日妙聖人御書 2014:03大白蓮華より 先生の講義
「求道」即「勝利」の広布の人生を
恩師・戸田城聖先生は、青年の求道の質問を大いに喜ばれました。
たとえ大変お疲れでらっしゃる時も、青年から教学の質問を受けると、目の輝きが増し、仏法の深理のうえから明快に答えてくださった。
「青年の求道には、かなわないよ」と、よく笑みを浮かべられていました。
青年は常に向上し、より偉大な自己を確立しなければならない。学会の青年部が読書と思索の習慣をつけることで、それが日本の先達となって、次代は力強い社会になる。そのために立派な指導者になってほしい。こう語られていたことも懐かしい思い出です。
御」書を拝すると、日蓮大聖人が門下の質問を大切にされていたことが伝わってきます。
ある女性門下の教学上の質問に答えて、「先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事りがたき大善根にて候」とも仰せになりました。
仏法の智慧の光明で周囲を照らす
法を真摯に求めることは、それ自体が大善根となります。
私たちの実践に照らせば、自身の境涯を開くだけでなく、周囲をも仏法の智慧の光明で明るく照らすことができます。
「智慧」は「希望」の光源です。
「求道」は「勝利」の原動力です。
日蓮大聖人の御在世に、鎌倉から佐渡の地まで大聖人のもとへ、求道の旅をした女性門下がいました。そのあまりにも真剣で健気な門下を、大聖人は「日妙聖人」と呼ばれ、「聖人」の称号を贈られております。
今回は「日妙聖人御書」を通して、大聖人がどれほど求道の女性門下を喜ばれたのか。そのお心を拝するとともに、仏の願いと、それに呼応する弟子の実践を学びます。
本文
日妙聖人御書 文永九年五月 五十一歳御作
過去に楽法梵志と申す者ありき、十二年の間・多くの国をめぐりて如来の教法を求む、時に総て仏法僧の三宝一つもなし、 此の梵志の意は渇して水をもとめ飢えて食をもとむるがごとく 仏法を尋ね給いき、
現代語訳
過去に楽法梵志という者がいた。12年の間多くの国をめぐり歩いて如来の教法を求めていた。当時は仏法僧の三宝が一つもなかった。この梵志の心は、あたかも渇して水を求め、飢えて食を求めるように仏法を尋ね求められたのであった。
講義
命を賭して法を求めた先達
「うつつならざる不思議なり」(1220:03)。流罪された佐渡にまで女性門下が不惜身命の決心で訪ねてきたその時に、大聖人御自身の驚きと感慨が込められたお言葉です。乙御前の母に送られた御書のなかにある一節です。今日では日妙聖人とこの乙御前の母は同一人物であると考えられています。
大聖人は、繰り返し、想像を絶するこの母の求道の旅を讃えられました。
本抄は、文永9年(1272)5月25日、大聖人が佐渡流罪中に、日妙聖人に送られた御書です。
本抄の大半は、釈尊自身の過去世の仏道修行の様子や、仏法者たちの求道の姿を取り上げ、それらの人物にも優るとも劣らない、前例のない女性門下の求道心を賞讃される内容です。それとともに、万人を仏にする法華経の極理と、その仏法を持つ実践の在り方を教えられています。
最初に、楽法梵志が命を賭して法を求めた例が紹介されます。
楽法梵志が、渇して水を求めるように仏法の教えを求めていた時に、婆羅門に出会う。婆羅門は、あなたの皮を紙とし、骨を筆として、血を出して書くのであれば、法を教えようと説く。楽法梵志は、言われるがままに、わが身を捧げて、法を聞く準備を整えた。ところが、忽然と婆羅門は消えてしまう。天を仰ぎ地に伏す楽法梵志。そこへ、仏陀が現れ、求道の心に応えて法門を教える。それを聞いて楽法梵志は仏に成ることができた。
本抄では、続いて釈迦菩薩の例を取り上げた後、雪山童子についても詳述されていきます。雪山童子の逸話は、鬼に身を投げることで、鬼から仏法の教えを聞こうとする有名な物語です。
さらに、命を懸けて仏法を行じた先達の例として、薬王菩薩、不軽菩薩、須頭檀王らが取り上げられていきます。
「時に適った修行」が大事
ここで一点、先に確認しておきます。楽法梵志や雪山童子は、皮を紙の代わりにしたり、鬼に身を投げたりしましたが、当然のことながら、大聖人は、今の末法に行う仏道修行ではないと示されています。
本抄では「日本国に紙なくば皮をはぐべし、日本国に法華経なくて知れる鬼神一人出来せば身をなぐべし」(1216:10)と仰せられています。どうしても、それが不可欠であった時に行った修行であり、大聖人は“日本国に紙がたくさんある時に、皮を剥いで、何になるのか”と示されています。
戸田先生も、今だったら必要なものは店で買えばいいと講義されていました。「世の中の時に合うことをやらなければ、仏道修行にはならないのです」と語り、「時に適った修行」の必要性を教えられていました。
戸田先生はよく、牧口先生の言葉を引かれて、価値に反する行動があってはいけないと言われていました。
仏法は、価値創造の源泉となる宗教です。」常に「何のため」という原点が大事です。幸福の価値、平和の価値を万人が創造していくための仏法であり、信仰です。
例えば、どんな逆境であっても、希望の価値を」想像するために、「宿命転換の法理」があります。人間不信の感情が渦巻く社会の中で、信頼と調和の価値を創造するために、万人の尊厳性を説き明かした「十界互具の法理」があります。
その時代に必要な仏法の智慧を説き、時に適った仏道修行を教えていく、それが、真実の仏法指導者です。
本文
然るに妙法蓮華経は八巻なり・八巻を読めば十六巻を読むなるべし、釈迦・多宝の二仏の経なる故へ、十六巻は無量無辺の巻軸なり、十方の諸仏の証明ある故に一字は二字なり釈迦・多宝の二仏の字なる故へ・一字は無量の字なり十方の諸仏の証明の御経なる故に、譬えば如意宝珠の玉は一珠なれども二珠乃至無量珠の財をふらすこと・これをなじ、法華経の文字は一字は一の宝・無量の字は無量の宝珠なり、妙の一字には二つの舌まします釈迦・多宝の御舌なり、此の二仏の御舌は八葉の蓮華なり、此の重なる蓮華の上に宝珠あり妙の一字なり。
現代語訳
さて妙法蓮華経は八巻である。八巻を読めば十六巻を読んだことになるのである。それは釈迦・多宝の二仏の説き明かされた経であるゆえである。十六巻は無量無辺の巻軸である。なぜなら十方の諸仏が真実と証明した御経だからである。一字は二字である。それは釈迦と多宝の二仏の文字のゆえである。一字は無量の文字である。十方の諸仏の証明のゆえである。
譬えば如意宝珠の玉は一珠であるが、二珠乃至無量珠の財をふらす。これもそれと同じである。法華経の文字は一字は一つの宝であり、無量の文字は無量の宝珠である。妙の一字には二つの舌がある。釈迦と多宝の二仏の御舌である。この二仏の御舌は八葉の蓮華である。この八葉の重なる蓮華の上に宝珠がある。それが妙の一字である。
講義
いつの時代にも普遍的な法華経
法華経は、八巻から成る経典ですが、大聖人は、法華経八巻を読むことは、十六巻を読むことになると仰せです。それは、法華経は釈迦仏の経典であると同時に、多宝仏の経典でもあるからです。また、法華経には十方の諸仏も現れます。したがって、法華経の一文字は、無量の文字となります。言い換えれば、法華経は、釈迦仏一人の教えではないということです。
さて、本抄ではここまで、先達たちの求道の実践が紹介されていました。それとともに大聖人は、先達たちがいかなる教えで仏に成れたか。その内容も紹介されています。
例えば、楽法梵志の聞いた説法は「如法は応に修行すべし非法は行ずべからず今世若しは後世・法を行ずる者は安穏なり」(1214:03)との言葉で、これは漢文で「二十字」になります。
また釈迦菩薩は同じく「如来は涅槃を証し永く生死を断じ給う、若し至心に聴くこと有らば当に無量の楽を得べし」(1214:09)との「二十字」を得て仏に成れたことが示されています。
その中でも有名なのは、不軽菩薩の「二十四文字の法華経」です。本抄でも、「我深く汝等を敬う敢て軽慢せず所以は何ん汝等皆菩薩の道を行じて当に作仏することを得べし」(1215:06)と紹介されています。
時代とともに説き方は異なっても、諸仏はその時代にあった法華経を説いていきます。事実、法華経には、日月燈明仏の法華経、大通智勝仏の法華経、威音王仏の法華経があったことが示されています。戸田先生は、釈尊の法華経28品、天台大師の『摩訶止観』、大聖人の南無妙法蓮華経を、それぞれ「三種の法華経」と表現されていました。「同じ法華経にも、仏と、時と、衆生の機根とによって、その表現が違うのである」と教えられました。
「妙」の一字こそ諸仏の結論
特に末法濁悪の一切衆生を救うためには、結局は、その人自身の生命を変革する大法を説くしかありません。
それは、自身の中にこそ宇宙大の可能性があるという「衆生本有の妙理」に目覚め、それを自から引き出す以外に救済の方途はありません。
一切の生きとし生けるものの中に、尊極な生命が具わっている。誰人も仏と同じ生命を持ち、一切を育む慈悲と、人々の闇を照らす智慧と、無明と戦いゆく勇気を持っている。ゆえに万人が尊厳なる存在であり、その胸中にある仏と等しい生命を涌現すれば、皆が仏となる。万人成仏の道を明かし、人々に希望と勇気を与えたのが大聖人の仏法です。
誰でも必ず自分から逆境を切り開くことができる。この一点に目覚めることが信仰の肝要です。そうでなければ、自分の外に「法」や「仏」を求め、時にはすがりつき、ただ奇跡だけを頼むような信仰が蔓延してしまうからです。
そうした末法という時代に出現された日蓮大聖人は、南無妙法蓮華経の大法を説かれ、唱題行によって万人が自身の無間の可能性を引き出し、仏と等しい生命力で、自他共の幸福を築ける方途を確立されました。
「妙の一字」は、無量の宝珠です。
諸仏もまた、この「妙の一字」から出生したと仰せです。
「妙の一字」には「変毒為薬」の力があります。煩悩・業・苦の三道を、法身・般若・解脱の三徳へ転ずる力があります。提婆の悪人成仏も、竜女の即身成仏も、全部「妙の一字の功徳」です。
したがって、この「妙の一字」を持つ女人は、悪世のなかにあっても、何も恐れる必要はありません。
あらゆる先達が求め抜いた「法」とは南無妙法蓮華経であるとの大確信は、悪世の中で、混乱の社会に生きる日妙聖人にとって、最大の勇気を生む源泉となったことでしょう。
続いて、大聖人は、この仏法の法理のうえから、日妙聖人が仏になることは疑いようがないと示されていくのです。
本文
我等具縛の凡夫忽に教主釈尊と功徳ひとし彼の功徳を全体うけとる故なり、経に云く「如我等無異」等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり、譬えば父母和合して子をうむ子の身は全体父母の身なり誰か是を諍うべき、牛王の子は牛王なりいまだ師子王とならず、師子王の子は師子王となる・いまだ人王・天王等とならず、今法華経の行者は其中衆生悉是吾子と申して教主釈尊の御子なり、教主釈尊のごとく法王とならん事・難かるべからず、
現代語訳
この妙の珠は、昔釈迦如来が檀波羅蜜といって、わが身を飢えた虎に与えた功徳、鳩を救うためにわが身を鷹に与えた功徳、尸羅波羅蜜といって、須陀摩王として虚言しなかった功徳、また忍辱仙人として歌梨王に身をまかせた功徳、能施太子・尚闍梨仙人等として六度万行の功徳を、この妙の一字に収めている。釈迦はこの妙の珠をもって末代悪世の我等衆生に、一つの善根も修行していないけれども六度万行を満足する功徳を与えられたのである。「今此の三界は、皆是れ我が所有である。其の中の衆生は、悉く是れ我が子である」とあるのはこのことをいうのである。われら煩悩に縛られた凡夫がたちまちに教主釈尊と功徳が等しくなるのである。それは教主釈尊の功徳の全体と受けとるからである。法華経には「我が如く等しくして異なること無し」とある。法華経を信じ行ず者は釈尊と等しいという文である。譬えば父母が和合して子を産む。その子の身はすべて父母の身である。だれがこのことで異論をはさむであろうか。牛王の子は牛王であり、いまだに師子王とはならない。師子王の子は師子王となる、いまだに人王とはならない。今、法華経の行者は「其の中の衆生は悉く是れわが子である」とある。教主釈尊の御子である。よって、教主釈尊のいうに法の王となることは困難ではないのである。
講義
「受持即観心」で直ちに仏に
それまでの菩薩たちは、六波羅蜜と言われる修行をして、長遠の期間を経て成仏する道を求めました。
これに対して、大聖人は「受持即観心」の道を確立されました。
「観心本尊抄」に「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(0246-15)と仰せです。
すなわち、「妙法蓮華経の五字」には、釈尊の因行果徳がすべて具足しており、私たちは、六波羅蜜の一つ一つを修行しなくても、同じ功徳を得て、成仏の境涯に至ることができる。それゆえに本抄では、「教主釈尊と功徳とひとし」とも、「彼の功徳の全体うけとる故」とも仰せです。
いかなる悪世末法の五濁の凡夫も、必ず仏に成れる、言葉にすると簡単なようですが、これはどの宗教革命はありません。大聖人は、万人成仏の民衆仏法を確立されたのです。
それは、本来、釈尊の願いでもありました。そのことを大聖人は「如我等無異」の原理を通して、再度、確認されていきます。
「如我等無異」の仏の願い
すなわち本抄で、「『如我等無異』等云云、法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり」と仰せです。
「如我等無異」こそ、仏の願いが込められた法華経の真髄の一節であり、法華経が「何のために」説かれたのかを明確に示す珠玉の一句です。
方便品第2に、「一切の衆をして、我が如く等しくして異なること無からしめんと欲しき」とあります。全ての衆生に、仏と同じ境涯を得させようという大慈大悲です。
仏は常に、民衆幸福の幸福を願っています。
釈尊だけでなく、諸仏も同じです。
法華経には「諸仏の本誓願は、我が行ずる所の仏道を、普く衆生をして、亦た同じく此の道を得せしめんと欲す」ともあります。
そしてまた、釈尊自身が発迹顕本をして久遠の本地を明かした後に、あらためて仏の願いを示した経文が、私たちが毎日読誦している自我偈の最後の一節です。
「毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして、無上道に入り 速やかに仏身を成就することを得せしめん」
この「毎自作是念の悲願」こそ、仏の根本の願いです。
ですから、衆生がいかに仏道修行を積み重ねても、「釈尊と斉等なり」とならなければ、仏法の目的を成就したことにはならない。
大聖人は本抄で、「師子王の子は師子王となる」、法華経の行者は「教主釈尊のごとく法王とならん」と仰せです。
仏が「吾子」として、一切衆生を「仏子」と呼ぶのも「仏」にするためです。仏子がいつまでも「子」のままでは、親である「仏」は、永遠に使命を全うすることはできません。
「師弟不二」こそ成仏への直道
大聖人は、本抄に続けて、中国時代の伝説の理想的な君主であった堯王と舜王が、それぞれ孝心にかけた自分の子どもでなく、孝養の心深き優秀な民の子に王の位を譲った話を紹介しています。そして「民の現身に王となると凡夫の忽に仏となると同じ事なるべし、一念三千の肝心と申すはこれなり」(1216:07)と仰せです。牧口先生の御書にも線が引かれた一節です。
ここは、ほんらいなら「王の子」は「王」となるべきところを、優れた王はそうしなかった。その基準は、真の孝養があるかどうかであったと指摘されています。
私たちの実践で拝するならば「凡夫の忽ちに仏となる」かどうかは、要するに、信心があるかどうかという一点で決まります。
一念三千の法理の柱は十界互具であり、なかんずく人界所具の仏界です。しかし、理論上は、皆が仏であるというのと、実際に、自分の中にある仏の生命を涌現するのとは天智雲泥の差です。ここに「師弟不二」の重要性があります。
師匠は何よりも、弟子をはじめ一切衆生の幸福を願い、万人成仏の大願に生き抜きます。しかし、いくらその慈悲の陽光を浴びても、弟子が同じ誓願の心を起こさなければ、真の意味で、仏に成る道にはいることはできません。一人一人が自分から胸中の可能性を開かない限り、幸福を自ら得ることはできないからです。
偉大な師匠が一人か輝く一方で、弟子は救われることをただ願っている。それでは仏の「如我等無異」は実現しません。
弟子の一人一人が、師匠と同じ誓願に立ち、同じ心で、同じ生き方を始めていく。ここに「日蓮と同意」の生き方があります。「師弟不二」の実践があります。
「如我等無異」とは、同じ心で弟子が立ち上がってこそ、はじめて真の価値を生みます。師匠の大願と、それに呼応して立ち上がる弟子の誓願が合致してこそ、初めて「如我等無異」の法理は脈動します。
いいかえれば、「如我等無異」の弟子が、どれだけ多く輩出されるのか。仏と同じ願いに立って、さらに多くの周囲の人を「釈尊と斉等なり」と励ましていく。この壮大な民衆革命こそ、法華経が人類の経典として存在する目的であるといえましょう。
本文
而るに法華経は・正直捨方便等・皆是真実等・質直意輭等・柔和質直者等と申して正直なる事・弓の絃のはれるがごとく・墨のなはを・うつがごとくなる者の信じまいらする御経なり、糞を栴檀と申すとも栴檀の香なし、妄語の者を不妄語と申すとも不妄語にはあらず、一切経は皆仏の金口の説・不妄語の御言なり、然れども法華経に対し・まいらすれば妄語のごとし・綺語のごとし・悪口のごとし・両舌のごとし、此の御経こそ実語の中の実語にて候へ、実語の御経をば・正直の者心得候なり、今実語の女人にて・おはすか、当に知るべし須弥山をいただきて大海をわたる人をば見るとも此の女人をば見るべからず、砂をむして飯となす人をば見るとも此の女人をば見るべからず、当に知るべし釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈・四王等・此女人をば影の身に・そうがごとく・まほり給うらん、日本第一の法華経の行者の女人なり、故に名を一つつけたてまつりて不軽菩薩の義になぞらへん・日妙聖人等云云。
現代語訳
しかるに法華経は「正直に方便を捨てて…」「皆是れ真実…」「心が質直意柔ナンである…」「柔和質直も者…」等と説いて、正直である事、あたかも弓の絃の張ったように、墨縄をうったように真っ直ぐな心の者が信じる御経である。
糞を栴檀と云い張っても栴檀の香はない。妄語の者を不妄語であると言っても不妄語とはならない。一切経は皆仏の金口の説で不妄語のお言である。しかしながら法華経に対するならば妄語のようなもの、綺語のようなもの、悪口のようなもの、両舌のようなものである。此の法華経こそ実語の中の実語である。実語の法華経は正直の者が信じ会得できるのである。今、あなたは実語の女人でいらっしゃるであろう。まさに知りなさい。須弥山を頭にのせて大海をわたる人を見ることができても、この女人を見ることはできない。砂を蒸して飯とする人を見ることはできても、この女人を見ることはできない。まさしく釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行菩薩・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈天王・四王等が、この女人を影が身に添うように守られるであろうことを知りなさい。あなたは、日本第一の法華経の行者の女人である。それゆえ名を一つ付けてつけて不軽菩薩の義になぞらえよう。「日妙聖人」等と。
講義
「正直の者」が心得る経典
続けて大聖人は求法の旅に出た玄奘と伝教大師を取り上げて、彼らは男子なり・上古なり・賢人なり・聖人なり」と示された後、「いまだこかず女人の仏法を求めて千里の路をわけし事を」と仰せです。
いかに日妙聖人の求道の行動が偉大な足跡を残したのか。法華経の竜女の即身成仏、摩訶波闍波提比丘尼の記別を並べながら、末法の女人のなかで類を見ない出来事であると賞讃されていきます。
ここで大聖人が強調されているのは、法華経に説かれる「正直」という原理です。
大聖人は、「正直に方便を捨てて」、「皆是れ真実」、「質直にして意は柔軟に」、「柔和質直なる者」の経文を引かれます。
ここで挙げられている経文は、権教への執着を断ち切ること、多宝如来の真実の証明を受け入れること、そして、永遠に戦い続ける仏と共に自分がいることを素直に信じることが説かれたものです。
法華経は、心根がまっすぐな人が信じる経典であることを教えられています。「如我等無異」の仏法だからこそ、真っすぐな信心を貫き通した人の胸中には、必ず仏の広大な世界が現れ出るのです。
大聖人は、日妙上人の行動の中に、この法華経の実践の肝要が脈打っていることを御覧になられたのでありましょう。命を賭した女性の求法の旅は、あまりにも健気で、あまりにも尊貴な法華経の行者の振る舞いであります。それゆえに、「日本第一の法華経の行者の女人なり」とまで賞讃されていると拝されます。
誓願の行動は、一人一人が異なります。もとより誓願とは自発の行為です。それぞれの境遇や環境で、具体的な行動は皆、違います。
しかし、そこに流れるのは、「皆が仏である」「皆を仏にする」という法華経の極理と実践を師匠と共有し、立ち上がるという「師弟共戦」の誓願ではないでしょうか。
師匠と「同じ心」で同じく妙法を弘通する。「一人の人を大切にする」「目の前の一人を徹して励ます」という行動が同じであれば、その人はま、ぎれもなく師弟不二の人です。
大聖人が賞讃されているのは、命懸けの行動をしたということだけではなく、どんな時も大聖人と共に戦うという「師弟共戦」の誓願を感じられたのではないでしょうか。それゆえに「実語の女人」として、真正の「法華経の行事の女人」として戦う「心」を讃嘆されていると拝されてなりません。
「心こそ大切なれ」「心こそ大切に候へ」です。また「凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり」です。
あの「冬は必ず春となる」(1253-13)のお手紙を頂いた妙一尼に対して、大聖人は、亡くなった夫が法華経のために命を懸けたことは、雪山童子が身をなげたことに変わらない。凡夫が仏になる実践だったのですよと激励されています。
この妙法の女人、妙法の門下を、「釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏・上行・無辺行等の大菩薩・大梵天王・帝釈・四王等」が必ず守ることを大聖人がお約束されています。
どこまでも懸命に戦う真心の民衆のための仏法です。仏子を断じて守りに護り抜く。これが「人間のための宗教」の正道です。
本文
相州鎌倉より北国佐渡の国・其の中間・一千余里に及べり、山海はるかに・へだて山は峨峨・海は涛涛・風雨・時にしたがふ事なし、山賊・海賊・充満せり、宿宿とまり・とまり・民の心・虎のごとし・犬のごとし、現身に三悪道の苦をふるか、
現代語訳
相州の鎌倉から北国の佐渡の国までのその中間は一千余里に及んでいる。山海をはるかに隔て、山は峨峨としてそびえ海は涛涛として波立ち、風雨は時節にしたがうことがない。山賊や海賊は充満している。途中の宿宿の民の心は虎や犬のようである。さながら現身に三悪道の苦しみを経験するかと思うほどである。
講義
師は誰よりも弟子の心情を知る
日妙聖人の求道の旅が、いかに険しいものであったのか。最後に、その様子を大聖人が綴られています。日妙上人から見れば、師匠が本当に詳しく状況を分かってくださっているということをあらためて知って、大きく包まれる思いだったでしょう。道中がいかに難儀であったか。何よりも、鎌倉で内乱が勃発し、世情が不安な中での旅です。山賊・海賊がいて、道々も、「民の心・虎のごとし・犬のごとし」とあるような乱れた社会です。
大聖人と、健気な門下たちとの心の絆。この絆は、いかなる法難にも、決して、破られることはありませんでした。折にふれて直接、また、お手紙などの指導、激励を通して、紡がれた心の交流は、競い起こる魔も絶対に断ち切ることのできない師弟不二の世界を築きあげました。
この不二の弟子たちによって、大聖人の仏法は、年を重ねるごとに現実の社会に根を張り、輝きを発揮していったのです。
実直にして剛毅な四条金吾、純粋な阿仏房・千日尼夫妻、真面目な富木常忍、団結して戦う池上兄弟と夫人たち。亡き父、そして母の願いを受け継いだ青年南条時光、そして日妙聖人をはじめ、ひたむきな女性門下たち。
さまざまな門下が、それぞれの人間ドラマを演じながら、一人一人が広宣流布に生き抜き、法華経の理想を現実の社会の中で築き上げようと戦い切っていました。師匠と共に戦うという、弟子たちの体験の実証の中で、仏法が一人また一人と伝わっていったのです。
仏勅の使命はますます重大
日妙聖人の求道のドラマ、私には、まさに、日々、仏法の真髄をわが五体で求めながら、一人でも多くの人に仏縁を結び、社会を仏法の叡智で豊かにしていこうと懸命に戦い続けている学会員、なかんずく婦人部、女子部の姿と重なって仕方がありません。
大聖人が賞讃された「日本第一の法華経の行者の女人」の実践は、そのまま、世界中の学会員の行動にほかなりません。
今、世界中に地涌の青年が出現し、法華経の生命尊厳の思想を掲げ、人間主義の思潮を大きく広げています。また、世界的スケールで、それぞれの地域で「法華経の行者」が社会に躍り出ている時代になりました。御本仏の御照覧は絶対に間違いありません。
春3月、戸田先生が折々に青年に語った言葉が蘇ってみます。
東北の女子部に、こう励まされました。
「乱れた世の中で、生活が苦しいとき、なぜわたくしたちは生まれてきたかをかんがえなければなりません。みな、日蓮大聖人様の命を受け、広宣流布する役目をもってうまれていたということが宿習なのです。
それがわかるか、わからないかが問題なのです。
また、こうもいわれました。
「青年の特徴は『情熱』と『思索』だ。これがあれば、年をとらない」と。
青年が仏法を求め、学び、そして、現実社会の大舞台に勇んで踊り出て、平和と人間主義の連帯を確実に築いていく。これこそが、人類の待望する新時代を建設しゆく具体的な行動です。
創価学会の仏意仏勅の使命は、いやまして重大になっているのです。