法華経題目抄(妙の三義の事)2014:7月号大白より、池田大作先生の講義

法華経題目抄(妙の三義の事)2014:7月号大白より、池田大作先生の講義

65年前の1949年(昭和247月。日蓮大聖人の仏法を世に知らしめ、広宣流布推進の原動力となる機関紙「大白蓮華」が誕生しました。

当時の発行部数は1000部。

恩師・戸田先生は「宗教革命」と題する巻頭言、さらには「生命論」を執筆されました。21歳だった私も校正作業に携わり、師弟一体の機関誌の創刊に尽力したことを、昨日のように思い出します。

創刊号に掲載された恩師の師子吼に応えんと、私は「大白蓮華」の第2号に、詩「若人に期す」の一文を寄せました。

「生命の本質を証明し

宇宙の本源をあかした

日蓮大聖人の大哲学にこそ

若人よ わたしは身を投じよう

知あるものは知れ

人類を愛する者は動け

悠久の平和 広宣流布

若人よ 眼を開け

若人こそ大哲学を受持して

進む情熱と力があるのだ」

人類を照らす大仏法を弘める主体者は“我ら青年なり”との決意を綴りとどめたのです。

 

慈悲と智慧あふれる「白蓮華」

 

「大白蓮華」は、今や世界の識者も注目し、賞讃する論陣となっています。世界中に「姉妹紙」というべき機関紙が発刊され、愛読してくださっている知性の方々も多い。内外の友に、勇気と希望の哲理を届けている世界の機関誌とともに、広宣流布はいよいよすすんでいます。

そもそも「大白蓮華」の「白蓮華」とは、妙法蓮華経の蓮華です。万人成仏の妙法を体現し、無限の慈悲と智慧にあふれる真実の仏の象徴です。

妙法は、「一切衆生が皆、仏である」という真理にめざめさせる教えです。

ゆえに妙法は、三世永遠の「絶対的幸福」の軌道です。

妙法に勝るものは、断じてありません。

「大白蓮華」という題字には、偉大なる妙法を説き明かし、その極理を万人に伝えゆかんとする誓願が込められているのです。

草創の父母は、「大白」を携えて、勇んで友の激励に、弘教にと歩きました。

どんな苦難や試練に直面しても、希望の哲学を胸に懐き、常に題目を唱えて進んでいく人生は、晴れ晴れと輝きます。自行化他の唱題で「心の財」を積む人は、三世永遠に幸福と勝利の軌道を進みゆけるのです。このことを大聖人は繰り返し記されています。

まさしく、今回拝する「法華経題目抄」では、希望と勇気の源泉となる哲学が示され、女性門下に幸福になる直道を教えられています。妙法の偉大な功力を学んでいきましょう。

 

本文

 

法華経題目抄    根本大師門人    日蓮 撰

  南無妙法蓮華経

  問うて云く法華経の意をもしらず只南無妙法蓮華経と計り五字七字に限りて一日に一遍一月乃至一年十年一期生の間に只一遍なんど唱えても軽重の悪に引かれずして四悪趣におもむかずついに不退の位にいたるべしや、答えて云くしかるべきなり、

 

現代語訳

 

南無妙法蓮華経

問うて言う。法華経の意味も知らず、ただ南無妙法蓮華経とだけ五字七字の題目のみを、一日に一遍、一月あるいは一年、十年、一生の間に只一遍だけ唱えたとしても、軽重の悪業に引かれずに、四悪趣に堕ちないで、ついには不退転の位に到達することができるのか。

答えて言う。いかにもそのとおりである。

 

講義

 

一遍の題目にも無量の功力

 

「南無妙法蓮華経」の七字にいかなる力用が具わっているのか。

大聖人は、本抄の冒頭で、「意味も分からずに一遍の題目を唱えたとしても本当の功徳があるでしょうか」との問いを立て、法華経の題目の功徳力を厳然と明かされます。

本抄の執筆は、文永3年(12661月、与えられた人についての詳細は不明ですが、内容から、かつて念仏をしんじていた女性であると考えられています。入信して、ほどない門下とも思われます。

大聖人は冒頭から、題目を唱える功徳が絶大であることを示されています。

「一日に一遍、一月あるいは一年、十年、一生の間に、ただ一遍だけ唱えたとしても、軽重の悪業に引かれずに、四悪趣に趣かないで、ついに不退転の位に到達することができる」と御断言です。

妙法には広大無辺な仏力・法力があるから、一切の悪業を転換することができるのです。

「南無妙法蓮華経は師子吼の如し」(1124:07)です。

どんなに百獣が吠えても、師子の一声はすべてを打ち破ります。一遍の題目の大善の功力は、諸の悪をすべて打ち破るのです。

「南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ」(1553:12)です。

植物の種は、たった一粒であっても、芽を出し、多くの葉を茂らせ、万朶の花を咲かせ、実を結ぶという力が具わっています。

仏種である南無妙法蓮華経の題目には、成仏をもたらす一切の修行の因と、成仏した時の福徳の果がすべて納まっています。それゆえ、ただ一遍でも、我が心の田に植えるなら、仏と同じ境涯をわが身に必ず実現することができるのです。

本抄を頂いた女性門下は、「たとえ、一生に一遍の題目であったとしても、成仏の軌道に入れる」との大聖人の大確信に、深く安心して、信心を強め、さらに歓喜に燃えて唱題に励んだに違いありません。

 

一切経の肝心、諸仏の眼目

 

引き続き大聖人は「師子の筋を琴の絃にしてひとたび弾けば、他の動物の筋で作った絃はことごとく断ちきられてしまう。梅の実の酸っぱい名を聞けば、それだけで口に唾液がたまる」と、世間の不思議ですらこのような例があり、ましてや「法華経の不思議」においては、なおさらであると仰せです。

功徳とは、悪を滅し、善を生ずることです。「法華経の題目」は、生命の根源の悪を滅し、根本の善を生じさせます。それゆえに、無数の罪業は一時にぱっと消し去り、無量の福徳を開き現せるのです。

迷い、悩み、苦しむ凡夫が、一遍の題目で変毒為薬し、希望と勇気と安心の境涯を開いていける。まさに凡夫にとって「不思議の法」であり、仏が悟った妙なる法であるゆえに、「妙法」なのです。

大聖人は、「法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり」(0940:08)と明言されています。「八万聖教の肝心」とは、一切の仏の説法、あらゆる法門の要であり、肝心であるとの意義です。仏教の結論とは、この凡夫成仏の妙法にあるといことです。

また、「一切諸仏の眼目」とは、あらゆる仏が皆、この妙法を覚知して仏になったとの意です。すなわち「南無妙法蓮華経」こそ、三世永遠に万物を貫く根源の一法なのです。

 

唱題の根本は「信」の一字に

 

この根源の大功徳を開く要諦は何か。

それは「信」の一字です。大聖人は続いて「有解無信」と「無解有信」とを相対し「信」の重要性を教えられています。

「有解無信」とは、仏法の法門に理解はあるが、信心はないこと。反対に「無解有信」とは、仏法の法門に理解はないが、信心はあることを指します。

もちろん一番良いのは、仏法の法門について理解もあり、信心もある「有解有信」です。しかし、仏の智慧は甚深無量であり、その究極・肝心の法を、凡夫が自らの智慧ですべて理解することは不可能です。

法華経の譬喩品第3には「以信得入」とあります。すなわち、釈尊の弟子で「智慧第一」と讃えられるほど優秀だった舎利弗も、最終的には「解」によってではなく、師の広大無辺な教えを信ずることによって、法華経の妙理を会得しました。まさに「信」こそ、仏道を成就する要諦なのです。

御本尊は「功徳聚」ともいわれています。その尽きることのない功力を引き出していく要諦は、自身の強盛な信心です。本抄に「夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす」と仰せの通りです。

真剣にして、地道な唱題の実践の中で、無限の功徳が現れるのです。題目を唱えれば、生命力が湧き、勇気が湧いてきます。

「苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(1143:05)です。苦しい時こそ題目、行き詰ったら題目です。

戸田先生は、折々に語られていました。

「御本尊への強い願いは、必ず通ずる。それには、条件が三つある。一つ、題目。二つ、題目。三つ、題目である」

題目の力は偉大である。苦しい業を感ずる生命が、あたかも美しい花園に遊ぶがごとき、安らかな夢のごとき状態に変化するのである。

「題目は、真剣勝負で祈れば、必ず功徳となって現れる。真剣に祈れば、雑念は消え、広布の戦いに勝つことに集中できるようになる。

「負けてたまるものか!と、腹を決めるのだ。題目をあげにあげて戦うのだ。根本は題目だ。祈りである」

一人一人が広宣流布に生き、幸福になる直道を戸田先生が教えてくださったのです。

創価学会は、「大聖人直結の信心」があります。各人が「誓願の祈り」を持っています。一切経の肝心・諸仏の眼目である「法華経の題目」を、最高の「信」をもって唱えているのですから、あらゆる宿業は全部敗れて、寂光の大空を自在に遊戯する大境涯になることは間違いないのです。

 

 

本文

 

  問うて云く妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をかおさめたるや、答えて云く大海は衆流を納めたり大地は有情非情を持てり如意宝珠は万財を雨し梵天は三界を領す妙法蓮華経の五字また是くの如し一切の九界の衆生並に仏界を納む、十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む、

 

現代語訳

 

問うて言う。その所信所行の妙法蓮華経の五字とは一体どれほどの功徳を納めているのか。

答えて言う。大海はあらゆる河川の流水を納めており、大地は有情・非情にわたりて全てを包み持っており、如意宝珠は、あらゆる財宝をふらし、大梵天王は欲界・色界・無色界の三界の全てを治領する。

妙法蓮華経の五字も全く同様であり、一切の九界の衆生も仏界とともに十界互具して妙法蓮華経に納めている。正報である十界の衆生が妙法蓮華経に納まっているならば、また十界の依報である国土も当然妙法に収まり、したがって三千の万法を全て収めているのである。

 

講義

 

全宇宙の功徳が納まる「妙法」

 

ここからは、「妙法蓮華経の功徳」そのものがいかに大きいかを説かれていきます。

まず「妙法蓮華経の五字に、どれだけの功徳が納められているか」との問いを立てられ、九界並びに仏界の衆生すべて、そしてそれら十界の衆生が依って立つ環境である国土をも納めていると仰せです。

「大海は衆流を納めたり」とは南無妙法蓮華経の一法に十界の依正、森羅万象が含まれることの譬えです。

また、無量の宝を意のままに取り出せる「如意宝珠」という宝を一つ手にすれば、すべての宝を手に入れることができます。これは、南無妙法蓮華経から無量の功徳が開き、現せることの譬えです。

妙法の題目には、一切の功徳がすべて余すところなく納まっているのです。

言い換えれば、妙法といっても、自身を離れて、どこか外に求めてはならないということです。私たち一人一人の生命が、本来、妙法の当体なのです。自身の中に、もともとある力を引き出していく実践が唱題行です。

大聖人は、自分の外に成仏の根本因を求める生き方は仏法ではないと断言され、「己心の外に法ありと思はば 全く妙法にあらず麤法なり」(0383:06)と厳に戒められています。

戸田先生は「題目を唱え奉ることが、仏の境涯を開発することである」「信心とは、最も強く自分で確信することです。自分自身が妙法の当体なのだから、諸天善神が守らないわけがないと確信して、題目をあげた時に、必ずそうなるのだよ」と語られています。

「妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる」(0942:12)です。したがって、仏法の真髄はどこまでも、「わが身こそ妙法の当体である」と確信して、自身に具わる妙法の功徳を開き現し、満喫することにあるのです。

 

 

本文

 

  妙とは法華経に云く「方便の門を開いて真実の相を示す」、章安大師の釈に云く「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す」、妙楽大師此の文を受けて云く「発とは開なり」等云云、妙と申す事は開と云う事なり世間に財を積める蔵に鑰なければ開く事かたし開かざれば蔵の内の財を見ず、

 

現代語訳

 

妙とは法華経の法師品にいうには「爾前方便の権門を開いて真実の相すなわち如来所証の本法を示すのである」と。章安大師は釈して「秘密の奥蔵を開いて法体法爾の本妙を顕示することを妙というのである」といい、妙楽大師はこの文を受けて玄義釈籤の第一に「発とは開くことである」といっている。すなわち妙ということは開くということである。

一般的にいうと財を積んである蔵も、鑰がなければ開くことはできない。開かなければ当然蔵の内の財を見ることはできない。

 

講義

 

妙とは「開の義」

 

続いて大聖人は、「妙」の一字が持つ、甚深の意義について述べられていきます。本抄では、「開の義」「具足・円満の義」「蘇生の義」という「妙の三義」が示されています。

「妙と申す事は開ということなり」との御文は、「開の義」です。法華経こそが、成仏の大目的である一切衆生の成仏の道を開く、唯一の経典であると明かされています。

妙法には、九界の現実の人間生命が秘められた仏界という胸中の法蔵を開き、万人の生命を躍動させていく力があります。

法華経が説かれる以前の諸経では、仏の究極の悟りである妙法という財宝を納めた「蔵」は閉ざされたままでした。蔵があるように見えても、その中身の財宝を見た人はいなかったのです。

万人成仏を明かす法華経が説かれることによって、初めて諸経の蔵が開き、釈尊が真に説きたかった妙法という「財」が現れました。

これは仏教とは何か、という本質的な急所を教えられていると拝されます。さまざまな経典で、仏という偉大な人格や、広大な仏の覚りが説かれていますが、本当の意味でその教えが万人に開かれていなければ、何の利益もありません。

実際に、私たち自身の人生が変わり、現実の生活の中に仏と同じ尊極の境涯が現れなければ、仏教の真価は発揮されません。当時の仏教信仰は、自分の外に「偉大な仏」を置いて、その仏の功力を頼むだけの信仰です。大聖人の時代に流布していた「念仏の題目」は、まさにその象徴です。これに対して、「法華経の題目」とは、自身の生命に具わる宇宙大の妙法の力を顕現し、成仏の大境涯を開いていくための題目です。

冒頭に紹介した「大白蓮華」の創刊号の巻頭言「宗教革命」で、戸田先生は示されました。

「そもそも宗教とは『生活の法則』であり、生活そのもののなかに存在しなければならない」「いま、かりに、青年や知識人に対して、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏とどう違うかと質問したら、それに答えられる者が、いく人あるだろうか。満足に答えられる者は、皆無といってよい。それほどまでに、仏教は社会に見放され、社会人は仏教を日常生活に必要としなくなった」と。

本物の仏教があれば、社会は一新します。その本物の民衆仏法を大聖人は確立されました。それが妙法の題目です。

大聖人の仏法はどこまでも自分を変え、現実を変革する宗教です。自分自身に具わる仏性を涌現させ、自身が人間革命していくのです。日々、朗々と題目を唱えて信仰の体験を積み、その喜びを語り善の連帯を広げていく。目覚めた民衆仏法の土台の上に、生命尊厳・人間尊敬の文化が開かれ、社会の繁栄、世界の平和も確立されていくのです。

 

 

本文

 

妙とは天竺には薩と云い漢土には妙と云う妙とは具の義なり具とは円満の義なり、法華経の一一の文字・一字一字に余の六万九千三百八十四字を納めたり、譬えば大海の一渧の水に一切の河の水を納め一の如意宝珠の芥子計りなるが一切の如意宝珠の財を雨らすが如し、

 

現代語訳

 

妙とは天竺では薩といい、漢土では妙という。妙とは具足の義で、具足の具とは円満という意である。すなわち、法華経の一つ一つの文字に、六万九千三百八十四字の徳が欠けることなく納まっているのである。譬えば大海の一渧の水にはいっさいの河の水が納まり、芥子ほどの大きさのたった一つの如意宝珠が、いっさいの如意宝珠の財を降らすようなものである。

 

講義

 

妙とは「具足・円満の義」

 

続いて「妙とは具の義なり具とは円満の義なり」と述べられ「具足・円満の義」を示されます。先にも確認したように、法華経の題目は「根源の一法」であり、あらゆる功徳が完全に収まっています。

御文には「譬えば大海の一滴の水に一切の河の水を納め」とあり、また、この御文の直後には「秋冬枯れたる草木の春夏の日に値うて枝葉・華菓・出来するが如し」(0944:09)と仰せのように、「妙」の一字には、あらゆる法と功徳が円満に具わり、縁に応じて現れます。

この「妙」の一文字に、法華経の一切の功徳が、一つも欠けることなく具わっているのです。「妙法」は、古代インドの言葉「サッダルマ」を鳩摩羅什が意訳したものです。この「薩」には、「具足」という意味があるとされています。

すなわち、芥子粒のように小さい如意宝珠から一切の宝が現れるように、また、秋冬に枯れはてたようになっていた草木が、春夏の日を浴びて枝葉を茂らせ、花を咲かせ、実を成らせるように、法華経の一つ一つの文字は、あらゆる法と功徳を具えており、万物を生き生きと蘇生させます。

妙法の音声には、全宇宙のあらゆる仏が具えている尊極の仏性を呼び覚ます力があります。ゆえに題目を唱えた瞬間から、仏天の加護が動き始め、すべてを味方へと転じていけるのです。

 

 

本文

 

妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり、譬えば黄鵠の子・死せるに鶴の母・子安となけば死せる子・還つて活り、鴆鳥・水に入れば魚蚌悉く死す犀の角これに・ふるれば死せる者皆よみがへるが如く爾前の経経にて仏種をいりて死せる二乗・闡提・女人等・妙の一字を持ちぬれば・いれる仏種も還つて生ずるが如し、

 

現代語訳

 

妙とは蘇生の義である。蘇生とは蘇るということである。譬えば、黄鵠の子が死んだときに鶴の母が子安・子安と鳴くと、死んだ子が蘇るとか、鴆鳥が水に入れば魚介類はことごとく死んでしまうが、その場合、犀の角に触れれば、死んだ魚介類が皆蘇るといわれているのがそれである。同様に、四十余年の爾前の経々で種子を焦って死んだ声聞・縁覚の二乗も一闡提人も、女人も、いずれも妙法蓮華経の妙の一字を受持するならば、焦って死んだ仏種が蘇って芽を生ずるのである。

 

講義 

 

妙とは「蘇生の義」

 

最後に「妙とは蘇生の義なり蘇生と申すはよみがへる義なり」です。この「蘇生の義」は、いかなる衆生をも蘇生させ、成仏させることができるという妙法の無量無辺の功力を説いたものです。爾前経で“成仏できない”とされた悪人・女人・二乗をも成仏させることができると示されています。

ここでは「妙」の字の功徳を草木の蘇生に譬え、また、勝れた薬師が毒を薬と為すという変毒為薬の譬えを通し、「妙法」の功徳の偉大さを教えられています。蘇生とは、生き返ること、蘇るという意味です。

法華経は、他のあらゆる経典に説かれなかった、一切衆生の成仏の法理を明らかにしました。どの経典も救わない悪人や女人の成仏を明かし、万人成仏の道を開いたのです。

いわばすべての人が見捨てても、絶対に見捨てないのが法華経ともいえるでしょう。妙法を信受することで、いかなる人も成仏の境涯を開くことができるようになった。これは、人類の宿命を一大転換する光源です。苦悩のどん底から、創造の歓喜の生命へと変革させるエネルギーが、妙法の蘇生の力です。

 

題目を唱える人に行き詰まりはない

 

初代会長の牧口常三郎先生が拝されていた御書にも「妙とは蘇生の義なり」の一節に傍線がひかれていました。戸田先生は「御本尊の力は、ただただ“妙”と申し上げる以外にない。絶対に功徳ある御本尊だ。祈りの叶わぬわけがない。寸暇を惜しんで題目をあげるのだ!」と語られていました。

3年前、あの東日本大震災の直後、アメリカのデユーイ協会のガリソン元会長は、すぐさま真心の励ましを寄せてくださいました。その中で、博士は「私が直ちに想起するのは、創価学会が大戦の廃墟から、たくましく立ち上がった団体である、という事実です。まさに『妙とは蘇生の義なり』を、現実のうえで実証した団体であります」と語られていました。氏は「妙の三義」を挙げて、「自身の可能性を開き、蘇生させ、新たな創造へと」向かう」学会員の存在に、復興への希望を見出されていました。

希望の淵から活力みなぎる生活への転換を果たす。まさしく一人一人の学会員の人間革命の姿にほかなりません。創価学会は「妙とは蘇生」の御聖訓を、全世界で証明してきました。この歓喜と躍動の民衆の潮流は、もはや誰人も止めることはできません。一人一人が「幸福の主人公」との逆転劇が、世界中で演じられているのです。

「妙の三義」の結論は、闇を破る旭日のように、妙法を唱え抜く人生には、絶対に行き詰まりがないということです。日蓮仏法の根本は唱題です。朗々と題目を唱える時、我が胸中に太陽が赫々と昇る。力があふれる。慈愛がわく。歓喜が燃える。智慧が輝く。諸天・諸仏が一斉に働き始める。人生が楽しくなる。題目の力にまさるものはないのです。

今、世界5大州に題目の音声が響き渡る世界広布新時代を迎えました。なかでも21世紀の希望大陸と輝くアフリカ広布の伸展は著しい。一昨年私は、SGI青年研修会で聖教新聞社を訪れていた17人のアフリカ青年部のメンバーを激励しました。皆、地涌の誇りと使命に燃え、人類の未来を開くとの決意が迸っていました。母国へ戻り、一人一人が大きな広布拡大の原動力となっていることも、何よりも嬉しく、何よりも頼もしく聞いています。

今、アフリカの大地に題目の音声が響き渡り、蘇生と希望の道を歩む同志が続々と誕生しています。青年が輝いている。妙法という幸の種が蒔かれ、幸福の波動が広がり、ついに「アフリカの世紀」が到来したのです。

 

「信心は勝利の軌道の法則」

 

「南無妙法蓮華経を只一度申せる人・一人として仏にならざるはなしと」(1537:01、南条殿御返事)と仰せです。何か悩みがあったら、まず御本尊の前にすわり、どこまでも唱題根本に進む。その「心」を持っている人が勝ちます。

戸田先生は言われました。

「信心は宇宙の究極の法則」

「信心は智慧の宝蔵」

「信心は無上の幸福学」

「信心は勝利の軌道の法則」

題目を唱える我らに恐れはありません。さあ、きょうも、朗々たる題目を唱えながら、はつらつと生命力を湧き立たせ、勇んで、「幸福の対話」を繰り広げていこう!

人間の可能性を開き、幸福への根源の力を蘇らせる偉大な哲学を、皆が待っています。求めています。創価の地涌の菩薩がいやまして全世界に躍り出て、大白蓮華の如く幸福勝利の大輪を咲き薫らせる時が来たのです。

 

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