太田左衛門尉御返事 第三章(厄年の世間一般の知識を挙げる)

これら体の法門はさて置きぬ。御辺は「今年は大厄」と云々。昔、伏羲の御宇に、黄河と申す河より亀と申す魚、八卦と申す文を甲に負って浮かび出でたり。時の人、この文を取り挙げて見れば、人の生年より老年の終わりまで厄の様を明かしたり。厄年の人の危うきことは、少なき水に住む魚を鴟・鵲なんどが伺い、灯の辺りに住める夏の虫の火の中に入らんとするがごとくあやうし。鬼神ややもすれば、この人の神を伺いなやまさんとす。神内と申す時は、諸の神、身に在って、万事心に叶う。神外と申す時は、諸の神、識の家を出でて万事を見聞するなり。当年は、御辺は神外と申して、諸の神他国へ遊行すれば、慎んで除災得楽を祈り給うべし。また木性の人にてわたらせ給えば、今年は大厄なりとも、春夏のほどは何事かわたらせ給うべき。至門性経に云わく「木は金に遇って抑揚し、火は水を得て光滅し、土は木に値って時に痩せ、金は火に入って消え失せ、水は土に遇って行かず」等云々。指して引き申すべき経文にはあらざれども、予が法門は、四悉檀を心に懸けて申すならば、あながちに成仏の理に違わざれば、しばらく世間普通の義を用いるべきか。

—————————————(第四章に続く)———————————————-

現代語訳

このような十二因縁などの法門はさておくことにしよう。あなたは今年は大厄であるといっている。昔、伏羲の時代に、黄河という河から亀という魚が、八卦という文を甲羅に背負って浮き出てきた。その時代の人がこの文を取り上げて読んでみれば、人の生まれる年から老年の死の終わりまでの厄のありさまを明かしていた。

厄年の人の危ういことは、水かさの減った川や池に住む魚を鴟や鵲なんかが狙い、灯火の辺りに住む夏の虫が火の中に入ろうとするように危うい。

鬼神はどうかすると、この人の精神を狙い悩まそうとする。神内という時は諸の神々がその身の内にあるから、どんなことでも思うようになる。逆に神外という時は諸の神々が識の家を出でて外のあらゆることを見聞きしている。

今年はあなたは神外といって諸の神々が他国へ巡り歩いているので、慎んで災を除き楽を得るように祈りなさい。

またあなたは陰陽五行説でいう木性の人であるから、今年は大厄であっても春と夏のころは何事もないであろう。

至門性経に「木は金に出あって抑揚し、火は水を得て光が滅し、土は木によって時には痩せ、金は火に入って消え失せ、水は土に妨げられて流れない」等とある。

これは特別に引いていうほどの経文ではないけれども、私の法門は四悉檀を心掛けて説くならば、とりたてて成仏の理に違わない限り、とりあえず世間の普通の道理を用いることができるのである。

語句の解説

御辺

第二人称の代名詞。あなた。

 

大厄

陰陽道では人の一生のうち災厄に多く値うとされる年を定めている。一般には男子は254260、女子は193337をいい、男子42・女子33を大厄としている。この年代は就職・結婚・出産・退職等生活環境の変化や身体の老化が起こりやすいことに由来するものと推測しておく。

 

伏羲

「ふっき」とも読む。中国古代の伝説上の帝王。神農・黄帝と共に三皇の一人に挙げられている。伏羲は網をつくって人民に漁猟を教えたとされ、蛇身人首であったとされる。羲農と神農は二人では羲農と称され、羲農の世は人心が治まり、天地も平穏な理想社会として挙げられる。

 

御宇

ひとりの天子の時代。

 

黄河

中国の北部を流れ、渤海へと注ぐ川。全長約5,464kmで、中国では長江(揚子江)に次いで2番目に長く、アジアでは長江とエニセイ川に次いで3位、世界では6番目の長さである。なお、河という漢字は本来固有名詞であり、中国で「河」と書いたときは黄河を指す。これに対し、「江」と書いたときは長江を指す。現在の中国文明の直接の母体である黄河文明を育んだ川であり、中国史上において長江と並び巨大な存在感を持つ河川である。

 

亀と申す魚

亀は爬虫類であるが海に生息するためこのように言われたのであろう。

 

八卦と申す文

中国の易の基本となる八個のかたちを組み合わせて八種の図形をつくって、自然界や人間界の様々な現象を示すもの。儒教では伝説上の帝王・伏義が八卦の基礎を作ったと伝えられる。

 

物の外側を覆う固い部分。

 

人の生年

人間が生まれた年。

 

老年の終り

老いて死ぬとき。

 

厄の様

厄年のありさま。

 

少水

川や池などの水量が少ないこと。

 

鴟鵲

トンビとカラスのこと。

 

鬼神

鬼神とは、六道の一つである鬼道を鬼といい、天竜等の八部を神という。日女御前御返事に「此の十羅刹女は上品の鬼神として精気を食す疫病の大鬼神なり、鬼神に二あり・一には善鬼・二には悪鬼なり、善鬼は法華経の怨を食す・悪鬼は法華経の行者を食す」とある。このように、善鬼は御本尊を持つものを守るが、悪鬼は個人に対しては功徳・慧命を奪って病気を起こし、思考の乱れを引き起こす。国家・社会に対しては、思想の混乱等を引き起こし、ひいては天災地変を招く働きをなす。悪鬼を善鬼に変えるのは信心の強盛なるによる。安国論で「鬼神乱る」とあるのは、思想の混乱を意味する。

 

此の人の神

「神」はタマシイと読む。①霊魂。②精神・気力。③天分・素質。

 

諸の神

多くの諸天善神のこと。

 

万事

あらゆること。

 

神外

神が身体から出て、他の場所を遊行すること。

 

識の家

梵語ヴィジュニャーナ(Vijñāna)「了別」と訳す。分析・分割+知の合成語であって、対象を分析し分類して認識する作用のことである。釈迦在世当時から、この認識作用に関する研究が行われ、さまざまな論証や考え方が広まっており、それぞれの考え方は互いに批判し合いながら、より煩瑣な体系を作り上げた。しかし、大乗仏教全般で言うならば、分析的に認識する「識」ではなく、観法によるより直接的な認識である般若が得られることで成仏するのだと考えられるようになって重要視された。識の住む家のことをい

 

他国

自分が住んでいる国以外の国。外国。

 

遊行

①諸国をめぐること。②遊び戯れること。③ゆうゆうたる境涯で自由自在に振舞うこと。

 

除災得楽

災いを取り除き楽を得ること。

 

木性の人

五行説の木にあたる年に生まれた人。

 

木は金に遇つて抑揚

摩訶止観巻八上には「皇帝の秘法に云うが如く、天地の二気交合して各五行有り……火は水を得て而して光を滅し、水は土に遇うて而して行かず、土は木に値うて而して腫瘡あり、木は金に遇うて而して折傷す。此即ち相剋なり」とある。ここに「木は金に遇うて而して折傷す」とあるところから、抑揚と折傷は草書体が似ているので書写時あるいは出版時の誤りかもしれないと考えられる。古い写本を精査する必要がある。

 

土は木に値いて時に痩せ

樹木が成長することによって、土の成分は奪われていくということ。

 

金は火に入つて消え

金属は高温の火の中では溶解し、その姿をけすということ。

 

予が法門

日蓮大聖人の教え。南無妙法蓮華経。

 

四悉檀

略して四悉ともいう。悉檀は成就、宗、理の意。仏の教法を四種類に分けたもので、大智度論巻一等に説かれる。

① 世界悉檀。  楽欲悉檀ともいい、一般世間の願いに従って法を説き、凡夫を歓喜させ利益を与えること。

② 各各為人悉檀。生善悉檀ともいい、相手の性質や能力などに応じて法を説き、過去の善根を増長させること。

③ 対治悉檀。  断悪悉檀ともいい、三毒を対治するために貪欲の者には不浄を観じさせ、瞋恚の者には慈心を修せしめ、愚癡の者には因縁を観じさせること。

④第一義悉檀。  入理悉檀ともいい、前の三種が途中の化導であるのに対し、真理を説いて衆生を悟らせること。

 

成仏の理

成仏するための道理・法理。一般には菩薩が長年にわたって修行して一切の煩悩を断じ尽くした結果成仏されるとされるが、大聖人の仏法においては、妙法の信受によって名字の凡夫を動ずることなく、直ちに仏果に至るとする直達正観・即身成仏である。

 

世間普通の義

世の中で一般的・通常的に知られている意義・道理。

講義

まず「此等体の法門はさて置きぬ」と仰せられ、前節に述べられた、人生の苦を解決する十二因縁など仏法の法門の問題は、いったん置くとして「厄年」ということについて示されるのである。

初めに、厄という考え方が起こってきた由来に関して、中国古代の伝説上の帝王・伏羲の治世において、亀の甲羅に負われ浮き出た、八卦の記号や説明文をもとに作られたものであることを明かされる。

そして厄年とはどのような状態をいうのかについて、浅瀬に住む魚が鳶などの鳥に狙われやすいことや灯火の近くを飛んでいる夏の虫が火中に入ろうとするような状態にあることであり、陰陽五行説でいう鬼神が厄年の人の精神に入り込んでこれを悩まそうと狙っている時期である、と仰せられている。

さらに、神内、神外という陰陽五行説の考え方を分かりやすく示されている。神内というのは、もろもろの神が人間の身体の内にあって守護するために「万事心に叶う」のに対し、神外というのは、逆にもろもろの神が人間の身体、あるいは識という家を出て、外の世界のすべてを見聞する時に当たる。この時に鬼神が入り込もうと狙うというのである。

これらの厄年についての一般的な知識を述べられた後、「当年は御辺は神外と申して諸神他国へ遊行すれば慎んで除災得楽を祈り給うべし」と、大田氏に、慎重に振る舞って災いを除き楽を得ることを祈っていくよう勧められる。

次いで、大田氏は陰陽五行説からいうと「木性の人」であるから、たとえ今年が大厄であっても、春夏のころは何事もないであろうと述べられている。

その文証として至門性経の一節を引用された後、「指して引き申すべき経文にはあらざれども」と前置きされ、「予が法門は四悉檀を心に懸けて申すならば強ちに成仏の理に違わざれば且らく世間普通の義を用ゆべきか」と、大聖人があえて外道の経典とされる文を引用された理由に言及されている。

四悉檀とは仏が法を説いた四つの方法を示したもので、つまり、世界・各各為人・対治・第一義の四種類が踏まえられているように、世間一般の道理を用い、あるいは相手が悩んでいること、望んでいるところに対応して、仏法は何を明かしているかを教えて導いていくのである。

従って、強いて成仏の原理に違反しない限り、とりあえずの方便として一般世間の道理を用いるのである。

この一文は、大聖人の御化導は、あくまで折伏が根本であるということから、他経あるいは他宗教の言説に対し狭量で排斥的な行き方に走りがちな門下に対して、正しい対処法を教示された重要な御文と言えよう。

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