太田左衛門尉御返事 第二章(十二因縁の法門を略述する)

このこと最第一の歎きのことなり。十二因縁と申す法門あり。意は、我らが身は諸苦をもって体となす。されば、先世に業を造る故に諸苦を受け、先世の集まれる煩悩が諸苦を招き集め候。過去の二因、現在の五果、現在の三因、未来の両果とて、三世次第して一切の苦果を感ずるなり。在世の二乗が、これらの諸苦を失わんとて、空理に沈み灰身滅智して、菩薩の勤行精進の志を忘れ、空理を証得せんことを真極と思うなり。仏、方等の時、これらの心地を弾呵し給いしなり。しかるに、生をこの三界に受けたる者、苦を離るる者あらんや。羅漢の応供すら、なおかくのごとし。いわんや底下の凡夫をや。さてこそ、いそぎ生死を離るべしと勧め申し候え。

—————————————(第三章に続く)———————————————-

現代語訳

この人生に苦しみがつきまとうことは最第一の嘆くべきことである。仏法に十二因縁という法門がある。その意味は我らの身は諸の苦をもって本体としている。それというのも過去世に業をつくる故に諸の苦を受け、過去世の集、つまり煩悩が諸の苦を招き集めるのである。

過去の二因、現在の五果、現在の三因、未来の二果といって過去・現在・未来の三世にわたって順次に一切の苦果を感じるのである。

釈尊在世当時の声聞・縁覚の二乗は、これらの諸の苦を滅しようとして、空の理に沈み身を灰にし智を滅して、菩薩の修行の勤めと精進する志を忘れ、空の理を悟ることを真理の究極と思い込んだ。そこで仏は方等を説いた時、これらの心根を叱責されたのである。

もっとも生をこの欲界・色界・無色界の三界に受けた者で苦を離れている者があろうか。供養を受ける資格を得た阿羅漢でさえ、苦を免れなかったのである。

ましてや賤しく劣っている凡夫においてはなおさらである。であるからこそ急いで生死の苦を離れなさいと勧めていうのである。

語句の解説

十二因縁と申す法門

三界六道の迷いの因果を十二種類に分けて表した教え。すなわち十二種は倶舎論などに説かれている。縁覚の観門である。

① 無明。過去・無始以来もっている無知・煩悩のこと。

② 行。 過去の煩悩によって造る行業のこと。

③ 識。 過去の行業によって現在の母胎に託する妄念の心のこと。

④ 名色。身心が胎内で発育し六根を形成するまでの五陰をいう。名は受・想・行・識の四陰、色は色陰のこと。

⑤ 六入。六根を具足して胎内から出生しようとすること。

⑥ 触。 幼児の時は苦楽の分別がなく物に触れて感ずること。

⑦ 受。 やや成長して苦楽を識別して感受すること。

⑧ 愛。 事物や異性に愛欲を感ずること。

⑨ 取。 成人して事物に貪欲すること。

⑩ 有。 愛・取などによって未来世の生を定める業を造ること。

⑪ 生。 未来世に生を受けること。

⑫ 老死。未来世において老いて死ぬこと。

以上の十二因縁を三世に配すると、無明・行は過去の二因でこれが因となって識・名色・六入・蝕・受の現在の五果がある。また愛・取・有は現在の三因で、それが因となって生・老死の二果がある。このように十二の因縁が連鎖のように関係しあって絶えず六道の苦界を流転していくことを六道輪廻という。また十二因縁には流転門と環滅門があり、無明によって行を生じ、行によって識を生じ、以下を繰り返して、最後に生によって老死を生ずる次第の相を流転の十二因縁といい、逆に根本の無明を滅することによって行を滅し、行を滅して識を滅し、以下を繰り返して老死を滅する次第の相を環滅の十二因縁という。

 

諸苦

諸々の苦しみ。

 

過去の二因

十二因縁を三世に配すると、無明・業は過去の二因となる。無明は無始以来持っている無知による煩悩。行は煩悩によって造る善悪の行業。

 

現在の五果

十二因縁を三世に配すると、識・名色・六入・蝕・受は現在の五果となる。識は過去の行業によって現在の母胎に託する妄念の心。名色は身心が胎内で発育し六根を形成するまでの五陰をいう、名は受・想・行・識の四陰、色は色陰。六入は六根を具足して胎内から出生しようとすること。触は幼児の時は苦楽の分別がなく物に触れて感ずること。受はやや成長して苦楽を識別して感受すること

 

現在の三因

十二因縁を三世に配すると、愛・取・有は現在の三因となる。愛は事物や異性に愛欲を感ずること。取は成人して事物に貪欲すること。有は愛・取などによって未来世の生を定める業を造ること。

 

未来の両果

十二因縁を三世に配すると、生・老死は未来の両果となる。生は未来世に生を受けること。老死は未来世において老いて死ぬこと。

 

三世

過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231:03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432:12)とある。

 

次第

①順序。前後。②少しずつ状態が変わるさま。③成り行き、事情。

 

一切の苦果

あらゆる苦の結果をいう。苦果は苦しみの果報。悪業の因によって苦しみの果報を受ける。

 

在世の二乗

釈尊がこの世に住していた時の声聞・縁覚の衆生。

 

空理に沈み灰身滅智して

空理は空の理法のこと。空についての意味・理論、また空とみることによって明らかになる心理のこと。灰身滅智は焚身灰智・無余灰断ともいい、色身を焼いて灰にし心智を滅すること。

 

菩薩の勤行・精進の志

菩薩が仏道修行しようとする意志。自らの仏果を得るためのみならず、一切衆生を救済する志を立てて修行することをいう。

 

空理を証得せん事

声聞・縁覚の二乗が小乗で説く空の法理、つまり一切は皆空であると悟郎とすること。空理は空の法理、空についての理論。

 

真極

真理の究極、最高の悟り。二乗は空理を証得することを真極と誤ってとらえたわけである。

 

一切諸法の現象と本体をありのままに覚知し、究極の真理を自ら現し、他を導いて真理を悟らせていく覚者のこと。

 

方等の時

天台大師が一代聖教を説時によって五時に分けた中の方等時のこと。

 

心地

心を大地にたとえたもので、大地より五穀五果を生ずるように、衆生の心より善悪五趣を生ずるゆえに大地にたとえ心地という。

 

弾呵

小乗の教えにとどまっているのを叱ること。弾は弾劾、呵は呵責を意味する。

 

生まれること。生きること。

 

三界

欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。

 

梵語ドゥフカ(Duhkha)の訳で、苦しみ、心身を悩ます不快のこと。身と心を区別して、身に感ずる苦と、心に感ずる憂に分ける場合もある。楽に対する語で種々に分類されている。①二苦。老病死など自己の身心から起こる苦と外部から受ける苦の二つ。更に外苦には、悪人・獣などによる害苦と風雨寒熱など自然による災害の二種がある。②三苦。1.風水害・天災など好ましくない対象から感ずる苦、2.好ましい対象が崩れる時に感ずる苦、3.森羅万象が無常に感ずる苦。③四苦。生・老・病・死の四苦。④八苦。生・老・病・死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦を加えた八つの苦しみ。生老病死を一苦とし、五苦とする場合もある。⑤十苦。生苦・老苦・病苦・死苦・愁苦・怨苦・苦受・憂苦・病悩苦・流転大苦。⑥瑜伽論で説く110苦。⑦老・病・死を三種の身苦、貧・瞋・癡を三種の心苦ということもある。⑧苦の迷界は有漏から起こるので有漏の異名として用いられる。⑨三道(煩悩・業・苦)のひとつ。⑩四諦(苦・集・滅・道)のひとつ。⑪涅槃経には上苦・中苦・下苦の三種が説かれている。

 

羅漢の応供

羅漢は阿羅漢のことで応供ともいう。小乗の声聞が修行によって到達できる最高の悟りの境地。またそれを得た聖者のこと。

 

底下の凡夫

低下は卑しい・劣っていること。凡夫が煩悩を断ずることのできない愚鈍な衆生であるところから、このようにいう。

 

生死

生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。

 

講義

まず、大田氏の書状にある「本より人身を受くる者は必ず身心に諸病相続して……」ということ、すなわち人間に生まれた以上、諸病、苦しみにつきまとわれることに関して、仏法の十二因縁の法門を挙げて述べられている。十二因縁の法門について、「意は我等が身は諸苦を以て体と為す」と要約されている。この世に生を受けた我らの身心は、さまざまな苦を本体としているということを明かした法門である。すなわち「先世に業を造る故に諸苦を受け先世の集・煩悩が諸苦を招き集め候」とあるように、過去世に造った悪業、煩悩を起こしたことが原因となって、今世の身心に、もろもろの苦を招き集めるというのが十二因縁法門である。すなわち、十二因縁のうち無明・行が因となり、その結果として現在世の識・名色・六入・触・受の五果の苦を受けるのである。さらに、今度は現在における愛・取・有が三因となって、生・老死の両果の苦を受けるというものである。

このように「三世次第して一切の苦果を感ずる」のであり、今、大田氏が「本より人身を受くる者は……五体に苦労あるべし」と書いているように、人生には苦しみがつきまとうのである。

そこで、この苦果から解放されるために在世の二乗の人々が選んだ道が「空理に沈み灰身滅智」することで、空理の証得を「真極」と思い込んだのであった。「空理」とは「一切は空であり、実体はない」という真理で、そこからすべての欲望等の煩悩を断とうとしたのである。

すなわち、未来の生・老死の苦果を受けないために、現在の三因である愛・取・有を断じ、現在の苦の体である識・名色・六入・触・受を滅して、いわゆる「灰身滅智」しようとしたのである。

これに対し、そうした行き方は自分一人の救いにとらわれた利己主義の小乗の道であり、真実の苦からの解放はないとして、一切衆生に対する利他の実践の中に真実の苦からの解放の道があることを明かしたのが大乗教である。故に、大乗教の初門である方等時の経では、灰身滅智を目指す二乗に対する厳しい弾呵が繰り返し行われたのである。

ここで大聖人は、このように人生の苦を滅するために釈尊が設けた小乗から大乗への化導の移り変わりを簡潔に述べられている。

 

羅漢の応供すら猶此くの如し況や底下の凡夫をや

 

応供すなわち衆生から供養を受ける資格ありとされた羅漢の位に達した二乗たちでさえも、真実の苦からの解放の道には、このように迷ったことを指摘され、まして「底下の凡夫」が苦しみにとらわれるのはなおさらであると述べられて「さてこそいそぎ生死を・離るべしと勧め申し候へ」と、大聖人の目指されているところが「底下の凡夫」である末法の衆生を生死の苦しみから解放することにある、と明かされている。

その真実の苦しみからの解放を実現する鍵が法華経の一念三千法門にあることは、後の段で示されていくのである。

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