乙御前母御書
文永10年(ʼ73)11月3日 52歳 日妙
おとごぜんのはは 日蓮
なによりも、女房のみとしてこれまで来って候いしこと、これまでながされ候いけることはさることにて、御心ざしのあらわるべきにやありけんと、ありがたくのみおぼえ候。
釈迦如来の御弟子あまたおわししなかに、十大弟子とて十人ましまししがなかに、目犍尊者と申せし人は神通第一にておわしき。四天下と申して日月のめぐり給うところを、かみすじ一すじきらざるにめぐり給いき。これはいかなるゆえぞとたずぬれば、せんじょうに千里ありしところをかよいて仏法を聴聞せしゆえなり。
また天台大師の御弟子に章安と申せし人は、万里をわけて法華経をきかせ給いき。伝教大師は三千里をすぎて止観をならい、玄奘三蔵は二十万里をゆきて般若経を得給えり。
道のとおきに心ざしのあらわるるにや。
かれは皆、男子なり。権化の人のしわざなり。今、御身は女人なり。ごんじちはしりがたし。いかなる宿善にてやおわすらん。昔女人、すいおとをしのびてこそ、あるいは千里をもたずね、石となり、木となり、鳥となり、蛇となれることもあり。
十一月三日 日蓮 花押
おとごぜんのはは
おとごぜんが、いかにひととなりて候らん。法華経にみやづかわせ給うほうこうをば、おとごぜんの御いのち、さいわいになり候わん。
いまは法華経をしのばせ給いて仏にならせ給うべき女人なり。かえすがえす、ふみものぐさき者なれども、たびたび申し候。また御房たちをもふびんにあたらせ給うとうけたまわる。申すばかりなし。
現代語訳
乙御前の母
いまは法華経を慕われて、仏になるべき女人である。返す
がえす、筆無精の者であるが、たびたび申し上げる。
また御房達をも、いろいろ面倒をみてくださっているとうかがっている。お礼の申しようもない。
なによりも女房の身としてここまでこられたことあなたの厚い御志があらわれるためであったのかと、ただありがたく覚えるのみである。
釈迦如来の御弟子が多くおられる中で、十大弟子といって十人の代表的な弟子がおられた。その中で目犍尊者という人は神通第一であった。四天といって日月の巡るところを、髪の毛一筋切らない間に巡られた。これはいかなるゆえかとたずねると、過去世に千里もあるところを通って仏法を聴聞したゆえなのである。また天台大師の御弟子の章安という人は、万里の道を踏み分けて法華経を聴かれた。伝教大師は三千里を経て止観を習い、玄奘三蔵は二十万里も旅をして般若経を得られた。
道の遠さに、志があらわれるのであろうか。彼等は皆男子である。仏菩薩の化現した人の行為である。今あなたは女人である。権実の教判は知りがたい身である。いかなる宿善を持った人なのであろうか。昔、女人は愛する夫を慕ってこそ、あるいは千里をも訪ね、石となり木となり、鳥となり蛇となった事もある。
十一月三日 日 蓮 花 押
乙御前の母
乙御前は、どのように成長されたであろうか。法華経に宮仕えをされる、その奉公は、乙御前の御いのちとなり、幸福になるであろう。○○○。
語句の解説
をとごぜんのはは
乙御前の母。日蓮大聖人から本抄と、娘の乙御前に「乙御前御消息」をいただいている。鎌倉に住んでいたと思われ、寡婦の身ではあるが、大聖人を佐渡、身延へと訪ね、純真な信心を貫いた。日妙尼と同一人物と思われるが、確証はない。
釈迦如来
釈迦仏・釈尊のこと。如来とは仏、釈迦はシャーキャムニ(Śākyamuni )の音訳で釈迦牟尼の略称。釈迦はもともと古代インドの一種族の名。ゴータマ・ブッダは釈迦族で生まれたので、釈迦牟尼という。牟尼は尊者・聖者のこと。
十大弟子
釈尊の主要な声聞の弟子である10人。経典によって誰が入るか違いがある。維摩経などの大乗経典では、声聞の弟子として小乗の教えにとらわれている弟子として描かれ、糾弾される。法華経では、順に未来成仏の記別を与えられ、二乗作仏が説かれる。①舎利弗(シャーリプトラ)。マガダ国王舎城(ラージャグリハ)の北に生まれ、初めは六師外道のうちのサンジャヤの弟子であったが、目連とともに釈尊の弟子となり、サンジャヤの弟子250人とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称された。法華経方便品第2の諸法実相の文によって三乗即一乗の理を理解し、譬喩品第3で華光如来の記別を受けた。②摩訶迦葉(マハーカーシャパ)。迦葉尊者、大迦葉ともいう。マガダ国王舎城にいた尼俱盧陀長者の子。苦行のすえに釈尊の弟子となり、乞食行に励んだので頭陀(欲望制御の修行)第一と称された。釈尊が入滅した後、阿闍世王の外護を受けて第1回仏典結集を行ったとされる。また付法蔵の第1として小乗経の弘通に努め、法を阿難に付嘱したと位置づけられる。法華経授記品第6で光明如来の授記を受けている。中根の四大声聞の一人。③阿難陀(アーナンダ)。阿難ともいう。歓喜などと訳す。斛飯王の子ともされるが異説もある。釈尊の従弟にあたる。釈尊の給仕をして常に説法を聞き、多聞第一といわれる。また付法蔵の第2として小乗経の弘通に努めたとされる。法華経授学無学人記品第9で、山海慧自在通王如来の記別を受けている。④須菩提(スブーティ)。舎衛城(シュラーヴァスティー)のバラモン、鳩留長者の子。釈尊の弟子となって、空の法門をよく理解したので解空第一といわれた。法華経授記品第6で名相如来の記別を受けた。中根の四大声聞の一人。⑤富楼那(プールナ)。富楼那弥多羅尼子ともいう。バラモンの子として生まれた。初めは解脱を求めて山に入り苦行を積んだが、釈尊の成道を聞いて弟子となった。説法第一と称せられ、証果から涅槃に至るまで9万9000人を救済したという。法華経五百弟子受記品第8で法明如来の記別を受けた。⑥目連。摩訶目犍連(マハーマウドゥガリヤーヤナ)の略。大目犍連、目犍連とも略す。マガダ国に生まれ、初めは舎利弗と同じに六師外道のサンジャヤの弟子であったが、舎利弗が釈尊のもとで解脱を得たことを聞いて、後に仏門に入った。神通第一といわれた。法華経授記品第6で多摩羅跋栴檀香如来の記別を受けた。中根の四大声聞の一人。⑦迦旃延(カーティヤーヤナ)。外道をよく論破したため、論議第一と称された。法華経授記品第6で閻浮那提金光如来の記別を受けた。中根の四大声聞の一人。⑧阿那律(アニルッダ)。阿二(少に兔)楼駄などとも音写する。迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)の斛飯王の子。釈尊の従弟にあたる。釈尊の前で居眠りしたことを責められて不眠の誓いを立てた。そのため後に盲目となったが、禅定の修行を深く実践して天眼を得た。法華経五百弟子受記品第8で普明如来の記別を受けた。⑨優波離(ウパーリ)。優婆利などとも書く。シュードラ(古代インドの身分制度、四姓の最下層。隷属民)の出身。持律第一といわれ、第1回仏典結集の時、律を誦したとされる。⑩羅睺羅(ラーフラ)。釈尊の子。15歳の時に出家して舎利弗について阿羅漢果を得た。よく戒を守り修行を積み、密行第一と称された。法華経授学無学人記品第9で蹈七宝華如来の記別を受けた。
目犍連尊者
梵語でマハーマウドガルヤーヤナ(Mahā-maudgalyāyana)という。釈尊の声聞十大弟子の一人。目犍連のこと。
四天下
鹹水海の中にある四州。東を弗婆提・西を瞿耶尼・南を閻浮提・北を欝単超をいう。
天台大師
538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。
【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。
章安
(0561~0632)。中国隋末・唐初の人。天台宗第二祖(四祖、または五祖とする場合もある)。姓は呉氏、諱は灌頂。浙江省臨海県章安の人。章安大師とも呼ばれる。7歳で出家、25歳の時天台大師の弟子となり、天台教観の奥義を究めた。のち、師の所説を百余巻に編纂して後世に伝えた。代表的なものに「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻などがある。また自身の著作には「涅槃玄義」二巻、「涅槃経疏」三十三巻などがある。
伝教大師
(0767~0822)。日本天台宗の開祖。諱は最澄。根本大師・山家大師ともいう。俗姓は三津首。近江国(滋賀県)滋賀郡の人。12歳で近江国分寺の行表について出家、延暦4年(0785)東大寺で具足戒を受けたが、まもなく比叡山に草庵を結んで諸経論を究めた。延暦23年(0804)に入唐し、道邃・行満等について天台の奥義を学び、翌年帰国して延暦25年(0806)日本天台宗を開いた。旧仏教界の反対のなかで、新たな大乗戒を設立する努力を続け、没後、大乗戒壇が建立されて実を結んだ。著書に「法華秀句」三巻、「顕戒論」三巻、「守護国界章」九巻等多数ある。
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1,335巻の経典を訳したといわれる。17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
般若経
般若波羅蜜の深理を説いた経典の総称。漢訳には唐代の玄奘訳の「大般若経」六百巻から二百六十二文字の「般若心経」まで多数ある。内容は、般若の理を説き、大小二乗に差別なしとしている。
権化
権現・応化・灰身ともいい、権はかり、化は変革を意味する。仏・菩薩が衆生救済のために、通力をもって種々の身を仮に化身すること。
ごんじち
権実と読む。権は「かり」の意で方便をあらわし、実は「真実義」の意。機に応じて一時的に説く法を権とし、究極不変の真実の法を実という。
宿善
過去世に積んだ善根のこと。善根とは善を生ずるもとになるもののこと。善根をつむことによって善い果報を受けることができる。宿縁のことともいえる。
ほうこう
奉公と書く。おおやけ・主人等に仕え、尽くすこと。