滝泉寺大衆陳状 第一章(行智の訴えに反論し正義を示す)

 駿河国富士下方滝泉寺の大衆、越後房日弁・下野房日秀等、謹んで弁言す。
 当寺院主代・平左近入道行智、条々の自科を塞がんがために遮って不実の濫訴を致すの謂れ無きこと。
 訴状に云わく「日秀・日弁、日蓮房の弟子と号し、法華経より外の余経あるいは真言の行人は、皆もって今世・後世叶うべからざるの由、これを申す」云々〈取意〉。
 この条は、日弁等の本師・日蓮聖人、去ぬる正嘉以来の大仏星・大地動等を観見し、一切経を勘えて云わく「当時日本国の為体、権小に執著し実経を失没せるの故に、当に前代にいまだ有らざるの二難起こるべし。いわゆる自界叛逆難・他国侵逼難なり」。よって、治国の故を思い、兼日、彼の大災難を対治せらるべきの由、去ぬる文応年中、一巻の書〈立正安国論と号す〉を上表す。勘え申すところ、皆もって符合す。既に金口の未来記に同じ。あたかも声と響きとのごとし。
 外書に云わく「未萌を知るは聖人なり」。内典に云わく「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を知る」云々。これをもってこれを思うに、本師はあに聖人にあらずや。巧匠内に在り。国宝外に求むべからず。外書に云わく「隣国に聖人有るは敵国の憂いなり」云々。内経に云わく「国に聖人有れば、天必ず守護す」云々。外書に云わく「世に必ず聖智の君有り。しかしてまた賢明の臣有り」云々。この本文を見るに、聖人の国に在るは、日本国の大喜にして、蒙古国の大憂なり。諸竜を駆り催して敵舟を海に沈め、梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取らん。君既に賢人に在さば、あに、聖人を用いずして、いたずらに他国の逼めを憂えん。

 

 

現代語訳

駿河の国・富士郡下方荘滝泉寺の大衆僧、越後房日弁・下野房日秀等、謹んで申し上げる。

当滝泉寺の院主代である平左近入道行智が数々の自ら犯した罪を覆い隠し、明らかになることを防ごうとして、罪をでっちあげて訴えを起こしたことは、全く不当なことである。

訴えの状には、日秀や日弁が日蓮房の弟子と名乗って、法華経以外の経、また真言を修行する人は皆、現世において何の功徳もなく、後世においても成仏することはできないといっている、と大要このようにある。

このことは、日弁等が根本の師匠と仰いでいる日蓮聖人が、去る正嘉の年以来起こっている大彗星、大地震等を見て一切経を調べて、今の日本国の様子を考えるに、権経や小乗教に執著し、実経である法華経をないがしろにしているため、まさに前代未有の二難が起きることは間違いない。その二難とは、いわゆる自界叛逆難と他国侵逼難である。そこで国を安穏に治めるため、必ず起こってくるであろう大災難を対治すべきであるとして、去る文応年中に、「立正安国論」と名付けて一巻の書を幕府にたてまつった。そのなかで思索し指摘したことは皆、符合したのである。まさしく仏が未来について記した教えと同じで、あたかも声と響きとが合致しているようなものである。外書には「未来の出来事をを知るのは聖人である」とあり、仏教の経論には「智人は物事の因を知り、蛇は、自ら蛇の本質を知っている」とある。これらの文をもって、立正安国論の予言が的中したことを考え合わせると、我らの本師は、聖人ではなかろうか。立派な人がこの国のなかにいるのであり、国の宝は外に求める必要はない。外書に「隣の国に立派な人がいるのは、敵である国にとって憂慮すべきことである」とあり、仏教の経論には「国に聖人がいれば、諸天善神が必ず守る」とある。外典に「世に立派な智慧ある主君がいれば、また賢明な臣下がいるものである」とある。この文を見ると、聖人が国にいることは日本国にとって大きな喜びであり、蒙古国にとっては大きな憂いである。諸の竜を動かして敵の舟を海に沈め、大梵天王・帝釈天皇に命令して蒙古の王を捕らえられるであろう。主君が賢人であられるなら、どうして聖人を用いずして、むだに蒙古国の侵略を憂えることがあろうか。

語句の解説

駿河の国

東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。

 

富士下方

静岡県富士市の一部。熱原郷のあった地域。

 

滝泉寺

静岡県富士市厚原(熱原)にあった天台宗の寺院。熱原法難の震源地である。

 

大衆

①多数の僧のこと。主に小乗教でいう。②仏が説法する会座に連なり、その説法を聴聞する衆。③仏道を修める僧。学生と同意。④一般民衆のこと。

 

越後房日弁

12391311)日蓮大聖人の門下で、日興上人の直弟子・越後坊日弁のこと。越後阿闍梨と称す。甲斐国東郷(山梨県山梨市牧岡町か?)の人で、富士郡下方荘熱原郷市庭寺(静岡県富士市伝法)の天台宗の寺院・滝泉寺の僧であったが、日興上人の富士弘教により、日秀・日禅らと共に改宗した。その後、滝泉寺にとどまり近郷を化導していたので、院主代・行智の迫害を受け、ここが熱原法難の因となった。この時、日秀と共に行智の不法を訴えたのが滝泉寺申状である。後に下総の日頂のもとに移った。富木殿女房尼御前御書には「さてはえち後房しもつけ房と申す僧を・いよどのにつけて候ぞ、しばらく・ふびんに・あたらせ給へと・とき殿には申させ給へ」(0990-04)と述べられている。その後日弁は上総・奥州地方まで布教したと伝えられているが、日興上人の弟子分帳には「背き了んぬ」とあることから、滅後の弘安年中には退転しているようである。晩年には富士に帰したともあるが明瞭ではない。

 

下野房日秀

(~1329)日興上人が定めた本六のひとり。竜泉寺の住僧で、日興上人の弘教により大聖人門下となった。その後近郷の農民たちを化導したため、院主代・行智によって迫害され、この迫害は農民信徒にも及び、熱原法難に発展している。滅後は日興上人に帰依し大石寺創建時には理境坊を建てている。

 

弁言

①申し立てること。②弁明すること。③書状などのはじめにある言葉。

 

院主代

院主にかわって寺務を行う者。

 

平左近入道行智

日蓮大聖人御在世当時、駿河国富士郡下方荘熱原市庭寺にあった滝泉寺の院主代。熱原法難当時、院主は空席であったため、事実上の院主ともいえる。北条氏の一族で、寺の財産を私有化したりなどして悪行の限りを尽くしている。

 

不実

事実・真実でないこと。誠実でないこと。

 

濫訴

むやみにわけもなく訴えること。

 

訴状

訴えの趣旨を記載した文章。

 

弟子

師匠に従って教えを受け、師匠の意思を受け継いで実践し、それを伝える者。

 

法華経

大乗経典。サンスクリットではサッダルマプンダリーカスートラという。サンスクリット原典の諸本、チベット語訳の他、漢訳に竺法護訳の正法華経(286年訳出)、鳩摩羅什訳の妙法蓮華経(406年訳出)、闍那崛多・達摩笈多共訳の添品妙法蓮華経(601年訳出)の3種があるが、妙法蓮華経がもっとも広く用いられており、一般に法華経といえば妙法蓮華経をさす。経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。それまでの小乗・大乗の対立を止揚・統一する内容をもち、万人成仏を教える法華経を説くことが諸仏の出世の本懐(この世に出現した目的)であり、過去・現在・未来の諸経典の中で最高の経典であることを強調している。インドの竜樹(ナーガールジュナ)や世親(天親、ヴァスバンドゥ)も法華経を高く評価した。すなわち竜樹に帰せられている『大智度論』の中で法華経の思想を紹介し、世親は『法華論(妙法蓮華経憂波提舎)』を著して法華経を宣揚した。中国の天台大師智顗・妙楽大師湛然、日本の伝教大師最澄は、法華経に対する注釈書を著して、諸経典の中で法華経が卓越していることを明らかにするとともに、法華経に基づく仏法の実践を広めた。法華経は大乗経典を代表する経典として、中国・朝鮮・日本などの大乗仏教圏で支配階層から民衆まで広く信仰され、文学・建築・彫刻・絵画・工芸などの諸文化に大きな影響を与えた。

【法華経の構成と内容】妙法蓮華経は28品(章)から成る(羅什訳は27品で、後に提婆達多品が加えられた)。天台大師は前半14品を迹門、後半14品を本門と分け、法華経全体を統一的に解釈した。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。後半の本門の中心思想は「久遠の本仏」である。すなわち、釈尊が五百塵点劫の久遠の昔に実は成仏していたと明かす「開近顕遠」の法理である。また、本門冒頭の従地涌出品第15で登場した地涌の菩薩に釈尊滅後の弘通を付嘱することが本門の眼目となっている。如来寿量品第16で、釈尊は今世で初めて成道したのではなく、その本地は五百塵点劫という久遠の昔に成道した仏であるとし、五百塵点劫以来、娑婆世界において衆生を教化してきたと説く。また、成道までは菩薩行を行じていたとし、しかもその仏になって以後も菩薩としての寿命は続いていると説く。すなわち、釈尊は今世で生じ滅することのない永遠の存在であるとし、その久遠の釈迦仏が衆生教化のために種々の姿をとってきたと明かし、一切諸仏を統合する本仏であることを示す。迹門は九界即仏界を示すのに対して本門は仏界即九界を示す。また迹門は法の普遍性を説くのに対し、本門は仏(人)の普遍性を示している。このように迹門と本門は統一的な構成をとっていると見ることができる。しかし、五百塵点劫に成道した釈尊(久遠実成の釈尊という)も、それまで菩薩であった存在が修行の結果、五百塵点劫という一定の時点に成仏したという有始性の制約を免れず、無始無終の真の根源仏とはなっていない。寿量品は五百塵点劫の成道を説くことによって久遠実成の釈尊が師とした根源の妙法(および妙法と一体の根源仏)を示唆したのである。さらに法華経の重大な要素は、この経典が未来の弘通を予言する性格を強くもっていることである。その性格はすでに迹門において法師品第10以後に、釈尊滅後の弘通を弟子たちにうながしていくという内容に表れているが、それがより鮮明になるのは、本門冒頭の従地涌出品第15において、滅後弘通の担い手として地涌の大菩薩が出現することである。また未来を指し示す性格は、常不軽菩薩品第20で逆化(逆縁によって教化すること)という未来の弘通の在り方が不軽菩薩の振る舞いを通して示されるところにも表れている。そして法華経の予言性は、如来神力品第21において釈尊が地涌の菩薩の上首・上行菩薩に滅後弘通の使命を付嘱する「結要付嘱」が説かれることで頂点に達する。この上行菩薩への付嘱は、衆生を化導する教主が現在の釈尊から未来の上行菩薩へと交代することを意味している。未来弘通の使命の付与は、結要付属が主要なものであり、次の嘱累品第22の付嘱は付加的なものである。この嘱累品で法華経の主要な内容は終了する。薬王菩薩本事品第23から普賢菩薩勧発品第28までは、薬王菩薩・妙音菩薩・観音菩薩・普賢菩薩・陀羅尼など、法華経が成立した当時、すでに流布していた信仰形態を法華経の一乗思想の中に位置づけ包摂する趣旨になっている。

【日蓮大聖人と法華経】日蓮大聖人は、法華経をその教説の通りに修行する者として、御自身のことを「法華経の行者」「如説修行の行者」などと言われている。法華経には、釈尊の滅後において法華経を信じ行じ広めていく者に対しては、さまざまな迫害が加えられることが予言されている。法師品第10には「法華経を説く時には釈尊の在世であっても、なお怨嫉が多い。まして滅後の時代となれば、釈尊在世のとき以上の怨嫉がある(如来現在猶多怨嫉。況滅度後)」(法華経362㌻)と説き、また勧持品第13には悪世末法の時代に法華経を広める者に対して俗衆・道門・僭聖の3種の増上慢(三類の強敵)による迫害が盛んに起こっても法華経を弘通するという菩薩の誓いが説かれている。さらに常不軽菩薩品第20には、威音王仏の像法時代に、不軽菩薩が杖木瓦石の難を忍びながら法華経を広め、逆縁の人々をも救ったことが説かれている。大聖人はこれらの経文通りの大難に遭われた。特に文応元年(1260年)7月の「立正安国論」で時の最高権力者を諫められて以後は松葉ケ谷の法難、伊豆流罪、さらに小松原の法難、竜の口の法難・佐渡流罪など、命に及ぶ迫害の連続の御生涯であった。大聖人は、このように法華経を広めたために難に遭われたことが、経文に示されている予言にことごとく符合することから「日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし」(「撰時抄」、0284:08)、「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり」(0266:11)と述べられている。ただし「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(「上野殿御返事」、1546:11)、「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(「種種御振舞御書」、0910:17)と仰せのように、大聖人は、それまで誰人も広めることのなかった法華経の文底に秘められた肝心である三大秘法の南無妙法蓮華経を説き広められた。そこに、大聖人が末法の教主であられるゆえんがある。法華経の寿量品では、釈尊が五百塵点劫の久遠に成道したことが明かされているが、いかなる法を修行して成仏したかについては明かされていない。法華経の文上に明かされなかった一切衆生成仏の根源の一法、すなわち仏種を、大聖人は南無妙法蓮華経として明かされたのである。

【三種の法華経】法華経には、釈尊の説いた28品の法華経だけではなく、日月灯明仏や大通智勝仏、威音王仏が説いた法華経のことが述べられる。成仏のための極理は一つであるが、説かれた教えには種々の違いがある。しかし、いずれも一切衆生の真の幸福と安楽のために、それぞれの時代に仏が自ら覚知した成仏の法を説き示したものである。それは、すべて法華経である。戸田先生は、正法・像法・末法という三時においてそれぞれの法華経があるとし、正法時代の法華経は釈尊の28品の法華経、像法時代の法華経は天台大師の『摩訶止観』、末法の法華経は日蓮大聖人が示された南無妙法蓮華経であるとし、これらを合わせて「三種の法華経」と呼んだ。

 

余経

法華経以外の経。

 

真言

真言宗のこと。三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗・真言陀羅尼宗ともいう。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法(空海)と相承して付法の八祖とし、大日・金剛薩埵を除き善無畏・一行の二師を加え伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経とし、両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。中国においては、善無畏三蔵が唐の開元4年(0716)にインドから渡り、大日経を訳し弘めたことから始まる。金剛智三蔵・不空三蔵を含めた三三蔵が中国における真言宗の祖といわれる。日本においては、弘法大師空海が入唐して真言密教を将来して開宗した。顕密二教判を立て、自宗を大日法身が自受法楽のために内証秘法の境界を説き示した真実の秘法である密教とし、他宗を応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。空海は十住心論のなかで、真言宗が最も勝れ、法華経はそれに比べて三重の劣であるとしている。空海の真言宗を東密(東寺の密教)といい、慈覚・智証によって天台宗に取り入れられた密教を台密という。

 

行人

行者・修行する人。

 

後世

未来世のこと。後生ともいう。

 

取意

文を省略して大意を示すこと。

 

本師

①本従の師。衆生が師と仰ぐべき本来有縁にして、生々世々に従って教えを受けてきた仏。閻浮提の衆生の本師は釈尊であり、末法においては久遠元初の自受用法身如来である。②本来、主として教えを受けてきた師匠。

 

聖人

①日蓮大聖人のこと。②仏のこと。③智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。

 

大彗星

ほうき星のこと。中国、日本では古来から妖星とされ、彗星の出現は凶兆とみなされた。とくに兵乱の凶瑞とされる。ここでは、文永元年(1264)に出現した大長星をさすか。これは同年の626日に、東北の空に大彗星があらわれ、7月4日に再び輝きはじめて8月にはいっても光りが衰えなかった。このため、国中が大騒ぎし、彗星を攘う祈りが盛んに修された。安国論御勘由来(0034)に「又其の後文永元年甲子七月五日彗星東方に出で余光大体一国土に及ぶ、此れ又世始まりてより已来無き所の凶瑞なり内外典の学者も其の凶瑞の根源を知らず」とある。

 

大地動

大地震のこと。正嘉元年(1257827日、午後9時ごろ鎌倉地方に大地震があったとの記録がある。

 

観見

観察・観照すること。

 

一切経

釈尊が一代五十年間に説いた一切の経のこと。一代蔵経、大蔵経ともいう。また仏教の経・律・論の三蔵を含む経典および論釈の総称としても使われる。古くは仏典を三蔵と称したが、後に三蔵の分類に入りきれない経典・論釈がでてきたため一切経・大蔵経と称するようになった。

 

権小

釈尊50年説法中、前42年の方便権教の大乗教と小乗教。

 

執著

あるものに深く思い込んで離れないこと。執心して思い切れないこと。

 

実経

真実の法・教えのこと。仏が自らの悟りをそのまま説いた経。権教に対する語で、法華経をさす。

 

失没

失うこと。

 

前代未有

今までに存在しないこと。

 

自界叛逆難

仲間同士の争い、同士討ちをいう。一国が幾つかの勢力に分かれて相争うこと。一政党の派閥、家庭内で、互いに憎みあうこと。現代においては、同じ地球共同体である国家と国家の対立も、自界叛逆難である。金光明経に「一切の人衆皆善心無く唯繋縛殺害瞋諍のみ有つて互に相讒諂し枉げて辜無きに及ばん」大集経に「十不善業の道・貪瞋癡倍増して衆生父母に於ける之を観ること獐鹿の如くならん」とあるように、民衆の生命の濁り、貧瞋癡の三毒が盛んになることから自界叛逆難は起こる。また、更にその根源は仁王経に「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る」とあるように、鬼神、すなわち思想の混乱が、全体の利益、繁栄しようとする統一を阻害し、いたずらに私欲、小利益に執着させ、利害が衝突し、争いが起こるのである。

 

他国侵逼難

他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも 皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも 人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。

 

治国

国を治めること。

 

兼日

「かねて」と読む。

 

彼の大災難

日蓮大聖人が立正安国論で予言された自界叛逆難と他国侵逼難。

 

対治

①智慧によって煩悩を滅すること。②害をなすものを打ち破ること。

 

上表

主君に書を書き奉ること。

 

立正安国論

文応元年(1260716日、日蓮大聖人が39歳の時、当時の最高権力者であった北条時頼に与えられた第一回の諌暁の書。客と主人の問答形式で109答から成っている。当時、相次いで起こった災難の由来を明かし、その原因である謗法の諸宗の信仰を捨てて正法に帰依すべきことを主張され、その通りにしなければ、自界叛逆・他国侵逼の二難が競い起こるであろうと予言されている。

 

未来記

仏が未来のことを前々に記したもの。予言書、事前の出来事を書き付けた文章。

 

外書

仏教以外の外道の転籍。

 

未萠を知るは聖人なり

三沢抄には「聖人は未萠を知ると申して三世の中に未来の事を知るを・まことの聖人とは申すなり」(1488:09)聖人知三世事「聖人と申すは委細に三世を知るを聖人と云う、儒家の三皇・五帝並びに三聖は但現在を知つて過・未を知らず外道は過去八万・未来八万を知る一分の聖人なり、小乗の二乗は過去・未来の因果を知る外道に勝れたる聖人なり、小乗の菩薩は過去三僧祇菩薩、通教の菩薩は過去に動踰塵劫を経歴せり、別教の菩薩は一一の位の中に多倶低劫の過去を知る、法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す一代超過是なり、本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し又未来無数劫の事をも宣伝し、之に依つて之を案ずるに委く過未を知るは聖人の本なり」(0974-01)一昨日御書「夫れ未萠を知る者は六正の聖臣なり」(0183:08)等とある。外典とは仏教典以外の書であり、説苑や文選をさす。「未萠」とは、草木の萌芽がまだ生じない姿を、事の起こらないことをたとえていうことばである。いまだ兆しがはっきりしないのに、未来のことを知る人は聖人なのである。

 

内典

仏教以外の経典を外典というのに対して、仏経典を内典という。

 

智人

智慧のある人。智慧を得た仏のこと。

 

物事・事象の起こり、はじまり。

 

①ヘビのこと。②中国古代の想像上の動物。

 

巧匠

巧みな大工・優れた細工人。

 

国宝

国の宝。

 

隣国

隣の国。

 

敵国

敵対する国。

 

内経

仏教経典のこと。

 

諸天善神のこと。法華経の行者を守護する神をいう。梵天・帝釈・八幡大菩薩・天照太神・四天王等の総称。諸天善神が法華経の行者を守護することは、法華経安楽行品に「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。

 

守護

①まもること。②鎌倉幕府の官職名。警察権・刑事裁判権を行使した。

 

聖智

物事の道理をわきまえた智慧ある者。諸宗の祖師をいう場合もある。

 

①国の元首。②主君。③相手への尊敬の語。

 

賢明

賢く、道理に明るいこと。

 

主君に仕える者。

 

蒙古国

13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(12681月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。

 

梵語ナーガ(Nāga)漢訳して竜という。神力ある蛇形の鬼神でその王を竜王という。畜生類の代表で八部衆のひとつ。水中または地中に住して時に空中を飛行し、天に昇って雲・雨・雷電を自在に支配するとされる。中国の神話においては四神の一つとして東方に配されており、体は大蛇に似ていて、背に鱗、四足に各五本の指、頭に二本の角、長い耳と長い髭をもつとされる。

 

梵釈

大梵天王と帝釈天王のこと。①梵天。三界のうち色界の忉利天にいて、娑婆世界を統領している色界諸天王の通称である。この天は色界の因欲を離れて寂静清静であるという。このうちの主を大梵天王といい、インド神話では、もともと梵王は万物の生因、すなわち創造主とするが、仏教では諸天善神の一つとしている。②帝釈。釈迦提桓因陀羅、略して釈提桓因ともいう。欲界第二の忉利天の主で、須弥山の頂の喜見城に住して、三十三天を統領している。③法華経では、梵天・帝釈は眷属の二万の天子とともに、法華経の会座に連なり、法華経の行者を守護すると誓っている。

 

蒙王

フビライのこと。日本の服属を要求して文永11年(1274)・弘安4年(1281)と出兵しったが、失敗に終わっている。

 

賢人

賢明で高い人格をもった指導者。聖人が独創的な開拓者であるのに対し、賢人はそれをひきついでいく人を指す。仏法の上では聖人である仏の教えを守り、弘めていく人が賢人といえる。

 

他国の逼

他国侵逼難のこと。他国から侵略される難。もとよりこれは武力による侵略であるが、政治的・経済的・精神的侵略があると考えられる。金光明経には「我等のみ是の王を捨棄するに非ず必ず無量の国土を守護する諸大善神有らんも皆悉く捨去せん、既に捨離し已りなば其の国当に種種の災禍有つて国位を喪失すべし」「多く他方の怨賊有つて国内を侵掠し人民諸の苦悩を受け土地所楽の処有ること無けん」仁王経には「四方の賊来つて国を侵し内外の賊起り、火賊・水賊・風賊・鬼賊ありて・百姓荒乱し・刀兵刧起らん」大集経には「一切の善神悉く之を捨離せば其の王教令すとも人随従せず常に隣国の侵嬈する所と為らん」等とある。

講義

本抄は弘安2年(127910月、鎌倉幕府の問注所に提出された文書である。前の四十九院申状と同様の申状となっているが、当時の裁判制度の慣わしからいって、二つの申状の間では、立場に違いがある。

すなわち、前の四十九院申状の場合は原告として被告の厳誉を訴えた訴状であったのに対し、滝泉寺申状の場合は、院主代・行智が訴人として日秀・日弁らを告発したことから、被告として日秀・日弁はそれに対する申し開きをする必要があり、そのために書かれたのが本抄である。これを訴状に対して陳状という。

題号の下に「五十八歳御作」とあるように、この陳状を日蓮大聖人が日秀・日弁らに代わって筆を執られたのである。なお、陳状といえば、このほかにも四条金吾に代わって筆を執られた頼基陳状がよく知られている。

本抄の時代背景については本書の四十九院申状・第一章で触れておいたとおりである。建治年間から弘安年間にかけて、駿河国富士郡方面に日興上人の目覚ましい弘通活動が進展し、日興上人自身の本拠地四十九院をはじめ、岩本実相寺、熱原滝泉寺などの天台宗寺院の僧たちの中から大聖人の仏法を信奉する人々が現れ、また農民等にも弘教の波が広がっていった。

この動きに恐れを抱いた各寺の執行の任に当たる人々が、駿河国が得宗領で鎌倉幕府要人との縁が深かったことから、結託して弾圧の手を伸ばし始め、ついには熱原の法難へと発展するのである。

まず、弘安元年(1278)の1月には四十九院で大聖人門下に対する迫害が起き、次いで実相寺でも尾張阿闍梨らが動き始める。しかし、この二つは、いずれも、寺院に住む僧侶たちへの迫害、弾圧にとどまったのに対し、弾圧の対象が、僧はもとより農民信徒にまで及んだのが熱原滝泉寺を中心に起こった熱原の法難であった。

この熱原における法難の経緯について、ここで簡単に触れておきたい。

弘安2年(12794月、滝泉寺の院主代・行智が富士郡下方の政所代と結託し、熱原浅間神社神事の流鏑馬の雑踏のなか、法華信徒四郎男が刀傷にあうという事件が起こり、さらに、8月には法華信徒の弥四郎の頸を切るという事件が起きた。これらは、滝泉寺の院主代・行智が富士下方の政所代を唆して起きた事件であった。

さらに、921日には、行智が日秀らと農民の法華経信徒たちの刈田狼藉の咎、すなわち、狼藉を働いて稲を奪い取ったという罪で、熱原の農民信徒20人を捕え、鎌倉に送るという事件が起こっている。この時、鎌倉でこれらの農民信徒を処断したのが、行智と通じていた侍所の所司・平左衛門尉頼綱であった。彼はこの農民信徒たちに対し、さまざまな拷問を加えて、法華を捨てて念仏を称えることを強要し、その挙げ句、中心者である神四郎・弥五郎・弥六郎の3人を刑に処し、残る人々が信仰を捨てることを期したが、一人として退転する者が出ないので、処刑は3人までで諦め、残る17人は禁獄のうえ、追放処分としている。

以上が熱原の法難の概略である。この法難によって、日蓮大聖人は熱原の農民信徒が激しい弾圧と拷問にも屈せず信仰を貫いている姿に、時の到来を感じられ、弘安2(1279)1012日に一閻浮提総与の大御本尊を御図顕され、出世の本懐を遂げられたのである。

さて、本抄執筆の年月は弘安2年(127910月となっている。その前月の921日には、行智が日秀、日弁らと農民の法華信徒たちを刈田狼藉の咎で幕府・問注所に訴えており、この訴えに対する申し開きを幕府が日秀・日弁らに求めてきた。これに対して、日秀・日弁らが書いてきた原案をもとに日蓮大聖人が加筆されたのが本抄である。

従って本抄は、大聖人が最初から加筆されたわけではなく、おそらく日興上人を中心に、日秀・日弁が下書きをして、日興上人が身延にこれを持参し、大聖人が加筆修正されたと考えられる。

そのことは本抄の御真筆の別紙として残っている一文からも明らかである。この一文は御書全集には収録されていないが、次のようにある。

「大体此の状の様に有る可きか。但し熱原の沙汰の趣、その仔細出来せるか」

なお、弘安2年(12791012日の伯耆殿御返事にも同様の御文がある「大体此の趣を以て書き上ぐ可きか、但し熱原の百姓等安堵せしめば日秀等別に問注有る可からざるか」(1456-01

伯耆殿御返事は、御執筆の時期、内容から滝泉寺申状に関連して与えられた御抄と考えられるので、本抄別紙の文と前後して書かれたと推察される。おそらく、本抄の案文に沿って申状が書き直され、それに付されたのが伯耆殿御返事であろう。

本抄は原本が中山法華経寺に現存しており、全11紙からなる。前半の8紙は大聖人、残りは別の筆跡になっている。また、後半の別の筆跡の部分にも、大聖人の加筆訂正が何個所かあり、また何行かについては、大聖人の書き直された文章が最後の11紙の末尾に添えられている。

本抄は、内容的に大きく二つに分かれている。これは行智の訴えた条目に対応したもので、前半は「日秀・日弁が日蓮の弟子と名乗って、法華経以外の余経と真言を行じている者は今世・後世共に救われないと云い触らしているのはけしからん」という訴えに対する申し開きとなっている。大聖人の御真筆はこの項の大部分にわたっており、これは大聖人の法門の根幹にかかわる問題で、おそらく、日秀・日弁の書いてきた文章では不満足とされて、日蓮大聖人が直接、筆を執って書き直されたと拝される。

それに対して、後半は、熱原の農民信徒を捕えたのは、信徒たちが日秀の指図のもとで院主分の田の稲を刈り取ったからであるという訴えに対する申し開きで、これは大聖人の法門の内容に関わりのない、事実の経緯と、日秀らの立場の問題でもあるので、大筋は「大体此の状の様に有る可きか」と仰せられて、ほぼ原案どおりに任せられたのであろう。

本文に入って、まず冒頭に「駿河の国・富士下方滝泉寺の大衆・越後房日弁・下野房日秀等謹んで弁言す」とある。これが訴状に対する弁明の書としての形式に則られたものであることは容易に推察されるところであるが、ここで大事な点は、日秀・日弁の身分を「滝泉寺の大衆」と明確にされているところであろう。これは、訴えの一つの焦点である、行智の日秀らに対する処置の不当性に直接関わる問題だからである。

次に「当寺院主代・平左近入道行智・条条の自科を塞ぎ遮らんが為に不実の濫訴を致す謂れ無き事」とある。これは、行智の訴状そのものが、本来、行智には院主代としてあるまじき非法の振る舞いがあることが露見するのを恐れて、日秀・日弁を追い出そうとしてこのような訴えを起こしたのであると、厳しく断じている一文である。行智の非法の振る舞いの幾つかについては、第二の訴えに対する弁論のなかで列記されているが、前述したような、大聖人門下の農民たちに対する迫害と共に、一般的には仏門に仕える僧としてあるまじき種々の悪行が含まれている。

これまでは、滝泉寺という閉鎖的な集団社会のなかで隠されてきた院主代の悪行が、日秀らが法華経を信仰し、近隣農民たちをも教化するようになって、開かれた社会になっていくと、人々の耳目に触れるところとなり、院主代としての立場が危うくなることを危惧し始めた、それが日秀・日弁らを追い出す策謀になったことが十分に考えられる。

しかも、この時には、すでに農民20人を捕らえ、鎌倉に送っていたから、何としても農民を教化した日秀・日弁を悪者に仕立てなければならなかったのである。その背後には、鎌倉にあって、移送されてきた農民信徒を、取り調べという名目のもと、迫害していた平左衛門尉の入れ智慧もあったと考えるのが自然である。行智らが大聖人門下である日秀らの訴えが出されれば、自分が大聖人信徒の農民たちを厳しく詮議していることも正当化されるからである。

さて第一の訴えは「日秀・日弁・日蓮房の弟子と号し法華経より外の余経或は真言の行人は皆以て今世後世叶う可からざるの由・之を申す」というものである。

これが訴える理由となりえた背景には、いわゆる「悪口の科」というのがあり、他宗、他人を悪口するのを禁ずる法があった。御成敗式目の第十二条がそれである。しかも、そのうえ、この弘安2年(1279)当時は、先の文永11年(1274)の来襲に続いて、再度、蒙古軍が攻めてくることが必至の状況で、鎌倉幕府も朝廷も、各宗とりわけ真言の大寺に命じて蒙古調伏の祈禱を行わせていた。ところが「真言の祈りは今世後世叶う可からず」と、日蓮大聖人一門の連中は言い触らしているとなると「後世」の成仏のみならず「今世の祈り」である蒙古調伏も効き目がないということであるから、大聖人一門のことを国家に対する反逆者集団と印象づけることができるわけである。

左衛門尉にしてもれば、日蓮大聖人が佐渡流罪を赦免になって鎌倉に帰ってこられた時の48日、直接面談し、懐柔しようとしたにもかかわらず、一蹴されたうえ、種種御振舞御書にあるように、強烈に折伏されてしまった不快な思い出があるから、あわよくば日秀・日弁とのつながりで大聖人を身延の山奥から呼び出して弾圧を加えることができると期待したであろう。そうしたもくろみも、この訴えの文言の奥に垣間見ることができる。

ただし、そうした幕府内の動きは、これより前からあったようで、弘安元年(12784月に御述作とされる檀越某御返事には、またも大聖人を流罪しようという動きがあるとの報を受けられて「もしその義候わば用いて候はんには百千万億倍のさいわいなり、今度ぞ三度になり候、法華経も・よも日蓮をば・ゆるき行者とはをぼせじ、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御利生・今度みはて候はん、あわれ・あわれ・さる事の候へかし」(1295:01)と仰せられている。

従って、今度の滝泉寺・行智の訴状に対しても、むしろ大聖人は、自ら矢面に立つ形で、日秀・日弁の「本師」は大聖人自身であること、日秀・日弁らが言っていることは立正安国論以来、大聖人が一貫して叫ばれ、そのために大難にあってきたことであり、しかもそれは仏法に照らして日本の国を救うためであるから、これこそ日本国に対する最大の忠誠の道であることを堂々と答えられている。

この第一の訴えに対する答えの段は、前述したように、ほぼ全面的に大聖人の御真筆で、この段末尾の「此等之子細相胎御」までの7枚に書かれ8枚目から、おそらく原案の起草者の文字のまま、何個所か修正を加えられているのみで、生かされている。大聖人御自身の一貫した心情と行動を明確に述べられたものであることが分かる。

その内容は、まず、大聖人の安国論執筆・上呈から、そこでの予言が的中したこと、従って大聖人の教えこそ、日本の国を滅亡から救う大法であることを簡潔に述べられている。そのなかで「外書」すなわち中国の古典と「内経」すなわち仏教経典を引用されて、未来を正しく見通す聖人が日本におられることこそ、日本国の人々にとって国が救われるための頼りであることを強調されている。

それは、根本的には未来を正しく見通されている智慧の故であるが、それと共に、仏法上の聖人は諸天・竜からもかしずかれる立場であるから、これらの諸天や竜たちが蒙古軍を打ち破る働きをしてくれるのであろうと、日秀らの口をとおして述べさせておられる。ここで述べられている「諸竜を駆り催して敵船を海に沈め」は文永の役の時にそのとおりになっていたし、本抄の2年後の弘安の役では、さらに明確に現実になったことは、よく知られているとおりである。

ただし「梵釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし」は現実にはならなかった。これは、あくまで、日本国の人々、なかんずく鎌倉幕府が日蓮大聖人の教えを信じ、仏として救済者として仰いだ場合のことだからである。蒙古王を捕らえるなり倒すなりしてこそ、真の日本の勝利といえると大聖人が考えておられたことは、弘安4年(128110月の富城入道殿御返事で、真言僧らが、自分たちの祈禱で日本は勝ったと言い触らしているのに対し「蒙古の大王の頚の参りて候かと問い給うべし」(0994:17)と述べられている御文にも拝される。

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