滝泉寺大衆陳状 第二章(諌暁を用いぬ為政者を責める)

 抑大覚世尊・遙に末法闘諍堅固の時を鑒み此くの如きの大難を対治す可きの秘術を説き置かせらるるの経文明明たり、然りと雖も如来の滅後二千二百二十余年の間・身毒・尸那・扶桑等・一閻浮提の内に未だ流布せず、随つて四依の大士内に鑒みて説かず天台伝教而も演べず時未だ至らざるの故なり、法華経に云く「後の五百歳の中に閻浮提に広宣流布す」云云、天台大師云く「後五百歳」妙楽云く「五五百歳」伝教大師云く「代を語れば則ち像の終り末の初め地を尋ぬれば唐の東・羯の西・人を原ぬれば則五濁の生・闘諍の時」云云、東勝西負の明文なり。
法主聖人・時を知り国を知り法を知り機を知り君の為民の為神の為仏の為災難を対治せらる可きの由・勘え申すと雖も御信用無きの上・剰さえ謗法人等の讒言に依つて聖人・頭に疵を負い左手を打ち折らるる上・両度まで遠流の責を蒙むり門弟等所所に射殺され切り殺され殺害・刃傷・禁獄・流罪・打擲・擯出・罵詈等の大難勝げて計う可からず、玆に因つて大日本国・皆法華経の大怨敵と成り万民悉く一闡提の人と為るの故に天神・国を捨て地神・所を辞し天下静ならざるの由・粗伝承するの間・其の仁に非ずと雖も愚案を顧みず言上せしむる所なり、外経に云く「奸人朝に在れば賢者進まず」云云、内経に云く「法を壊る者を見て責めざる者は仏法の中の怨なり」云云。

 

現代語訳

そもそも釈尊は、遠く未来末法は争いに明け暮れる時代を見通され、このような大難を対治する秘術を説き置かれた。経文は明らかである。しかし、仏が入滅されてから二千二百二十余年の間、インド・中国・日本・世界中において、その教えはまだひろまっていない。従って、正法時代の竜樹・天親等の四依の菩薩も、内心には深く悟ってはいたものの、説き出すことはせず、像法時代の天台大師や伝教大師も述べなかった。それは、まだ時がきていなかったからである。法華経薬王菩薩本事品第二十三には「仏滅後五つの五百年に世界中に広宣流布して」とある。天台大師は「後の五百年に妙法が広まり、遠く未来までうるおすであろう」といい、妙楽大師も「五五百歳」と言い、伝教大師は「法華経流布の時代は像法の終わり・末法の初めであり、その地は中国の東・カムチャッカの西である日本であり、その時の衆生は五濁の盛んな衆生であり、人々が互いに争い合う時である」とある。これらは東の日本が勝ち西の蒙古が負けることを示した明らかな文である。

法主・日蓮聖人は、広まるべき時を知り、広まるべき国を知り、広まるべき法を知り、衆生の機根を知って、君主の為・民の為・神の為・仏の為に、災難を対治すべき方法を考え、申し述べたけれども、信じ用いないばかりか、法華経を誹謗する人たちの中傷や悪口によって、頭に傷を受け、左手を打ち折られたうえ、伊豆・佐渡と二度まで遠流の刑に処せられ、門下の各地の弟子等は、射殺されたり、切り殺されたり、殺害や刃傷・牢に囚われること・流罪・打たれ叩かれたこと・所を追い出されること・悪口等の大難は数え上げることができないほど多い。

こうしたことによって大日本国全体が法華経の大怨敵となり、すべての人々は皆、成仏の機縁のない謗法の人となったので、この国と衆生を守護すべき天の神は国を捨て、地の神もこの地を去って、天下が安穏でなくなったのである。この旨を日蓮聖人から伝え承わっているので、その器ではないけれども、愚かな考えであることを恐れつつも、申し上げる次第である。外経に「悪人が権力の中枢にいれば、賢人は前に進み出てこないようなものである」とあり、仏経典には「正法を壊る者を見ながら、責めない者は、仏法のなかにおいて怨となる」とある。

語句の解説

大覚世尊

仏、釈尊の別称。大覚は仏の悟り、世尊は仏の十号の一つで、万徳を具えており、世間から尊ばれるので世尊という。

 

末法

正像末の三時の一つ。衆生が三毒強盛の故に証果が得られない時代。釈迦仏法においては、滅後2000年以降をいう。

 

闘諍堅固

大集経巻55で、釈尊滅後の時代を500年ごと五期に区切って、仏法流布の時代的推移を明かしたものの第五。仏の教えの中の論争が絶えず、正法が見失われてしまう時代。

 

秘術

人に知られないやり方。意図的な場合とそうでない場合がある。

 

如来

①「如々として来る」と訳す。仏のこと。②過来・如来・未来のなかの如来。瞬間瞬間の生命。

 

滅後

仏が入滅したあと。

 

身毒

漢代以降の中国でインドのことを、身毒・天竺等という。

 

尸那

外国人が中国を指して呼んだ名。尸那は中国の王朝名である秦がなまって伝えられ、それが漢訳されたといわれる。インドではチーナとよばれていた。

 

扶桑

日本の国の別称。もとは中国の書にあり、のちに日本書紀などでも用いている。呂氏春秋には「東は扶木に至る」と述べ、淮南子には「東、日出の次、榑木の地、青土樹木の野に至る」と、日本書紀には「天下無為、扶桑の域仁に帰す」とある。

 

一閻浮提

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。

 

流布

広く世に広まること。

 

四依の大士

仏滅後正法時代に正法を護持し弘通した人々のよりどころとなる四種の人格のこと。人の四依・四依の賢聖・四依の聖人・四依の菩薩・四依の論師ともいう。

 

内に鑒みて

内鑒冷然のこと。心の中では充分知っているが、外に向かっては言いださないこと。

 

天台伝教而も演べず

天台や伝教は一念三千の文底秘沈の大法を知ってはいたが、外に向かっては説いていなかったこと。

 

天台

(0538~0597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

 

伝教

(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。伝教大師は諡号。通称は根本大師・山家大師ともいう。俗名は三津首広野。父は三津首百枝。先祖は後漢の孝献帝の子孫、登萬貴で、応神天皇の時代に日本に帰化した。神護景雲元年(0767)近江(滋賀県)に生まれ、幼時より聡明で、12歳のとき近江国分寺の行表のもとに出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)、天台法華宗還学生として義真を連れて入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」3巻、「顕戒論」3巻、「守護国界章」9巻、「山家学生式」等がある。

 

時未だ至らざるの故

天台・伝教の時代は三大秘法が広宣流布する末法の時代に至っていなかったということ。

 

後の五百歳

法華経薬王品第二十三にある。天台はこれを大集経の五五百歳と対照し、第五の五百歳であるとした。末法の初めであり、闘諍堅固の時。大集経第五十五に「我が滅後に於て五百年中は、諸の比丘等、猶我が法に於いて解脱堅固なり。次の五百年は、我が正法の禅定三昧堅固に住するを得るなり。次の五百年は、読誦多聞堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて多くの塔寺を造りて堅固に住するを得るなり。次の五百年は、我が法中に於いて闘諍言訟し白法隠没し損減して堅固なり」と定めている。

 

大師

①大導師のこと。②仏・菩薩の尊称。③朝廷より高徳の僧に与えられた号。仏教が中国に伝来してから人師のなかで威徳の勝れたものに対して、皇帝より諡号として贈られるようになった。智顗が秦王広から大師号が贈られ、天台大師と号したのはこの例で、日本人では最澄が伝教大師・円仁が慈覚大師号を勅賜されている。

 

妙楽

(0711~0782)。中国唐代の人。諱は湛然。天台宗の第九祖、天台大師より六世の法孫で、大いに天台の教義を宣揚し、中興の祖といわれた。行年72歳。著書には天台三大部を釈した法華文句記、法華玄義釈籖、摩訶止観輔行伝弘決等がある。

 

五五百歳

釈尊滅後の時代を500年ごと5つに区切って、仏法流布の時代的推移を説き明かした中の第5番目。この時代は、仏法者が互いに自宗に執着して他人と争い、釈尊の正しい仏法が隠没する時代でありこれを「闘諍言訟・白法隠没」という。また、この時代は末法の正法たる日蓮大聖人の仏法がおこる時代でもある。

 

像の終り末の初め

像法の終わりで末法の初めであるということ。釈迦仏法でいうと滅後2000年前後をいい、平安中期。

 

(0618~0907)中国の王朝である。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には、中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国で、朝鮮半島や渤海、日本などに、政制・文化などの面で多大な影響を与えた。日本の場合は遣唐使などを送り、寛平6年(0894))に菅原道真の意見で停止されるまで、積極的に交流を続けた。首都は長安に置かれた。690年に唐王朝は廃されて武周王朝が建てられたが、705年に武則天が失脚して唐が復活したことにより、この時代も唐の歴史に含めて叙述することが通例である。

 

6世紀半ばから7世紀にかけて、中国東北部に住んでいたツンダース一族の地。当時は日本の東に位置していると考えられていた。カムチャッカを指す場合もある。

 

五濁の生

五濁悪世の末法に生を受けること。またその人。五濁とは生命の濁りの諸相を五種に分類したもの。劫濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁のこと。

 

闘諍の時

戦い争うこと。大集経には「闘諍言訟して白法隠没せん」とあり、末法の初めの500年を指している。釈尊の仏法のなかにおいて争いが絶えず起こり、正しい教えが隠没する時代である。

 

東勝西負の明文

東が勝ち、西が負けるということ。

 

時を知り国を知り法を知り機を知り

仏法を弘めるには、宗教の五綱によらねばならないということ。五綱は五義ともいう。日蓮大聖人が定められた、仏法を広めるにあたって心得るべき五つの規範。「教」「機」「時」「国」「教法流布の先後」の五つをいう。「教機時国抄」「顕謗法抄」で具体的に明かされている。大聖人は五義について「此の五義を知って仏法を弘めば日本国の国師と成る可きか」「行者仏法を弘むる用心を明さば、夫れ仏法をひろめんと・をもはんものは必ず五義を存して正法をひろむべし」と仰せである。①教を知る。一切の宗教・思想、なかんずく仏教の教えについて、その内容の正邪・浅深・優劣を判別し、どの教えが最高の教えであるかを知ること。②機を知る。機は人々の仏教を信じ理解する能力。人々がどのような教えを求め、どの法によって教化される衆生であるかを知ること。③時を知る。現在がいかなる時であるかを知り、その時にどの法を広めるべきかを知っていること。④国を知る。それぞれの国や社会、地域によって異なる自然的、文化的状況の相違に応じて弘教の方法を考え、教えを展開していくこと。⑤教法流布の先後を知る。先に広まった教えを知って、後に広めるべき教えを知ること。後に広める教えは、先に広まった教えよりも優れた教えでなければならない。

 

君の為臣の為神の為仏の為

日蓮大聖人が立正安国論を上呈されたのは、①君の為、天皇のため。②臣の為、一切衆生のため。③神の為、日本の守護神のため、④仏の為で、決して私欲のためではないとの意。

 

謗法人

謗正法の人。正しく仏法を理解せず、正法を謗って信受しないこと。正法を憎み、人に誤った法を説いて正法を捨てさせる人。

 

讒言

告げ口・悪口をいうこと。

 

頭に疵を負い左手を打ち折らる

小松原法難のこと。文永元年(1264)11月11日、安房を訪問されていたが、壇越の工藤吉隆の招待を受け、大聖人は華房(はなぶさ)に向かわれた。その途中の東条郷(千葉県鴨川市)の小松原で東条景信に要撃され、前頭部に刀傷を受けられ、左腕を骨折された。

 

両度まで遠流の責を蒙むり

伊豆流罪と佐渡流罪のこと。①伊豆流罪、弘長元年(1261)5月12日~弘長3年(1263)2月22日まで。大聖人が文応元年(1260)7月16日、立正安国を北条時頼に上呈されたがそれから40日あまりの後の8月27日の夜半、暴徒は松葉ケ谷の草庵を襲撃した。大聖人は幸い難を逃れ、一時鎌倉を離れて下総若宮の富木邸に身を寄せられたが、弘長元年(1261)鎌倉に戻られたところを幕府は逮捕し伊豆の伊東に流罪したのである。②佐渡流罪、文永8年(1271)9月12日、大聖人は平左衛門尉頼綱に捕えられ、同深夜、鎌倉の外れ竜口で斬首の刑にあおうとした。しかし夜空に輝く〝光り物〟が現われて、恐れた平左衛門尉らは斬首を果たせず、そのまま依知を経由して大聖人を佐渡に流罪したのである。流罪期間は文永8年(1271)10月10日~文永11年(1274)3月25日まで。種種御振舞御書にくわしい。

 

門弟等所所に射殺され切り殺され

小松原法難と熱原法難のこと。①小松原法難、文永元年(1264年)11月11日、日蓮大聖人が安房国東条郡(千葉県鴨川市)天津に住む門下、工藤氏の邸宅へ向かう途中、東条の松原大路で、地頭・東条景信の軍勢に襲撃された法難。東条松原の法難とも呼ばれる。門下が死亡し、大聖人御自身も額に傷を負い、左手を折られた。その時の模様は「南条兵衛七郎殿御書」(1498㌻)に記されている。②熱原法難、建治元年(1275年)ごろから弘安6年(1283年)ごろにわたって、駿河国富士下方の熱原地域(静岡県富士市厚原)で日蓮大聖人門下が受けた法難。大聖人が身延に入られた後の建治年間、この駿河方面では、日興上人が中心となって弘教を進めており、教勢が拡大していた。当時、駿河国は、執権の北条氏一族が国守・守護を務め、特に富士地方には北条重時の娘で時頼の夫人にして時宗の母である「後家尼御前」の御内が多く、その影響力が大きかった。熱原・滝泉寺の院主代である行智は、そうした北条氏一族の権威をかさにきて数々の悪行を重ねていた。その中で行智は、同寺に在住している僧で大聖人に帰依した日秀・日弁らと同地域の信徒を激しく迫害した。弘安2年(1279年)には、富士下方の政所(荘園を治める家政機関)の代官にはたらきかけて、4月8日の大宮浅間神社の祭礼の時に信徒の四郎男(四郎の息子)を傷害し、8月には弥四郎男(弥四郎の息子)を斬首し、その罪を大聖人門下に着せようとした。さらに9月21日には、稲刈りをしていた熱原の農民信徒20人が、刈田狼藉との無実の罪を着せられて不当逮捕され、鎌倉に護送された。行智は虚偽の訴状をつくり、「日秀らが9月21日に多数の人を集めて弓矢をもって院主分の坊内に乱入し、農作物を刈り取って日秀の住坊に取り入れた」などと、自ら訴人となって訴訟を起こした。裁判に向けて作成された日秀・日弁らによる弁明書案(「滝泉寺申状」について、大聖人は自ら前半を執筆、後半を加筆・訂正して、応援された。農民信徒たちに対する取り調べは、平左衛門尉頼綱が自ら私邸で行った。拷問に等しい尋問の中で、信徒たちは信仰を捨てて念仏をとなえるよう強要されたが、一人も退転する者はいなかった。ついには神四郎ら3人が斬首され殉教し、残りの17人も追放という処分を受けた。大聖人は、権力による不当な迫害に屈せず不惜身命の信心を貫く熱原の信徒の姿について「偏に只事に非ず」と仰せになり、「法華経の行者」とたたえられている。そして、この法難で三大秘法の南無妙法蓮華経を受持して不惜身命の実践で広宣流布する民衆が出現したことを機に、大聖人は「聖人御難事」を著され、「出世の本懐」を遂げられたと仰せになっている。

 

門弟

弟子・門人・門下生。

 

刃傷

刀を持って切りつけること。

 

禁獄

牢獄に閉じ込めること。

 

流罪

罪人を遠隔地に送って移転を禁ずること。律によって定められた五刑のひとつ。鎌倉幕府の法律である御成敗式目の第12条には「右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは召籠めらるべきなり」とある。

 

打擲

打ったり、たたいたりすること。打ちすえること。文永元年(1264)11月11日の小松原の法難の時、日蓮大聖人は額に傷をうけ、手を打ち折られている。また、竜口の法難の折り、大聖人を捕えにきた少輔房によって、法華経第五の巻で頭を打たれている。

 

擯出

人をしりぞけ、遠ざけること。住所を追い出すことをいう。

 

罵詈

誹謗し謗ること。

 

大怨敵

邪法をもって仏や正法を持つものを迫害する敵人

 

万民

すべての人々。

 

一闡提

梵語イッチャンティカ(Icchantika)の音写。一闡底迦とも書き、断善根・信不具足と訳す。仏の正法を信ぜず、成仏する機縁をもたない衆生のこと。

 

天神

①天界の衆生。②梵天・帝釈・日月天等。

 

地神

大地をつかさどる神のこと。地祇、地天ともいう。仏教では守護神とされ、釈尊が降魔成道の時、地中から現れ出でて、その証明をし、また転法輪を諸天に告げたりしたと伝えられる。

 

所を辞し

現在いるところから去ること。

 

伝承

①伝え聞くこと。②伝え受け取ること。

 

其の仁に非ず

その器ではないが、との意。

 

愚案

自分の意見をさげすんでいう言葉。

 

奸人

心のねじけた人。

 

①権力の中枢。②日本国。

 

賢者進まず

賢人が自ら前に出て働こうとしないこと。

 

仏法

①仏の説いた教法。八万四千の法門・法蔵があるといわれる。②仏が証得した法③仏が知っている法。

講義

初めに「大難を対治す可きの秘術」は、釈尊が経文に「明明」と説かれておかれたが、これは正像末弘の大法であり、末法に初めて広められていることを述べられている。この「秘術」こそ日蓮大聖人が広めておられる三大秘法の南無妙法蓮華経であることはいうまでもない。

従って「法主聖人」は、時と国と法と機などの条件を見抜いて、「君の為・民の為」すなわち社会の平和と人々の幸せのため「神の為・仏の為」すなわち仏法の興隆のために説き始められたのであるが、日本国の指導者たちはこれを用いないのみか、かえって正法誹謗の輩の告げ口に踊らされて、大聖人および門下に数々の迫害を加え、一国挙げて謗法の国となってしまった。そのため、日本の国を守るべき天神・地神共に去ったことによって、天下はすっかり乱れてしまったと記されている。

以上は、まさに、日蓮大聖人のこれまでの御振る舞いと、それに対する幕府権力・諸宗の対応の不当性を明確にされたもので、大聖人御自身以外には、これだけ簡潔でありながら本質をとらえて示すことは、だれにもできなかったであろうと思われる。

従って、次に「の由・粗伝承する」と、入信してまだ日の浅い日秀・日弁らの立場で「このように伺っている」とされたうえで「伝承するの間・其の仁に非ずと雖も愚案を顧みず言上せしむる所なり」と、これをそのまま、大聖人の弟子としての日秀・日弁らの意見陳述にされている。日秀らにしてみれば、大聖人のこれまでの御振る舞いや幕府の対応を自分の眼で見たわけではないが、大聖人の弟子となって、そのように聞いているのであるから、その伝え聞いている内容とおりに自分たちも、それを改めて訴えると言っているわけである。

そして、自分たちが、このように幕府当局に対して、恐れることなく、意見を開陳する理由として、外経と内経の文を一つずつ挙げられている。この「外経」の出典は不明であるが、日蓮大聖人を亡き者にしようとして亡国の邪義を言い触らす奸人が権力の中枢を毒している当時の現実を言い当てた文になっている。「内典」は、この場合、涅槃経で、正法がないがしろにされている現実を知りながら黙っているわけにはいかないという決意の根拠の文となっている。

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