佐渡御勘気抄
文永8年(ʼ71)10月 50歳 清澄寺知友
第一章 値難の悦びを述べる
九月十二日に御勘気を蒙って、今年十月十日、佐渡国へまかり候なり。
本より学文し候いしことは、仏教をきわめて仏になり、恩ある人をもたすけんと思う。仏になる道は、必ず身命をすつるほどの事ありてこそ、仏にはなり候らめとおしはからる。既に経文のごとく「悪口・罵詈」「刀杖・瓦礫」「しばしば擯出せられん」と説かれて、かかるめに値い候こそ法華経をよむにて候らめと、いよいよ信心もおこり、後生もたのもしく候。死して候わば、必ず各々をもたすけたてまつるべし。
現代語訳
九月十二日に幕府からのとがめを受けて、今年十月十日に依智をたち、佐渡の国へ出発する。
もともと、学問をしたのは仏教を習い究めて仏になり、恩のある人をも助けようと思ったからである。仏になる道は、かならず命を捨てるほどのことがあってこそ仏になるであろう、と思われる。すでに法華経の経文に「この経を弘める者は悪口され、ののしられ、刀で斬られ、杖で打たれ、瓦や小石を投げつけられ、たびたび所を追われる」と説かれているとおり、このような目にあうことこそ法華経を身に読むことであろうと、いよいよ信心も起こり、後生のこともたのもしい思いである。私が死んだならば、かならずあなた方をもお助けするであろう。
語釈
御勘気
主人または国家の権力者から咎めを受けること。
学文
学問のこと。
悪口・罵詈・刀杖・瓦礫・数数見擯出
法華経勧持品第十三の二十行の偈の中に「諸の無智の人の 悪口罵詈等し 及び刀杖を加うる者有らん(中略)数数擯出せられ 塔寺を遠離せん」とある。また法華経常不軽菩薩品第二十には「四衆の中に、瞋恚を生じて、心不浄なる者有りて、悪口・罵詈して言わく(中略)或は杖木・瓦石を以て、之れを打擲すれば」とある。これらは法華経の行者が受けるであろう難を示したものである。日蓮大聖人があわれた難のおもなものを挙げれば次のとおりである。杖の難としては、文応元年(1260)8月27日、大聖人が鎌倉松葉谷の草庵で捕えられる時、少輔房に法華経第五の巻で顔を打たれたこと。刀の難としては、文永元年(1264)11月11日、安房国東条郷小松原で地頭の東条景信の一行に襲われ、頭に傷を受けたことや、文永8年(1271)9月12日、鎌倉の竜の口で幕府の兵士によって斬首されようとしたこと。数数見擯出という二度以上にわたって所を追われる難は、弘長元年(1261)5月12日、伊豆伊東に流されたことと、文永8年(1271)10月10日の佐渡流罪である。
後生
三世のひとつで、未来世、後世と同じ。未来世に生を受けること。今生に対する語。
講義
本抄は文永8年(1271)10月、日蓮大聖人が50歳の御時、佐渡へ御出発の直前、相模国依智から安房清澄寺の知人へ与えられた書で「与清澄知友書」ともいわれる。
「九月十二日に御勘気を蒙て」の書き出しで始まるように、文永8年(1271)9月12日の午後、日蓮大聖人は、平左衛門尉頼綱や極楽寺良観など諸宗の怨嗟と憎悪の念による策謀で、罪状もなく不法に逮捕され、正当な裁判もないまま即座に「佐渡流罪」の判定を下された。身柄は「武蔵守殿御あづかり」となったのである。
しかし、それは表向きにすぎなかった。「外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべし」(1413:11、妙法比丘尼御返事)と、平左衛門尉らは、同日の深夜、竜の口での処刑を図ったのである。しかし、いかなる権力も、武力も、大聖人の光輝に満ちた、清浄で、力強い御本仏の御生命を破壊することはできなかった。
日蓮大聖人はこの竜の口の法難のあと「午の時計りにえちと申すところへ・ゆきつきたりしかば本間六郎左衛門がいへに入りぬ」(0914:10、種種御振舞御書)と述べられているように、北条宣時の家人であった相模国依智の本間六郎左衛門尉重連の館へ入られたのである。依智は現在の神奈川県厚木市の北部にあり「依知」と書く。
「依智にして二十余日」とどめ置かれた末、冬の北風が吹き渡る10月10日、大聖人は佐渡へと旅立たれた。随行するのは日興上人はじめ数人の弟子のみだった。なお本間重連は佐渡の国の守護代でもあった。
文永8年(1271)10月28日、大聖人は佐渡・松ケ崎に着かれ、11月1日に、配所の塚原三昧堂へ入られている。本抄は「十月 日」と日付不詳であるが、「十月十日佐渡の国へまかり候なり」の御文意から依智を御出発になる直前におしたためのお手紙であろう。
本抄は、もとより御消息であるから、題号の「佐渡御勘気抄」は、こうした一連の事情を背景とした内容に即して、後世に付されたものである。御真筆は現存していない。
本書をいただいた人についてはつまびらかではないが、本抄の文中で、旧師・道善房や領家の尼へよろしくと仰せられているところから、清澄寺大衆中のおもだった一人であったと思われ、円浄房ともいわれる。
なお、本抄を佐渡へ御到着直後の御述作とする説もある。
本章では、仏になるためにはかならず身命におよぶほどの大難があり、いま日蓮大聖人が佐渡流罪など数々の大難にあわれているのも、みな法華経の故であり、法華経を色読している証明にほかならないことを述べられている。
当時の佐渡への流罪は、死罪に次ぐ重罪であった。師のこの値難に、弟子檀那の中には臆病になり、難がふりかかってくることを怖れて、退転するものも出た。退転者の心に共通していた疑いは「大聖人は真実の法華経の行者なのであろうか」という大聖人御自身に対する疑いであった。
すなわち、大聖人が正しい法華経の行者であるなら、諸天の加護があるはずであり、流罪になるわけもないという疑いであった。
こうした弟子檀那の心中に広がりゆく疑いの暗雲に対し、意を尽くして答えられたのが、3か月後の翌文永7年(1270)2月御述作の開目抄であるが、本抄も短文ではあるが同趣旨のものである。
「此の経を持たん人は難に値うべしと心得て持つなり」(1136:05、四条金吾殿御返事)と仰せのように、仏道を全うすることはまことに厳しく、平坦ではない。「身命をすつるほどの事ありてこそ」とあるごとく、不惜身命の信心が望まれるからである。
日蓮大聖人の御一生は立宗から後入滅になるまで、受難の連続であった。「少少の難は・かずしらず大事の難・四度なり」(0200:17、開目抄上)という忍難の歴史であり、それも身命におよぶような大難ばかりであった。
その数々の大難は、待っていて自然に訪れたのではなく「睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ」(0233:05、開目抄下)と仰せのように、大聖人みずからが積極的に謗法を訶責し、呼び起こされた難なのである。
「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に」(1056:13、曾谷殿御返事)と諸宗の誤りの本源を鋭く指摘し、強折した結果、反論できない諸宗の僧が権力と結託して加えてきた迫害である。
邪義を根底に権威を築き上げ、栄華を誇っているものに、その邪義を土台に打ち砕こうとするならば、反動が起こるのは理の当然といえよう。
日蓮大聖人は、もとより受難を覚悟のうえのことであられた。末法の法華経の行者の出現を予言した未来記・法華経の文々句々ことごとく身業読誦している大確信に立たれていたからである。
とりわけ、勧持品の二十行の偈を身をもって読まれたのは、大聖人御一人であられた。大聖人の御出現がなければ、釈尊の予言はことごとく妄語になるところであった。
開目抄に「今の世を見るに日蓮より外の諸僧たれの人か法華経につけて諸人に悪口罵詈せられ刀杖等を加えらるる者ある、日蓮なくば此の一偈の未来記は妄語となりぬ」(0202:13)と。
また「日蓮・法華経のゆへに度度ながされずば数数の二字いかんがせん、此の二字は天台・伝教もいまだ・よみ給はず況や余人をや、末法の始のしるし恐怖悪世中の金言の・あふゆへに但日蓮一人これをよめり」(0202:17)と仰せのとおりである。
右の御文にお示しのごとく、釈尊の法華経の文と日蓮大聖人の御振る舞いとが符合することをもって、我が身が法華経の行者、すなわち末法の本仏であるとの証拠とされているのである。
また、身業読誦は、仏説を色心ともに読む、つまり実践的体験の大切さを強調し、口やことばのみの読誦を戒められたとも拝せる。
我々は、この御本仏日蓮大聖人みずから身をもって示された死身弘法、不惜身命の信心を学びとり、自己の血肉としていかなければならない。
第二章 先人受難の例を引く
天竺に師子尊者と申せし人は檀弥羅王に頸をはねられ提婆菩薩は外道につきころさる、漢土に竺の道生と申せし人は蘇山と申す所へながさる、法道三蔵は面にかなやきをやかれて江南と申す所へながされき、是れ皆法華経のとく仏法のゆへなり、
現代語訳
インドにおいて、師子尊者という人は檀弥羅王に頚をはねられ、提婆菩薩は外道に突き殺されている。中国においては、竺の道生という人が蘇山という所へ流されている。法道三蔵は顔に火印をあてられて江南という所へ流された。これはみな法華経の徳、仏法のためである。
語釈
天竺
古来、中国や日本で用いられたインドの呼び名。大唐西域記巻第二には「夫れ天竺の称は異議糺紛せり、舊は身毒と云い或は賢豆と曰えり。今は正音に従って宜しく印度と云うべし」とある。
師子尊者
師子比丘ともいう。6世紀ごろの中インドの人で、付法蔵の最後の伝灯者。付法蔵因縁伝巻六によると、師子尊者は北インドの罽賓国で法を説き弘めたが、国王檀弥羅は邪見の心が盛んで敬信せず、塔寺を壊し、衆僧を殺害した。景徳伝灯録巻二によると、檀弥羅王は師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌くように出て、同時に檀弥羅王の右臂が刀を持ったまま地に落ち、7日の後に命が終わったという。
檀弥羅王
付法蔵第24番目、最後の伝灯者である師子尊者を殺害した王。師子尊者は釈尊滅後1200年ごろ、中インドに生まれ、鶴勒夜那について学び法を受け、罽賓国で弘法につとめた。この国の外道がこれを嫉み、仏弟子に化して王宮に潜入し、禍をなして逃げ去った。檀弥羅王は怒って師子尊者の首を斬ったが、血が出ずに白乳が涌き出し、王の右臂が刀を持ったまま地に落ちて、7日の後に命が終わったという。
提婆菩薩
迦那提婆のこと。迦那とは片目の意。三世紀ごろの南インドの伝灯者で付法蔵第14祖。提婆菩薩伝によると、バラモン出身で竜樹菩薩の弟子となった。昔、大自在天の請いによって一眼を供養したため片目となったという。南インドで外道に帰依している王を救うため、外道の論師を多く破折したが、彼らの弟子の一人に恨まれて殺された。しかし提婆はかえってその狂愚をあわれみ、外道の救済を弟子に命じて死んだ。
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
竺の道生
中国・東晋代の僧。高僧伝巻七によると、竺法汰にあって出家し、のちに鳩摩羅什の弟子として修行、羅什門下四傑の一人となる。法華経の義によって頓悟成仏の説を立て、「二諦論」「仏性当有論」等を著わし、これに反対する守文の徒と論争した。さらに法顕訳の「般泥洹経」を学び、闡提成仏の義を立てたことにより、衆僧に怨嫉・擯斥されて蘇州の虎丘寺へと去った。その時道生は「わが所説、もし経義に反せば現身において癘疾を表わさん、もし実相と違背せずんば、願わくは寿終の時、獅子の座に上らん」と誓ったという。のちに、曇無讖訳の「涅槃経」が伝わり、正説であると証明され、誓いの通り元嘉11年(0434)に廬山で法座に上り、説法が終ると共に眠るがごとく入滅したといわれる。
蘇山
中国・江蘇省東南部蘇州城にある虎丘山ことと思われる。
法道三蔵
中国・宋代の僧。初め永道と称した。仏祖統紀巻四十六によると、宣和元年(1119)、北宋第八代の徽宗皇帝が、詔を下して仏を大覚金仙、菩薩を大士、僧を徳士、尼を女徳とするなど仏教の称号を廃して道教の称を用いるとして、道教を庇護し仏教を弾圧した。この時、法道三蔵は上書して諌めたが、徽宗はこれを聞きいれず、かえって法道の顔に火印を押し、江南の道州に流した。法道は宣和7年(1125)に許されて帰ったが、徽宗は靖康2年(1127)、家族とも金国の捕虜となり、配所の五国城で没した。
かなやき
鉄の焼き印。
江南
中国の揚子江以南の地域をいう。
講義
本章では、仏法流布のために難にあったインド・中国の先人の例を挙げ、正法流布には受難は不可避であり、不惜身命の実践の大切さを御教示されている。ここに挙げられている四人は直接、法華経を宣揚した人ではないが、その時代にあって正法をたもち守ったことは究極的には法華経を守ったことにつながり、その意味から「法華経のとく」といわれているのであろう。
いずれの時代にあっても、先駆的な思想に受難は常のことであった。まして人間の平等の尊厳と、生き方の根本を教える仏教が、とくに差別意識の強い時代、国土に弘まるなかで、強い圧迫を受けるのはやむをえなかったことであろう。
東洋史をたどってみても、国のほとんどが専制主義であっただけに、主君は、しばしば仏教徒を迫害している。
本章にみられる師子尊者を殺害した壇弥羅王や、法道三蔵を流罪した徽宗皇帝、またいわゆる「会昌の廃仏」を断行し中国仏教を壊滅的に弾圧した唐の武宗等がそれである。しかも仏教迫害の陰には、バラモンないしヒンズー教、儒教・道教の僧、修道者が、時の権力者を籠絡している事実が認められるのである。
まして法華経の法理は、一切の人々の根本的平等と、絶対的な尊厳を主張し、階級打破を唱えたものであり、また「法華折伏・破権門理」の仏意のまま邪法邪義を破折し、謗法の者と戦っていけば、どうしても怨嫉による受難はまぬかれないのである。
哲学的裏づけや正当性のない宗教ほど、政治権力と結託し、正法に圧迫を加えてきたといえる。
日蓮大聖人御在世の時代においては、極楽寺良観、建長寺道隆などの諸宗の僧が、保身と勢力拡大欲から幕府の権力の庇護を欲し、結託していた。
彼等は鎌倉時代の激動期にあって、わずかの仏法の知識をふりかざし、巧みに法を説いて人々の歓心を買い、生き仏のごとく尊敬されて、得意然としていた。それに対して大聖人は破邪顕正の強折を加えられたのである。何一つ反論できない彼らはあわてふためき、「さりし程に念仏者・持斎・真言師等・自身の智は及ばず訴状も叶わざれば上郎・尼ごぜんたちに・とりつきて種種にかまへ申す」(0911:03)、「極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴へ建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく諸の五百戒の尼御前等ははくをつかひてでんそうをなす」(1416:16)と仰せのごとく、卑劣な策謀をめぐらして幕府権力者を動かし、大聖人を迫害したのである。
第三章 故郷の人々を励ます
日蓮は日本国・東夷・東条・安房の国・海辺の旃陀羅が子なり、いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず、道善の御房にも・かう申しきかせまいらせ給うべし、領家の尼御前へも御ふみと存じ候へども先かかる身のふみなれば・なつかしやと・おぼさざるらんと申しぬると便宜あらば各各・御物語り申させ給い候へ。
十月 日 日蓮花押
現代語訳
日蓮は日本国の東国の片田舎の者で、安房の国東条の郷・海辺の旃陀羅の子である。むなしく朽ちるであろうこの身を法華経のために捨てることができるのは、ちょうど石を金にかえるようなものではないか。あなた方は、嘆かれてはならない。道善の御房にも、このように申し聞かせてください。領家の尼御前にも御手紙をと思ったけれども、まずこのような身の上での手紙であれば、懐かしいとお思いにならないであろうと申していた、と機会があればあなた方から話していただきたい。
十月 日 日 蓮 花 押
語釈
東夷・東条・安房の国
東夷は東方の夷の意で、京の都から東に遠く離れて開けない土地のこと。東条は安房国長狭郡(千葉県鴨川市)東条のこと。安房の国は東海道15ヵ国のひとつ。現在の千葉県南部。
旃陀羅
梵語チャンダーラ(caṇḍāla)の音写。暴悪・屠者・殺者などと訳す。インドのカースト制度における四姓外の賤民。狩猟・屠殺などを業とし、最も賤しい者とみなされ、蔑視、嫌悪された。
道善の御房
(~1676)。安房国東条郷の清澄寺の住僧で、日蓮大聖人出家剃髪の師である。建長5年(1253)4月28日の大聖人立宗の後は、心中では大聖人にひかれるものがあったが、地頭・東条景信の迫害を恐れて正面きって信じていくことができず、念仏を離れることもできなかった。しかし、大聖人の強い諌めもあり、晩年は法華経への信を立てたようである。
領家の尼御前
安房国東条郷の領家の尼御前。大尼御前ともいう。日蓮大聖人御在世当時の信者で、大聖人の御両親も世話になるなどの恩のある人であったが、信心は不安定で竜の口の法難のとき退転した。後に改めて大聖人に御本尊の授与を願ったが、許されなかった。名越朝時の妻とされる名越の尼と同一人物ともいわれている。
講義
本章では、日蓮大聖人御自身が、名誉も財産も地位もない貧賤の漁師の家の出生であり、いま法華経の行者として、法華経のために身命を捧げることは、あたかも石を金に換えるような無上の栄誉である。少しも嘆くことではないと、大聖人の流罪の身を案じる清澄寺の人々の心情を思いやりながら毅然といいきり、一切衆生救済の烈々たる気迫と大慈悲を述べられている。
旃陀羅とは、古代インドの階級社会において最下層とされた殺生を業とする者の総称である。大聖人の慈父が漁師であったところから「旃陀羅が子」と仰せになったのである。
これは御自身が民衆の側に立ち、その教えが民衆を救済される仏法である一つの証である。
ちなみに、中世において、新宗派を開いた人を見ても、浄土宗の開祖・法然は美作(岡山県)の豪族の子であり、浄土真宗の親鸞は下級貴族・日野氏の子であったとされている。禅宗の道元は名門貴族・久我家に生まれ、同じく栄西は備中(岡山県)の名族の出である。時宗の一遍は四国の豪族・河野家に生まれている。いずれも西国の公卿や武士階級の出身であった。
これに対して日蓮大聖人は「然るに日蓮は中国・都の者にもあらず・辺国の将軍等の子息にもあらず・遠国の者・民が子にて候」(1332:07)と、東国の辺地、庶民の中からの出生であることを、誇らかに宣言されているのである。
仏法の骨髄・南無妙法蓮華経の大法理を覚知された大聖人にとって、氏素姓などは全く問題にならなかったことであろう。御本仏の下種の大仏法は大慈悲となって、つねに末法の下根下機の民衆の上に注がれているのである。そこにこそ法華経ならではの一切衆生皆成仏道の意義があるといえよう。
いたづらに・くちん身を法華経の御故に捨てまいらせん事あに石に金を・かふるにあらずや、各各なげかせ給うべからず
仏道修行にあって、不惜身命の実践、つまり「法華経の御故に」自分の生命を帰していく生き方、信心にのみ、成仏の道が開かれることを示されている。
もとより法華経は生命を捨てることを賛美した教えではない。命を粗末にし、簡単に命を捨てればよいというものではまったくない。
生命はこの上なく尊厳である。この尊い生命を「大願とは法華弘通なり」(0736:第二成就大願愍衆生故生於悪世広演此経の事:02)という最高の目的観に立って、世のため、人のために、生きぬいて、完全燃焼させていくことである。法華経で「不自惜身命(自ら身命を惜しまざれば)」「我不愛身命但惜無上道(我れは身命を愛せず 但だ無上道を惜しむ)」と強調される意もここにある。
現代は民主主義の世の中であり、日蓮大聖人御在世のように、身命に及ぶような受難はありえないとしても、各人がそれぞれの立場で、正法のために大なり小なり難を受けるのは当然であるとする、不惜の志念堅固でなければ、成仏への信心とはいえない。
しかも、御本尊を受持したうえで受ける難は「各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候」(1083:11)の法理により、自身の罪障消滅のためであり、それによって転重軽受されるのである。苦難によって、罪業深き身に福運が輝き、まさしく「石に金を・かふる」大功徳に転じていけるのである。
一般的にいっても、幾多の困難・試練との戦いをとおしてこそ、自らの人間的成長もあり、力や才能も発揮されてくることは、「艱難汝を玉にす」といわれるように、すべてに通じる道理である。苦難から、逃避しようとしていては、いつまでたっても人間の器は大きくはならない。
「石に金を・かふる」とは変毒為薬である。煩悩・業・苦の三道具縛の身が、法身・般若・解脱の三徳という金剛不壊の宝器へと転じることであり、それはとりもなおさず法華経のもつ妙用によるのである。換言すれば、我が生命のうちに顕現される凡夫即極、即身成仏の姿である。
「仏になる道は此れよりほかに又もとむる事なかれ」(0288:06、撰時抄)の御金言を胸奥に刻みながら、喜びにも悲しみにも御本尊第一と、命の限り不屈の信心を貫き、生涯を広宣流布にかけていくことこそ、最高の人生であり、真実の不惜身命であると確信したい。