太田左衛門尉御返事 第七章(再び事の一念三千の重要性を示す)

正しく久遠実成の一念三千の法門は、前四味ならびに法華経の迹門十四品まで秘せさせ給いてありしが、本門・正宗に至って、寿量品に説き顕し給えり。この一念三千の宝珠をば、妙法五字の金剛不壊の袋に入れて、末代貧窮の我ら衆生のために残し置かせ給いしなり。正法・像法に出でさせ給いし論師・人師の中に、この大事を知らず。ただ竜樹・天親こそ心の底に知らせ給いしかども、色にも出ださせ給わず。天台大師は玄・文・止観に秘せんと思しめししかども、末代のためにや、止観十章・第七正観の章に至ってほぼ書かせ給いたりしかども、薄葉に釈を設けてさて止み給いぬ。ただ理観の一分を示して、事の三千をば斟酌し給う。彼の天台大師は迹化の衆なり。この日蓮は本化の一分なれば、盛んに本門の事の分を弘むべし。

—————————————(第八章に続く)———————————————-

現代語訳

まさしく久遠実成の一念三千の法門は爾前経ならびに法華経の迹門十四品まで秘しておられたが、法華経の本門の正宗分である一品二半に至って寿量品に初めて説き明かされたのである。

この一念三千の宝珠を金剛石のように壊れない妙法蓮華経の五字の袋に入れて、末法時代の貧しく苦しんでいる我ら衆生のために残し置かれたのである。

正法時代・像法時代に出現された論師や人師の中で、この大事を知る人はいなかった。だ竜樹と天親だけが心の底では知っていたが、表にはあらわさなかった。

天台大師は法華玄義・法華文句・摩訶止観でも秘そうと思われたが、末法時代のために摩訶止観の十章のうち第七正観の章に至って、ほぼ書き示されたが、少しうわべだけの解釈を施して、そのまま止めてしまわれた。ただ一念三千の理観の一分だけを示して事の一念三千については書き表すのを遠慮された。

あの天台大師は迹仏に化導されたお弟子である。

この日蓮は、本仏に化導された地涌の菩薩その人であるので、盛んに本門の事の一念三千の法門を広めることができるのである。

 

語句の解説

前四味

五味のうち最後の醍醐味を除く四味のこと。乳味・酪味・生酥味・熟酥味をいう。

 

法華経の迹門十四品

妙法蓮華経28品のなかの前半14品を迹門という。迹門の中心思想は「一仏乗」の思想である。すなわち、声聞・縁覚・菩薩の三乗を方便であるとして一仏乗こそが真実であることを明かした「開三顕一」の法理である。それまでの経典では衆生の機根に応じて、二乗・三乗の教えが説かれているが、それらは衆生を導くための方便であり、法華経はそれらを止揚・統一した最高の真理(正法・妙法)を説くとする。法華経は三乗の教えを一仏乗の思想のもとに統一したのである。そのことを具体的に示すのが迹門における二乗に対する授記である。それまでの大乗経典では部派仏教を批判する意味で、自身の解脱をもっぱら目指す声聞・縁覚を小乗と呼び不成仏の者として排斥してきた。それに対して法華経では声聞・縁覚にも未来の成仏を保証する記別を与えた。合わせて提婆達多品第12では、提婆達多と竜女の成仏を説いて、これまで不成仏とされてきた悪人や女人の成仏を明かした。このように法華経迹門では、それまでの差別を一切払って、九界の一切衆生が平等に成仏できることを明かした。どのような衆生も排除せず、妙法のもとにすべて包摂していく法華経の特質が迹門に表れている。この法華経迹門に展開される思想をもとに天台大師は一念三千の法門を構築した。

 

本門正宗

本門は本地が久遠五百塵点劫成道の本仏として釈尊が説いた法華経後半14品のこと。正宗は正宗分のことで、一経の本論となる部分のこと。

 

法門三千の宝珠

一念三千を宝の珠にたとえたもの。

 

妙法五字の金剛不壊の袋

妙法蓮華経の五字を金剛不壊の袋にたとえていったもの。

 

末代貧窮の我等衆生

末法時代の貧しく卑しい凡夫のこと。貧窮は貧しく生活に苦しむこと。

 

正法

仏滅後の時代区分である正法時・像法時・末法時の正法時のこと。仏の教えが正しく実践され伝えられる時代。仏滅後1000年までの期間。

 

像法

釈迦滅後千~二千年の間。すべての仏に正像末がある。この時期は教法は存在するが、人々の信仰が形式に流されて、真実の修行が行われず、証果を得るものが少ない時代。

 

論師

阿毘曇師ともいう。三蔵のうちの論蔵に通じている人をいったが、論議をよくする人、論をつくって仏法を宣揚したひとをいう。

 

人師

人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。

 

竜樹

梵名ナーガールジュナ(Nāgārjuna)の漢訳。付法蔵の第十四。2世紀から3世紀にかけての、南インド出身の大乗論師。のちに出た天親菩薩と共に正法時代後半の正法護持者として名高い。はじめは小乗教を学んでいたが、ヒマラヤ地方で一老比丘より大乗経典を授けられ、以後、大乗仏法の宣揚に尽くした。著書に「十二門論」1巻、「十住毘婆沙論」17巻、「中観論」4巻等がある。

 

天親

天親菩薩ともいう。生没年不明。45世紀ごろのインドの学僧。梵語でヴァスバンドゥ(Vasubandhu)といい、世親とも訳す。大唐西域記巻五等によると、北インド・健駄羅国の出身。無著の弟。はじめ、阿踰闍国で説一切有部の小乗教を学び、大毘婆沙論を講説して倶舎論を著した。後、兄の無着に導かれて小乗教を捨て、大乗教を学んだ。そのとき小乗に固執した非を悔いて舌を切ろうとしたが、兄に舌をもって大乗を謗じたのであれば、以後舌をもって大乗を讃して罪をつぐなうようにと諭され、大いに大乗の論をつくり大乗教を宣揚した。著書に「倶舎論」三十巻、「十地経論」十二巻、「法華論」二巻、「摂大乗論釈」十五巻、「仏性論」六巻など多数あり、千部の論師といわれる。

 

心の底に知らせ給い

法華経本門の一念三千の法門を心の中では知ってはいたが、ということ。

 

色にも出ださせ給はず

外に向かっては説きださなかったということ。

 

天台大師

05380597)。中国・南北朝から隋代にかけての人で中国天台宗の開祖。智者大師ともいう。父は陳起祖、母は徐氏。姓は陳氏。諱は智顗。字は徳安。幼名は王道。荊州華容県(湖南省)に生まれる。十八歳の時、湘州果願寺で出家し、次いで律を修し、方等の諸経を学んだ。陳の天嘉元年(0560)、北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳大師は初めて天台大師と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。南岳大師は天台大師に普賢道場を示し、四安楽行を説いた。天台大師は南岳大師のもとで修行に励み、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉(善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。陳の宣帝の太建7年(05759月、天台山に入山したので、一般に天台大師と呼ばれ、その宗旨を天台宗というようになった。講述は多いが、特に「法華玄義」十巻、「法華文句」十巻、「摩訶止観」十巻の法華三大部は有名である。天台大師は法華玄義・法華文句で法華経の教相を明らかにし、摩訶止観で法華経の極理を一念三千法門としてほぼ明かし、その修行法として一心三観・一念三千の観法を説いた。

 

法華玄義のこと。天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。

 

天台大師の三大部の一つ「法華文句」のこと。法華経の初め、序品の「如是我聞」から、最後普門品の「作礼而去」までの一字一句を、因縁・約教・本迹・観心の四釈をへて、くわしく10870枚にわたって解釈している書。

 

止観

摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。

 

人師が経論を注釈したもの。

 

理観の一分

理観は諸法の中に本然的にそなわる平等不変の真理を瞑想等によって観ずること。一分は一部分、あるいは本来の姿のこと。

 

事の三千

生命の本質を十界互具・百界千如・三千世間と開いて、余すところなく説き明かした仏法の極理である。釈尊はこの哲理を法華経とし、天台は摩訶止観で一念三千を体系づけた故に理である。日蓮大聖人は法華経本門寿量品文底に秘沈した三大秘法の南無妙法蓮華経を説かれ、一切衆生成仏の大御本尊を建立されたがゆえに事である。

 

斟酌

①相手の事情や心情をくみとること。くみとって手加減すること。②あれこれ照らし合わせて取捨すること。③言動を控えめにすること。遠慮すること。

 

迹化の衆

いまだ本地を明かしていない迹化の化導を受けた弟子たちのこと。天台大師は薬王菩薩の後身として迹化の衆に位置付けられる。

 

本化の一分

本仏に教化された衆生のこと。法華経従地涌出品第15で出現した地涌の菩薩をさす。一分は一身の側面・その人自身。または多くあるものの一つ。

 

本門の事の分

法華経本門事の一念三千のこと。

講義

ここでは、寿量品に明かされた久遠実成の事の一念三千の法門が釈尊の一大聖教の究極であるとともに、正法・像法時代でなく末法に広められる大法であることが述べられている。

初めに「久遠実成の一念三千の法門」が釈尊一代の説法の中でも、爾前経や法華経迹門には明かされず、本門の正宗分、その中でも如来寿量品第十六においてのみ明かされたと仰せられている。これは釈尊の仏法の中でも最も究極の法であることを示されるためとともに、真言や華厳の経にもあるなどという邪義を一蹴されているのである。

しかも「此の一念三千の宝珠をば妙法五字の金剛不壊の袋に入れて末代貧窮の我等衆生の為に残し置かせ給いしなり」と仰せられ、釈尊は一念三千の法門を寿量品で説き顕したが、それは在世の衆生のためでなく滅後末法の衆生のための法であったことを示されている。

もし、在世の衆生のためならば、いったん寿量品を説き顕したのを「妙法五字の袋」に入れる必要はないはずだからである。

これと同じ趣旨の御文としては、観心本尊抄の結びの「一念三千を識らざる者には仏・大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」(0254-18)があまりにも有名である。ここから、法華経の題号の「妙法蓮華経」が、この一念三千の珠を包んだ「金剛不壊の袋」であることが明らかである。

次にこの「妙法蓮華経」の中に一念三千の宝珠が収められていることを、正法時代に知っていたのは、竜樹・天親だけであったが、彼らは心の奥底で知っていたけれども、外に向かって述べることはしなかった、と指摘されている。

なぜ、知りながら広めなかったかの理由については、時の至らざる故、機にあらざる故、付嘱を受けていなかった故等、諸御書に示されている通りである。

もとより、言葉に出していないのに内心では知っていたなどと、どうしていえるのかといった素朴な疑問が出てくるところであろうが、この点については、竜樹・天親の遺した書を読んだときに、このことを知っていたとしか解釈しようのない文言があちこちにあることから、このようにいえるのであるとだけ述べておくことにしたい。

次いで、像法時代の人師については、中国の天台大師はその三部作である法華文句、法華玄義、摩訶止観の中で、極理である一念三千については秘すことを考えたが、それでも末代の衆生のためを思って摩訶止観の全十章のうち第七章の正観止観章にいたって、あらあら一念三千の法門を書き記した。しかし「但理観の一分を示して事の三千をば斟酌し給う」と述べられている。すなわち、天台大師が明かした一念三千の法門はあくまで凡夫の一念に理として本然的に三千の法数を具えることを観ずる理観の一分にすぎず、事の一念三千はあえて記すことを控えたと仰せられている。

さらにその理由として、次に「彼の天台大師は迹化の衆なり、此の日蓮は本化の一分なれば盛に本門の事の分を弘むべし」と仰せられている。

天台大師はあくまでも「迹化の衆」の役割を果たしたに過ぎない、ということである。迹化の衆とは、未だ本地である五百塵点劫の成道を明らかにしていない、言い換えれば本地から垂迹した始成正覚の釈尊に化導された弟子たちのことを指す。天台大師が迹化の薬王菩薩の後身であるとされていることから、ここでは迹化の衆とされたのである。

迹化の衆であるということは、その師である迹仏の法門を超えるわけにはいかない。故に天台大師は、迹仏の立場で説かれた法華経迹門の一念三千、すなわち理観の一分しか説くわけにはいかなかったのである。

これに対して、日蓮大聖人は本地を明らかにした久遠実成の教主釈尊に化導された本化地涌の菩薩の上首・上行菩薩の再誕であられるから、「本化の一分」との立場から法華経本門の事の一念三千の法門をいま盛んに弘通しているのである、と仰せられている。

 

 

タイトルとURLをコピーしました