霖雨御書
弘安元年(ʼ78)5月22日 57歳 覚性房
山中のながきあめ、つれづれ申すばかり候わず。えんどう、かしこまりて給び候い了わんぬ。ことによろこぶよし、覚性房申しあげさせ給い候え。恐々謹言。
五月二十二日 日蓮 花押
御返事
現代語訳
山中の長雨で、たいくつなことはいうまでもない。えんどうをつつしんで頂戴した。特にうれしく思った旨を、玄性房から申し上げてほしい。恐恐。
五月廿二日 日 蓮 在 御 判
御 返 事
語釈
玄性房
生没年不明。大聖人御在世当時の弟子で、「玄性房御返事」をいただいているが、事跡は不詳。
講義
本抄は、日蓮大聖人の御消息の一部で、5月22日と記されているだけで、御述作の年代、宛名とも不明でるが、御真筆が京都・妙満寺にあり、弘安元年(1278)5月22日、身延でしたためられた書とされている。
弘安元年(1278)は降雨の多い年で、特に5月から9月にかけて身延に長雨があったことが、他の御書にもみられる。弘安元年(1278)5月3日の窪尼御前御返事に「ながあめふりてなつの日ながし」(1478:01)、同年7月7日の種種物御消息に「いわうや・たうじは・あめはしのをたてて三月におよび・かわはまさりて九十日」(1549:01)、同年9月19日の上野殿御返事に「今年は正月より日日に雨ふり・ことに七月より大雨ひまなし」(1551:04)と記されている。
長雨の続く身延山中にあって、門下のことに思いをはせながらも、無聊の日々を送られる大聖人の御様子が、短いお便りのなかにうかがえる。弘安元年(1278)は、大聖人が身延に入られてから4年を経ており、各方面の折伏も活発な展開をみせていた。特に駿河国富士方面では文永11年(1274)のころから、日興上人の折伏弘経によって、実相寺の筑前房・豊前房、四十九院では賢秀・承賢らが入信、建治元年(1275)ごろには滝泉寺の日秀・日弁・日禅らが日興上人に帰依している。こうした妙法弘通の動きに、実相寺の院主・道暁、四十九院の厳誉、滝泉寺の院主代・行智らが反発、日興上人をはじめ日秀・日弁らが住房を追われ、田畑を取り上げられるなど、さまざまな迫害が起こっていた。一方、身延山中における大聖人の御生活もかなり逼迫していたと思われる。そうした折の門下からの御供養であったと思われる。その喜びを即座に返書にしたため、使いの者に託されたのであろう。
「えんどう」については、「えんとう」「ひんどう」とも読めるが意味につては不明。執筆の時期からみて、「エンドウ豆」かも知れない。玄性房についても生没年・事跡等も不明で詳細については分からないが、大聖人にたびたび御供養の品々をお送りしていることから、信心の厚い人であったと思われる。