に説かれている。失心とは毒気深入のため本心を失って父の与えた良薬を服さなかった者をいい、ここでは釈尊の化導を受けても、正法を信受せず、成仏にもれた者の仲間の意。
五千上慢の眷属
法華経方便品第2に説かれる5000人の増上慢の眷属。
大通第三の余流
久遠下種を忘失していたために、大通覆講の際に法華経を聞いても発心できなかった者の流れということ。法華経化城喩品第七に説かれている。三千塵点劫の昔、大通智勝仏が十六王子に法華経を説き、その十六王子がのちにそれぞれ法華経を説いて衆生を化導した。これを大通覆講という。第十六王子が釈尊の過去世の姿で、この第十六王子との結縁を大通結縁といい、三種の衆生に分かれる。第一を不退、第二を退大取小、第三を未発心という。末法の我々は、法華経を聞いても発心すらしなかった最も下根の衆生である未発心の衆生の余流であるのかもしれないとの意。
宿業
宿世の業因。過去世につくった業因。現世に果報を生ずる原因となった過去世の善悪の行為。
後生の三悪
悪業によって未来世に堕すべき地獄・餓鬼・畜生。
講義
本章では、大聖人がこのように難にあって責められるのも、世間の失は少しもなく、ただ過去の謗法の重罪を今に消滅するためであることが明かされている。
はじめに、不軽菩薩の故事を引かれて、大聖人が難にあうのも過去世の業を今生に減じ消滅するのであるとされている。
「開目抄」にも「天台云く『今我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報・将来に在り』等云云、心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云、不軽品に云く『其の罪畢已』等云云、不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪・身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり」(0231:03)とある。
しかし、大聖人は外用においては本化地涌の菩薩であり、その御内証は久遠元初の自受用身であられるのに、なぜ過去世に謗法があると仰せになっているのだろうか。根本的には十界互具、一念三千の仏であられるゆえであるが、日寛上人は「示同凡夫の辺に拠るなり」と仰せである。
邪智謗法の末法の衆生を化導し救われるためには、衆生と同じ荒凡夫のお姿をもって出現されなくては大衆を導き、苦悩から救い出すことはできないので、「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり……仏とも云われ又凡夫僧とも云わるるなり」(0766:第十三常不値仏不聞法不見僧の事:03)と仰せのように、末法の仏は凡夫のお姿で出現されるのである。
そして、衆生が謗法の先業のために苦悩しているのを救うために、衆生と同じに衆生の謗法を我が身の謗法とされ、大難を敢然と乗り切られたお姿をとおして、過去・現在の謗法の重罪を消滅する方途をお示しくださったのである。ゆえに大聖人が難を忍ばれたのは、全く御自身のためではなく、末法の衆生を地獄の苦悩より救われんがための大慈悲のお振る舞い以外のなにものでもなかった。
「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども難を忍び慈悲のすぐれたる事は・をそれをも・いだきぬべし」(0202:開目抄:08)の御文のとおり、末法の一切衆生のために大慈悲をもって大難を忍ばれた大聖人こそ、天台・伝教に越えた御本仏なのである。
この御本仏の大慈悲に浴した我らは、大聖人の大難にはとうてい及ぶことはなくとも、広宣流布、正法護持のために起こるあらゆる艱難を耐え忍んで、成仏の道を歩まなければならない。
「日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出でたり……」等の御文は、大聖人が御自身の凡夫であることを述べられているが、「糞嚢に金をつつめるなるべし」「梵天帝釈をも猶恐しと思はず」の御文は、御本仏の御内証の一端を示されていると拝せる。
「色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり」とは、愚者は眼前の凡夫としての色法の面しか見ないので、大聖人を侮るのも無理はないとの仰せである。
しかし、心法の面も、色法が糞嚢とすると金、色法を濁水とすると月に譬えられるが、その内奥を考えると、そこにはどのような重い正法誹謗の罪業を潜在させているか知れないと仰せられて、勝意比丘、大天、不軽を軽毀した四衆、寿量品の失心の衆生、方便品に説かれる五千の上慢、化城喩品の大通結縁の第三類などの余残・眷属であるかも知れないと述べられているのである。
我今度の御勘気は世間の失一分もなし……三悪を脱れんずるなるべし
大聖人は、いま佐渡に流罪されているのも、世間の罪は全くなく、ただ過去の謗法の罪のためであり、その重罪を今生に消して成仏し、未来に三悪道に堕ちることを脱れるためであると、留難の根本的な因を明かされている。
世間の罪など少しもない大聖人を、極楽寺良観ら諸宗の僧の讒訴をうけた平左衛門尉が、北条一門を呪詛し世を乱さんとする悪僧として、謀反人のような扱いで逮捕し処刑しようとしたのである。「世間の失によせ或は罪なきをあだす」(0231:開目抄:01)とあるように、世間の失なき無実の大聖人を世間の罪におとしたのであり、しかもそれは謗法の僧の讒言によるというのが、留難の表面的な原因といえよう。大聖人はそれを「世間の失一分もなし」の一言で破られ、そのうえでなぜそのような難にあうのかを、罪障消滅のためであると明示されているのである。
なお、「鉄は炎い打てば剣となる。賢聖は罵詈して試みるなるべし」とあるが、「開目抄」には「鉄を熱にいたう・きたわざればきず隠れてみえず、度度せむれば・きずあらはる、麻子を・しぼるに・つよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮・強盛に国土の謗法を責むれば此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し……睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ」(0233:02)とある。罵詈されることによって賢人・聖人とあらわれるのであり、大難にあってはじめて信心もきたえられ、宿業の打開もできることを教えられていると拝せよう。
第六章 (一国謗法の根源を示す)
般泥洹経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云、此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、うれへなるかなや涅槃経に仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり。
日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答して法華経の門を閉よと法然が書けるをとかくあらがひなんどす念仏者はさてをきぬ天台真言等の人人彼が方人をあながちにするなり、今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり日蓮が許に来て云く法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に御往生疑なしと書付て候を山僧等の流されたる並に寺法師等・善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし。
現代語訳
般泥洹経には「未来の世に、かりに袈裟をつけて我が法の中で出家学道したとして、懶惰懈怠であって、これらの大乗経典を誹謗するような者は、これらはみな今日の諸の外道の者であると知るべきである」と説かれている。この経文を見る者は自分自身を恥ずべきである。現在、出家して袈裟をかけながら懶惰懈怠である者は、釈尊在世の六師外道の弟子であると仏は記されている。法然の一門、大日の一門が念仏宗、禅宗と名乗って、「捨閉閣抛」の四字を加えて法華経を制止して権教である弥陀称名ばかりを勧め、あるいは「教外別伝」といって、法華経は月をさす指のようなもので、ただ文字を数えるにすぎないなどと笑っている者は、六師外道の末流が仏教のなかに生まれてきたものであろう。
まことに憂うべきことである。涅槃経に仏が光明を放って地下の百三十六の地獄を照らされた時、罪人は一人もいなかったとある。それは法華経の如来寿量品でみな成仏したからである。ただし、一闡提人といって謗法の者だけは、地獄の獄卒に留められたのである。彼ら一闡提人が生み広げて、今の世の日本国の一切衆生となったのである。
日蓮も過去にすでに正法をそしった者であるから、今生には念仏者となって数年の間、法華経の行者を見ては「未有一人得者」「千中無一」等と批判していた。いま謗法の酔からさめてみれば、酒に酔った者が父母を打ちすえて悦び、酔がさめた後で嘆くように、後悔してもどうしようもない。この罪は消しがたいのである。
まして、過去の謗法が心中に染まっているのは、なおさらのことである。経文を見ると烏の黒いのも鷺の白いのも、過去世の業が強く染まりついたからだとある。それを外道は知らないで自然の成りゆきであるという。今の人は、日蓮が謗法であることを教えて扶けてあげようとすると、自分には謗法はないと声を荒立てて答えて、法然が「法華経の門を閉じよ」と書いていることさえいちいち理由をつけて争うのである。
念仏者のことはさておく、天台真言等の人々がかえって強引に念仏者の味方をしているのである。今年一月十六日、十七日、佐渡の国の念仏者等数百人のなかの印性房という念仏者の棟梁が、日蓮の許に来ていうには「法然上人は法華経を抛てよと書かれたのではない。一切衆生に念仏を称えさせたのであり、この大功徳によって往生は疑いないと書き付けられたのを、比叡山や園城寺の僧で、今、佐渡に流されている人も『よい教えである』とほめている。それなのに、なぜ念仏を破られるのか」と言うのであった。まったく鎌倉の念仏者よりもはるかに劣っており、哀れというしかない。
語釈
般泥洹経
一般には法顕訳の仏説大般泥洹経をいう。
袈裟
梵語(Kasōya)の音訳。不正雑色の意。僧侶が左脇から右脇下にかけて、衣の上をおおうように着する長方形の布。大小によって五条・七条・九条の三種がある。法衣・功徳衣・無垢衣・忍辱鎧ともいう。釈尊が修行中に、布施された布を、塵垢に汚染して綴り合せたたのが衣としたのが由来とされる。以来仏教徒のならわしとなり、これを着すること自体が、仏教の僧であることを象徴するよになった。袈裟の色は青・赤・黄・白・黒を避けて、他の雑色を用いることが決まりとなっており、普通似黒・似赤・似青を用いる。インドでは乾陀色、中国では木蘭色、日本では香色という。
懶惰懈怠
なまけおこたること。仏道修行に精進しないこと。
方等契経
方等は方正・平等の意で、契経は道理や衆生の機根に契った経典のこと。大乗経典をさす。
六師外道
釈迦在世時代に中インドで勢力をもっていた六人の外道の思想家。①プーラナ・カッサパ(Purana Kassapa 不蘭那迦葉)道徳否定論者。悪業というものもなければ、悪業の果報もない。善業というものもなければ、善業の果報もないという考え。②マッカリ・ゴーサーラ(Makkhali Gosala 末迦梨瞿舎利)裸形托鉢教団アージーヴィカ教の祖。決定論者。③サンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta 刪闍耶毘羅胝子)懐疑論者④アジタ・ケーサカンバラ(Ajita Kesakambalin 阿耆多翅舎欽婆羅)順世派および後世のチャールヴァーカ(Carvaka)の祖。唯物論者で、人間は地・水・火・風の4元素から成ると考えた。⑤パクダ・カッチャーヤナ(Pakudha Kaccayana 迦羅鳩駄迦旃延)七要素説(地・水・火・風・苦・楽および命)。⑥ニガンタ・ナータプッタ( Nigantha Nataputta)ジャイナ教の開祖。相対論者。
法然
(1133~1212)。わが国の浄土宗の元祖で、源空という。伝記によると、童名を勢至丸といい、15歳で比叡山に登り、天台の教観を研究。叡空にしたがって一切経、諸宗の章疏を学んだ。そのときに、善導の「観経疏」の文を見て、承安5年(1175)の春、43歳で浄土宗を開創した。「選択集」を著して、一代仏教を捨てよ、閉じよ、閣け、抛てと唱えた。その後、専修念仏は風俗を壊乱するとの理由で建永2年(1207)土佐国に遠流され、弟子の住蓮、安楽は処刑された。これはその後、許されたが、建暦2年(1212)80歳で没してのち、勅命により骨は鴨川に流され、「選択集」の印版は焼き払われ、専修念仏は禁じられた。
大日
生没年不明。大日能忍のこと。鎌倉時代初期、臨済宗の僧で日本達磨宗の祖。当時、中国で全盛の南頓禅を取り入れた。摂津国水田(大阪市東淀川区大桐)に三宝寺を建てて弘めた。畿内で多くの帰依者を得たが、大日能忍の禅には師承がないと謗るものが出たため、文治5年(1189)弟子の練中と勝弁を宋に遣わして、当時全盛を誇っていた臨済禅の楊岐宗大慧派の拙庵徳光(1144~1203)から印可を受けて帰国させた。以後、日本達磨宗と号して南頓禅を日本に弘めた。南頓禅は教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏を強調する禅の一派。大聖人御在世当時、禅の中でも大日能忍とその弟子の仏地房覚晏の禅が盛んであった。大日能忍は、甥の平景清に誤って刺殺されたと伝えられる。
念仏宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
捨閉閣抛
法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。
弥陀
阿弥陀如来の略。阿弥陀は梵語(Amitāyus)阿弥陀痩(Amitābhā)阿弥陀婆で、阿弥陀痩は無量寿命の義、阿弥陀婆は無量光明の義である。西方極楽浄土の教主で、経により種々に説かれるが、一般にはインド・中国・日本ともに無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の浄土三部経に説かれている阿弥陀仏をさす。無量寿経には、その因縁誓願が説かれている。その内容は、過去無数劫に燃燈仏の五十三仏があらわれたのち、世自在王如来が出現し、民衆を教化した。そのとき、一人の国王がその仏の説に随喜し、信心の心を起こして、ついに王位を捨てて僧となり、法蔵比丘といった。法蔵比丘が世自在王仏を示した二百五十一億の諸仏諸国の先例から選択し、自分の国土を荘厳し浄化することを願って立てたのが法蔵比丘の四十八願である。この願を成就して法蔵は阿弥陀仏となり、その国土は西方十万奥の仏国土を過ぎたところにあるという。これが念仏宗で用いるもので、その思想は、あくまでもこの娑婆世界を穢土とし、極楽浄土へ往生することを説く。また、その根本としている第十八願には「十方の衆生、至心に信楽して我国に生まれんと欲して乃至十念せんに、もし生れずば正覚を取らじ」とあるが、次に「唯五逆と誹謗正法を除く」と断っているのを、浄土宗は隠しているのである。なお、同じく阿弥陀といっても、これは最も低劣な阿弥陀で、このほかに大通智勝仏の十六王子の一人で法華経大願の主迹門の阿弥陀、釈尊の分身たる本門の阿弥陀がある。久遠元初の自受用報身如来に対すれば、これらはすべて迹仏であり、権仏にすぎないのである。
弥陀称名
南無阿弥陀仏を口唱すること。浄土宗では娑婆世界を穢土としてきらい、南無阿弥陀仏の名号を唱えれば、西方極楽世界の阿弥陀仏の浄土に往生することができると説く。
教外別伝
「以心伝心」「不立文字」等の義に同じ。中国宋代の公案集である「無門関」第十則に「世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した。そのとき世尊は『吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す』と言った」とある。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。しかし依処である「大梵天王問仏決疑経」は訳者不明の偽経であり、拈華微笑の逸話は中国でつくられたことは自明の理である。「其の学者等大慢を成して教外別伝等と称し一切経を蔑如す天魔の所為なり」(0139:09)、また「仏の遺言に云く我が経の外に正法有りといわば天魔の説なり云云」(0181:06)と仰せの如く、禅宗は釈尊の一切経を否定し、釈尊以前の〝外道〟に戻ろうとする「仏法の怨敵」(0179:04)である。
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
一百三十六地獄
地獄に136種類の地獄があること。8大地獄にそれぞれ16の小地獄があり、小地獄の128と大地獄の8を加えて136となる。罪の軽重によって堕ちる地獄が異なる。法華玄義巻六下には「重き者は遍く百三十六を歴、中なる者は遍くせず、下なる者は復た減ず」とある。
法華経の寿量品
法華経如来寿量品第16のと。仏の悟りの真実を説いた実教たる法華経のなかでも、寿量品は久遠の本地を明かした最重要の品であり、娑婆即寂光が明らかにされた。
一闡提人
一闡提は梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写で、一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。
未有一人得者
道綽が「安楽集」で法華経以前の経を聖道門と浄土門に分け、歴劫修行の聖道門を捨てよと説いたのを、法然が法華経をも歴劫修行の聖道門に含めて、これらではいまだ一人も得道した者がいないといった邪義である。
千中無一
善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。
謗法
誹謗正法の略。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせること。
自然
自爾・法爾・任運・天然・ありのまま・おのずから等。
天台真言
①天台宗と真言宗のこと。②比叡山延暦寺等が立てる台密のこと。
印性房
日蓮大聖人が佐渡流罪中、迫害を加えた佐渡の念仏僧。佐渡の念仏者の中心的存在。
往生
死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
山僧
①山寺の僧。古来寺院は、山に建てられ、寺号とともに山号をつける習慣がある。②比叡山延暦寺の僧のこと。延暦寺を山門という。③僧が自分をへりくだっていう語。愚僧。ここでは②のこと。
寺法師
園城寺の僧のこと。延暦寺を山門といい、その僧を山僧・山法師と称すのに対し、園城寺を寺門といい、その僧を寺法師という。
講義
般泥洹経に述べられているのは、釈尊在世のころは外道として、外から仏法や仏教教団を誹謗し迫害していた連中が、未来に仏教が弘まった時には、仏教教団の中にあらわれて仏法の正義を歪めたり教団を乱したり正しい修行者を誹謗したりして、仏法を破壊しようとするであろう、ということである。本抄の第四章にも仰せの「外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食む等云云」の原理から、外側から仏法を破ることが難しいと知った魔は、内側から破ろうとするのであるともいえよう。
まさに、この代表として、ここでは法然の浄土宗と大日の禅宗を挙げられ、これらが日本一国に流布し隆盛を誇っている姿をさして、法華経の寿量品でも救われずに地獄守に留められた一闡提人が子孫を生みひろげて日本国の一切衆生となったのであると仰せられている。
これは、末法の日本の衆生が、釈尊の脱益仏法によっては救われない本未有善の機根であり、三毒強盛の堕地獄の衆生であることを比喩的に述べられたのである。
そして、大聖人御自身、そのような邪知謗法の国に生を受け育ったのは、過去世の謗法の種子をもっているゆえで、今生においても、道善房のもとで修学された数年間は、ともに念仏の邪法を行じたと言われている。
この念仏がいかに浅薄な宗であるかを、そして、にもかかわらず、その点に多くの人が気がつかないで迷わされているかを、佐渡の印性房を例に挙げて示されているのである。
「今生に念仏者にて数年が間……笑いしなり」と仰せられているのは、大聖人が、安房の清澄寺で出家・修学された時代、道善房が念仏者であったためである。
「日蓮は日本国安房の国と申す国に生れて候しが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり、此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて候し程に、皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し程に、いささかの事ありて、此の事を疑いし故に一の願をおこす」(1407:妙法比丘尼御返事:07)との御文もある。大聖人が弥陀称名に疑いを起こされたのは、念仏を称える人々の臨終が狂乱頓死の姿を示したからであり、そこから一切の経教の肝要と諸宗の実態を究めようと誓願されたのである。
そのように、現世における謗法の罪さえも消し難いのに、過去の謗法の宿業が生命に深く刻みつけられたものにおいてをやとされ、烏が黒く鷺が白いのも先業によって染められたもので、けっして偶然ではないと、厳しい生命の因果の理法を明かされている。これは、仏法以外の外道の法が、生命の因果律を知らないためにすべてが自然である等とするのと、根本的に異なる点なのである。
また、大聖人が、今の人々に謗法を犯していることを教えて地獄の苦悩から救おうとされても、けっして謗法を犯しているとは思わず、日本の念仏宗の祖法然が選択集で明らかに法華経の門を閉じよなどと書いていることさえ、けっして法華経を抛てと書いたのではないと強弁している。また、念仏はともかくとして、天台宗までがその味方をしているのである。その例として、大聖人は同年1月17日に行われた佐渡の念仏者の中心だった印性房弁成と対論された折の彼の言い分を挙げられている。
1月16日の塚原問答で惨敗した念仏側は、翌17日、印性房弁成が塚原の大聖人のもとを訪れて再び法論を挑んだのである。その内容は「法華浄土問答抄」にくわしく記録されているが、そこには「法然上人・聖道の行機堪え難き故に未来流布の法華を捨閉閣抛す、故に是れ慈悲の至進なれば此の慈悲を以て浄土に往生し全く地獄に堕すべからざるか」(0119:05)との弁成の幼稚な説と、それを「慈悲の故に法華経と教主釈尊とを抛つなりと云わば所詮上に出す所の証文は未だ分明ならず慥なる証文を出して法然上人の極苦を救わる可きか」(0119:12)と一言で論破された大聖人の言がのせられている。
そのように、大聖人が諸宗の教義を正法誹謗の邪義であると責められても、彼らは仏説によらずただ先師の言によってそれを認めようとはせず、かえって反発し、怨憎の念を抱いたのである。
第七章 (謗法の罪報を今世に転ずるを明かす)
いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろしかかりける者の弟子と成けんかかる国に生れけんいかになるべしとも覚えず、般泥洹経に云く「善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ或は形状醜陋衣服足らず飲食麤疎財を求めて利あらず貧賤の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇う」等云云、又云く「及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、此経文は日蓮が身なくば殆ど仏の妄語となりぬべし、一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食麤疎五には求財不利六には生貧賤家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり、
現代語訳
このように責められる日蓮の、過去世、現世、先々からの謗法が今さらながら恐ろしく思われる。このような日蓮の弟子となり、このような国に生れた弟子達はこの先どのようになるのかはかり知れないのである。
般泥洹経には「善男子よ、過去にはかり知れない多くの罪やもろもろの悪業を作った者は、その多くの罪報によって、あるいは人から軽しめられ、あるいは顔かたちが醜く、あるいは着物が足らず、食べ物は粗末で、財を求めても得られず、貧賎の家、邪見の家に生まれ、あるいは王難に遇う」等と説かれている。また「さらに、このほかの種々の人間の苦しみを現世に軽く受けるのは、これ護法の功徳力による」等と説かれている。
この経文は、もし日蓮がいなければ、まったく仏の妄語となってしまうのである。一には「あるいは人から軽しめられる」、二には「あるいは顔かたちが醜い」、三には「着物が足らず」、四には「食べ物が粗末である」、五には「財を求めても得られない」、六には「貧賎の家に生まれ」、七には「邪見の家に生まれ」、八には「あるいは王難にあう」等がそれである。この八句は、まったく日蓮一人が身に受けていることである。
高い山に登る者は必ず下るように、人を軽しめれば、かえって人に軽しめられる。容姿の端正な人を悪口すれば醜く生まれ、人の衣服や食べ物を奪えば餓鬼となる。戒を持つ尊貴な人を笑えば貧賎の家に生まれる。正法を謗れば邪見の家に生まれる。十善戒や五戒を持つ人を笑えば国土の民となって王難に遇うのである。これらは因果の定まった法である。
日蓮が苦難にあっているのはこれらの因果のゆえではない。過去に法華経の行者を軽んじたために、また法華経は月と月とを並べ、星と星をつらね、華山に華山を重ね、玉と玉とをつらねたような尊くすぐれた御経であるが、その法華経をあるいは上げ、あるいは下してあざけりあなどったために、この八種の大難に値っているのである。
この八種の難は、尽未来際の間に、一つずつ現れるはずであったのを、日蓮が法華経の敵を強く責めたことによって、今生に一時に集まり起こしたのである。たとえば、民が郷郡などに住んでいる時は、どれほどの借銭が地頭等にあったとしても、厳しく取り立てられることもなく、年年に返済を延ばしてもらえるが、その住む所を出る時には、厳しく取り立てられるようなものである。「これは護法の功徳力によるのである」というのはこのことである。
語釈
先生
前生のこと。前世・過去世のこと。
今生
今世の人生のこと。先生、後生に対する語。
善男子
仏法を信奉する在家・出家の男子をいうが、大聖人の仏法においては男女・僧俗の区別はなく、三大秘法を信じ実践するっひとをいう。
軽易
①軽んじて蔑ること。②手軽であること。③軽率であること。
「形状」は顔かたち、「醜陋」は醜いの意。顔だち容姿が醜いということ。般泥洹経の八難「①或被軽易②或形状醜陋③衣服不足④飲食麤疎⑤は求財不利⑥生貧賎家⑦及邪見家⑧或遭王難」のひとつ。佐渡御書には「形状端厳をそしれば醜陋の報いを得」(0960:03)とある。
飲食麤疎
食物に不自由し粗末なものしか得られないこと。般泥洹経の八難「①或被軽易②或形状醜陋③衣服不足④飲食麤疎⑤は求財不利⑥生貧賎家⑦及邪見家⑧或遭王難」のひとつ。佐渡御書には「人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる」(0960:03)とある。
妄語
虚言のこと。十悪のひとつ。一般世間での妄語は、その及ぼす影響は一時的・小部分であるが、仏法上の妄語は、それを信ずる人を無間地獄に堕さしめ、さらに指導者層の妄語は多くの民衆を苦悩に堕しめることになる。正法への妄語はなおさらである。
形状端厳
顔・形が端正でおごそかなこと。
餓鬼
梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
持戒尊貴
堅く戒律を持つ尊貴な人。
善戒
善い戒を持つこと。戒を持つもの。
華山
中国の名山。秦嶺山脈の支脈である終南山脈の峰(2200㍍)のこと。古来から西岳と呼ばれ、五岳の一つに数えられている。
或は上げ或は下して
念仏宗では、法華経は道理は深く尊いと称えながらも、末法の愚鈍な衆生の機根には難解であり、衆生の成仏の法にならないといって、法華経への信を否定した。また真言宗は法華経は大日経より三重に劣ると下げている。
嘲弄
からかい、あざけること。
尽未来際
未来の果て、未来永遠。
講義
本章では、大聖人が現世に八つの大難を同時に受けているのは、常の因果の法にあてはまる悪業のためではなく、過去の正法誹謗のためであると述べられ、それは未来永劫にわたって一つずつ報いを受けて消滅しなければならないところを、護法の功徳力によって今世にまとめて受け消滅すると明かされている。
はじめに、これまで述べられたように過去・現在に謗法の重罪を犯した大聖人の弟子となり、邪智謗法のはびこる日本国に生まれた者たちの行末はどうなることだろうかとあわれまれている。しかし、これは大聖人と同じく謗法を責めて難にあうことによって必ず罪障消滅して成仏の道を歩むことができるとのお心と拝したい。
そして、般泥洹経を引かれて因果応報の道理を明かされている。般泥洹経には、過去に無量の諸罪や種々の悪業を作ったことによって受ける八種の罪報が説かれている。その八種の大難とは、高い山に登った者は必ず下らなくてはならないという道理があるように、人を軽しめると今度は自分が人に軽易される、形状端厳をそしると自分は醜陋の報いを受ける、人の衣服飲食をうばえば餓鬼となる、持戒尊貴を笑うと貧賤の家に生まれる、正法の家をそしると邪見の家に生まれる、善戒を笑えば国土の民となり王難にあう、というもので、それが「常の因果の定れる法なり」と仰せなのである。
大聖人は「此八句は只日蓮一人が身に感ぜり」といわれ、開目抄でもこの般泥洹経の文を引かれて、「此の経文・日蓮が身に宛も符契のごとし狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし一一の句を我が身にあわせん、或被軽易等云云、法華経に云く『軽賎憎嫉』等云云・二十余年が間の軽慢せらる、或は形状醜陋・又云く衣服不足は予が身なり飲食麤疎は予が身なり求財不利は予が身なり生貧賎家は予が身なり、或遭王難等・此の経文疑うべしや」(0232:11)と述べられている。
しかし、「日蓮は此因果にはあらず」と、大聖人が八種の大難を一身に受けられているのは「常の因果」の罪報によるのではなく、「法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経……を或は上げ或は下して嘲弄せし故に」と、過去の謗法の罪によって現世にその報を感じているのであるとされている。
正法を誹謗した場合は、正法が一切の功徳を収めた具足の法であるゆえに、八種として示されたようなあらゆる罪業を造ったことになる。しかも、根源の大法であるゆえに、その罪業は深く、尽未来際という永い間にわたってこれを受け、一つずつ消滅していかなければならないのである。
しかるに、今生に正法を護持し弘める大功徳によって、その重罪を今生にまとめて受け、しかも今の一生の苦によって、それを消滅することができるとの仰せである。
大聖人が弘教折伏のために王難にあわれているのは、この過去の罪障を消している姿であるということである。この原理は、まさに宿業深重の我々のためにお示し下さっているのであり、まことにありがたいことと拝さなければならない。
第八章 (自身の滅罪と謗法者の造業を示す)
法華経には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向つて乃至数数擯出せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき又彼諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや但千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ是をいかんとすべき、彼軽毀の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく当世の諸人は翻す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。
現代語訳
法華経勧持品第十三には「諸の無智の人があって法華経の行者を悪口罵詈等をし、刀杖瓦石を加え(中略)国王、大臣、婆羅門、居士に向かって讒言をし(中略)度々擯出される」等と説かれている。獄卒が罪人を責めなければ地獄を出ることができないように、現在の王臣がなければ、日蓮の過去の謗法の重罪を消すことはできない。日蓮は過去の不軽菩薩の如く、現在の人人は、不軽菩薩を軽毀した四衆の如くである。人は替わっても、その因は一つである。父母を殺害した人は異なっても、同じように無間地獄に堕ちるのである。不軽菩薩の因の修行をする日蓮一人がどうして釈迦仏とならないことがあろうか。また、現在の誹謗の人々は跋陀婆羅等といわれないだろうか。ただ千劫の間、阿鼻地獄において責められることだけはかわいそうなことである。これはなんとしたらよいのか。
不軽菩薩を軽毀した人々は、はじめは誹謗していたけれども、後には信伏随従した。罪の多くは消滅して、少しばかり残ったのに、父母を千人殺害したほどの大苦を受けた。現在の人々は誹謗を悔い改める心がない。譬喩品にあるように無数劫の長い間、無間地獄で苦しむであろう。また三千塵点劫か五百塵点劫の長い間を送るであろう。
語釈
無智の人
仏法に無知な在家の人。三類の強敵の第一、俗衆増上慢をさす。
悪口罵詈
法華経の行者をさだむ三類の強敵の第一類・俗衆増上慢の人の行為をいう。悪口をいい、ののしること。「罵」は面と向かって謗り、「詈」は陰に隠れて謗ることを意味する。
刀杖瓦石
刀・杖・瓦・石のこと。
婆羅門
インド古来の四姓のひとつで、訳して浄行という。悪法を捨てて大梵天に奉持し、浄行を修するという意味からこの名がある。みずから、梵天の口から生じた四姓中の最勝最貴であると称している。これは、古代インドでは、戦勝も収穫も祈りによって決定されるという思想があったから最も尊ばれたのである。しかし、一部には王と戦士の階級であるクシャトリアの方が上であるとする文献もある。
居士
梵語で(grha-pati)といい、家長・長者と訳す。出家しないで仏門に帰依した男子。
擯出
人をしりぞけ、遠ざけること。住所を追い出すことをいう。
獄卒
地獄にいる鬼の獄吏のこと。閻魔王の配下にあるので閻魔卒ともいう。地獄に堕ちた罪人を呵責する獄吏のこと。倶舎論巻十一に「心に常に忿毒を懐き、好んで諸の悪業を集め、他の苦を見て欣悦するものは、死して?魔の卒と作る」と、獄卒となる因が明かされている。また大智度論巻十六には「獄卒・羅刹は大鉄椎を以って諸の罪人を椎つこと、鍛師の鉄を打つが如く、頭より皮を?ぎ、乃ち其の足に至る」と獄卒の姿、行為が示されている。
軽毀の四衆
不軽菩薩の礼拝行に対して、悪口罵詈し、杖木瓦石で迫害した比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷の四衆のこと。
無間地獄
八大地獄の中で最も重い大阿鼻地獄のこと。梵語アヴィーチィ(avīci)の音写が阿鼻、漢訳が無間。間断なく苦しみに責められるので、名づけられた。欲界の最低部にあり、周囲は七重の鉄の城壁、七層の鉄網に囲まれ、脱出不可能とされる。五逆罪を犯す者と誹謗正法の者が堕ちるとされる。
釈迦仏
迦牟尼仏の略称、たんに釈迦ともいう。釈迦如来・釈迦尊・釈尊・世尊とも言い、通常はインド応誕の釈尊。
跋陀婆羅
法華経常不軽菩薩品第二十にでてくる菩薩。跋陀婆羅等の五百人の菩薩は過去世に不軽菩薩に対して、悪口罵詈等をして迫害をした人々とされる。
千劫阿鼻地獄
極めて長い時間の単位。
譬喩品
妙法蓮華経譬喩品第3のこと。迹門・正宗分の中、法説周の領解・述成・授記段・譬説周の正説段の二つの部分からなる。まず方便品の諸法実相の妙理を領解して歓喜した舎利弗に仏は未来世成仏の記莂を与え、劫・国・名号を明かす。次いで、中根の四大声聞に対する説法に入るが、譬喩を主体とするので譬え説周と呼ばれる。そのなかで仏は三車家宅の譬を説いている。この譬えにおける火宅は三界を、また羊・鹿・牛の三車は三乗を、大白牛車は一仏乗の妙理をあらわしており、一仏乗こそ仏が衆生に与える真実の教えであることを述べている。終わりに、舎利弗の智慧でも法華経の妙理を悟ることはできず、ただ「信を以って入ることができる」と、信の重要性を述べ、逆に正法への不信・誹謗の罪の大きさを説いている。
無数劫
数えきれないほどの長い時間。阿僧祇劫ともいう。
三五の塵点
三千塵点劫と五百塵点劫の昔のこと。
講義
本章では、大聖人が不軽菩薩のごとく難にあうことによって過去の謗法の重罪を滅して成仏できるのに対し、逆に大聖人を迫害する者は長く阿鼻獄の苦悩を受けることが明かされている。
大難にあうことによって過去の謗法の重罪を消滅するという転重軽受の法理については、文永8年(1271)10月に「涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候、不軽菩薩の悪口罵詈せられ杖木瓦礫をかほるもゆへなきにはあらず・過去の誹謗正法のゆへかと・みへて其罪畢已と説れて候は不軽菩薩の難に値うゆへに過去の罪の滅するかとみへはんべり」(1000:転重軽受法門:03)と述べられている。
大聖人を迫害する幕府の為政者がいるからこそ、過去の謗法の重罪を滅することができると仰せられた大聖人は「相模守殿こそ善知識よ平左衛門こそ提婆達多よ」(0916:種種御振舞御書:12)、また「願くは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん」(0509::顕仏未来記:05)との御心境であられた。
しかし、大聖人が過去の威音王仏の像法の時に出現して正法を弘通して大難にあった不軽菩薩と同じ実践をされたとするなら、大聖人を迫害する人々は不軽菩薩を軽毀した四衆と同じ行為となるのである。人は違っても因が同一なら果も同じになるはずで、不軽菩薩と同じ実践をされた大聖人が不軽菩薩と同じに仏にならないはずはなく、大聖人を迫害した人々が無間地獄に堕ちて大苦悩を受けることも必定である。それも、不軽菩薩を迫害した人々は、初めこそ誹謗したが、後には信伏随従しているのに、それでもなおその罪は少分は残って、千劫の間大苦悩をうけているのであり、それにひきかえて当時の人々は少しも悔いる心がないのだから、どれほど長く地獄の苦をうけるかわからないのである。
大聖人は四恩抄で「我一人此の国に生れて多くの人をして一生の業を造らしむることを歎く、彼の不軽菩薩を打擲せし人現身に改悔の心を起せしだにも猶罪消え難くして千劫阿鼻地獄に堕ちぬ、今我に怨を結べる輩は未だ一分も悔る心もおこさず」(0939:04)と歎かれているが、末法は衆生が謗じても強いて折伏し下種して、逆縁によって救うしかないのである。
第十章 (本抄の閲読を勧める)
佐渡の国は紙候はぬ上面面に申せば煩あり一人ももるれば恨ありぬべし此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ、世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず当時の軍に死する人人実不実は置く幾か悲しかるらん、いざはの入道さかべの入道いかになりぬらんかはのべ山城得行寺殿等の事いかにと書付て給べし、外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息もかかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし。
現代語訳
佐渡の国には紙がないうえに、一人一人に手紙を送るのは煩わしくもあり、また一人でももれれば恨みに思うことだろう。
この手紙を志のある人々は寄り合って読み、よく理解して心を慰めなさい。世間で、大きな嘆きが起きると、小さな嘆きはものの数ではなくなる。京都・鎌倉での戦いで死んだ人々は、謀反の実不実はしばらく置くとして、どれほどか悲しいことであろう。伊沢の入道、酒部の入道はどうなっただろうか。河辺山城得行寺殿等のことはどうなったのか知らせてもらいたい。外典書の貞観政要やすべての外典の物語、八宗の相伝等がなければ、手紙も書けないので、忘れないで送ってもらいたい。
語釈
料簡
思いめぐらし考えること。思索すること。
いざはの入道・さかべの入道……かはのべ山城得行寺殿
生没年不明。日蓮大聖人御在世当時の門下。いずれも大聖人の竜の口法難の時、土牢に幽閉され、五人土籠御書をいただいたと伝えられる。なお牢に入れられた五人については諸説があり、僧には日朗、日心等、俗には山城入道、坂部入道、伊沢入道、得行寺入道等が挙げられるが、明確ではない。
貞観政要
十巻。中国・唐の歴史家呉兢の撰。唐の太宗が貞観年間に群臣と交した政治上の問答、ならびに名臣達の事績を分類編纂したもの。後世まで治世の書として広く読まれた。日本にも早くから伝わった。
八宗の相伝
俱舎・成実・律・法相・三論・華厳・天台・真言の相伝書。
消息
手紙文のこと。
講義
本章は、追伸の御文で、佐渡は紙がないうえ、一人一人に書状も出せないため、本抄を心ある人々は集まり寄って拝読し、信心を励ますよう勧められ、あわせて門下の消息を重ねて案じられるとともに、必要な書籍を送るよう依頼されている。
佐渡で紙が入手しにくかったことは、翌文永10年(1273)4月に著された観心本尊抄が、和紙17枚の表裏両面に認められていることからもうかがうことができる。
紙も乏しく、御自身も大変な困苦の中で、令法久住のため、また門下の指導激励のために、ひたすら筆をとり続けられた御本仏の大慈悲に、深い感動を覚えずにはいられない。