滝泉寺大衆陳状 第三章(調状の誤りを諌める)
弘安2年(ʼ79)10月 58歳
又風聞の如くんば高僧等を崛請して蒙古国を調伏す云云、其の状を見聞するに去る元暦・承久の両帝・叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等検校長吏等の諸の真言師を請い向け内裏の紫宸殿にして咒咀し奉る故源右将軍並に故平右虎牙の日記なり、此の法を修するの仁は弱くして之を行えば必ず身を滅し強くして之を持てば定めて主を失うなり、然れば則ち安徳天皇は西海に沈没し叡山の明雲は流矢に当り後鳥羽法皇は夷島に放ち捨てられ東寺・御室は自ら高山に死し北嶺の座主は改易の恥辱に値う、現罰・眼に遮り後賢之を畏る聖人・山中の御悲みは是なり。
現代語訳
また、伝え聞くところによれは、諸宗の高僧等を請い招いて蒙古国をくだす祈禱をさせたとのことであるが、こうしたことについて種々見聞してみるのに、元暦の時の安徳天皇、承久の後鳥羽上皇が、比叡山の座主・東寺の長者・仁和寺の御室・南都の七大寺・園城寺の検校や長吏等の、いろいろな真言師を請い向けて、内裏の紫宸殿において源頼朝や北条泰時を咒咀されたことが、日記にある。この法を修する人は、自分だけで行なった場合でも、必ず身を滅し、強いて、必ず主君を失うことになるのである。
したがって安徳天皇は西海の壇ノ浦に沈んで亡くなり、比叡山の明雲座主は流れ矢に当たって死に、後鳥羽法皇は隠岐島に流されて捨てられ、御室の道助法親王は高野山で死に、北嶺の尊快座主は罷免されている。
これらの現罰は目をおおうほどであるので、後世の心ある人はこのことを恐れている。日蓮聖人が身延の山中で悲しまれているのはこのことである。
語句の解説
風聞
ほのかに聞くこと。うわさ。
高僧
身分の高い僧侶。
崛請
僧侶を請い招くこと。
調伏
仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
見聞
見たり、聞いたりすること。
元暦
日本の年号。1184~1185。
承久
日本の年号。1219~1222。この3年(1221)承久の乱が起こっている。
叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
座主
大寺の管長のこと。
東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
御室
第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。御書にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
七大寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
園城寺
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
検校
高野山・熊野・日光などの一山を統領する職名。
長吏
僧の職名であるが、園城寺や観修寺の寺主に用いられる。
真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
内裏
天皇の住む宮殿。御所。皇居。
紫宸殿
京都市上京区にある御所内裏の正殿のこと。
咒咀
神仏に祈り、うらみに思う相手をのろうこと。
源右将軍
(1147~1199)源 頼朝のこと。平安時代末期から鎌倉時代初期の武将、政治家であり、鎌倉幕府の初代征夷大将軍である。河内源氏の源義朝の三男として生まれる。父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で以仁王の令旨を受けると、北条時政、北条義時などの坂東武士らと平氏打倒の兵を挙げ、鎌倉を本拠として関東を制圧する。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。建久3年(1192)に征夷大将軍に任じられた。これにより朝廷から半ば独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれた。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は、北条義時の嫡流(得宗家)が鎌倉幕府の支配者となった。
平右虎牙
(1183~1242)北条 泰時のこと。鎌倉時代前期の武将。鎌倉幕府第2代執権・北条義時の長男。鎌倉幕府第3代執権。在職:貞応3年(1224~仁治3年(1242)。鎌倉幕府北条家の中興の祖として、御成敗式目を制定した人物で有名である。
安徳天皇
(1178~1185)。高倉天皇の第一皇子。諱は言仁。母は平清盛の息女徳子である。治承4年(1180)3歳で第81代の天皇に即位。源氏に追われる平氏に擁されて西海に落ち寿永4年(1185)壇ノ浦で入水。文治3年(1187年)安徳天皇とおくり名された。大聖人は平家は真言によって源氏調伏の祈りを行なったためわが身を滅ぼしたと真言亡国の例に引用されている。
西海
西方の海のこと。大聖人の御書のなかでは、壇ノ浦をさす場合が多い。
明雲
(~1183)。比叡山延暦寺第55・57代の座主で房号は慈雲。仁安2年(1167)座主となる。比叡山の末寺である加賀の鵜河寺で起きた事件に対し、朝廷に強訴したところ、後白河法皇の院勘を蒙り、伊豆に流されようとした。山僧はこれを叡山の恥辱として大津の途中で明雲を奪い取り、治承3年(1179)11月に再び座主となる。寿永2年(1183)、源義仲に頸を斬られた。年69歳。なお本章の死亡説の他、法皇の住居・法住寺殿に参籠していて、京外撤退を命ぜられ法皇を襲った義仲に頸を斬られたとか、流れ矢にあたったとかの説もある。なお本文に、「第五十代の座主」とあるがその意は不明。
後鳥羽法皇
(1180~1239)第82代後鳥羽天皇のこと。隠岐の法王とも呼ばれる。在位は1183~1198。高倉天皇の第四子。名は尊成。後白河法皇の死後親政を行い、1198年譲位後も、さらに土御門・順徳・仲恭の3代24年間、院政を行った。特に鎌倉幕府の圧力の排除に勤め、北面の武士のほかに西面の武士を置くなど、綱紀粛正、宮中の武力充実をはかった。承久3年(1219)年、将軍源頼朝の暗殺を見て、幕府の内紛を察し、倒幕の院宣をしだした。しかし幕府の結束は意外に固く、また、朝廷方は真言亡国の悪法に祈ったため、敗れて隠岐に流され、延応元年(1239)流罪地で没した。
夷島
都から遠く離れた島。
東寺・御室は自ら高山に死し
後鳥羽天皇の第二子である道助法親王が承久の乱ののち、高野山で死去したことを指す
北嶺の座主
比叡山延暦寺の座主。
改易
改めてかえること。職を解任すること。土地などを召し上げること。
現罰
表面に明らかにあらわれる罰。
後賢
後世の賢者。
聖人
①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。
講義
ここでは「又風聞の如くんば高僧等を崛請して蒙古国を調伏す云云」と、先の訴状の「真言の行人は」に関連して、より具体的に幕府と朝廷が真言宗の高僧らに蒙古調伏の祈禱を行わせている愚かさを指摘されている。この高僧らには、当時、天台宗と一体化していた天台宗の高僧も含まれてることはいうまでもない。
この問題に関しては「元暦」すなわち平氏滅亡時の安徳天皇の悲運と、「承久」すなわち後鳥羽上皇の事変という歴史上の事実を挙げられ、真言の秘法による祈りが、祈った者自身の破滅が招くことを指摘して「現罰・眼に遮り後賢之を畏る」と戒めている。現罰が明確なのであるから、後世の賢人はこれを「畏る」べきであるとの意である。そして「聖人・山中の御悲みは是なり」と日蓮大聖人御自身、身延の山中にあられても、このことを深く憂慮されているところであると結んでいる。