南無御書

 堂塔つくらず、布施まいらせず、ただおしき物は命ばかりなり。これを法華経にまいらせんとおもう。三世の仏は皆、凡夫にておわせし時、命を法華経にまいらせて仏になり給う。この故に、一切の仏の始めは南無と申す。南無と申すは月氏の語、この土にては帰命と申すなり。帰命と申すは、天台、釈して云わく「命をもって自ら帰す」等云々。命を法華経にまいらせて仏にはならせ給う。日蓮、今度、命を法華経にまいらせて。

現代語訳

堂塔を造らず、布施も奉っていない。惜しむのは命だけである。これを法華経に奉ろうと思った。三世の仏は皆凡夫であられた時、命を法華経に奉って仏になられたのである。このゆえに一切の仏の上には南無というのである。南無というのはインドの言葉で、この国では帰命と訳すのである。帰命というのは、天台大師が「命を以って自ら帰す」と釈している。一切の仏は命を法華経に奉って仏に成ったのである。日蓮も今度、命を法華経に奉って。

 

語句の解説

布施

物や利益を施し与えること。大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなくてはならない六波羅蜜の一つ。壇波羅蜜のこと。布施には財施・法施等、種々の立て分けがある。

 

三世

過去世・現在世・未来世のこと。三世の生命観に立つならば、生命の因果の法則は明らかである。開目抄には「心地観経に曰く『過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ』等云云」(0231:03)とあり、十法界明因果抄には「小乗戒を持して破る者は六道の民と作り大乗戒を破する者は六道の王と成り持する者は仏と成る是なり」(0432:12)とある。

 

凡夫

仏法の道理を末だ理解せず迷っていること。

 

南無

梵語ナマス(namas)の音訳。南謨・那摸・那摩ともいう。帰命・帰礼・恭敬・信従・帰趣・稽首・救我・度我などと漢訳する。絶待の信をもって仏および教説に帰依することをいう。

 

月氏

中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前三世紀後半ごろ、中央アジアに月氏という民族がおり、インドの一部を領していた。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとしてみていたようである。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は、「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。

 

天台

05380597)。天台大師。中国天台宗の開祖。慧文・慧思よりの相承の関係から第三祖とすることもある。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。中国の陳代・隋代の人。荊州華容県(湖南省)に生まれる。天台山に住したので天台大師と呼ばれ、また隋の晋王より智者大師の号を与えられた。法華経の円理に基づき、一念三千・一心三観の法門を説き明かした像法時代の正師。五時八教の教判を立て南三北七の諸師を打ち破り信伏させた著書に「法華文句」十巻、「法華玄義」十巻、「摩訶止観」十巻等がある。

 

命を以て自ら帰す

摩訶止観巻二上に「当に専ら一仏の名字を称し、慚愧懺悔して命を以て自ら帰すべし。十方の仏の名字を称うる功徳と正しく等し」とある。

 

講義

本抄は、前後が欠落しているために、全体の内容、御述作年月日、宛名など不明であるが、御真筆は京都・妙蓮寺にある。

断片の短い御文であるが、御自身の命をなげうって法華経を弘められている御心境が拝される。

 

南無・帰命

 

本文に「三世の仏は皆凡夫にてをはせし時・命を法華経にまいらせて仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す・南無と申すは月氏の語・此の土にては帰命と申すなり」と仰せである。ここで南無とは月氏の語、すなわちNamasの音訳であることが明かされ、更に、その意味が「帰命」であると説かれている。

帰命とは天台大師が「命を以て自ら帰す」と釈しているように、自らの命をなんらかの対象に帰一させていくことである。

一般の世間の事柄においても、ある思想・信念に自らの命をかけたり、ある人間に自己を捧げたりして、仏法でいう「帰命」に類似した状態が現れる場合もあるが、仏法の「帰命」とは全く似て非なるものである。

そのうえ決定的な相違は、前者が世欲的、相対的、目に見える現象的な対象であるのに対し、後者は世欲を超えた目に見えざる絶対的な法としての「法華経」を対象としているということである。

たとえ、南無阿弥陀仏、南無観世音菩薩などのように、一見、人格的な対象に帰命するかのように思える場合でも、仏法の場合は、その人格の奥に貫かれている見えざる“法”に、信仰者が自らを帰一しているのである。

この点があいまいになると、“法”を無視した単なる人格的信仰に陥ってしまい、仏法にあらざる外道となってしまうのである。

末法の御本仏・日蓮大聖人は、このあいまいさを徹底的に除かれ、“法”に帰命すべきことを主張されたことは、本抄にも明らかである。

すなわち「三世の仏は皆凡夫にてをはせし時・命を法華経にまいらせて仏になり給う、此の故に一切の仏の始には南無と申す」と仰せである。「一切の仏の始には南無と申す」とは、例えば南無釈迦牟尼仏・南無薬師如来・南無阿弥陀仏などという表現を指しておられる。

通常ならば、信者が釈迦牟尼仏・薬師如来・阿弥陀仏などを対象として自らを帰一していくことを指するのであるが、ここでは、それぞれの仏自身、自分が凡夫であったときに命を法華経に奉って成仏したのであり、そのゆえに仏の名前に「南無」を冠すといわれている。

これは南無・帰命、の考え方について、法華経を中心とすべきことを明確にされたものといえるであろう。

言葉換えていえば「南無釈迦牟尼仏」も「南無薬師如来」も「南無阿弥陀仏」もすべて「南無妙法蓮華経」と唱える中に含まれるのであり「南無妙法蓮経」を忘れて、他の仏・菩薩に南無と唱えるのは、根本を忘れて枝葉を重んじている転倒のいき方となっていることを知らなくてはならない。

ここに、帰命の意味は、凡夫と法華経との間に関係があるとの考え方が明確に打ち出され、凡夫と法華経との間に、仲介的な人格的対象の介在することを排除されることにより、一切衆生皆成仏道という絶対平等の仏法精神を完全に発揮されたというべきであろう。

そして、ここでいう法華経が、文底独一本門である南無妙法蓮華経の大御本尊であることはいうまでもない。

なお、南無・帰命については「白米一俵御書」「御義口伝・南無妙法蓮華経の事」の講義に詳しいので参照されたい。

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