妙法比丘尼御返事 第五章(念仏・真言・禅の謗法)
弘安元年(ʼ78)9月6日 57歳 妙法尼
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かかることを見候いしゆえに、あらあら経論を勘え候えば、日本国の当世こそ、それに似て候え。代末になり候えば、世間のまつりごとのあらきにつけても世の中あやうかるべき上、この日本国は他国にもにず仏法弘まりて国おさまるべきかと思って候えば、中々、仏法弘まりて世もいたく衰え人も多く悪道に堕つべしと見えて候。
その故は、日本国は月氏・漢土よりも堂塔等の多き中に、大体は阿弥陀堂なり。その上、家ごとに阿弥陀仏を木像に造り画像に書き、人ごとに六万・八万等の念仏を申す。また他方を抛って西方を願う。愚者の眼にも貴しと見え候上、一切の智人も皆いみじきことなりとほめさせ給う。
また人王五十代桓武天皇の御宇に、弘法大師と申す聖人この国に生まれて、漢土より真言宗と申すめずらしき法を習い伝え、平城・嵯峨・淳和等の王の御師となりて、東寺・高野と申す寺を建立し、また慈覚大師・智証大師と申す聖人、同じくこの宗を習い伝えて、叡山・園城寺に弘通せしかば、日本国の山寺一同にこの法を伝え、今に真言を行い鈴をふりて公家・武家の御祈りをし候。いわゆる二階堂・大御堂・若宮等の別当等これなり。これは古も御たのみある上、当世の国主等、家には柱、天には日月、河には橋、海には船のごとく御たのみあり。
禅宗と申すは、また当世の持斎等を建長寺等にあがめさせ給いて、父母よりも重んじ、神よりも御たのみあり。されば、一切の諸人、頭をかたぶけ、手をあざう。
かかる世に、いかなればにや候らん、天変と申して彗星長く東西に渡り、地夭と申して大地をくつがえすこと大海の船を大風の時大波のくつがえすに似たり。大風吹いて草木をからし、飢饉も年々にゆき、疫病月々におこり、大旱魃ゆきて、河・池・田畠、皆かわきぬ。かくのごとく、三災七難、数十年起こって民半分に減じ、残りは、あるいは父母、あるいは兄弟、あるいは妻子にわかれて歎く声、秋の虫にことならず。家々のちりうすること、冬の草木の雪にせめられたるに似たり。これはいかなることぞと経論を引き見候えば、仏の言わく「法華経と申す経を謗じ、我を用いざる国あらば、かかることあるべし」と仏の記しおかせ給いて候御言に、すこしもたがい候わず。
———————————-(第六章に続く)—————————————————
現代語訳
このようなことを見てとったうえで、概略経論を探ってみたところ、日本国の現在の姿は、まさにそれに似ています。時代も末世になったので、世間の政治向きも行き届かないから世の中も穏やかではないだろうが、この日本国は他国に似ず仏法が広まっているのだから国も治まるはずだと思っていたのに、かえって仏法が随分と広まっていながら世も大変に衰え、人も悪道に堕ちる人が多いと思えるのです。
それは、日本国はインドや中国より堂塔等は多いのですが、そのうち大部分は阿弥陀堂なのです。そのうえ家ごとに阿弥陀仏を木像に造り画像にかき、人ごとに六万遍、八万遍と念仏を称えています。また他方の仏を抛って西方浄土を願うことが愚者の眼にも貴いと見えるとともに、一切の智人も皆貴いことであるとほめています。
また人王第五十代の桓武天皇の治世に弘法大師という聖人がこの国に生まれて、中国から真言宗という珍しい法を習い伝え、平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇等という国王の師となって東寺、高野山という寺を建立し、また慈覚大師、智証大師という聖人も同じくこの宗を習い伝えて、比叡山、園城寺で弘通したので、日本国の寺という寺は、一同にこの法を伝え、今も真言の法を行い、鈴を振って公家・武家の祈りをしています。いわゆる二階堂、大御堂、鶴岡八幡宮等の別当達がそれです。これは古も祈られてきましたが現在の国主等も、家には柱、天には日月、河には橋、海には船のように頼みにしているのです。
禅宗というのは、また現在の戒律を持つ僧らを建長寺等に住まわせ崇めて父母よりも重んじ神よりも頼みにしています。それだから一切の諸人も頭を下げ、手を合わせて尊んでいます。
このような世に、いかなるわけか、天変といって彗星が長く東西を渡り、地夭といって大地を覆すこと、あたかも大海の船を大風の時に大波が覆すのに似ています。大風が吹いて草木を枯らし、飢饉は毎年のように起こり、伝染病は毎月のように流行し、大旱魃があって河や池や田畑はみな枯れてしまいます。
このように三災・七難が数十年続いて起こり、民は半分に減り、残った人々が、あるいは父母、あるいは兄弟、あるいは妻子と別れて嘆く声は秋の虫の鳴く声に異ならず、家々の散りうせること、あたかも冬に草木が雪に責められているのに似ています。これはどういうことなのかと経論を見ると、仏の仰せには「法華経と申す経を謗じ、仏を用いない国があればこのようなことが起こるであろう」と仏が書き記しおかれた言葉と少しも違わないのです。
語句の解説
当世
今の世。
桓武天皇
(737~806)光仁天皇の第一皇子として天平9年(0737)誕生。第50代天皇に即位して、蝦夷の平定、兵制改革、平安遷都など数々の業績を残し、律令政治中興の英王といわれる。蝦夷平定については坂上田村麻呂を征夷大将軍として抜てきし東北開発の実績をあげた。また、政治の堕落の源流が乱れきった諸宗の僧が政治に介入していることにあると看破し、都を平安京に遷したことも、気運の清心化をもたらした。しかし桓武天皇のもっとも大きい業績は、伝教大師最澄と南都六宗との間で公場対決させ、仏法の正邪を明らかにし、正法たる法華経を興隆して善政をしたことである。この結果、政治的にも文化的にも大いに興隆した平安文化の華が咲いたのである。
御宇
ひとりの天子の時代。
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
平城
平城天皇のこと。(0744~0824)。第51代天皇(在位:延暦25年(0806年)~ 大同4年(0809)。小殿親王、後に安殿親王。桓武天皇の第1皇子。母は皇后・藤原乙牟漏。同母弟に嵯峨天皇。
嵯峨
嵯峨天皇のこと。(0786~0842)日本の第52代天皇。諱は神野。桓武天皇の第二皇子で、母は皇后藤原乙牟漏。同母兄に平城天皇。異母弟に淳和天皇他。皇后は橘嘉智子。
淳和
淳和天皇のこと。(0786~0840)。在位:弘仁14年(0823)~天長10年(0833)2月28日。平安時代初期の第53代天皇。西院帝ともいう。諱は大伴。桓武天皇の第七皇子。母は、藤原百川の娘・旅子。平城天皇、嵯峨天皇は異母兄。
東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐(にっとう)して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地(経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏(」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
智証大師
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を将来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
二階堂
もと相模国鎌倉二階堂(神奈川県鎌倉市二階堂)にあった天台宗・永福寺のこと。文治5年(1189)に源頼朝が中尊寺の二階大堂(大長寿院)を模して建立したもの。現存しない。
大御堂
もと相模国鎌倉大御堂ヶ谷(神奈川県鎌倉市雪ノ下)にあった勝長寿院の敬称。阿弥陀山と号す。源頼朝が父の義朝のために建立したもの。現存しない。
若宮
神社の本宮の祭神を、他の地に勧請して祭った神社。新宮ともいう。京都の石清水八幡宮に対して鎌倉の鶴岡八幡宮が若宮となる。鶴岡八幡宮は康平6年(1063)に源頼義が安倍貞任征伐に向かった時、京都の石清水八幡宮の分霊を祭ったのが始まり。その後、源頼朝が小林郷に移し、ここを下宮とし、後方の山上に本殿として上宮を建てた。鎌倉幕府の宗祀として将軍社参や拝賀式が行われ、源氏の氏神、武門の守護神となった。
建長寺
神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の本山。鎌倉五山の首位。巨福山と号す。建長元年(1249)第五代執権・北条時頼が建立を発願し、宋僧蘭渓道隆を開山として同5年(1253)に完成した。仏殿は丈六の地蔵を本尊とし、脇士に千体の小地蔵を置く。
天変
天空に起こる異変。暴風雨・日蝕・月蝕等。
彗星
ホオキ星を典型的なものとする天体。微塵の集合である核と,それから発散するガス体が,太陽光線の放射圧と太陽風の影響で長く尾を引いているものが多い。質量と密度は通常きわめて小さい。この出現は大火や兵乱などの起こる悪い前兆とされている。
地夭
地上に起こる異変。
疫病
悪性のウイルスによる伝染病。
大旱魃
長い間雨が降らなかったことによって起こる水不足。ひでり。
三災
三災に大の三災と小の三災がある。大の三災は、大劫のなかで住劫が終わって壊劫の時の火災、水災、風災の三災をいう。小の三災は、小劫の減劫の時に穀貴(五穀の値段が高いこと。物価騰貴)、兵革(戦争)、疫病(伝染病等の流行、思想の混乱)の災が起こること。大集経巻二十四に「若し国王有って、無量世に於て施・戒・慧を修し、我が法の滅するを見て、捨てて擁護せざれば、是の如き所種の無量の善根は、悉く皆滅失し、其の国には当に三の不祥事有るべし、一に穀貴、二に兵革、三に疫病なり」とある。
七難
正法を誹謗することによって起こる七つの難をいう。仁王経、薬師経、金光明経等に説かれている。仁王経の七難①日月失度難②衆星変改難③諸火梵焼難④時節返逆難⑤大風数起難⑥天地亢陽難⑦四方賊来難。薬師経の七難①人衆疾疫難②他国侵逼難③自界叛逆難④星宿変怪難⑤日月薄蝕難⑥非時風雨難⑦過時不雨難。金光明経の七難①疫病流行し②彗星数ば出で③両日並び現じ薄蝕恒無く④黒白の二虹不祥の相を表わし⑤星流れ地動き井の内に声を発し⑥暴雨・悪風・時節に依らず常に飢饉に遭つて苗実成らず⑦他方の怨賊有つて国内を侵掠す
講義
前章では、謗法というものがいかに恐ろしい罪になるかが経論からわかったことを述べられた。それを承けて、今、日本の現状をみると、念仏や真言宗、禅宗等が、厚く人々から尊ばれ、仏教は他のいかなる国にも負けないほど栄えているにもかかわらず、年々に災害が襲い、多くの人々が命を失い、苦悩に沈んでいる。この災いの姿は、まさしく経論に、一国が正法を誹謗しているときに起こると警告されている三災七難に符合していると指摘されるのである。
「かかる事を見候しゆへに・あらあら経論を勘へ候へば、日本国の当世こそ其に似て候へ」とは、経論に述べられている、謗法ゆえの災厄が、日本国の現状にみられるということである。「かかる事を見候しゆへに」とは、前章に述べられたように、謗法こそ最も恐るべき罪であるということである。その恐ろしさを知ったので、さらに経論をかんがえたところ、一国が謗法の場合、どのような災厄があらわれるかが記されているというのである。その具体的内容は、本章後半の「天変と申して彗星長く東西に渡り……」以下の災厄である。
ところが、日本には「他国にもにず仏法弘まりて」と仰せのように、仏法が盛んに信仰されている。それは、次に挙げられるように念仏宗であり、真言宗であり、禅宗である。
念仏宗については、寺も多いうえ、各家庭にも阿弥陀如来の木像・絵像が安置され、民衆の間に広まっていることが指摘されている。真言宗については、平城・嵯峨・淳和の各帝以来の天皇の帰依、天台宗も慈覚・智証以来密教化したこと等が述べられている。また、禅宗に関しては、建長寺を代表に挙げられ、鎌倉幕府が尊重しているさまを特筆されている。これは、各宗が主として、いかなる人々によって信仰されていたかを特徴的にとらえられているといえよう。
しかし、いずれの宗を信ずるにせよ、人々は、仏教を信仰していることに変わりはないと考えていた。これだけ多くの人々が、真心込めて仏教を信仰している以上は、仏神の加護があって、世の中が穏やかになるのが道理である。それにもかかわらず、天変・地夭・飢饉・疫病といった三災七難が毎年のように起こり、死者は続出し、悲しみの声が満ちみちている。これらの災厄は「法華経と申す経を謗じ我れを用いざる国あらばかかる事あるべし」と説かれている内容と、全く合致しているのである。
仏教が盛んに信仰されているにもかかわらず、現実の姿は謗法すなわち仏教に背いた場合の現象があらわれている。これはいったい、どういうことなのか。この疑問を次に解明されていくのである。