妙法比丘尼御返事 第八章(謗法の宗旨を信じた現証を明かす)

———————————–(第七章から続く)———————————————–

此大科・次第につもりて人王八十二代・隠岐の法皇と申せし王並びに佐渡の院等は我が相伝の家人にも及ばざりし、相州鎌倉の義時と申せし人に代を取られさせ給いしのみならず・島島にはなたれて歎かせ給いしが・終には彼の島島にして隠れさせ給いぬ、神ひは悪霊となりて地獄に堕ち候いぬ、其の召仕はれし大臣已下は或は頭をはねられ或は水火に入り・其の妻子等は或は思い死に死に・或は民の妻となりて今五十余年・其外の子孫は民のごとし、是れ偏に真言と念仏等をもてなして法華経・釈迦仏の大怨敵となりし故に・天照太神・正八幡等の天神・地祇・十方の三宝にすてられ奉りて、現身には我が所従等にせめられ後生には地獄に堕ち候ぬ。

———————————-(第九章に続く)—————————————————

現代語訳

この大きな罪科が次第に積もって人王第八十二代の隠岐の法皇という王並びに佐渡の院等は、代々仕えてきた家人にも及ばない相州・相模国の鎌倉の北条義時という人に代を取られたのみならず、それぞれの島に放たれ、嘆かれたのですが、ついにはその島々で崩御されたのです。そして魂は悪霊となって地獄に堕ちたのです。その召し使われた大臣以下の人々は、あるいは頭を刎ねられ、あるいは水や火に入って死に、その妻子等はあるいは思い死にをし、あるいは民の妻となってもう五十余年となります。そのほかの子孫は民のように卑しまれています。これはひとえに真言と念仏等を尊び、法華経・釈迦仏の大怨敵となったゆえに、天照太神、正八幡大菩薩等の天神・地祇・十方の三宝に捨てられ、現身には自分の所従等に攻められ、後生には地獄に堕ちたのです。

語句の解説

隠岐の法皇

11801239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちした後、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚である坊門信清の女を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を奪回しようと、順徳上皇や近臣と諮って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された(承久の乱)。このため隠岐の法皇と呼ばれた。

 

佐渡の院

11971242)。第84代順徳天皇のこと。後鳥羽天皇の第3皇子。母は藤原範季の娘、修明門院重子。後鳥羽院とともに、承久の乱を企てたが敗北、佐渡へ流された。以後21年間配所に在し、仁治3年(1242)没した。佐渡に流罪になったことからこの名がある。

 

相伝の家人

先祖より代々仕えてきた臣下の武士のこと。令制の帳内、内舎人、兵衛、平安時代の禁中の滝口、東口の帯刀、院の北面武者所をはじめとして、多くの武士が採用されて仕えた。

 

相州鎌倉

相模国(神奈川県)を相州という。州は国と同意で、国名を略称するときに州を用いる。鎌倉は源頼朝が幕府を開いた地で、北条家が引き継いだ地名。

 

義時

北条義時(11621224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。

 

神ひ

①心の働きを司るもの。霊魂・精霊。②精神・気力。③心識・神識・霊妙な働き。④素質・天分。

 

悪霊

後鳥羽上皇の死後、京に悪霊が出たとうわさが広がった。

 

大怨敵

邪法をもって仏や正法を持つものを迫害する敵人

 

天照太神

日本民族の祖神とされている。天照大神、天照大御神とも記される。地神五代の第一。古事記、日本書紀等によると高天原の主神で、伊弉諾尊と伊弉冉尊の二神の第一子とされる。大日孁貴、日の神ともいう。日本書紀巻一によると、伊弉諾尊、伊弉冉尊が大八洲国を生み、海・川・山・木・草を生んだ後、「吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ」と、天照太神を生んだという。天照太神は太陽神と皇祖神の二重の性格をもち、神代の説話の中心的存在として記述され、伊勢の皇大神宮の祭神となっている。

 

正八幡

天照太神とならんで日本古代の信仰を集めた神であるが、その信仰の歴史は、天照太神より新しい。おそらく農耕とくに稲作文化と関係があったと見られる。平城天皇の代に「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり、百王を守護せん誓願あり」と託宣があったと伝えられ皇室でも尊ばれたが、とくに武士階級が厚く信仰し、武家政権である鎌倉幕府は、源頼朝の幕府創設以来、鎌倉に若宮八幡宮をその中心として祭ってきた。

 

天神

①天界の衆生の総称。②諸天善神のこと。

 

地祇

大地を司る神。大地を堅牢にする神。

 

三宝

仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。

講義

念仏宗、真言宗等、謗法の諸宗を信じて大きな罪科を積んだ結果として、承久の変において朝廷方は敗北を喫したのであると現証を挙げられているところである。

承久の変では、朝廷方が真言宗や念仏宗、とくに真言宗によって勝利を祈ったために、結局、法華経・釈迦仏の怨敵となって諸天に捨てられて破北したものである。その悲惨な様子が述べられていて、謗法の恐ろしさを強調されている。

「是れ偏に真言と念仏等をもてなして法華経・釈迦仏の大怨敵となりし故に・天照太神・正八幡等の天神・地祇・十方の三宝にすてられ奉りて」と仰せられているのは、後鳥羽院等は天皇家であるから、現世においては天照太神や正八幡の守護があってしかるべきであった。しかし、天照太神に対してなんの違背もなかったが、法華経・釈迦仏に背いたために、天照太神等から守ってもらえなかったのである。法華経の正法に背く者は、諸天も守るわけにいかないからである。さらに「十方の三宝にすてられ奉り」と仰せられているのは、現世に破北を喫し、無残な最期をとげたばかりでなく、死後「神ひは悪霊となりて地獄に堕ち」たことである。

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