この方便品と申すは、迹門の肝心なり。この品には、仏十如実相の法門を説いて十界の衆生の成仏を明かし給えば、舎利弗等はこれを聞いて無明の惑を断じ、真因の位に叶うのみならず、未来華光如来と成って成仏の覚月を離垢世界の暁の空に詠ぜり。十界の衆生の成仏の始めはこれなり。当時の念仏者・真言師の人々、成仏は我が依経に限れりと深く執するは、これらの法門を習学せずして、「いまだ真実を顕さず」の経に説くところの名字ばかりなる授記を執する故なり。
貴辺は、日来はこれらの法門に迷い給いしかども、日蓮が法門を聞いて、賢者なれば本執をたちまちに翻し給いて、法華経を持ち給うのみならず、結句は身命よりもこの経を大事と思しめすこと、不思議が中の不思議なり。これはひとえに今のことにあらず。過去の宿縁開発せるにこそ、かくは思しめすらめ。有り難し、有り難し。
次に寿量品と申すは、本門の肝心なり。またこの品は、一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず、三世の諸仏の説法の儀式の大要なり。教主釈尊、寿量品の一念三千の法門を証得し給うことは、三世の諸仏と内証等しきが故なり。ただし、この法門は、釈尊一仏の己証のみにあらず、諸仏もまたしかなり。我ら衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今、教主釈尊の所説の法華経に値い奉ることは、乃往過去にこの寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり。有り難き法門なり。
—————————————(第六章に続く)———————————————-
現代語訳
この方便品というのは法華経迹門の肝心である。この品には、仏が十如実相の法門を説いて、十界の衆生の成仏を明かされたので、舎利弗らはこの法門を聞いて無明の惑を断じ、成仏すべき真実の因の位を得ただけでなく、未来に華光如来となって成仏の覚月を離垢世界の暁の空にながめることができる。
十界の衆生の成仏の最初がこれである。今の時代の念仏者や真言師の人々が成仏は自宗の依りどころとする経に限られると深く執着しているのは、法華経方便品のこれらの法門を習学しないで未だ真実を顕わしていない経に説かれている名目だけの未来成仏の保証に執着しているからである。
あなたは今までいつも、これらの法門に迷われていたが、日蓮の法門を聞いて、賢い者であるので元来の執着をただちにひるがえされて、法華経を持たれただけでなく、結局は身命よりもこの法華経を大事と思われるようになったことは不思議の中の不思議である。
これはひとえに今生のことではなく、過去世の宿縁が開き顕されたために、このように思われたのであろう。まことに有り難いことである。
次に寿量品というのは法華経本門の肝心である。また、この品は法華経一部の肝心、さらに一代聖教の肝心だけでなく、過去・現在・未来の三世の諸仏の説法の儀式の重大な肝要である。教主釈尊が寿量品の一念三千の法門を悟られたことは、三世の諸仏と内面の悟りが等しいためである。
ただし、この法門は釈尊一仏の自らの悟りだけでなく、諸仏の悟りもまたそうである。無始の昔から、六道の生死の苦しみの波浪に沈没してきた我ら衆生が、今の時に教主釈尊が説かれた法華経にあえたのは、その昔・過去にこの寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞したからである。有り難い法門である。
語句の解説
迹門の肝心
法華経迹門のうちで最も大切なものとの意で、方便品を指す。迹門とは法華経の中でも、釈尊がまだ垂迹の仏の立場、すなわち始成正覚の立場で説いた法門のこと。序品第一から安楽行品第十四までをいう。本門に対する語。「迹」とは影、跡の意。法華文句巻一上には「序より安楽行に至る十四品は迹に約して開権顕実す、涌出より経を訖る十四品は本に約して開権顕実す」とある。
十如実相の法門
諸法が十如是を具え、それがそのまま実相であるという教え。法華経方便品の諸法実相は十如是をもって説かれている故に十如実相という。十章抄に「一念三千の出処は略開三の十如実相」(1274)とある。法華経の実相は十如是を内容とし、十如是を十界、十界互具、三世間と開けば一念三千となる。
十界の衆生
地獄界から仏界までの各界の衆生のこと。あらゆる境界の衆生。
成仏
仏になること。成道、作仏、成正覚ともいう。
舎利弗
梵語シャーリプトラ(Śāriputra)の音写。身子・鶖鷺子等と訳す。釈尊の十大弟子の一人。マガダ国王舎城外のバラモンの家に生まれた。小さいときからひじょうに聡明で、8歳のとき、王舎城中の諸学者と議論して負けなかったという。初め六師外道の一人である刪闍耶に師事したが、のち同門の目連とともに釈尊に帰依した。智慧第一と称される。なお、法華経譬喩品第三の文頭には、同方便品第二に説かれた諸法実相の妙理を舎利弗が領解し、踊躍歓喜したことが説かれ、未来に華光如来になるとの記別を受けている。
無明の惑
無明惑のこと。三惑の一つ。中道実相の理を障蔽する。すなわち成仏を妨げる一切の煩悩の根本となる惑のこと。障中道の惑。また菩薩だけが断尽することができるとされるところから、別枠ともいう。無明とは、明または悟り。法性の反対語で、不達・不解・不了の意。惑とは法性を知らないで迷うこと。天台大師所立の一切の煩悩の根本であり、三惑の見思と塵沙は無明惑より起こる。摩訶止観では惑を42に分け、最後の無明惑を元品の無明惑とたてている。
真因の位
未来に必ず聖果を得る真実の因行の階位。この真因は不退位であり、別教の初地の位、円教の初住位にあたる。因位の位を得るには無明惑を破ることである。
未来
三世の一つで、将来。現世のつぎ。
華光如来
釈迦の十大弟子の中で最も智慧に優れた舎利弗が、将来仏となった時の名で、その時に住む国の名。舎利弗は未来世において千万億の仏に導かれ、法を正しく保ったため成仏するとされる。華光如来の寿命は十二小劫で、大宝荘厳の国民の寿命は八小劫であり、そして華光如来が世を去る際に弟子の堅満菩薩に次のような記を与えるとした。曰く、この者は私の次に仏となり、名は華足安行如来である。そしてまた、華光如来入滅後に正法と像法は三十二小劫の間続くだろう、とされた。
成仏の覚月
成仏の覚りを月に譬えたもの。
離垢世界の暁の空
成仏の覚りを月に譬えたものに応じて、離垢世界を暁の空と表現したもの。
念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
真言師
真言宗を奉ずる僧侶。真言宗とは、三摩地宗・陀羅尼宗・秘密宗・曼荼羅宗・瑜伽宗等ともいう。空海が中国の真言密教を日本に伝え、一宗として開いた宗派。詳しくは真言陀羅尼宗という。大日如来を教主とし、金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・弘法と相承したので、これを付法の八祖とし、大日・金剛薩?を除き善無畏・一行の二師を加えて伝持の八祖と名づける。大日経・金剛頂経を所依の経として、これを両部大経と称する。そのほか多くの経軌・論釈がある。顕密二教判を立て自らの教えを大日法身が自受法楽のために示した真実の秘法である密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なそ、弘法所伝の密教を東密というのに対して、天台宗の慈覚・智証によって伝えられた密教を台密という。
依経
各宗派がよりどころとする経のこと。一代聖教大意には「華厳宗と申す宗は智厳法師・法蔵法師・澄観法師等の人師.華厳経に依つて立てたり、倶舎宗・成実宗.律宗は宝法師・光法師・道宣等の人師・阿含経に依つて立てたり、法相宗と申す宗は玄奘三蔵・慈恩法師等・方等部の内に上生経・下生経・成仏経・解深密経・瑜伽論・唯識論等の経論に依つて立てたり、三論宗と申す宗は般若経・百論・中論・十二門論・大論等の経論に依つて吉蔵大師立て給へり、華厳宗と申すは華厳と法華涅槃は同じく円教と立つ余は皆劣と云うなる可し、法相宗には解深密経と華厳・般若・法華・涅槃は同じ程の経と云う、三論宗とは般若経と華厳・法華・涅槃は同じ程の経なり、但し法相の依経・諸の小乗経は劣なりと立つ、此等は皆法華已前の諸経に依つて立てたる宗なり、爾前の円を極として立てたる宗どもなり、宗宗の人人の諍は有れども経経に依つて勝劣を判ぜん時は いかにも法華経は勝れたるべきなり、人師の釈を以て勝劣を論ずる事無し」(0397:05)とある。
執する
執着する・固執する・深く思い込む。
習学
学び習うこと。学問を習うこと。
未顕真実の経
未顕真実は無量義経で「末だ真実を顕さず」とある文をさす。釈尊五十年の説法のうち法華経以前の四十二年の経は末だ真実を顕していない方便権教であるということ。
授記
仏が弟子に当来における成仏の劫・国・名号を記し授けること。
日来
「ヒゴロ」と読む。
日蓮が法門
日蓮大聖人の法門。南無妙法蓮華経。
賢者
①立派な人。②賢い人。
本執
もとからの執着・元来の執着。
結句
結局。そのうえ。
身命
肉体と精神からなる生命そのもの。
過去の宿縁
過去世につくった因縁のこと。
開発
開き起こすこと。
本門の肝心
本門の言は迹門を簡び、肝心の言は文上脱迹を簡び、文底種本を顕わす。すなわち肝心肝要というのは文底を指す。
一代聖教の肝心
釈尊一代50年間に説法した経典の最もだいじなところ。妙法蓮華経如来寿量品第16。
三世の諸仏
過去・現在・未来の三世に出現する諸の仏。小乗教では過去荘厳劫の千仏・現在賢劫の千仏・未来星宿劫の千仏を挙げている。
説法の儀式の大要
三世の諸仏が説く法の作法の大事な要。
教主釈尊
一代聖教の教主である釈尊のこと。釈尊には六種、蔵教・通教・別教・法華迹門・法華本門・文底独一本門の釈尊があるが、釈尊教主は教法の主導の意で、法華文底独一本門の教主、日蓮大聖人のこと。ただし御文によってまれに、インド応誕の釈迦仏をさす場合もある。
一念三千
衆生の一念の心に三千の諸法を具足するという法門。一念とは一瞬一瞬の生命をいい、三千とは現象世界のすべてを指す。ここの「寿量品の一念三千の法門」とは、法華経本門寿量品において成仏が事実の上で明かされた法門をいう。これは事の一念三千といい、成仏の種子、すなわち妙法のことである。一念三千の法門は法華経に基づき天台大師が摩訶止観に体系化したもの。摩訶止観巻五上に「夫れ一心に十法界を具し、一法界に又十法界を具す、百法界なり。一界に三十種の世間を具し、百法界に即ち三千種の世間を具す。此の三千は一念の心に在り、若し心無くんば而已なん。介爾も心有らば、即ち三千を具す」とある。衆生の生命に現象世界のすべてが欠けるところなく具すことをいう。法華経迹門に説かれている十如是の文、本門に至って究竟して説き表された十界互具、三世間等の義を、明鏡として体系付けている。日蓮大聖人は、この天台大師の一念三千を理としてしりぞけ、事の一念三千の当体としての御本尊を具現化し、この御本尊の受持を即、観心とされている。
内証
生命の奥底の悟り。外用に対する。
釈尊一仏
釈迦如来ひとりだけ。
己証
自ら真理・妙理を悟ること。またその悟り自体のこと。「己」はおのれ、「証」はあかしの意味。
諸仏も亦然なり
事の一念三千の法門は、釈尊一仏だけの悟りではなく、諸仏もまた同じ悟りを得ているとのこと。
我等衆生
我等、六道の迷苦に沈む凡夫。
無始
始まりがないこと。無限の遠い昔。
六道生死の浪
凡夫が六道の迷いの世界の中で生死を繰り返すことを浪にたとえている。六道輪廻・六道流転ともいう。六道は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の迷苦の世界のこと。生死は生死の苦しみを繰り返すこと。
久遠実成の一念三千
天台教学における事の一念三千。法華経本門の如来寿量品第16では、開近顕遠が説かれて久遠実成が明かされ、久遠の仏の本果が示されるとともに、その本因としての菩薩道も示され、この本因と本果の常住が明かされた。さらに、久遠の本仏が、九界の衆生の住む娑婆世界の上に現れるという娑婆即寂光が説かれ、真実の国土世間とその常住が明かされた。これによって、一念三千を構成するすべての要素が完備した。これは仏の振る舞いの上に事実として現れている一念三千である。これが天台教学における事の一念三千である。
聴聞
仏の説法を聞くこと。
講義
ここでは、大田氏のために、御守りとして方便品と寿量品の二品を選ばれた理由として、この二品のもつ意義を述べられている。
まず方便品については、法華経二十八品のうち、前半十四品の迹門の要に当たることを述べられ、その理由として仏がここで十如実相という法門を説き明かし、地獄界から仏界までの十界の衆生が、等しく実相すなわち妙法の当体であることが明らかとなり、ここに仏界の仏と九界の衆生との間の断絶がなくなって、だれもが成仏できることが理論的に明かされたこと、そして、この説法を聞いて、舎利弗たちが無明惑を断じて成仏の因位を得たと述べられている。
舎利弗は、それまでの爾前権経では永不成仏とされていた二乗たちの代表である。この舎利弗が未来に華光如来となるとの授記を仏から得るのは譬喩品第三においてであり、さらに、舎利弗以外の声聞たちも次々と未来成仏の授記を得ていくのであるが、そうした法華経迹門の肝要が方便品なのである。
このことに関連して「当時の念仏者・真言師の人人・成仏は我が依経に限れりと……名字計りなるを執する故なり」と、大聖人当時の念仏者や真言師といった人たちが、それぞれのよりどころとする浄土三部経や真言三部経によってのみ成仏は可能であるなどといっている誤りを厳しく指摘されている。
同時に大田氏に対しては「貴辺は日来は此等の法門に迷い給いしかども日蓮が法門を聞いて……有り難し有り難し」と、それまでの、特に真言宗への執着を翻して、大聖人の教え通りに法華経を護持し、自分の身命よりも大事に思うに至ったことについて、不思議の中の不思議であると讃えられ、そのように法華経を大事に思うようになったのは、今世だけの因によるのではなく、過去世の宿縁が開かれたからであろうと述べられている。
次いで、寿量品については「寿量品と申すは本門の肝心なり、又此の品は一部の肝心・一代聖教の肝心のみならず三世の諸仏の説法の儀式の大要なり」と、方便品よりさらに重大な意義があることを述べられている。
その理由として、次に「教主釈尊・寿量品の一念三千の法門を証得し給う事は三世の諸仏と内証等しきが故なり、但し此の法門は釈尊一仏の己証のみに非ず諸仏も亦然なり」と仰せられている。これは特に、寿量品が三世の諸仏が法を説く儀式の要であるということと関連しているのであるが、寿量品には成仏の根本である事の一念三千の法門が説かれており、この一念三千こそ、釈尊一仏だけではなく三世の諸仏が等しく悟ったものであると仰せられている。
さらに「我等衆生の無始已来・六道生死の浪に……久遠実成の一念三千を聴聞せし故なり、有り難き法門なり」と仰せられ、無始以来、六道生死の苦海の波に沈没してきた凡夫が、末法の今日において法華経に出あうことができたのは過去に寿量品の事の一念三千の法門を聞いていたからであると結ばれている。