椎地四郎殿御書(如渡得船御書)2012:02号大白蓮華より。先生の講義

椎地四郎殿御書(如渡得船御書)2012:02号大白蓮華より。先生の講義

 

「仏の使い」の誉れも高く堂々と語りゆけ

 

「われわれこそは、如来につかわされた尊い身分であると確信すべきであります。自分をいやしんではなりませぬ」

草創学会の機関紙「価値創造」に綴られた御師・戸田先生の御指導であります。

「『仏の使い』であります。如来につかわされた身分であります。凡夫のすがたこそしておられ、われら学会員の身分こそ、尊極・最高ではありませんか」

昭和21年(1946)学会再建のため、戦後の荒野に戸田先生がただお一人、立ち上がられたあたりのことでした。長く苦しい、皆が不幸のどん底にあえいでいた時代です。

そのなかにあって、戸田先生は、学会員の尊い使命を教えてくださったのです。

学会員の皆さんこそ、まぎれもなく「仏の使い」「如来の使い」である。

“仏の理想を全民衆に弘めゆく最極・最高の仏法にほかならない”」

戸田先生の叫びは、会員の心奥に火を灯しました。“わが生命”に目覚めた人間ほど、強いものはありません。一人一人の胸中に、勇気が生まれました。勇気が湧きました。そして希望が芽生えてきました。

戸田先生の75万世帯の成就といっても、その本質は、一人一人の使命の自覚から始まったのです。目の前の友人と共に、幸福への大道を歩みゆく、「仏の使い」として生きる実践が、尊極の歓喜を生み、地涌の陣列を喜々として拡大していったのです。

日蓮仏法は、万人に「如来の使い」の自覚と、如来と同じ慈悲行を促し「幸福の人生」「勝利の人生」を拡大してゆく宗教です。

この尊い「仏の使い」すなわち、「法華経の行者」の使命と大功徳を教えられている御書が、今回学ぶ「椎地四郎殿御書」です。

私自身「若き日より暗唱するほど胸に刻んできた御書の一つです。「伝統の2月」を迎えるにあたり、今再び、全学会員の同志と共に、仏法を語り抜く誉れの使命を学んでいきたいと思います。

 

 

本文

 

椎地四郎殿御書    弘長元年四月    四十歳御作

  先日御物語の事について彼の人の方へ相尋ね候いし処・仰せ候いしが如く少しもちがはず候いき、これにつけても・いよいよ・はげまして法華経の功徳を得給うべし、師曠が耳・離婁が眼のやうに聞見させ給へ、末法には法華経の行者必ず出来すべし、但し大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし、火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや、大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや、法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども・かへす事とがむる事なし、諸河の水入る事なくば大海あるべからず、大難なくば法華経の行者にはあらじ、天台の云く「衆流海に入り薪火を熾んにす」と云云、

 

現代語訳

 

先日話されていたことについて、彼の人のほうに尋ねたところ、あなたが仰せになられたのと少しの違いもなかった。これにつけてもいよいよ信心に励んで法華経の功徳を得られるがよい。師曠の耳・離婁の眼のように聞いたり見たりされるがよい。末法には法華経の行者が必ず出現する。ただし大難に値えば強盛の信心でいよいよ喜んでいくべきである。火に薪を加えるに火勢が盛んにならないことがあろうか。大海には多くの河水が流れ込む。しかし大海は河水を返すことがあるだろうか。法華経という大海、またその行者に、諸河の水は大難として流れ込むけれども、押し返してとがめたりすることはない。諸河の水が入ることがなければ大海はない。大難がなければ法華経の行者ではない。天台大師が「多くの河水が海に流れ入り、薪は火を熾んにする」というのはこれである。

 

講義

 

青年こそ、鋭い眼と確かな耳を持て

 

本抄は、日蓮大聖人は門下の椎地四郎に与えられた御書です。椎地四郎あての御書は本抄だけであり、どのような人物であったか詳しくは分かっていません。

ただ、本抄の末尾に「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ」と仰せられ、また四条金吾や富木常忍に宛てた御書に椎地四郎の名前を見ることができます。これらのことから椎地四郎は、大聖人の晩年、各地の門下と大聖人のもとを行き来し、門下の様子を大聖人に報告し、また大聖人のお心を門下に伝える役割を担っていたようすがうかがえます。師匠からの信頼も厚く、師弟の歴史に名をとどめていた模範の門下であったのではないでしょうか。

本抄の冒頭では、椎地四郎が、大聖人に対し何らかの御報告をしたことが記されています。その件について大聖人が、その人に確認をされたところ、四郎の報告と全く同じであったと仰せです。

報告を受けて、大聖人は、四郎が私心なくありのまま正確に伝えたことを賞讃し、いよいよ信心に励んで「法華経の功徳」を得ていくよう励まされているのです。そして「師曠が耳」「離婁が眼」のように、今後も適確に、正確に物事を見聞していくよう教えられています。

この仰せから推察するに、四郎に「法華経の功徳」を受けなさいと言われている六根清浄の功徳のことかもしれません。同品では、法華経を人々に弘め教える人には、六根、すなわち清らかで優れた眼や耳をもつて、自身と人々を守り導いていける功徳があると説かれています。信心で磨いた生命に具わる豊かな力で、真実をありのままにとらえ、智慧を発揮し困難を打ち破り、福徳を聞いていく功徳があるのです。

この「師曠」と「離婁」については、戸田先生もよく話題にされ、青年に教えてくださいました。“時代・社会の変革のため、広布を誤りなく進展させゆくため、青年は何事にも真実を見極める鋭い「眼」、真実の声を聞き分ける確かな「耳」を持て”。私自身、常にこのことを心に刻み、戸田先生のもとで万般にわたる訓練を受け切りました。

 

大難こそ法華経の行者の証し

 

それは末法の悪世において、「法華経の功徳」をうけていくために知るべき最も大切な真実とは何か、続く御文で、大聖人は厳然と仰せになられています。

「末法には法華経の行者必ず出来すべし」

ここで「必ず」と仰せです。もし法華経の行者が出現しなければ、仏の金言が虚妄になってしまう。仏の言葉が真実である以上、必ず、末法に民衆を救う法華経の行者が出現しないわけがない。そう読まずして、法華経を読んだことにはなりません。

そして、何よりも、この法華経の行者の実践を貫き、経文を証明してきたのが、日蓮大聖人にほかなりません。

そのうえで「但し」以下の御文では、法華経の行者の要件が綴られています。その根本が「大難来りなば強盛の信心弥弥悦びをなすべし」との仰せです。

いかなる大難にも真正面から立ち向かい、勝利し、悠然と乗り越えていくのが、法華経の信心です。御書には「悦び身に余りたる」(1343:08、最蓮房御返事)「大に悦ばし」(0237:12、開目抄下)「いよいよ悦びをますべし」(0203:07、開目抄上)と「大難」即「歓喜」の仰せが随所に示されています。

どんな大難があっても、正法弘通に生き抜き、目の前の苦悩を取り除き、幸福の種を心田に植えていく悦びに勝るものはない。この最高にして最強、そして最尊の人生を促す力が、法華経に具わっています。法華経に生きること自体が、最高の幸福なのです。

本抄では大難に挑む法華経の行者の境涯について、天台大師の『摩訶止観』の文に即して、二つの側面から仰せになられています。

一つには、法華経の行者の境涯を「火」に、大難を「薪」に譬えられています。火に薪をくべれば、火の勢いはますます盛んになります。それと同様に、難が起れば信心の炎はいやまして燃え上がり、法華経の行者としての自覚と確信も強く盛んになるのです。

もう一つは、法華経の行者の境涯を「大海」に、大難を「衆流」あるいは「河の水」「諸河の水」に譬えられています。「法華大海の行者」とも仰せです。大海には河の水が流れ込もうが、それを押し返すことはありません。反対に、注ぎ込まれる水を受け入れて、海はさらに豊かになっていくのです。

 「大海へ衆流入る・されども大海は河の水を返す事ありや」

この御文を拝するたびに、いかなる迫害にも屈することなく、悠々と大難を受け入れ、勝ち越えられた大聖人の広大な御境涯が偲ばれ、深い感動を新たにします。

ともあれ、難があるからこそ、信心の炎が燃え上がる。大海のごとき広大な境涯を開いていける。そして必ず仏になれる。信心があれば、大難こそ宿命転換の絶好の機会ととらえていけるのです。

さらには「大難なくば法華経の行者にはあらじ」と仰せです。法華経に説かれたとおりに大難が起るということとは、末法の法華経の行者としての実践が正しかったという何よりの証左となるのです。

 

牧口先生「真の行者であれ」

 

大聖人の御在世当時、世間でも、法華経を信じたる者たちは少なからずいました。しかし彼らは、ただ自らの功徳を求めて講義を聴いたり、写経をしたりするだけにすぎませんでした。それは「困難な時代に、命懸けで迷い悩める人を、一人も残らず断じて救う」という仏の真意とは、かけ離れた法華経観であったのです。

この当時の法華経を敢然と打ち破られたのが、大聖人の死身弘法の「行者」としての大闘争であられました。

創価の父・牧口先生が「信者」と「行者」を厳格に立て分けられていたことも有名です。牧口先生は獅子吼されました。

「魔が起るか起らないかで信者と行者の区別がわかるではないか」

すなわち、自分だけの利益を願い、三障四魔との戦いのない者は、ただの「信者」にすぎないと喝破されました。広宣流布のために菩薩行に励み、三障四魔と戦っていく人こそ、真の「行者である」教えられたのです。

この精神の通りに、「行者」としての実践を貫いてきたのが創価三代の師弟であり、誉れの学会員の皆様方にほかなりません。ゆえに学会の前進に、三障四魔や三類の強敵が競い起こることは必然です。そしてまた、学会員の一人一人が、「法華経の行者」であるからこそ、学会は幾多の難を勇敢なる信心で受け止め、厳然と勝ち越えていくことができたのです。

 

本文

 

  法華経の法門を一文一句なりとも人に・かたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし、経に云く「亦不聞正法如是人難度」と云云、此の文の意は正法とは法華経なり、此の経をきかざる人は度しがたしと云う文なり、法師品には若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給いて僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は 如来の使と見えたり、貴辺すでに俗なり善男子の人なるべし、

 

現代語訳

 

法華経の法門を一文一句でも、人に語るのは過去の宿縁が深いと思いなさい。法華経方便品に「亦正法を聞かず、是の如き人は度し難し」とある。この文の意味は、正法とは法華経であり、法華経を聞かない人は済度し難い、という文である。法華経法師品には「若し是の善男子、善女人、我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、法華経の、乃至一句を説かん。当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり」と説かれており、僧も俗も尼も女も一句をも人に語る人は如来の使いである。というのである。いま、あなたは俗であるからすでにこの善男子の人である。

 

講義

 

「一文一句」でも語る意義

 

法華経の本門を一文一句でも語っていく宿縁の深さを教えられています。

前段で大聖人は、大難に挑む法華経の行者の境涯について述べられました。それは、ほかでもない大聖人御自身の御闘争の姿そのものであります。

しかし、実際に難が起こり、迫害を受ける師匠の姿を目の当たりにすると、妙法の正しさを疑い、信心が揺らいでしまった門下も少なからずいました。その中にあって椎地四郎は、健気に師匠の正義を語り弘教に励んでいたと推察されます。大聖人に連なる宿縁の深さを述べられ、そしてまた師弟不二の実践そのものを、最大に讃嘆されています。

大聖人はまず方便品の文を引かれます。

これは、釈尊が唯一の仏道をすべての人に教えたけれども人々は反発して正法を聞き入れないこと、しかしながら、正法を聞かない衆生は救済できないことを述べられた経文です。正法以外に成仏の道はありません。それゆえ、釈尊のみならず、すべての仏は、あらゆる手立てを尽くして正法を説き聞かせるのです。

これは、末法滅後において法華経を弘通することが、いかに困難であるかを述べられるとともに、それゆえに法を語り弘める実践が、どれほど尊い振る舞いであるかを教えられているのです。

したがって「語る」という行為そのものが尊いのです。「声仏事を為す」(0708:09、御義口伝)です。声で決まるのです。

声は力です。「勇気の声」「確信の声」「慈愛の声」が相手の心に響き、生命を揺り動かしていくのです。

大聖人は続いて法師品の文を通して「一句」を語っていく人は「如来の使い」であると示されています。「如来の使い」とは、仏から遣わされて仏の仕事を行う人のことです。

法師品の文では、男性であれ女性であれ、法華経を一句でも説いていくならば、その人は「如来の使い」であると説かれています。

大聖人はそれを受けて僧俗、男女の区別なく、妙法を一言でも語る人は「仏の使い」であると教えられています。そして、在家であり妙法流布に邁進する椎地四郎に対して、あなたも経文に説かれる「善男子」「如来の使い」であることは間違いないと讃えられているのです。

仏の真実の言葉であるからこそ、「一文一句」でも語る意義と使命は、はかりしれないものがあります。また、その「一言」を語る実践に大功徳が生じるのです。

私たちの日々の折伏の実践においても、まったく同じです。

難解な法理を語って破折することだけが折伏ではありません。難しく考える必要はない。信心の励む中で自らが実感する体験や喜び、確信を、飾らずにありのまま伝えていけばよいのです。

「この信心で絶対に幸せになります!」

「題目で自分自身を変革していけます!」

「祈って乗り越えられない困難はありません!」

相手の幸福を真剣に願って誠実に語る一言。満々たる生命力から発せられる確信と歓喜の一言。友の苦労を突き破る勇気と希望の一言。その一言こそが、相手の生命の仏性を呼び覚ましていくのです。ゆえに「一文一句」でも語ること自体が立派な折伏行であり、その尊き聖業に福徳が薫らないわけがないのです。

今から60年前、私が24歳の時に我が故郷・太田の地で拡大の指揮を執った折にも、この思いを胸に戦いました。「一文一句でも語る地涌の陣列を構築することを目指して、誠実に一人一人を励まし続けました。

私の願いは、ただ一つでした。

それは、“戸田先生は折伏の師匠である。ゆえに、折伏の報告をしている師匠に喜んでいただきたい”その思いで戦いました。

そして、“会員の一人一人が「仏」である。この仏の皆さまを尊敬し、存分に戦える環境を作ろう。そのために必要なことは、何でもさせていただこう”。この決意で戦いました。

ともあれ、妙法の偉大さ、信心の素晴らしさを、一言でも語っていく人は、一人ももれなく仏の使いです。妙法を語ったこと自体、仏の使いとして無量の功徳を積んでいるのです。生々世々、福徳に満ちた生命として、赫々と輝いていくことは間違いありません。

折伏は

仏と等しき

功徳かな

2月闘争」から60周年を迎える今、私と同じ心で広宣流布に戦い、弘教・拡大に励む青年部をはじめとする全国同志の皆さまを、重ねて讃嘆したいのです。

 

 

本文

 

  此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は生死の大海を渡るべき船なるべし、妙楽大師云く「一句も神に染ぬれば咸く彼岸を資く、思惟・修習永く舟航に用たり」と云云、生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず

 

現代語訳

 

この経を一文一句でも聴聞して心に染める人は生死の大海を渡ることのできる船のようなものである。妙楽大師が「だれでも一句なりとも心神に染めるならば涅槃の岸に到る助けとなる。更にそれを思惟し修習するならば、以て生死の大海を舟で渡るのに永く支えとなるであろう」等と言っている。生死の大海を渡るのは妙法蓮華経の船でなくては叶わないのである。

 

講義

 

法華経こそが生死の大海を渡る船

 

人生には苦悩や悩みがつきものです。また誰しも、生死という苦しみからは逃れることはできません。深く果てしなく続く苦悩を譬えて「生死の大海」と示されています。

大聖人は、妙楽大師の『法華文句記』を引かれ、法華経を一文一句でも聞いて、心肝に染める人は、この生死の大海を渡っていける船に乗るようなものであると仰せです。妙法蓮華経の船に乗れば、いかなる人生の荒波があろうと、苦悩渦巻く大海を渡り切って、成仏の境涯という「勝利の彼岸」「幸福の彼岸」に至ることができるのです。

大聖人が万人の成仏を実現する根源の仏種として説き明かされた「南無妙法蓮華経」の一句には、仏が説いたあらゆる教えが含まれます。その一句を信受することにより、万人に本来具わる仏界の生命を開きあらわし、生死の苦悩と慈愛を常楽我浄へと大転換させゆくことができるのです。

ここで、大聖人は一文一句でも「聴聞」するとおおせになっていること自体に着目してみたい。

妙楽大師は『法華文句記』で、本抄の文に続いて「法華経を聞いて信じた人も、信じなかった人も、順延も逆縁も共に仏縁となるから、ついには苦悩からの脱出し覚りを得る」と述べています。

相手の状況を理解しつつ、ともかく法華経を耳に触れさせていくこと、聞かせていくことで、相手の心に仏の種が植えられ、生命が触発されていくのです。

ゆえに仏法対話の際に、相手の反応に一喜一憂する必要は全くありません。一たび仏縁を結べば、その人はやがて機会を得て成仏の境涯を必ず開くことができるからです。

ここまで拝してきたように、妙法を一文一句でも語る功徳は甚大です。そしてまた聞いた人も仏縁を結んだことで、その福徳は無間に広がりゆくものです。したがって「語る」「聞かせる」「語り合う」という「対話」こそが極めて重要なのです。

 

 

本文

 

  抑法華経の如渡得船の船と申す事は・教主大覚世尊・巧智無辺の番匠として四味八教の材木を取り集め・正直捨権とけづりなして邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて生死の大海へ・をしうかべ・中道一実のほばしらに界如三千の帆をあげて・諸法実相のおひてをえて・以信得入の一切衆生を取りのせて・釈迦如来はかぢを取多宝如来はつなでを取り給へば・上行等の四菩薩は函蓋相応して・きりきりとこぎ給う所の船を如渡得船の船とは申すなり、是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり、能く能く信じさせ給へ、四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ、委くは又又申すべく候、恐恐謹言。

 

現代語訳

 

そもそも法華経薬王品の「渡りに船を得たるが如し」とあるなかの船というのは、教主大覚世尊が巧智無辺の船大工として四味八教という材木を取り集め、正直捨権とけずって邪正一如と切り合わせ、醍醐一実という釘を丁と打って、生死の大海へ押し浮かべ、中道一実の帆柱に界如三千の帆を上げて、諸法実相の追い風を得て、以信得入の一切衆生を取り乗せて、釈迦如来は楫を取り、多宝如来は綱手を取られるとき、上行等の四菩薩は呼吸を合わせてきりきりと漕いでいかれる船を「渡りに船を得たるが如し」の船というのである。

これに乗ることができる者は日蓮の弟子・檀那等である。よくよく信じられるがよい。四条金吾殿に会われたらよくよく語られるがよい。くわしくはまた申すであろう。恐恐謹言。

 

講義

 

薬王品に説かれている「如渡得船」の文を通して生死の大海を渡り切る船である法華経の功力について、見事な譬えをもって教えられています。

まず、この法華経という船をつくった工匠は、無量無辺の巧みな智慧をもつ釈尊であると仰せです。そして釈尊が一生で説いた諸教のうち、四味八教、すなわち法華経以前の諸経について、船を構成する材木に譬えられています。

この材木を船の部材として生かすためには、ただ並べるだけではなく、削って形を整える必要があります。そのことを、方便品の「正直に方便を捨てて、但だ無上道を説く」の文を引かれ、「方便を捨てる」ことを「削る」という表現に託して示されます。

続いて整えた部材を船として組み上げていくにあたって「邪正一如ときり合せ・醍醐一実のくぎを丁と・うつて」と仰せです。

邪正一如とは、悪人も仏の当体であるということです。爾前経では許されなかった悪人成仏が法華経で明かされ、万人成仏が現実となります。どんな人も成仏できるという法華経の完全な教えに合致させて、法華経以前に説かれた諸経をも生かしてくのです。

また醍醐一実とは、仏の覚った真実を唯一説き示した教えであり、五味のうち最高の醍醐味である法華経の教法を指します。「醍醐一実のくぎ」とは、教えを完成させる釘です。

すなわち、万人の仏性を認め、万人の仏性を開くという仏の真実の願いどおり、設計され建造されたのが、法華経の大船なのです。

船が完成して、いよいよ「生死の大海」へとの出航です。

その帆柱は、「中道一実」、帆は「界如三千」であると仰せです。それを船の中心に高く掲げ帆柱とします。界如三千とは十界互具・百界千如・一念三千です。万物のありのままの姿です。妙法を根本とした生命の大境涯です。それを帆とするのです。

さらにその帆は「諸法実相」という仏の教えを追い風として、成仏の彼岸に向けて前進すると述べられています。諸法実相とは、万物の本来真実の姿です。法華経が説く諸法実相とは、どのようなものにも仏の壮大な境涯が具わっているということです。その真実を説いた妙法を信じ実践する時、あらゆる困難を打開し前進する智慧と力が発揮できるのです。そうであればこそ、諸法実相の追い風なのです。

そして、この船に乗るのは「以信得入の一切衆生」、すなわち妙法を信受するすべての人々であると仰せです。もとより法華経の船とは、万人を差別なく成仏へと導くことのできる大船にほかなりません。しかし「信」がなくては船にのりこむことがそもそもできない。反対に「信」ありさえすれは誰でも乗ることができます。

続いて、この船の舵をとるのは人々を成仏の彼岸へと正しく導く教主釈迦如来であると示されています。そして、船を引っ張り助ける綱を取る役目は、法華経において釈尊の説法の正しさを保証し助けた多宝如来が担うと述べられています。

また、仏の指し示す目標に向かって船を漕ぐのは、上行等の四菩薩であると明かされます。

仏の説いた教えを、現実に持ち、人々に教え導いていくのが四菩薩をはじめとする地涌の菩薩です。すなわち成仏の彼岸へと皆が乗る船を進めていく働きともいえるでしょう。

仏の根本の願いを実現する法華経という船。その船の舵を担うのが教主釈尊であり、綱手を引くのが多宝如来。中道一実の帆柱をしっかりと立て一念三千の帆を大きく張り、四菩薩が漕ぎ手となり万人成仏へ向かって前進する。なんと壮大な、船でしょう。

これらの譬えの締めくくりとして、大聖人「是にのるべき者は日蓮が弟子・檀那等なり」と仰せです。椎地四郎をはじめ、妙法を正しく信受する大聖人の弟子こそが、この船に乗る資格があるのです。そして、生死の大海を渡り、成仏への航路を間違いなく進んでいけるのです。ゆえに「よくよく信じていうように」と、どこまでも「信」が肝要となることを重ねて述べられているのです。

 

「歴史を創るは この船たしか」

 

本抄をあらためて拝すれば、椎地四郎という純真な門下に、大聖人と共に生き、法華経の一文一句でも語りゆく人生の素晴らしさを教えられて、勇気と確信を与えられている御抄であると拝することができます。戸田先生も冒頭紹介した御指導に続けて、「仏の使い」「如来の仕事」とは、一切の人を仏の境涯に置くことであり、全人類の人格を最高の価値にまで引き上げることだと教えられています。そして、こう綴られています。

「全人類を仏の境涯、すなわち、最高の人格価値の顕現においたなら、世界に戦争もなければ飢饉もありませぬ。全人類を仏にする、全人類の人格を最高価値のものとする。これが『如来の事』を行ずることであります」

御本仏に連なるここの崇高な精神闘争を繰り広げている戸田先生に出会って、今年で65星霜、一貫して私は、愛する青年たちに、大切な全同志に、声高らかに伝えたい。

わが学会こそが、21世紀の激動の荒波にあって、生命尊極の仏法哲理を掲げ、人類の平和と共生と繁栄の大航路を切り開きゆく大船です。

学会は、民衆の境涯を高める「哲学の大船」です。一人一人を蘇生させる「勇気の大船」であり、未来を洋々と照らす「智慧の大船」です。

「歴史を創るは この船たしか」です。

一文一句でも、自分の揺るぎない確信を朗らかに語りながら堂々と「仏の使い」として、勝利のドラマを築いてまいりましょう。わが学会こそが、人類の「希望の大船」なりと確信して。

タイトルとURLをコピーしました