妙法比丘尼御返事 第九章(蒙古襲来の原因が謗法にあると示す)
弘安元年(ʼ78)9月6日 57歳 妙法尼
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而るに又代東にうつりて年をふるままに彼の国主を失いし、真言宗等の人人鎌倉に下り相州の足下にくぐり入りて・やうやうにたばかる故に・本は上﨟なればとて・すかされて鎌倉の諸堂の別当となせり、又念仏者をば善知識とたのみて大仏・長楽寺・極楽寺等とあがめ、禅宗をば寿福寺・建長寺等とあがめをく、隠岐の法皇の果報の尽き給いし失より百千万億倍すぎたる大科・鎌倉に出来せり、かかる大科ある故に天照太神・正八幡等の天神・地祇・釈迦・多宝・十方の諸仏・一同に大にとがめさせ給う故に、隣国に聖人有りて万国の兵をあつめたる大王に仰せ付けて、日本国の王臣万民を一同に罰せんとたくませ給うを、日蓮かねて経論を以て勘へ候いし程に、
———————————-(第十章に続く)—————————————————
現代語訳
これより後、代が東国に移って年を経るにつれて、彼の国主を失うもととなった真言宗等の人々が鎌倉に下り、執権の足下に入っていろいろに取り入ったものですから、もとは高僧だからということで、たぶらかされて鎌倉の諸堂の別当とし、また、念仏者を善知識とたのんで、大仏寺、長楽寺、極楽寺等を建てて尊崇し、禅宗を寿福寺や建長寺等を建てて崇めました。隠岐の法皇の果報の尽きられた失よりも、百千万億倍過ぎた大科が鎌倉に出来したのです。
このような大科があるので、天照太神、正八幡大菩薩等の天神・地祇・釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏が一同にこれをお咎めになって、隣国に聖人がいて、万国の兵を集めている大王に仰せつけて、日本国の王臣・万民を罰しようと図られるのを、日蓮は経論によってまえもって推測したのです。
語句の解説
東
関東のこと。
上﨟
修行を多年積んだ僧。②身分の高貴な人。上位に座すべき官位の高い人。③上﨟女房のこと。
善知識
善友と同意。正法を教え、ともに修行し、また正法を持ちきるよう守ってくれる人。
大仏
神奈川県鎌倉市長谷にある高徳院をいう。大異山清浄泉寺と号し、俗に長谷の大仏と呼ばれた真言宗寺院。後に荒廃し、江戸時代に浄土宗寺院として再建された。文永5年(1268)十一通の直諌状のなかで、大仏殿別当に一通送られ、「早く我慢を倒して日蓮に帰すべし」(0175:01)と破折されている。
長楽寺
神奈川県鎌倉市にあった浄土宗寺院。北条政子が開基となって、京都長楽寺隆寛の高弟願行を開山として、嘉禄元年(1225)に開創されたという。日蓮大聖人は文永五年(1268)10月11日、立正安国論の的中したことから、長楽寺に邪法・邪義を捨てて実法・実義に帰すことを勧めた手紙(十一通の直諌状)を出されている。
極楽寺
神奈川県鎌倉市にある真言律宗の寺院。霊鷲山感応院極楽律寺と号す。縁起等によると、正元元年(1259)創建。幕府の重臣・北条重時が開き、子の長時が良観(忍性)を招いた。
寿福寺
神奈川県鎌倉市にある臨済宗寺院。源頼朝が没した翌年の正治2年(1200)北条政子の発願によって建立。栄西が開山。初期の禅宗の発展に重要な位置を占めた。
果報
果は過去世の業因による結果。報はその業因に応じた報い。
多宝
多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。
十方の諸仏
十方と上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。
大王
(1215~1294)フビライのこと。モンゴル帝国の第5代皇帝。また中国、元朝初代の皇帝。諡、聖徳神功文武皇帝。廟号、世祖。チンギス・ハンの末子トルイの子。モンゴル帝国第4代皇帝憲宗モンケの弟。
講義
かつて承久の乱における朝廷方の敗北は、謗法である念仏宗、真言宗等を信じ祈ったことが原因であった。そのころは鎌倉方はそうした諸宗に祈ることもしなかったので、かえって勝つことができたのである。ところが、朝廷方を破って繁栄を勝ちえると、今度は文化的に京都に負けないようにしたいとの欲から、盛んに仏教寺院を建立し、僧を招いたのである。そのことが、鎌倉をかつての京都に劣らない謗法の深重な町にしてしまった。今、鎌倉幕府が当面している蒙古襲来の危機は、まさしく、謗法であるこれらの宗旨を崇めた結果であると述べられている。
すなわち、鎌倉幕府の人々まで謗法の宗旨を信奉するようになって日本全体が謗法化してしまったので、釈迦・多宝・十方の諸仏、天照太神、正八幡等の諸天善神は隣国(蒙古)の大王に命令して、日本国の王臣万民を一同に罰しようと企てたのであると仰せられている。