佐渡御書(富木殿等御返事)2009:01.02.03大白蓮華より 先生の講義
1月号
「師子王の心」で、弟子よ勝て
「御書」は「勝利の源泉」
御書は「勝利の教典」です。私たちが人生に勝利し、社会で勝利し、宿命で勝利し、魔性に勝利する。その一切の原動力が御書です。
日蓮大聖人の仏法は、最高に「人間」を強く賢くし、「心」を豊かに鍛え上げる「生命の変革の哲理」です。御書の一文字一文字は、人間の根源の力を引き出すための仏の金文字です。御書の一編一編に「わが弟子を、民衆の一人一人を、何としても、かたせずにおくものか!」との御本仏の御自愛の叫びが轟わたっています。
御書は、民衆が永遠に勝ち栄えゆくための「勝利の源泉」なのです。ゆえに、学会は「御書根本」で進む限り、万代にわたって発展し続けることは断じて間違いない。
2009年「青年・勝利の年」が開幕しました。私も、ますます健康です。「青年」のため「勝利」のために、「御書根本」の世界広宣流布の指揮を一層、力強く執っていきます。仏法の真髄である「師弟の魂」を、未来のために語り、綴り残していきます。どうか皆さんも、この一年、一緒に、創価学会の「永遠の聖典」である御書を拝し、勝利また勝利の偉大な民衆のスクラムを、さらに築き広げていこうではありませんか!
「佐渡御書」は学会精神の根本
さて、この「勝利の教典『御書』に学ぶ」では、草創以来、三代の精神の柱となった御書を深く拝していきたい。最初に拝読するのは「佐渡御書」です。
「佐渡御書」は、いわば「創価学会の御書」と申し上げても、過言ではありません。大聖人が、燃え上がる正義の炎で綴られ遺され、弟子たちの心に打ち込まれた御書を、学会の三代の師弟は不惜身命の信心で、色読してきたからです。牧口常三郎先生は、本抄の最後の「烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし」の一節を折々に拝して、増上慢の弟子を戒められました。そして折伏行に邁進しゆく学会の大使命を宣揚していかれたのです。
戸田城聖先生も繰り返し、この「佐渡御書」を私たちの生命に刻みこむように講義されました。昭和31年(1956)、あの、「大阪の戦い」の折には、大阪・中之島の中央公会堂で関西の学会員へ、弟子の勝利のために講義してくださった。私の若き日にとっても、本抄は信仰の源となった御書です。胸を患い、戸田先生の事業は蹉跌、まさに絶体絶命の窮地にあって本抄を繰り返し拝読しては勇気を奮い起して戦い、一日一日を乗り越え、また勝ち越えて進みました。だからこそ、私は、この「佐渡御書」を全身全霊で講義してまいりました。仙台で、川越で、葛飾で、行く先々で。
戸田先生が逝去された翌年、御師の謦咳懐かしき東京・豊島の公会堂で一般講義をさせていただいたのも「佐渡御書」でした。「弟子たちよ、総決起せよ!」との恩師の叫びを、私は不二の分身となって、同志の胸中深くに訴えていったのです。また、未来を担う鳳雛たる高等部に対しても、大人に接するのと同じ姿勢で「佐渡御書」全編を全魂で講義しました。この時の鳳雛たちも、今や、立派な世界広宣流布の指導者と育っています。
本文
此文は富木殿のかた三郎左衛門殿大蔵たうのつじ十郎入道殿等さじきの尼御前一一に見させ給べき人人の御中へなり
現代語訳
この手紙は富木殿の方、四条金吾殿、大蔵塔の辻十郎入道殿等、桟敷の尼御前など一人一人に見てもらいたいものである。
講義
全門下に「師子の魂」を伝える
ここは御消息の本文とは別に、とり急ぎ伝えたい事柄を書き込まれた一節ですが、日蓮大聖人が、門下一人一人に語りかけるよう認められたお心が拝されます。
本抄は、大聖人が佐渡流罪中の文永9年(1272)3月、「日蓮弟子檀那御中」と宛名があるように、全門下に送られた御消息です。本抄の末尾には「此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ」とも記されております。当時、鎌倉の門下たちにも弾圧の嵐が吹き荒れていました。その渦中で、心ある門下が、よく連携を取り合い、大聖人の御指導を根本に、一人ももれなく団結し、困難を乗り越えていくよう強調されているのです。
戸田先生は、論文「佐渡御書を拝して」に、こう記されました。
「この御抄を拝して、深く胸打たれるものは、大聖人御自身の御命もあやうく、かつは御生活も逼迫しているときにもかかわらず、弟子らをわが子のごとく慈しむ愛情が、ひしひしとあらわれてくることです。春の海に毅然たる大岩が海中にそびえ立ち、その巌のもとに、陽光をおびた小波があまえている風景にも似ている感がある」
命に及ぶ流罪のなか流人の身であられながら、門下に慈愛を注がれる、あまりに偉大な大聖人の御境涯、それを戸田先生は「春の海にそびえ立つ巌」に譬えられています。
先生ご自身が戦時中の弾圧を越えて、岩窟王の如く戦い抜かれました。その恩師なればこそ、大聖人の雄大な御境涯、大慈悲のお振る舞いを拝して、何ものにも揺るがぬ“毅然たる巌”として表現されたものでありましょう。
大難によってこそ、人間の境涯は限りなく開かれる。その極理を教えてくださるのが仏法の師匠です。師匠とは何とありがたい存在でしょうか。この恩師に報いてこそ「弟子の道」です。本抄はまさしく「師弟不二」という信仰の奥義が凝縮した「誓願の一書」であると拝したい。
本文
京鎌倉に軍に死る人人を書付てたび候へ、外典抄文句の二玄の四の本末勘文宣旨等これへの人人もちてわたらせ給へ。
現代語訳
京都や鎌倉の合戦で死んだ人々の名を書きつけて送ってほしい。また外典抄、法華文句の二の巻、法華玄義の巻四の本末、勘文や宣旨なども、佐渡に来る者に持たせて送ってもらいたい。
講義
悠場迫らぬ御本仏の大境涯
京や鎌倉の戦で亡くなった人の名前を書いて送ってほしいとの仰せは、追善の題目を唱えてくださるためでありましょう。三世にわたる幸福を祈られる大聖人の大慈悲が拝される一節です。さらに、佐渡を訪れる人に「外典抄」や『法華文句』などの文献を持たせるよう依頼されています。
最果ての流刑の地で、大聖人はますます大情熱を注がれ、末法の民衆救済のための重要な御思索と御執筆を重ねておられたのです。
書物を依頼されるこの一節にも、悠場迫らぬ御本仏の、ふだんと変わらぬありのままのお姿が浮き彫りになります。こうした短い仰せからも、門下は大きな勇気を贈っていただいたのではないでしょうか。
本文
世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし牛馬猶身を惜む況や人身をや癩人猶命を惜む何に況や壮人をや、
現代語訳
世間で、人の最も恐れる者は、火炎につつまれることと、刀剣の影におびやかされることと、そして我が身が死ぬことである。牛馬ですら命を惜しむ。まして人間が惜しまないわけがない。不治の病であるハンセン病に罹った人でさえ命を惜しむ。まして健康な人が命を惜しむのは当然である。
講義
「生死」こそ人間の根本課題
「世間に人の恐るる者は」「佐渡御書」の冒頭には、万人の胸に迫る語りかけが綴られております。
死を恐れ、命を惜しむのが、生あるものの常です。
「火炎の中」事故や災害です。
「刀剣の影」暴力や戦乱です。
そして、いかなる人にとっても、「此身の死する」ことほど恐ろしいことはない。
動物にとっても人間にとっても同じです。しかし、ただ死を恐れて、命を惜しんでいるだけであれば、本当の深い人生は分かりません。人間、何のために生き、何のために死んでいくのか。自身の「生死」を真剣に見つめていくことは深い生き方を可能にします。
大聖人は本抄を「生死」という人生の根本問題から説き起こされた。それによって、大難に苦しむ門下に、人間の根源の課題を解決するために仏法がある。ゆえに、どんなに大難の嵐が吹き荒れても、根本となる「信心」は絶対に見失ってはならないと御指導されているのです。
本文
仏説て云く「七宝を以て三千大千世界に布き満るとも手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意、雪山童子の身をなげし楽法梵志が身の皮をはぎし身命に過たる惜き者のなければ是を布施として仏法を習へば必仏となる身命を捨る人・他の宝を仏法に惜べしや、又財宝を仏法におしまん物まさる身命を捨べきや、
現代語訳
仏は法華経に「三千大千世界に満ちるほどの七宝をもって供養するよりも、手の小指を仏教に供養するほうがはるかに功徳は大きい」と説かれている。昔、雪山童子は木の上から身を投げて教えを求め、楽法梵志は紙がないために身の皮をはいで教えを書写しようとした。身命にまさるほどの惜しいものはないので、この身を布施として仏法を学べば、必ず仏となるのである。身命を捨てる人が、他の宝を仏法に惜しむようなことがあるのだろうか。また財宝を仏法のために惜しむ者が、財宝にまさる身命を仏法に捨てることがあるだろうか。
講義
かけがえのない「生」を何に使うか
では、このかけがえのない身命を何に使うのか、本抄では、仏法のために捧げてこそ、仏になることができると教えられています。
大聖人は、まず法華経の薬王品を挙げられて、身命を仏法に捧げることの甚深の意義を示されています。そして、釈尊が過去世において修行していた時の姿である雪山童子や楽法梵志を挙げ、不惜身命こそが仏道修行を成就させる要諦であることを明かされています。
また大聖人は、不惜身命の覚悟がある者が他の宝を惜しむはずがないと仰せです。これは、所領没収等の難に怖じ恐れている門下たちに対して、“今こそ、この身を代えて仏に成れる最大のチャンスではないか”“成仏が目前にあるのだから、何も恐れる必要はないではないか”と、あえて厳愛の指導をされているのです。
そのうえで、ここには現代人にとっても学ぶべき大切な精神性が込められています。
その一つは、身命をただ惜しんでいるだけでは、真実の幸福は得られないということです。「何のため」という根本の目的を定め、労苦を惜しまぬ覚悟で正しい「人生の道」を求めてこそ、深い喜びや充実感が得られる。低い欲望に流されて、大事な時に身を惜しんでしまえば、生命が委縮し、後悔と不幸に向かってしまうのです。
もう一つは、仏道修行によって得られる境地は、今世の仏の有限性を超えた永遠性のものであるということです。仏法のために尊い生涯を捧げるならば、生々世々、功徳と幸福に包まれた人生を歩んでいけることは絶対に間違いありません。
「三世の生命観」「永遠の幸福観」に目覚めることこそが、人生と社会のさまざまな問題を打開するための根本的な転換点となるのです。正しき生死観を持てば、人類の境涯も高まります。生死観の浅深を見極めていくことが、21世紀の文明を開く哲学の急所であるといってよい。その先覚の道を歩んでいるのが、わが同志の皆さまなのです。どうか、このことを確信し、誇りに満ちて進んでいただきたい。
本文
世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし又主君の為に命を捨る人はすくなきやうなれども其数多し男子ははぢに命をすて女人は男の為に命をすつ、魚は命を惜む故に池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむしかれどもゑにばかされて釣をのむ鳥は木にすむ木のひきき事をおじて木の上枝にすむしかれどもゑにばかされて網にかかる、人も又是くの如し世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし。
現代語訳
世間の法にも、重恩に対しては命を捨てて報いるのである。また主君のために命を捨てる人も少ないようではあるが、その数は多い。男子は恥に命を捨て、女人は男のために命を捨てる。魚は命を惜しむために池にすむが、池が浅いことを嘆いて池の底に穴を掘って住むのである。しかし、釣人の餌にだまされて釣をのんでしまう。鳥は木に住む。木が低いといって木の上枝にすむが、餌にだまされて網にかかってしまうのである。
人間も同じようなものである。世間の浅いことには身命を失うことはあっても、大事の仏法のために命を捨てる事は難しい。そのため仏に成る人もいないのである。
講義
最極の生命を仏法のために使う
本抄の冒頭には、思いがけない事故や事件、あるいは戦乱などに巻き込まれて命を落とすことを通して、あらためて、誰もが自分の身命を大切にしていることが説かれます。しかし、その一方で、世間の倫理観・価値観に従って、あえて自らの命をすてることも少なくないと指摘されています。
それとともに、命を大切にしているつもりで、結果として愚かにも捨ててしまう場合も多い。ここで示されている魚と鳥の習性は、大聖人が読まれた『貞観政要』などにも説かれる先人の洞察です。「餌にばかされて」とは、せっかく自分のために、あれこれ用心していながら、自分の欲望に突き動かされたり、狭い料簡から判断を誤ったりして、結局、身を滅ぼしてしまうことを譬えています。現代も、こうした「人間の愚かさ」は全く変わらないと言わざるを得ません。
だからこそ、大聖人は、「世間の浅き事」のために命を捨てるのではなく、「大事の仏法」のためにこそ一番大事な「身命」をささげるべきであると教えられているのです。
「不惜身命」といっても、真実の仏法は、いたずらに命を捨てる「殉教主義」などでは断じてありません。牧口先生、戸田先生、そして私は、「尊い学会員から一人の殉教者も出さずに広宣流布を進めていこう。そのために自分の身が犠牲になることは本望だ」との覚悟で行動してきました。これからも、これが創価学会の代々の会長の精神であらねばならない。
皆さんは、尊い命を絶対に無駄にしてはいけない。青少年の皆さんも、どんなに辛いことや苦しいことがあったとしても、それに負けて自分や他人の命を粗末にするようなことが絶対にあってはならない。皆さまの命は、何よりも尊極な、不思議なる仏の生命だからです。
それでは、それほど大切な命を「大事の仏法」に捧げるとは、具体的に、どういう実践をしていけばよいのでしょうか。
大聖人は、末法の凡夫成仏の在り方を次のように教えてくださっています。
「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり「ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」(1596:白米一俵御書:16)
ここに究極の不惜身命論があります。末代の凡夫は、雪山童子のように身を投げることがなくとも、「志ざし」によって「不惜身命」の実践をするのと同じ功徳を得ることができると、力強く御断言されているのです。
「心こそ大切」です。仏法のために、正義のために「一念に億劫の辛労を尽くす」ことです。私たちにとって「不惜身命」とは、恐れなく南無妙法蓮華経と唱え抜くことであり、世界のため、未来のため、人々のために、懸命に信心の実証を示しきっていくことに尽きるのです。
牧口先生は、この生き方を「不自惜身命の大善『ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり』生活法」と呼ばれました。
大善生活とは、独善や臆病を乗り越え、自他共の幸福を尽くすことです。そして、これは「一度意識的に実証され、誰にでもできることが解つて見ると、最早誰でも仕たくてたまらぬ、仕なければならぬ平凡の生活法である、人並みの人間道である」。
ゆえに、「創価教育学会は直ちに大善生活の生きた実証」であると牧口先生は主張されました。
すなわち「不惜身命」は、“誰でもできる”平凡に見える日常生活のなかにこそあるのです。
要するに、私たちが日々、広宣流布のために心身を使って、大勢の人を励まし、心を尽くして仏法の素晴らしさを語っていく行動のなかにこそ、「不惜身命」の実践があるのです
本文
仏法は摂受・折伏時によるべし譬ば世間の文・武二道の如し
現代語訳
仏法を弘通するための摂受と折伏は時によるべきである。たとえば世間の文武の二道のようなものである。
講義
「末法の時は折伏以外にない」
ここから、末法という「時」に適った仏法の実践について明かされます。
「摂受」は、人々の機根に合わせて法を説いていく姿です。
「折伏」は、極理の南無妙法蓮華経を説ききっていく姿です。
「時によるべし」の「時」とは、時代と衆生が何を求めるかを深く洞察することによってのみ把握できるものです。教典では、その「時」を「正法・像法・末法」の三つに大別しました。大聖人が「仏眼をかつて時機をかんがへよ」(0258:01)と仰せのごとく、今はいかなる時かは仏の智慧によって洞察していく以外にありません。
戸田先生は語られました。
「この時という字を誤って読んではいけない。『摂受・折伏時によるべし』というのだから、今は世間がうるさいから摂受でやろう、みんななにもいわないから折伏をやろうというように、自分で考えて時をつくるのだと思っている」「これは間違いです」「末法の時は折伏以外にないのです」
いついかなる実践にあっても、どこまでも「折伏精神」を忘れずに行動する。これが、折伏の師匠に連なる、真正の弟子の道です。
本文
されば昔の大聖は時によりて法を行ず雪山童子・薩埵王子は身を布施とせば法を教へん菩薩の行となるべしと責しかば身をすつ、肉をほしがらざる時身を捨つ可きや紙なからん世には身の皮を紙とし筆なからん時は骨を筆とすべし、破戒・無戒を毀り持戒・正法を用ん世には諸戒を堅く持べし儒教・道教を以て釈教を制止せん日には道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く王と論じて命を軽うすべし、釈教の中に小乗大乗権経実経・雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし、
現代語訳
それゆえに、昔の聖人は時に応じて教えを行じた。雪山童子や薩埵王子は「身を布施とすれば法を教えてあげよう。身を捨てることが菩薩の修行である」と言われたので、身命を捨てている。肉を求めるもののない時に身を捨てるべきであろうか。紙のない世には身の皮を紙とし、筆のない時には骨を筆とすべきである。
破戒の者や無戒の者を毀り、戒を持ち、正法を修行する者を用いる世であるなら、諸戒を堅く持つべきである。儒教や道教によって仏教を抑えようとする時には、道安法師・慧遠法師・法道三蔵等のように身を捨てても国王を諌めなくてはならない。あるいは仏教のなかで、小乗・大乗・権経・実経が入り雑り、ちょうど明珠と瓦礫と牛驢の二乳の見分けがつかないような時には、天台大師・伝教大師等のように、大乗と小乗、権経と実経・顕教と密教の勝劣を強く述べるべきである。
講義
「折伏の旗を断じて降ろすな!」
過去の大聖や菩薩たちは、皆、「時」に適った修行をして仏になることができました。仏法では、「時」に適った実践を最も重視します。
仏教そのものが誕生する以前は、先達者たちは命を賭して「法」を求め抜きました。また、正法が広く人々に受け入れられている時は、仏法者は、人々がさらに正しく正法を持つように模範の姿を示さなければならない。反対に、仏教を否定し弾圧しようとする王がいる時は、身命を失う覚悟で王を諌めるべきである。そして、仏教のなかで、諸教が入り交じって人々が混乱している時は、教えの勝劣を明快に立て分けることが急務です。今がいかなる時か。「時」に適った実践をすることによって、はじめて仏法は正しく伝えられます。
ここで大聖人が「昔の大聖」と仰せのように、「時」を正しく知り、必要な行動をすべき時に行う人こそ、仏法における「聖人」であり「智者」です。こうした仏法の先達者や指導者の底流に脈打っていたのは、仏の正しい教えを何よりも大切に思い、命をかけて民衆に伝えようとする、「仏法護持の心」にほかなりません。「大聖」たちは、不惜身命に徹したからこそ、今、自分は何をすべきかを明確に知ることができたのです。
「時」を知り、「時」に適った弘教をすることが、仏法の指導者の根本条件です。
創価学会は、初代牧口会先生、二代戸田先生が常に「時」に適った指揮を執ったからかそ大発展してきたのです。私も、胸中で戸田先生と対話しながら、絶えず「時」に適った広宣流布の道を祈り開いてきました。だからこそ勝利してきたのです。
昭和55年(1980)の春、5度目の中国訪問を終えた私は、上海から九州に直行しました。前年に会長辞任を余儀なくされた私にとって、初の地方指導となりました。長崎から福岡に入った私は、深い決意を秘めていた九州の愛弟子に語った。
「折伏の旗を降ろしてはならない。信心の炎を消してはならない。
宗門問題で苦しみ抜かれた九州の地から、日蓮仏法の「不惜身命」の旗を断固、掲げ続けよと“反転攻勢の烽火”をあげたのです。今、この「時」を外して、学会の未来永遠の勝利は築けない。その思いで九州の同志は、私と共に立ち上がりました。時に適った師弟の実践があれば、必ず勝利する。九州は、その歴史を厳然と築いてくださった。
今度は、この重大な創価の師弟の魂魄を、後継の青年部の皆さんが永遠に受け継いでいく時を迎えているのです。
本文
畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる諛臣と申すは是なり強敵を伏して始て力士をしる、
現代語訳
畜生の心は弱い者を威し強い者を恐れる。今の世の諸宗の学者等は畜生のようである。智者が弱い立場であることを侮り、邪な正法を恐れる。諛臣というのはこういう者をいうのである。強敵を倒して、はじめて力ある士と知ることができる。
講義
正義を嫉み弾圧する「畜生の心」
正義を嫉み、弾圧する末法の社会的様相を明かされた個所です。
竜の口法難・佐渡流罪は、幕府権力と、極楽寺良観らが結託して、大聖人とその一門を殲滅せんとした宗教弾圧でした。
「畜生の心」とは、極楽寺良観ら諸宗の僧らの本質を指しています。かれらは「智者」を侮蔑し。「王法の邪」を恐れていたのです。これが、大聖人一門の大弾圧を生んだ、当時の日本社会の精神土壌でした。
しかし大聖人は、「強敵を伏して始て力士をしる」強い敵を倒してこそ、真に力のある力士である。と。この大難を厳然と受けて立たれたのです。
本文
悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、これおごれるにはあらず正法を惜む心の強盛なるべし
現代語訳
悪王の正法を滅亡させようとする時、邪法の僧等がこの悪王に味方して、智者を滅ぼそうとする時、師子王のような心を持つ者が必ず仏になることができる。例えば日蓮のようにである。こういうのは傲った気持ちからではなく、正法を滅することを惜しむ心が強いからである。
講義
悪王・邪悪の僧を破る正義の師子吼
「悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時」これは、政治的権力と宗教的権威の野合です。正義を抑え込もうとする“弾圧の構図”は、いつの世にも変わらない。
轟然たる迫害の嵐。この「時」に、大聖人は一歩も退かれずに「師子王の心」で挑まれたのです。
「畜生の心」を悠然と見下ろし、打ち破るのが「師子王の心」です。仏法でいう「師子王」とは、仏の異名にほかならない。この心で立ち上がる人こそが、必ず仏になる。
「例せば日蓮が如し」私を見よ!これは決して傲って言うのではない。「正法を惜しむ心」が強盛だから言うのである。
この正義の大確信を、よくよく拝すべきです。わが命よりも「正法を惜しむ心」が強盛だからこそ、誰にも怖じることなく、堂々と正義を主張する勇気が持てるのです。
ここに信心の極意があると言ってよい。
恩師・戸田先生と出会って以来60年余、私は一歩も退かず創価の正義を叫び、世界に広げてきました。その力が出せたのも「我が命よりも尊い広宣流布の師匠のため」という一念に徹したからです。創価学会という仏意仏勅の団体を断じて護り、師匠の大願の通りに世界に発展させるのだという魂で立ち上がったのです。
先ほど「不惜身命」の精神と、この「師子王の心」とは、表裏一体です。すなわち、「法」を惜しむゆえに「法華経の敵」に対して「師子王」の如く戦うことは、全く同じです。一人一人が「不惜身命」たる師弟不二の「師子王」たれ!ここが本抄前半の要です。大聖人はこの一点を門下に強く教えておられると拝してまいりたい。
「例せば日蓮が如し」師が一切の魔性を打ち破ったように、弟子も「師子王の心」を取りいだして魔を破れ!師と同じ心で戦うのだ!師とともに!師と同じ覚悟で立て!
大聖人は「不二の弟子」が立ち上がることを待ち望まれ、弟子の心の深奥に呼びかけられたのです。
戦時中、この御本仏の「師子王の心」を受け継いだのは牧口先生、戸田先生だけでした。宗門は卑劣にも逃げました。不惜身命の師子王の血脈は、創価学会だけが受け継いだのです。大聖人の「師子王の心」を、寸分も違うことなく受け継ぎ、世界広宣流布の道をひらいてきたのが、わが学会です!ゆえに皆様方の功徳は絶大です。この大いなる確信に燃えて、いよいよ創価の師弟の正義を語りに語り抜いていっていただきたいのです。
本文
おごれる者は必ず強敵に値ておそるる心出来するなり例せば修羅のおごり帝釈にせめられて無熱池の蓮の中に小身と成て隠れしが如し、
現代語訳
傲れる者は強敵にあうと必ず恐怖の心が生まれてくるものである。例えば、修羅は自らの力におごっていたが、帝釈に責められて無熱池の蓮の中に小さくなって隠れたようなものである。
講義
「正法を惜しむ心」に無限の勇気が
大聖人が叫ばれる「正義」は、傲りなどでは断じてありません「おごれる者は必ず強敵に値ておそれる心出来するなり」単なる虚栄や傲慢の者は、いざ強敵にあうと怖じ気づいてしまう。本当にその通りです。
「傲れる者」の正体は「エゴ」です。自分中心だから、強敵に対して自分の身を案じる。それゆえに「恐れる心」が出てくる。
これに対して「師子王の如くなる者」は、どこまでも「法根本」に生きる。不惜身命だから、法を破る者に対して厳然と立ち向かっていく勇気が、ますますわいてくるのです。
本文
正法は一字・一句なれども時機に叶いぬれば必ず得道なるべし千経・万論を習学すれども時機に相違すれば叶う可らず。
現代語訳
正法は一字一句であっても、時と機根に叶うならば必ず成仏することができる。たとえ千経・万論を習学しても時と機根に相違するならば成仏することはできない。
講義
「時機」に適った実践が仏法への道
折伏は「師子王の心」で悪を責め、正義を語り抜くことです。その「師子王の心」があれば、一字・一句を語るだけでも、必ず成仏の功徳があると断言されています。この根本の魂、すなわち「正法を惜しむ折伏精神」がなければ、たとえ千経・万論を学んでも成仏はできません。
英国の作家チェスタントが書いている。
「自分以外の何物か」私たちでいえば、「妙法」であり、「師匠」です。「同志」であり、「民衆」です。「創価学会」であり、「広宣流布」です。「自分一個の生命など忘れ去ってしまう」とは、「不惜身命」であり、「身軽法重」の精神に通じる箴言でしょう。
戸田先生は、法華経の「不自惜身命」の経文を講義され、指導されました。
「不自惜身命の心がなかったならば、題目は唱えられません」「皆さんも、折伏に行って賞められた覚えがないでしょう。ですから、自ら身命を惜しまずの心がなかったならば、広宣流布はできません。人に悪口をいわれたり、なぐられたくらいで、へこんでしまうくらいなら、最初からやらないほうがいいのであります」
これが折伏の大師匠・戸田先生の大精神です。草創以来、学会の同志はこの通りの勇敢にして健気なる実践を貫いてきました。
この師弟の魂を胸に刻んで、「法のため」「社会のため」「友のため」と、日夜、まじめに戦う同志の皆様にこそ、仏法史に永遠に輝く「不自身命」即「師子王の心」の闘士であると私は讃嘆したいのです。
師弟の魂を受け継ぐ限り、学会は永遠に勝ち栄えていく。このことを、わが門下、なかんずく直系の弟子である青年部の諸君に、私は強く語っておきたい。
「師子王の心」の師に続け!
「師子王の心」で、弟子よ勝て!
これこそが「佐渡御書」を身読する、創価の師弟の常勝の叫びなのです。
2月号
「大難即宿命転換」の成仏の直道を!
私たちは、何のために生まれてきたのか。
それは幸福になるためです。そして、多くの人々を幸福にするためです。
そのために大事なことは「自分に勝利する」ことです。無明に勝ち、宿命に勝ち、障魔に勝ち、三類の強敵に勝ちゆくための信仰です。すべてに勝利する「智慧」と「力」が、誰人にも厳然と具わっていることを教えたのが仏法です。仏法は勝利の哲学の法です。この希望の哲学を学び、連戦連勝の一切の根源にしていくのが「仏法勝利の教学」です。
かつて戸田先生は、宿命に立ち向かうある女子部員を励ましてくださいました。その人は、幼くして父を亡くし、生きる支えであった母も亡くした。経済苦の中で病と闘っていた。指導を求める乙女に、戸田先生は慈顔で語られました。
「その問題についてどこまで悩んでいるかね。この信心は悩む信心なんだ。悩んで解決しゆく信心なのだよ」
仏法の急所を突いた御指導です。私も戸田先生からこう語られたことがあります。
「大ちゃん、人生は悩まねばならぬ。悩んではじめて、信心もわかる。偉大な人になるのだ」
あの昭和31年(1965)の歴史的な「大阪の戦い」に臨む直前でした。
「悩む」とは、本気で生老病死の宿命と格闘することです。翻弄され、嘆き泣いていては、宿命を破ることなどできません。宿命は、勝って乗り越えるために存在しているのです。仏法の眼から見れば、宿命は、妙法の偉大さを証明するための方便です。
師の激励を受けた女子部員は、自己を卑下する悲哀から脱し切ることができました。迷いは、自らの使命の自覚を見失った時に生じることを知りました。
やがて、その女性は、女子部のリーダーとして、そして、婦人部のリーダーとして活躍し、人生の最後の瞬間まで「師弟の道」「報恩の道」を歩み抜きました。その尊き勝利の姿は、今も幾多の同志の心に、希望を贈り続けています。
日蓮大聖人は、佐渡流罪という大難の中で、弟子の一人一人に、この「絶対勝利」の信心を教えられました。「佐渡御書」の冒頭で「不惜身命の信心」と「師子王の心」を記されているのも、弟子の勝利のためです。はかりしれない「不惜の喜悦」を説き明かしてくださっているのです。
今回の範囲で、大聖人は、悪王と邪法の僧を打ち破る御自身の師子王の行動を示されております。とともに、宿命転換を実現する信心の要諦を、大聖人自身が「手本」となって弟子に打ち込んでくださっていると拝されます。
“後悔なき師弟の正道を歩め!”“不二の大道を飾りゆけ!”“弟子よ!ただ勝ちまくれ!”これが今回の主題です。
本文
宝治の合戦すでに二十六年今年二月十一日十七日又合戦あり外道・悪人は如来の正法を破りがたし仏弟子等・必ず仏法を破るべし師子身中の虫の師子を食等云云、大果報の人をば他の敵やぶりがたし親しみより破るべし、薬師経に云く「自界叛逆難」と是なり、仁王経に云く「聖人去る時七難必ず起らん」云云、金光明経に云く「三十三天各瞋恨を生ずるは其の国王悪を縦にし治せざるに由る」等云云、
現代語訳
宝治の合戦からすでに二十六年がたった。今年の二月十一日・十七日のまた合戦があった。たとえば、外道や悪人によって、如来の正法が破られることはないが、かえって仏弟子によって仏法は破壊されるのである。師子の身中に寄生した虫が師子を食むとはこれである。大果報の人は、他の敵にはやぶられないが、かえって親しい者に破られる。薬師経に「自界叛逆難」とあるのがこれである。仁王経には「聖人が国を去る時は七難が必ず起こるであろう」と説かれ、金光明経には「三十三天がそれぞれ瞋りをなすのは、その国王が悪事をほしいままにし、その悪事を改めないことによる」と説かれている。
講義
「立正安国論」の予言的中
宝治の合戦とは、宝治元年(1247)執権・北条時頼が、幕府内の要職にあった三浦氏の一族を滅ぼした戦乱です。これにより北条一門は、最大のライバルを倒し、独裁権力を確立したとされています。
しかし26年たって、今度は北条一門の内部で権力抗争が起こった。これが「二月騒動」です。ここで、日蓮大聖人は、この「二月騒動」こそ薬師に説かれた「自界叛逆難」の姿であり、「立正安国論」における予言が的中したのであると明言されています。
内乱をはじめ三災七難が起こる根本原因は、正法が見失われたことにあります。「邪法の僧等」が出現して、教えを歪めてしまえば、仏法は内部から破壊される。大聖人は謗法の悪僧こそ、仏教破壊の「師子身中の虫」であると断じられました。
思想の乱れによって生じた価値観の混乱によって、人々の三悪道・四悪趣が誘発され助長されます。そのため瞋りや貪り、愚かさ、嫉妬から、正法を弘める智者を迫害し、社会から追いやろうとする。それが末法です。
悪王と邪法の僧が結託し、智者が失われてしまえば、「畜生の心」が充満した社会になってしまう。内乱が起こり、民衆が苦しむ。
仏眼・法眼から見なければ、正法迫害の事件の核心、また、社会の動乱の根本原因は分かりません。
仏法は勝負です。ゆえに、師子王の心で立ち上がり、勝利しなければならない。
本文
日蓮は聖人にあらざれども法華経を説の如く受持すれば聖人の如し又世間の作法兼て知るによて注し置くこと是違う可らず現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず、
現代語訳
日蓮は聖人ではないが、法華経を説の如くに受持しているから聖人のようである。また、世の中の出来事についてもあらかじめ知ることができたので、それを記しておいたことが違うはずがない。このように現世に言っておいたことが的中したことをもって、後生のことについて言っていることも疑ってはならない。
講義
智者は社会の現象の本質を知る
「聖人」であるかどうかは、外見や地位で判断するものではありません。振る舞い、行動こそ基準です。
「法華経を説の如く行ずる」如説修行の行者こそ、真実の聖人です。
「一切の法は皆是仏法なり」です。仏法を極めた聖人は、世法も熟知します。社会の現象の本質を鋭く見通すからこそ、未来を的確に展望することができる。
「佐渡御書」で、大聖人が予言的中の大宣言をされたことは、弾圧下で戦う門下にとって、最大の希望と励ましとなりました。
「眼前の証拠あらんずる人・此の経を説かん時は信ずる人もありやせん」(1045:法蓮抄:16)と仰せのように、「眼前の証拠」があれば、広宣流布は大きく進んでいきます。
「現世に云をく言の違はざらんをもて後生の疑をなすべからず」
大聖人こそが三世を知る真の智者であることは間違いない。門下たちは、あらためてこの確信を深めたことでしょう。
次元は異なりますが、創価の師弟も、大聖人の仰せ通りに「眼前の証拠」を大事にして、一つ一つ、社会で勝利の現証を示してきました。だからこそ、社会の信頼を勝ち開くことができたのです。
本文
日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり・日蓮捨て去る時・七難必ず起るべしと去年九月十二日御勘気を蒙りし時大音声を放てよばはりし事これなるべし纔に六十日乃至百五十日に此事起るか是は華報なるべし実果の成ぜん時いかがなげかはしからんずらん、
現代語訳
日蓮はこの関東の北条一門にとっては棟梁であり、日月であり、亀鏡であり、眼目である。日蓮がこの国を捨てる時には、必ず七難が起こるであろうと去年の九月十二日に御勘気を蒙った時、大音声を放って叫んだのはこのことである。竜の口の法難からわずかに六十日から百五十日でこのような自界叛逆難がおきたのは華報なのである。実果が現れた時は、どれほど嘆かわしいことであろうか。
講義
民衆救済の不惜の諌暁
「日蓮は此関東の御一門の棟梁なり・日月なり・亀鏡なり・眼目なり」との仰せには、きわめて重大な意義がこめられています。
この「御一門」とは北条氏一門を指し、幕府の中枢、ひいては日本国全体を指すとも拝されます。そして、「棟梁」は「主」の徳、「日月・亀鏡・眼目」は「師」の徳、その後述べられる「父母」は「親」の徳を表し、大聖人御自身が、主師親三徳を具備された、末法の御本仏であることを示唆されているのです。
そして、前段で引かれた「聖人去る時七難必ず起らん」という経文に合わせて「日蓮捨て去る時・七難必ず起るべし」との御確信を述べられています。
しかしまだ、今起きたことは前兆に過ぎない。「実果」本当の報いが現れる前に、真実に目覚めるべきであると仰せです。絶対に戦乱を起こしてはならない。民衆の安穏のために、手遅れにならぬうちに権力者よ、人々よ、目覚めよと、不惜身命の諌暁を続けられているのです。
本文
世間の愚者の思に云く日蓮智者ならば何ぞ王難に値哉なんと申す日蓮兼ての存知なり父母を打子あり阿闍世王なり仏阿羅漢を殺し血を出す者あり提婆達多是なり六臣これをほめ瞿伽利等これを悦ぶ、
現代語訳
世間の愚者は「日蓮が智者ならどうして王難にあうのか」などと言っている。日蓮は難にあうことをかねてから知っている父母を打つ子がある。阿闍世王である。阿羅漢を殺害し、仏身から血を出す者がいる。それは提婆達多である。六臣はこのことを讃め、瞿伽利等はこれを悦んだ。
講義
広大無辺な師徳の恩
続いて「日蓮が智者というなら、なぜ王難にあい、流罪されるのか」という世間の疑難を挙げられています。
これは二つの批判から成り立っています。一つは、智者がどうして自身に起こる迫害を予想できないのか、もう一つは、智者ならば世間から尊敬されるはずではないか、という批判です。しかし大聖人は、一言で「愚者の思」と一蹴しておられます。
「兼ての存知なり」迫害されることはもとより承知である。仏は必ず迫害される。これが仏法の道理です。
法華経の行者に対する迫害は、周囲の一人一人の内面の境涯を浮き彫りにします。賢者か、愚者か、迫害を一身に受けた師に感謝し、共に歩もうと決意するのか。反対に、迫害する者に加担し、悪逆の行為を増長させるのか。
戸田先生は、この御文を拝して語られました。
「私も第一回の王難にあいましたけれども、運がよければもう一回あいたいものだと思っている」「そのくらいのことは覚悟しています。覚悟していなければやれません」
大阪事件で私が無実の罪で逮捕されたときも、戸田先生は衰弱したお体で。検事正に抗議するため、自ら大阪地検に出向いてくださった。
「学会をつぶすことが狙いなら、この戸田を逮捕しろ」「なぜ、無実の弟子を、いつまでも牢獄に閉じ込めておくのか!」
あまりにも、ありがたい師匠です。この広大無辺の師恩に報じることが弟子の道です。私は、62年間、弟子の正道を貫いてきました。一点の悔いもありません。
本文
日蓮当世には此御一門の父母なり仏阿羅漢の如し然を流罪し主従共に悦びぬるあはれに無慚なる者なり謗法の法師等が自ら禍の既に顕るるを歎きしがかくなるを一旦は悦ぶなるべし後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず、例せば泰衡がせうとを討九郎判官を討て悦しが如し既に一門を亡す大鬼の此国に入なるべし法華経に云く「悪鬼入其身」と是なり。
現代語訳
日蓮は現在においては、この北条一門の父母である。仏・阿羅漢のようなものである。そのような日蓮を佐渡まで流罪し、主従ともに悦んでいるのは、あわれでかわいそうな人々である。謗法の法師等が、日蓮によって自らの禍が既にあらわれたのを嘆いていたのが、日蓮がこのように流罪になったのをみて一度は悦んでいるであろう。しかし、のちには、かれらの嘆きは日蓮の一門に劣らないものとなろう。たとえば藤原泰衡が弟の忠衡を殺し、九郎判官を殺害して一度は悦んでいたが、後に滅ぼされたようなものである。すでに北条一門を滅ぼす大鬼がこの日本に入っているのであろう。法華経勧持品第十三には「悪鬼が其の身に入る」と説かれているのがこれである。
講義
立正安国の実践を堂々と!
「日蓮は、当世にはこの北条御一門の父母である」なんと堂々たる御宣言でしょうか。権威など微塵も恐れない。むしろ、御自身を流罪・死罪にした北条氏一門の父母にあたる存在であると、厳然と仰せです。これが、御本仏の偉大な御境涯です。
その大聖人を迫害し、「主従共に悦」んでいた者たちが、その後、いかなることになったか。後には彼らが嘆きとあらわれてしまうのです。この原理は、いつの時代も変わりません。
創価の三代の師弟は大難と戦い抜き、そして勝ちました。この峻厳な歴史の刻印を、永久に忘れないでいただきたい。
さらに大聖人は、「一門を亡す大鬼」がこの国に入っていると断言されています。正義の人が迫害される姿を見て人々が喜んでいるさまは、まさに「悪鬼入其身」の社会です。物事の判断を狂わせる大鬼が一国に入り込んでいる。
思想の混乱ほど恐ろしいものはありません。この社会を変えていくのが、私たちの立正安国の実践です。それが日蓮仏法の魂です。
本文
日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず不軽品に云く「其罪畢已」等云云、不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも先業の所感なるべし何に況や日蓮今生には貧窮下賎の者と生れ旃陀羅が家より出たり心こそすこし法華経を信じたる様なれども身は人身に似て畜身なり魚鳥を混丸して赤白二渧とせり其中に識神をやどす濁水に月のうつれるが如し糞嚢に金をつつめるなるべし、心は法華経を信ずる故に梵天帝釈をも猶恐しと思はず身は畜生の身なり色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり心も又身に対すればこそ月金にもたとふれ、又過去の謗法を案ずるに誰かしる勝意比丘が魂にもや大天が神にもや不軽軽毀の流類なるか失心の余残なるか五千上慢の眷属なるか大通第三の余流にもやあるらん宿業はかりがたし
現代語訳
日蓮もまたこのような大難にあうのも過去世の悪業がないわけではないからである。法華経常不軽品第二十に「其の罪畢え已って」と説かれている。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲されたのも過去世の悪業の報いなのである。まして日蓮は今生には貧しく下賎の者と生まれ、旃陀羅が家に生まれている。心こそ少し法華経を信じたようであるが、身は人身にして畜生の身である。魚や鳥を混丸して父母の赤白二渧とし、そのなかに精神を宿している。濁った水に月が映り、糞嚢に金を包んだようなものである。心は法華経を信ずるゆえに梵天・帝釈でさえも恐ろしいとは思わない。しかし身は畜生の身であるから、身と心とが相応しないから愚者が侮るのも当然である。
心も、身に対すれば月や金にたとえられるのであるが、その心も過去の謗法の罪をもっている。誰が知ることができるだろうか。我が心は勝意比丘の魂か。大天の神であろうか。不軽菩薩を軽毀した四衆の流類だろうか。久遠下種を忘失した者の余残か、五千人の増上慢の眷属か。あるいは大通覆講の時の第三の未発心の余流なのであろうか。宿業はかりがたい。
語釈
人類の宿命転換の大闘争
「佐渡御書」は大聖人御自身の師子王の闘争を記されると同時に、門下にも「師子の子は、師子王たれ!」と呼びかけられる「師弟不二の一書」です。
ここまで、大難と戦う師子王の実践を示し、迫害者の悪王と邪法の僧らは、師子吼の前に畜生の境涯を露呈することが認められてきました。ここからは、師子王の成仏への精神闘争の軌跡を明かされていきます。すなわち、成仏とは自身の宿命転換にほかならない。そして、大難と戦うことによってこそ、過去世からの宿業を打開していくことができると明かされていきます。不惜身命の闘争こそ、永遠の幸福の道なのです。
大難は、即「宿命転換の直道」です。
だからこそ「戦う心」を忘れては断じてならない。現実に、宿命を破ることは簡単なことではありません。ゆえに、どこまでも仏法を持ち抜く実践が不可欠になることを、大聖人御自身が教えてくださっているのです。
そのために大聖人は、まず、自身の宿命と戦い切る覚悟を促されています。
「日蓮も又かくせめらるるも先業なきにあらず」とは、迫害の社会的背景はともあれ、大難をうけること自体、実は、御自身の過去世からの罪業のゆえであると教えられております。
それがまた法華経に説かれる原理にほかならないことを、不軽菩薩の「其罪畢已」の法理を通して示されています。
不軽菩薩は、万人に具わる仏性を礼拝して、皆成仏道の法華経の原理を実践しました。そのために杖木瓦石などの迫害を受けたが、実は、それはすべて不軽菩薩自身の先業の報いであった。しかし、迫害の中に、礼拝行を貫くことで、不軽は自身の罪業を消滅し、後に仏となった。これが法華経の教えです。
私たちもまた、三障四魔、三類の強敵と戦う中で、必ず自身の罪障を消滅し、絶対的な幸福境涯、永遠の幸福を確立していくことができる。それが成仏の功徳です。
続いて大聖人は「日蓮今生には貧窮下賤の者と生れ栴陀羅が家より出たり」と、御自身の出世について述べられています。
ここでは言うまでもなく、日蓮仏法こそが、庶民の味方であり、真実の民衆仏法であることの証しとなります。信仰者にとって、出発点が「貧窮下賤」であることは最大の誉れです。ゆえに、「創価学会は永遠に民衆の側に立つ」これは絶対不変の精神です。
御文に戻れば、大聖人は御自分の身は「畜生の身」であることを強調されています。
「心」は、法華経への信心を貫いているがゆえに、尊く輝いている。何も恐れるものがない尊極な魂をもっている。しかし「畜生の身」と「尊極な心」とでは、あまりにも相応していないがゆえに、迫害を受けるのも一面の道理である。いな、心を凝視していけば、過去の迫害者や退転者の生命境涯に通ずる無明もある。大聖人の御洞察は続きます。
そして、「宿業はかりがたし」宿業がどれだけ重いのか、見当がつかないほどであるとまで仰せられております。いささかも妥協されない。厳しいまでの生命の凝視です。この大聖人御自身の強靭な精神闘争があればこそ、人類普遍の宿命転換の大道が完成したのです。
日蓮大聖人がおられればこそ、末法万年にわたる一切衆生の無間地獄への道が塞がれました。そして、この大聖人に直結する、人類の「宿命解放の先駆」の実証が、わが学会員の無数の宿命転換のドラマにほかならない。「最高の仏法」と「奇跡の民衆」が人類の宿命転換への道を実現したと、後世の歴史が証明することは絶対に間違いありません。
本文
鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし、我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし、
現代語訳
鉄は炎に入れて焼いて打つことにより剣となる。賢人・聖人は罵詈して試みるものである。日蓮がこのたび受けた御勘気に世間の罪は一分もない。ただ過去世の重罪を今生に消滅して、来世に三悪に堕すことを脱れることになるのであろう。
講義
生命の鍛錬こそ最高の功徳
宿命転換の仏法を実践する急所を教えられている一節です。
わが生命の鍛錬こそが、最高の功徳です。鍛え抜かれた生命が、永遠の幸福を約束するのです。「世間の失一分もなし」社会的罪など、全くない。ただただ、流罪は今世における宿命転換のためにあったとまで仰せです。
わが生命を鍛え、変革しゆくための仏法です。
私たちは皆、「自分の幸福の鍛冶屋」なのです。
わが弟子よ、鋼となれ!剣となれ!真実の賢人・聖人として立ち上がれ!
大聖人は、苦闘する門下の肩を揺さぶるようにはげまされているのです。
「宿命を転換するのは自分自身だ。自分の中に、その力がある!」
「苦難を避けるな。本当の勝利は、自分自身に勝つことだ!」
「大いなる悩みは大いなる自分をつくる!永遠の勝利者となれる!」と。
本文
般泥洹経に云く「当来の世仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し懶惰懈怠にして此れ等の方等契経を誹謗すること有らん当に知るべし此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云、此経文を見ん者自身をはづべし今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり、法然が一類大日が一類念仏宗禅宗と号して法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加て権教の弥陀称名計りを取立教外別伝と号して法華経を月をさす指只文字をかぞふるなんど笑ふ者は六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし、うれへなるかなや涅槃経に仏光明を放て地の下一百三十六地獄を照し給に罪人一人もなかるべし法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり但し一闡提人と申て謗法の者計り地獄守に留られたりき彼等がうみひろげて今の世の日本国の一切衆生となれるなり。
現代語訳
般泥洹経には「未来の世に、かりに袈裟をつけて我が法の中で出家学道したとして懶惰懈怠であって、これらの大乗経典を誹謗するような者は、これらはみな今日の諸の外道の者であると知るべきである」と説かれている。この経文を見る者は自分自身を恥ずべきである。現在、出家して袈裟をかけながら懶惰懈怠である者は、釈尊在世の六師外道が弟子であると仏は記されている。法然の一門、大日の一門が念仏宗・禅宗と名乗って、「捨閉閣抛」の四字を加えて法華経を制止して権教である弥陀称名ばかりを勧め、あるいは「教外別伝といって、法華経は月をさす指のようなもので、ただ文字を数えるにすぎないなどと笑っている者は、六師外道の末流が仏教のなかに生まれてきたものであろう。
まことに憂うべきことである。涅槃経に仏が光明を放って地下の一百三十六の地獄を照らされた時、罪人は一人もいなかったとある。それは法華経の如来寿量品でみな成仏したからである。ただし一闡提人といって謗法の者だけは、地獄の獄守に留められたのである。彼ら一闡提人が生み広げて、今の世の日本国の一切衆生となったのである。
講義
日本は謗法が充満する国
一転して、ここでは迫害の側、すなわち邪法の僧たちと、その毒気深入によって本心を失った日本中の人々の業報を見抜かれています。
般泥洹経に照らせば、仏教の中にあって、懈怠であり、、法華経を誹謗する悪僧たちは、釈尊在世の仏法を批判した外道の末流であると指摘されている。
ここで、大聖人御在世の時代に法華経に対する誹謗を重ねていた諸宗の僧らの言い分を破折されています。そこに共通するのは、根拠なく法華経を誹謗し、法華経を捨てさせようとした独善的態度です。大聖人は、その正体を六師外道の末流と喝破されています。
この御文を拝して戸田先生は、断言されました。大聖人をいじめた悪僧が、今度は現代の諸宗に、さらには日蓮正宗の中に出現するであろう、と。
まさにその予見通りであったことは、広布に敵対する日顕一派の悩乱を見れば明瞭です。
そして御文は続いて、大聖人は悪口し、批判してきた日本中の人々もまた、法華経寿量品でも成仏できなかった一闡提の生命と変わらないことを指摘されています。
いわば大聖人が戦ってきた「法華経の敵」の正体が示されているとも拝することができます。ここでいう六師外道や一闡提とは、法華不信の誹謗の生命です。
その根っこにあるものは何か。
それは、法華経の「万人尊敬」の精神を理解しえない無明の生命にほかならない。現代的に言えば、「生命尊厳の否定」「一人の無限の可能性の否定」です。
自分で自分が見えていないのに、正しき法を求めようともしない。平気で正しき人を蔑む。大聖人の御洞察は、現代日本人の「宗教蔑視」「思想軽視」の傾向と重なる面があるようです。
例えば、中村元博士は論じておられた。
「一般の日本人は形而上学的な領域に思いを馳せる傾向が弱いために、仏教を信じても、かならずしも心の奥底から敬い畏れて尊重しているのではない。むしろ仏を馬鹿にして茶化していることがある。『知らぬが仏』とか『仏の顔も三度』とかいうように、仏ははなはだ慣れ慣れしいものといなされている」「仏教のまじめなことばが、日常生活においてはくずれた、ふざけた意味に用いられていることが非常に多い」
生命の根本の大事である仏法の哲理について、真正面から学ぼうとしない。それどころか、軽蔑したり、揶揄しようとする。現代において、こうした不信に襲われた日本社会の精神土壌に粘り強く挑戦し、人々に境涯を高める精神闘争を続けているのが、私たちの対話運動なのです。
本文
日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば今生に念仏者にて数年が間法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑しなり今謗法の酔さめて見れば 酒に酔る者父母を打て悦しが酔さめて後歎しが如し歎けども甲斐なし此罪消がたし、何に況や過去の謗法の心中にそみけんをや経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし外道は知らずして自然と云い今の人は謗法を顕して扶けんとすれば我身に謗法なき由をあながちに陳答して法華経の門を閉よと法然が書けるをとかくあらかひなんどす念仏者はさてをきぬ天台真言等の人人彼が方人をあながちにするなり、今年正月十六日十七日に佐渡の国の念仏者等数百人印性房と申すは念仏者の棟梁なり日蓮が許に来て云く法然上人は法華経を抛よとかかせ給には非ず一切衆生に念仏を申させ給いて候此の大功徳に御往生疑なしと書付て候を山僧等の流されたる並に寺法師等・善哉善哉とほめ候をいかがこれを破し給と申しき鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ無慚とも申す計りなし。
現代語訳
日蓮も過去にすでに正法をそしった者であるから、今生には念仏者となって数年の間、法華経の行者を見ては「未有一人得者」「千中無一」等と批判していた。いま謗法の酔からさめてみれば、酒に酔った者が父母を打ちすえて悦び、酔がさめて後で嘆くように、後悔してもどうしようもない。この罪は消しがたいのである。
まして、過去の謗法が心中に染まっているのは、なおさらのことである。経文を見ると烏の黒いのも鷺の白いのも、過去世の業が強く染まりついたからだとある。それを外道は知らないで自然の成りゆきであるという。今の人は、日蓮が謗法であることを教えて扶けてあげようとすると、自分は謗法はないと、声を荒立てて答えて、法然が「法華経の門を閉じよ」と書いていることさえいちいち理由をつけて争うのである。
念仏者のことはさておく。天台真言等の人々がかえって強引に念仏者の味方をしているのである。今年正月十六日・十七日、佐渡の国の念仏者等数百人のなかの印性房という念仏者の棟梁が日蓮が許に来ていうには「法然上人は法華経を抛てよと書かれたのではない。一切衆生に念仏を称えさせたのであり、この大功徳によって往生は疑いないと書き付けられたのを、比叡山や園城寺の僧で、今、佐渡に流されている人も『よい教えである』とほめている。それなのに、なぜ念仏を破られるのか」というのであった。まったく鎌倉の念仏者よりはるかに劣っており、哀れというしかない。
講義
「人間のための宗教」の復権
続いて大聖人は御自身の修学時代に例を挙げながら、日本国の多くの人々が、当時の念仏の浅薄さに気づかずに迷っていることを指摘されています。
法華経に対する敵対者とその信奉者の充満。しかし、それ以上に問題なのは、「法華経の敵」を見ておきながら放置して戦わない、“法華経の修行者”たちの存在です。
立派な伽藍、伝統と格式、社会的な地位。そうしたものがいくらあっても、「正義のために戦う心」を失ってしまえば、堕落と衰退、権威化と空洞化が始まります。
宗教は人間のために存在します。しかし、人々を苦悩に沈ませる宗教を放置し、民衆の救済を忘れてしまえば、それ自体が「民衆の敵」となってしまう。
そうした民衆の敵を絶対に許してはならない。日蓮大聖人の折伏の実践とは、釈尊の真の慈悲の精神を復興し、人間の境涯を高めていく宗教の復権への闘争なのです。
「人物が偉大であればあるほど、嘲笑の矢は当たりやすい。小人に矢は当たりにくいのである」
あらゆる迫害と批判を見おろして、悠然と自身の「宿命転換」即「成仏の大道」を大聖人は自ら示されています。
「日蓮と同意」「日蓮が如く」との信心で、弟子が立ち上がり勝利することが、師匠の期待です。この師弟の宝光を受け継いできたのが、わが創価学会です。
21世紀の今日、創価学会は「日本の柱」「世界の眼目」「人類の大船」として燦然と輝きを放っています。
牧口先生、戸田先生、そして第三代の私が不惜身命の戦いで残した日蓮仏法の「師弟の魂」を受け継いでいく限り、学会は永遠に栄えていく。この広宣の勝利の方程式を、とくに後継の青年部の皆さんは深く生命に刻んでほしいのです。
3月号
一生涯、「師弟の大道」に生き抜け!
「佐渡御書」を拝すると、鮮やかに蘇ってくる光景があります。
それは、戸田先生の事業が最も苦しい状況にあった時のことです。
先生は学会の理事長を辞任され、ひたすら事業の打開に向けて苦闘されていました。あるとき、先生が「佐渡御書」を拝読されていた。佐渡で日蓮大聖人が、悪口罵詈され、衣服も食べ物も不自由な思いをされるなど、経典に説かれる通りに、さまざまな御苦労をされている内容のところです。
「ああ、大聖人様も、こういう状態におられた。今おれも、こういう状態だよ」「いくら儲けても、儲からないしなァ」
そう言われながら、先生は笑っておられるのです。事業の苦境と先生の笑顔。その悠然たる振る舞いが、胸に焼き付いて離れません。
また、ある日のこと、大蔵省に行かれた先生が、みぞれまじりの寒波に震えながら帰ってこられました。
「世の中は、寒いなあ」と笑っておられた先生が、こう語られました。
「大作、自分は、決して負けたのではない。事業が破れたに過ぎぬ。本当の戦いはこれからだ」と。
経済では破れたようにみえるが、人生において、負けたのでは断じてない。おれには本物の弟子がいる!これからが本当の勝負だ!その気迫に接して私も「先生に、指一本、差させてもなるものか!」という覚悟と闘志を、さらに燃え上がらせました。
御書には、吹きすさぶ苦難の烈風のなかから、不屈の闘志を燃え上がらせる厳たる力があります。日蓮大聖人の御精神がわが身に脈動すれば、何も恐れるものではありません。
心して御書を拝する限り、どんな宿業にも負けることはありません。そして、師弟に徹する限り、いかなる障魔も障りとなりません。「御書と師弟」に生き抜けば、あらゆる壁をも破ることを確信していただきたい。
今回は、全民衆の宿業転換を実現された「師子王の大境涯」を拝していきます。
本文
いよいよ日蓮が先生今生先日の謗法おそろしかかりける者の弟子と成けんかかる国に生れけんいかになるべしとも覚えず、
現代語訳
このように責められる日蓮の、過去世・現世、先々からの謗法が今さらながら恐ろしく思われる。このような日蓮の弟子となり、このような国に生まれた弟子達が、この先どのようになるかはかり知れないのである。
講義
“わが門下よ!師子王たれ!!”
「人生の師匠」に出会い、「師弟の道」に徹しゆくことほど、誇り高い人生はない。
日蓮仏法は「師子王の宗教」です。
大聖人は「佐渡御書」で弟子たちに、一生涯、「師弟の大道」に生き抜くことを教えられています。
師匠は、師子の境涯で戦い抜いた。弟子もまた「師子王の心」で戦えば、必ず、仏になれる。“この大難の中でこそ、偉大な宿命転換ができる。成仏は間違いない。ゆえに、我が宿業転換の闘争を見よ!範とせよ!”「佐渡御書」は、どこまでも、弟子の身を案じていく「師匠の心」が全編に漲っています。
前回、確認したように、宿業転換の法理を示すために、大聖人は、まず不軽菩薩の実践に触れられます。佐渡流罪という、命にも及ぶような大難に遭われるのは、御自身の「先業」のゆえであると明かされます。そして「宿業はかりがたし」と言われて、御自身の宿業を寸分の妥協もなく、深く見つめておられた。
この御文では、さらに、過去世だけでなく、今世であっても、仏法を学ぶ中で、御自分が謗法を犯したとまで仰せです。しかし「謗法おそろし」とは、日本の仏教界が正法誹謗に陥っている現実を指摘されていると拝することができます。真に「恐ろしい」のは、仏教を学びながら謗法を犯してしまうという、当時の日本国の一国謗法の状況そのものにほかなりません。
それとともに、「かかりける者の弟子と成けん」と、師弟の絆を確認されています。このことは、「師とともに戦う人生の喜び」を教えられるためであると拝されます。大聖人の弟子として迫害を受け、大難と戦える境涯がどれほど崇高で素晴らしいのか。この魂を、門下に打ち込まれたのです。
本文
般泥洹経に云く「善男子過去に無量の諸罪・種種の悪業を作らんに是の諸の罪報・或は軽易せられ或は形状醜陋衣服足らず飲食麤疎財を求めて利あらず貧賎の家及び邪見の家に生れ或は王難に遇う」等云云、又云く「及び余の種種の人間の苦報現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、此経文は日蓮が身なくば殆ど仏の妄語となりぬべし、一には或被軽易二には或形状醜陋三には衣服不足四には飲食麤疎五には求財不利六には生貧賎家七には及邪見家八には或遭王難等云云、此八句は只日蓮一人が身に感ぜり、
現代語訳
般泥洹経には「善男子よ、過去にはかり知れない多くの罪やもろもの悪業を作った者は、その多くの罪報によって、あるいは人から軽しめられ、あるいは顔かたちが醜く、あるいは着物が足らず、食べ物は粗末で、財を求めても得られず貧賎の家、および邪見の家に生まれ、あるいは王難に遇う」等と説かれている。また「さらに、このほか種々の人間の苦しみを現世に軽く受けるのは、これ護法の功徳力による」等と説かれている。
この経文は、もし日蓮がいなければ、まったく仏の妄語となってしまうのである。一には「あるいは人から軽しめられる」、二には「あるいは顔形が醜い」、三には「着物が足りない」、四には「食べ物が粗末である」、五には「財を求めても得られない」、六には「貧賎の家に生まれる」、七には「邪見の家に生まれる」、八には「あるいは王難に値う」等がそれである。この八句は、まったく日蓮一人が身に受けていることである。
講義
「八種の大難」を身で読まれる
前段で引用された般泥洹経では、仏の滅後悪世において正法を誹謗する僧たちは、仏在世における外道の末流であることが示されました。
この段では、その直後の経文が引用され、そうした輩が跋扈し、正法が滅せんとする危機の時代に、「正法を護持する功徳」について述べられています。
すなわち「転重軽受」の法理です。
ここでは、過去の無量の罪や悪業によって受ける報いの例を八種挙げて、こうした苦報を現世に軽く受けることができるのは「護法の功徳力」によることが示されています。
大聖人は、八種の姿すべてを、御自身が一身に受けられ、それゆえに仏説が虚妄とならずにすんだと仰せられています。
大聖人が身にあらわされた「八種の大難」は、次のように拝することができます。
一には戒被軽易……大聖人は正法を弘められたがゆえに、日本国中から悪口罵詈され続けた。
二には或形状醜陋…流人として汚名を着せられていることを指されていると拝される。
三には衣服不足……極寒の地で、寒さをしのぐ満足な衣服さえなかった。
四には飲食麤疎……流罪地で十分な食料を得られるはずがなく、飢え死にを覚悟されたこともあった。
五には求財不利……住居等、生きていくために必要なものに事欠く御生活であられた。
六には生貧賤家……大聖人は「貧窮下賤」の生まれだと仰せられた。
七には及邪見家……正法を護持する家にお生まれになったわけではなかった。
八には或遭王難……伊豆流罪・佐渡流罪など、権力からの迫害を受けた。
そして「此八句は只日蓮一人が身に感ぜり」と結ばれています。「開目抄」にも同じ趣旨が説かれ、一つ一つ「予が身なり」とも示されている。
普通に見れば八方ふさがりといっていい窮状ですが、大聖人御自身には、それを嘆く様子など皆無です。堂々とそびえ立つ巌が、波浪を厳然と受けきっているがごとく、莞爾として難を受けいれられている。むしろ、ここからは、経文を身読された喜びが伝わってきます。悠然たる御境涯が示されている御文です。
本文
高山に登る者は必ず下り我人を軽しめば還て我身人に軽易せられん形状端厳をそしれば醜陋の報いを得人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる持戒尊貴を笑へば貧賎の家に生ず正法の家をそしれば邪見の家に生ず善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ是は常の因果の定れる法なり、
現代語訳
高い山に登る者は必ず下るように、人を軽しめば、かえって人に軽しめられる。容姿の端正な人を悪口すれば醜く生まれ、人の衣服や食べ者を奪えば餓鬼となる。戒を持つ尊貴な人を笑えば貧賎の家に生まれる。正法を謗れば邪見の家に生まれる。十善戒や五戒を持つ人を笑えば国土の民となって王難に遇うのである。これらは因果の定まった法である。
講義
宿業からの解放を目指すのが仏教
「高い山へ登る者は、必ず下っていかなくてはならない」大聖人は誰にでも分かりやすい道理を通して、仏教一般で説かれる「因果応報」の原理を示されています。
宿業の「業」とは、もともと、仏教以前から古代インドにある「カルマ」という言葉で「行動・行為」の意味です。古代インド思想では、人間が悪業の苦悩から解放されるためには、特別の「行為」、すなわち聖職者による祭祀を行い、神々による救済をまたなければならないとされていた。
これにたいして仏教は「業思想」を大きく転換しました。自分を離れた超越的な存在、例えば神などが、自分の運命を左右するとは捉えません。仏教は、自分自身が自己の業を形成するという「内道」の教えです。
現在の自分自身は、過去世の自分の意志と行為の結果です。また、未来に向かって、新たな「善の業」を形成するのか、「悪の業」を更に積み重ねてしまうのか、一切は、現在の自分自身の行為によって決まります。
この点については、トインビー博士との対談でも一つの焦点になりました。
博士も「われわれには、自分の行動によっていますぐにでも自分の宿命を向上させるという自由もあります」と強調されていました。
博士が注目されていたように、仏教は、人間自身の行動と一念を最大限に重視した思想であるといえます。
ただ、“過去に悪因があったから現在の悪果がある”“過去に善因があったから現在の善果がある”とする仏教通途の因果応報にとどまれば、実は、宿命転換の原理とはなりません。過去の悪業の罪の報いを、一つ一つ受けて消し去るためには、極めて長遠な時間が必要になってしまうからです。
大聖人は、本抄で、こうした因果応報は「常の因果」であるとしたうえで、結局、日蓮仏法は、この「常の因果」ではないと断言されております。
本文
日蓮は此因果にはあらず法華経の行者を過去に軽易せし故に法華経は月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を或は上げ或は下て嘲弄せし故に此八種の大難に値るなり、此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり譬ば民の郷郡なんどにあるにはいかなる利銭を地頭等におほせたれどもいたくせめず年年にのべゆく其所を出る時に競起が如し斯れ護法の功徳力に由る故なり等は是なり
現代語訳
日蓮が苦難にあっているのは、これらの因果のゆえではない。過去に法華経の行者を軽んじたために、また法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山を重ね、玉と玉とをつらねたような尊くすぐれた御経であるが、その法華経をあるいは上げ、あるいは下してあざけりあなどったために、このて八種の大難に値っているのである。
この八種の難は、尽未来際の間に一つずつ現れるはずであったのを、日蓮が法華経の敵を強く責めたことによって、今生に一時に集まり起こしたのである。たとえば、民が郷郡などに住んでいる時は、どれほどの借銭が地頭にあったとしても、厳しく取り立てられることもなく、年々に返済を延ばしてもらえるが、その住む所を出る時には、厳しく取り立てられるようなものである。「これは護法の功徳力によるのである」というのはこのことである。
講義
「妙法の因果」こそ宿業転換の根本
ここは、より根本的な「生命の因果」を明かされています。大聖人が八種の苦の報いを今世において一身にうけているのは、先に挙げた「常の因果」いわゆる因果応報によるものではない。法華経の行者を過去に誹謗した「謗法」のゆえであると仰せです。
法華経は、諸教の王であり、「月と月とを並べ星と星とをつらね華山に華山をかさね玉と玉とをつらねたるがごとくなる御経」です。
その法華経を持ち弘める「法華経の行者」に対する誹謗という根源的な悪業によって、大聖人は八種の大難に遭われたと仰せられています。これは、人間に苦しみをもたらす、すべての業因の究極の「謗法」があることを示されたことになります。
それゆえに、法華経の敵と戦い、妙法を弘通する法華経の行者の実践を貫けば、逆に、究極の悪因を打ち破って根源的な善業を積むことが可能となります。
ここで説かれているのは、根源的な悪を滅し、仏界、すなわち、根源の第九識を力強く顕現していく「成仏の因果」です。この因果こそが、法華経の文底に秘沈されている「妙法の因果」、すなわち南無妙法蓮華経です。
この「妙法の因果」に基づいた場合、宿業の報いに苦しむ生命に直ちに仏界の大生命を湧現させることが可能となります。すなわち、九界即仏界、仏界即九界の生命変革が行われる「因果俱時の妙法によってのみ、真の宿業転換が実現するのです。
これに対して、爾前権教の「常の因果」は「因果異時」であり、一つ一つの悪業を滅していく時間が必要となるゆえに、実質上、今世における宿業転換は不可能となります。
大聖人は「此八種は尽未来際が間一づつこそ現ずべかりしを日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり」と仰せです。
さらにここでは「根源の善の因」となる実践が示されています。すなわち、「法華経の敵」を責める折伏行こそが「妙法の因果」を貫き、宿業を転換する行為となるのです。
「例せば日蓮が如し」師匠と同じように、師子王の心を取り出して「不二の実践」に立ち、勇敢に戦うことで、ダイナミックな躍動を開始していきます。
「護法の功徳力に由る故なり等は是なり」師匠と同じ「師子王」となって、「法華経の敵」を責める護法の実践、すなわち折伏によって、宿業転換が実現する。どんな宿業の苦しみも報いも「ぱつと」消え、それだけではなく成仏の境涯が確立されていくのです。
したがって、私たちにとっての「護法の功徳力」とは、「師と共に戦う実践の力」であることは忘れてはなりません。
本文
法華経には「諸の無智の人有り悪口罵詈等し刀杖瓦石を加うる乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向つて乃至数数擯出せられん」等云云、獄卒が罪人を責ずば地獄を出る者かたかりなん当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難し日蓮は過去の不軽の如く当世の人人は彼の軽毀の四衆の如し人は替れども因は是一なり、父母を殺せる人異なれども同じ無間地獄におついかなれば不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき
現代語訳
法華経勘持品第十三には「諸の無智の人があって法華経の行者を悪口罵詈等をし、刀杖瓦石を加える(乃至)国王・大臣・婆羅門・居士に向かって(乃至)度々擯出される」等と説かれいている。獄卒が罪人を責めなければ地獄を出ることができないように、現在の王臣がなければ、日蓮の過去の謗法の重罪を消すことができない。日蓮は過去の不軽菩薩の如く、現在の人々は、不教菩薩を軽毀した四衆の如くである。人は替わっても、その因は一つである。父母を殺害した人は異なっても、同じように無間地獄に堕ちるのである。不軽菩薩の因の修行をする日蓮一人がどうして釈迦仏とならないことがあろうか。
語釈
法華経に説かれる「師弟不二」の原理
ここで改めて法華経の行者が責められるべき「法華経の敵」の正体を浮き彫りにされています。それが、法華経勧持品第13に説かれる「三類の強敵」です。
「諸の無智の人有り悪口罵詈」等とは、悪口雑言を浴びせ、危害を加えようとする俗衆増上慢。「国王・大臣・婆羅門・居士に向つて」とは僭聖増上慢の讒言です。「数数擯出せられん」は、「邪法の僧」と「悪王」が結託し、追放等の処罰が法華経の行者に加えられることが示されています。
三類の強敵の出現は、法華経の行者の経文身読を証明することになります。強敵による迫害がなければ、法華経の行者自身の宿業転換と成仏は実現しません。「当世の王臣なくば日蓮が過去謗法の重罪消し難く」です。
そして、大聖人は、この「迫害即宿業転換」の実践は、法華経の常不軽菩薩品第20に説かれる不軽の成仏の原理と全く同じであることを示されます。
不軽菩薩は万人を尊敬・礼拝することで、増上慢の四衆から迫害を受けました。その大難によって、不軽菩薩自身の「其罪畢已」を実現しました。つまり、不軽は難を受けることで罪障を消滅し、六根清浄の果報を得て、仏、すなわち釈迦仏となったのです。
大聖人は、この原理に照らして、「日蓮は過去の不軽の如く」と仰せです。
時代によって、行う「人」は違っても、成仏への「因」は同じです。したがって、不軽と同じ「因」を行ずれば、必ず仏になれる。
ここで「日蓮一人釈迦仏とならざるべき」と示されている元意は、弟子のためです。大聖人と同じく難を乗り越え、折伏行を貫くならば、弟子もまた、必ず成仏できるとの師弟不二の原理を示されたものと拝されます。
偉大な先人と平凡な自分では、当然ながら「人」が違う。境遇も、性格も、才能も異なる。しかし「因」となる修行、行動を同じくしていけば、同じ結果を得ることができる。それが仏法の「師弟の因果」です。
師匠の智慧と慈悲に弟子たちが到底、及ばないと思っても、師匠と「同じ誓願」「同じ理想」「同じ行動」を貫くならば、必ず師匠と同じ境涯に達することができる。
これが、法華経に説かれる「師弟不二」の成仏への軌道です。
本文
又彼諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや但千劫阿鼻地獄にて責られん事こそ不便にはおぼゆれ是をいかんとすべき、彼軽毀の衆は始は謗ぜしかども後には信伏随従せりき罪多分は滅して少分有しが父母千人殺したる程の大苦をうく当世の諸人は翻す心なし譬喩品の如く無数劫をや経んずらん三五の塵点をやおくらんずらん。
現代語訳
また、現在の誹謗の人々は跋陀婆羅等といわれないだろうか。ただ千劫の間、阿鼻地獄において責められることはかわいそうなことである。これはなんとしたらよいのか。
不軽菩薩を軽毀した人々ははじめは誹謗していたけれども、後には信伏随従した。罪の多くは消滅して、少しばかし残ったのに、父母を千人殺した程の大苦を受けた。現在の人々は誹謗を悔い改める心がない。譬喩品にあるように無数劫の長い間、無間地獄で苦しむであろう。また三千塵点劫か五百塵点劫の長い間を送るであろう。
講義
峻厳な「因果の理法」
一方、不軽菩薩を迫害した者たちは、その罪によって、二百億劫もの間、仏に出会うこともなく、千劫もの長きにわたって、阿鼻地獄で大苦を受ける。
大聖人は、不憫に思っても、これをどうすることもできないと仰せです。因果の理法は誰人も操作できない、峻厳なるものだからです。しかし、それでも彼らは、不軽とたびたび縁を結んだお陰で、最後は再び不軽の教化に巡りあい、最終的には跋陀婆羅など、釈尊の弟子となることができたと仰せです。
それに比べ、大聖人を誹謗した「当時の諸人」たちは、改心すらしない。結果として、どれほど長遠な間、苦しみの流転に沈まねばならないか、と嘆かれているのです。
本文
これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がかくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし、
現代語訳
これはさておく。日蓮を信ずるようであった者どもが、日蓮がこのように大難にあうと、疑いを起こして法華経を捨てるだけでなく、かえって日蓮を教訓して、自分の方が賢いと思っている。このような僻人等が、念仏者よりも長く阿鼻地獄に堕ちることは、不便としかいいようがない。
講義
師敵対の本質は第六天の魔王の働き
しかし、一番問題なのは、増上慢の弟子たちであることが指摘されています。
最初から正法を信じることなく誹謗する人間よりも、いったん門下となりながら、心を翻し、あまつさえ、「我賢し」と思い上がって離れていく人間のほうが、はるかに罪が重い。報いも厳しい。
しかも、無明の生命が増長した弟子は、他の門下にも働きかけ、大勢を退転させようとする。それが第六天の魔王の恐ろしさです。
大聖人は「大魔のつきたる者どもは一人をけうくんしをとしつれば・それをひつかけにして多くの人をせめをとすなり」(1539:上野殿御返事:09)と仰せです。
せっかく信心していながら、第六天の魔王に生命を支配されてしまう。その根本の理由は、「慢心」であり、その本性は、師匠をないがしろにする「嫉妬」である。
「かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人」との御教示は、日蓮門下の永遠の訓戒です。
仏法の因果の理法だけは、間違いない永遠の法則です。「妙法の因果」に則った人は、永遠に栄えます。末法万年尽未来際まで、一家眷属に福徳が伝わっていきます。
反対に、師弟を忘れ、破和合僧と化した人が「念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん」となることも御本仏の御断言であられる。
仏は万人救済の法を悟りました。成仏という根本の道にあって、御本仏の教えは絶対です。また師匠は、命を注いで弟子を訓育しようとする。ですから、師匠の教えは峻厳です。その師匠の「思い」さえも届かない輩がどんなに悪口していこうが、そうした「僻人」の存在を、大聖人は悠然と見おろしておられたのです。
本文
修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ外道が云く仏は一究竟道我は九十五究竟道と云いしが如く日蓮御房は師匠にておはせども余にこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは螢火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべしわらふなるべし。
南無妙法蓮華経。
文永九年壬太申歳三月二十日 日 蓮 花 押
日蓮弟子檀那等御中
現代語訳
修羅は仏は十八界を説くが、自分は十九界を説くといい、外道は仏は一究竟道、自分は九十五究竟道といったように、このような僻人等が日蓮御房は師匠ではあるが、あまりにも強すぎる。われわれは柔らかに法華経を弘めようというのは、螢火が日月を笑い、蟻塚が華山を見下し、井戸や小川や河が海を軽蔑し、烏鵲が鸞鳳を笑うようなものである。
南無妙法蓮華経。
文永九年壬太申歳三月二十日 日蓮 花 押
日蓮の弟子檀那等の御中へ
講義
「弟子の勝利を約された一書」
大聖人は最後に、師子王の御確信を述べられ、佐渡御書の本文を結ばれています。
増上慢の人間は、仏の教えに何か我見を付け加えようとするものです。釈尊が「十八界」を説けば、修羅は一つ加えて「十九界だ」と威張る。仏が一究竟道を説けば、外道は九十五究竟道を説くのだ」と勝ち誇る。
こうした愚人らと同じく、師匠を見下した者たちは、「日蓮の御房は師匠ではあるけれども、あまりにも強引である。我らはもっと柔らかに法華経を弘めよう」などと言っていた。彼らは、一見、「法華経を捨てていない」つもりで、実は、最も大事な「法華の心」を完全に失っていた。だから、法華経を弘通する師匠の偉大さに、全く気づかなかったのです。
仏法の眼から見るならば、佐渡流罪などの大難の本質は、第六天の魔王が権力者らの身にとり入って、大聖人と門下との「師弟」の間を引き裂くことにありました。
「師弟」によって、妙法の威光勢力は増し、「師弟」によって、令法久住の命脈は強く広がり、「師弟」によって、仏法の根本目的たる、一切衆生の幸福と平和の大道が開かれるからです。
その意味で、一見、賢く立ち居振る舞い、大聖人を批判して、難を逃れた人間こそ、第六天の魔王に「完敗」したのです。最も大切な「師弟の魂」の座を、魔性に明け渡してしまったからです。
蛍火が日月を笑い、蟻塚が華山を下し、井江が河海を侮り、烏鵲が鸞鳳を笑うようなものだ!大聖人の大音声が聞こえてくるようではありませんか。
この大聖人の御確信通りに、創価の三代の三代の会長は戦いました。
「佐渡御書」は身命に及ぶ大難の中で、御本仏の大境涯を高らかに示され、「師匠の勝利を宣言された一書」です。それとともに、師と共に大難を乗り越えようとする勇者の門下に対して、断じて勝ちゆけと師子吼され、「弟子の勝利を約された一書」です。
本文
佐渡の国は紙候はぬ上面面に申せば煩あり一人ももるれば恨ありぬべし此文を心ざしあらん人人は寄合て御覧じ料簡候て心なぐさませ給へ、世間にまさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず当時の軍に死する人人実不実は置く幾か悲しかるらん、いざはの入道さかべの入道いかになりぬらんかはのべ山城得行寺殿等の事いかにと書付て給べし、外典書の貞観政要すべて外典の物語八宗の相伝等此等がなくしては消息もかかれ候はぬにかまへてかまへて給候べし。
現代語訳
佐渡の国には紙がない上に、一人一人に手紙を送るのは煩わしくもあり、また一人でももるれれば恨みに思うことだろう。
この手紙を志ある人々は寄り合って読み、よく理解して心を慰めなさい。世間で、大きな嘆きが起きると、小さな嘆きはものの数ではなくなる。京都・鎌倉での戦いで死んだ人々は、謀反の実・不実はしばらく置くとして、どれほど悲しいことであろう。河辺山城得行寺殿等のことはどうなったのか知らせてもらいたい。外典書の貞観政要やすべての外典の物語、八宗の相伝等がなければ、手紙も書けないので、忘れないで送ってもらいたい。
講義
「弟子の勝利」が「創価の勝利」
追伸にあたるお言葉です。門下一人一人を思いやられる深き御慈愛がしのばれます。門下の消息を尋ね、なおいっそう手紙を書きたいから、資料も送ってほしいと伝えられている。絶海の佐渡の地で、大聖人の大慈悲の精神闘争は止むことなく続いていたのです。
師匠はなんとありがたい存在か。
恩師の一分でも感じた者は、渾身の報恩行に尽くすべきです。
恩師、戸田先生の会長就任の直前となる昭和26年(1951)の4月の末、私は師弟勝利の証として「佐渡御書」を改めて拝しました。
日記にも綴りました。
「『佐渡御書』に曰く、
悪王の正法を破るに邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし例せば日蓮が如し、云云」
「日蓮御房は師匠におはせども余りにもこはし我等はやはらかに法華経を弘むべしと云んは蛍火が日月をわらひ蟻塚が華山を下し井江が河海をあなづり烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし、云云」
私にとって、「佐渡御書」とは、恩師とともに拝して逆境を乗り越えた「師弟勝利の御書」となりました。
私は誓いました。
師匠の構想の実現のためには、まず自分が頑張ることであり、自分が責任を持つことである、と。
そのために、まずは、わが地区の前進を決意し、家庭訪問に歩き、座談会を開き、折伏の大波を起こしていきました。
かけがえのない創価の「師弟」の世界を、我が地区から広げゆくなかにこそ、広布の未来の勝利があるからです。偉大な師弟の道を、師子王の心で語り抜いていく、一対一の正義の対話。ここに「佐渡御書」の実践があります。
わが「本門の弟子」たちが
創価三代の師弟に続くことを念じて。