妙法比丘尼御返事 第三章(大聖人御自身の経過を明かす)
弘安元年(ʼ78)9月6日 57歳 妙法尼
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しかるに、日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。この国は、仏の世に出でさせ給いし国よりは東に当たって二十万余里の外、遥かなる海中の小島なり。しかるに、仏御入滅ありては既に二千二百二十七年なり。月氏・漢土の人のこの国の人々を見候えば、この国の人の伊豆の大島、奥州の東のえぞなんどを見るようにこそ候らめ。
しかるに、日蓮は日本国安房国と申す国に生まれて候いしが、民の家より出でて頭をそり袈裟をきたり。「この度、いかにもして仏種をもうえ生死を離るる身とならん」と思って候いしほどに、皆人の願わせ給うことなれば、阿弥陀仏をたのみ奉り、幼少より名号を唱え候いしほどに、いささかのことありて、このことを疑いし故に、一つの願をおこす。
「日本国に渡れるところの仏経ならびに菩薩の論と人師の釈を習い見候わばや。また俱舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗と申す宗どもあまた有りときく上に、禅宗・浄土宗と申す宗も候なり。これらの宗々、枝葉をばこまかに習わずとも、所詮・肝要を知る身とならばや」と思いし故に、随分にはしりまわり、十二・十六の年より三十二に至るまで、二十余年が間、鎌倉・京・叡山・園城寺・高野・天王寺等の国々寺々あらあら習い回り候いしほどに、一つの不思議あり。
———————————-(第四章に続く)—————————————————
現代語訳
今日蓮は南閻浮提の中では日本国という国の者です。この国は仏が世に出現された国から東方はるか二十万余里も離れた海中の小島です。また仏が御入滅になられてすでに二千二百二十七年になります。インド・中国の人がこの国の人々を見るなら、この国の人が伊豆の大島、奥州の東の夷などを見るようなものでしょう。
そうであるのに、日蓮は日本国の安房国という国に生まれたのですが、民の家から出家して髪を剃り袈裟を着たのでした。この生涯に、なんとしても仏に成る種を植え、生死を離れる身になろうと思って、あらゆる人々の願っているように阿弥陀仏をたのんで、幼少から名号を称えたのですが、いささかのことがあって、このことに疑いをいだいて一つの願いを起こしたのです。
日本国に渡ってきたところの仏の経典並びに菩薩の釈論と人師の書いた経疏・論疏等を習学してみよう、また倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・真言宗・法華天台宗など多くの宗があると聞くうえ、さらに禅宗・浄土宗という宗もある、これらの宗々の枝葉まで細かく習学しないでも、大体の肝要を知る身となろうと思って、随分あちこち回り、十二、十六の年から三十二歳に至るまで二十余年の間、鎌倉・京都・比叡山・園城寺・高野山・天王寺等の国々・寺々をあらあら遊学しましたところ、一つの不思議がありました。
語句の解説
南閻浮提
閻浮提とも一閻浮提ともいう。閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jaumbū₋dvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。提は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西倶耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。四大洲のなかでもとくに南閻浮提は仏法有縁の地とされ、本来、インドを中心とする世界であったが、転じて全世界を包括する意味をもつようになった。
二千二百二十七年
釈尊の入滅は周書異記等によると紀元前0949年になる。これから本抄御執筆の弘安元年(1278)までが2227年である。
月氏
中国、日本で用いられたインドの呼び名。紀元前3世紀後半まで、敦煌と祁連山脈の間にいた月氏という民族が、前2世紀に匈奴に追われて中央アジアに逃げ、やがてインドの一部をも領土とした。この地を経てインドから仏教が中国へ伝播されてきたので、中国では月氏をインドそのものとみていた。玄奘の大唐西域記巻二によれば、インドという名称は「無明の長夜を照らす月のような存在という義によって月氏という」とある。ただし玄奘自身は音写して「印度」と呼んでいる。
漢土
漢民族の住む国土。唐土・もろこしともいう。現在の中国。
伊豆の大島
伊豆諸島の最北端にあり、中央火口丘を持つ複式火山島。面積は90㎢。
奥州の東のえぞ
奥州は東北、福島、宮城、岩手、青森をいう。エゾはアイヌ民族のこと。
安房の国
現在の千葉県南部。清澄寺および日蓮大聖人御生誕の地、小松原法難の地などがある。
生死
生死はたんに「生」と「死」という意味以外に「生命」と訳す場合と「苦しみ」と訳す場合とがある。ともに生死・生死の流転輪廻という意味からきている。「生死即涅槃」の場合は、「苦しみ」。「生死一大事」の場合は「生命」となる。
阿弥陀仏
梵名をアミターバ(Amitābha)、あるいはアミターユス(Amitāyus)といい、どちらも阿弥陀と音写し、前者を無量光仏、後者を無量寿仏と訳す。仏説無量寿経によると、過去無数劫に世自在王仏の時、ある国王が無上道心を発し王位を捨てて出家し、法蔵比丘となり、仏のもとで修行をし後に阿弥陀仏となったという。
名号
仏の名称のこと。
倶舎宗
仏滅後900年ごろに出現したインドの学僧・世親の倶舎論を所依とする宗派。南都六宗の一つ。毘曇宗・薩婆多宗・論宗ともいう。倶舎論を主として、六足論・発智論と、発智論を釈した大毘婆沙 論等を所依とする小乗教の宗派である。倶舎とは梵語コーシャ(Kosa)、詳しくはアビダルマコーシャ(Abhidharma-kosa)といい、訳して付法蔵という。その教義は小乗有門の思想を根拠とするものである。インドにおいては、安慧、徳慧らが倶舎論の注釈書を作った頃は、一宗派としては存在しなかった。のちに、中国において、陳の真諦が「倶舎釈論」を著してから倶舎宗と呼ばれるようになった。日本には、法相宗の付宗として伝来し、奈良時代に隆盛をみた。
成実宗
4世紀頃のインドの学僧・訶梨跋摩の成実論を所依とする宗。成実論は、自我も法も空であると人法二空を説き、この空観に基づいて修行の段階を二十七に分別し煩悩から脱することを教えている。小乗教中では最も進んだ教義とされる。五世紀の初め、鳩摩羅什によって成実論が漢訳されると、羅什の弟子達によって盛んに研究された。しかし、天台・嘉祥によって、小乗と断定されてから衰退した。日本に三論宗とともに伝来して南都六宗の一つとされるが、一宗を成すには至らず、三論宗とともに学ばれたにすぎない。
律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
三論宗
竜樹の中論、十二門論と提婆の百論の三つの論を所依とする宗派。鳩摩羅什が三論を漢訳して以来、羅什の弟子達に受け継がれ、隋代に嘉祥寺の吉蔵によって大成された。大乗の空理によって、自我を実有とする外道、法を実有とする小乗を破し、さらに成実の偏空をも破している。究極の教旨として八不をもって諸宗の偏見を打破することが中道の真理をあらわす道であるという八不中道を唱えた。日本には推古天皇33年(0572)1月1日、高句麗僧・慧灌が伝えた。現在は東大寺に伝わるのみである。
華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
法華天台宗
法華経を依経とする宗派①中国・陳・隋代に天台大師が開創した宗。②伝教大師が開創した宗。③日蓮大聖人が立てられた法華文底独一本門を根本とする宗。
禅宗
禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
十二・十六の年より三十二に至るまで
日蓮大聖人は天福元年(1233)春、12歳の時、安房国清澄寺に登られ修学、嘉禎3年(1237)16歳の時、道善房について出家、以後、鎌倉・京都・奈良の各寺院で修学、建長5年(1253)4月28日、32歳の時、立宗宣言されている。
叡山
比叡山延暦寺のこと。比叡山延暦寺のこと。比叡山に伝教大師が初めて草庵を結んだのは延暦4年(0785)で、法華信仰の根本道場として堂宇を建立したのは延暦7年(0788)である。これがのちの延暦寺一乗止観院、東塔の根本中堂である。以後10数年、ここで研鑽を積んだ大師は、延暦21年(0802)第50代桓武天皇の前で南都六宗の碩徳と法論し、これを破り、法華経が万人のよるべき正法であることを明らかにした。このあと入唐して延暦24年(0805)帰朝、大同元年(0806)天台宗として開宗した。以後も奈良の東大寺を中心とする既成仏教勢力と戦い、滅後1年を経て弘仁14年(0823)ついに念願の法華迹門による大乗戒壇の建立が達成された。延暦寺と号したのはこの時で、以後、義真・円澄・安慧・慈覚・智証を座主として伝承されたが、慈覚以後は真言の邪法にそまり、天台宗といっても半ば伝教の弟子・半ばは弘法の弟子という情けない姿になってしまったのである。日寛上人の分段には「叡山これ天台宗、ゆえにまた天台山と名づくるなり、人皇五十代桓武帝の延暦七年に根本一乗止観院を建立、根本中堂の本尊は薬師なり、同十三年天子の御願寺となる。弘仁十四年二月十六日に延暦寺という額を賜る」とある。
園城寺
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
高野
和歌山県北部、和歌山県伊都郡高野町にある周囲を1,000m級の山々に囲まれた標高約800mの平坦地に位置する。平安時代の弘仁7年(0816)に嵯峨天皇から弘法大師が下賜され、修禅の道場として開いた日本仏教における聖地の1つである。現在は「壇上伽藍」と呼ばれる根本道場を中心とする宗教都市を形成している。山内の寺院数は高野山真言宗総本山金剛峯寺高野山、大本山宝寿院のほか、子院が117か寺に及び、その約半数が宿坊を兼ねている
天王寺
四天王寺、荒陵寺ともいう。聖徳太子の建立した寺で元興寺とともに日本最古の寺院。物部の守屋が亡んだ翌8月、崇峻天皇が即位し、聖徳太子は、難波玉造の岸の上の地を選んで四天王護国の寺を創立した。この時馬子は、物部氏の類族273人を寺の奴婢とし、荘園136,890代を寺領として寄進したといわれる。推古天皇の元年に、荒陵の地に移したが、中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべてあるので、この様式を四天王寺式と呼ぶ。初めは八宗兼学の道場であったが、後に天台宗に属するようになった。戦後は単立寺院となっている。
講義
日蓮大聖人が聖誕された日本国は、釈尊の出現したインドよりはるか東北方の小島であり、いわば当時の文明世界でいえば、はるかな辺地である。また、本抄御述作の時も、仏滅後2227年という年月がたっていると述べられている。大聖人は、その日本国のなかでも辺国の安房の国に、民の家から出られたのであった。
そして「此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて」清澄寺で修学されたのであるが、最初は当時の人々の信仰にならって阿弥陀仏の名号を称えたと仰せられている。清澄寺は天台真言宗の寺であったが、当時は念仏宗が日本中に広まり、清澄寺の僧であっても、念仏を信仰している人が多かった。とくに道善房は念仏に心を寄せていたのである。しかし「いささかの事ありて」と仰せのように、念仏信仰に対して疑いをもたれ、その結果仏教の肝要を究めたいとの「一の願」を発されるのである。
その願いにしたがって、当時の日本国の八宗、十宗と分かれた仏教の宗派の一つ一つの本質を知ろうとされて「十二・十六の年より三十二に至るまで二十余年が間」、鎌倉・京都・叡山・園城寺・高野・天王寺などの国々や寺々を習い歩かれたのである。その結果「一の不思議」に気づいたと仰せられている。
此の度いかにもして仏種をもうへ生死を離るる身とならんと思いて候し程に……
日蓮大聖人が12歳で清澄山に入られた動機を語られた数少ない御文の一つである。
「此の度」とは、生死流転の三世の生命にあって〝今生の一生〟ということである。「仏種をもうへ」とは、仏になるべき因としての種を己が生命に植えるということであり、「生死を離るる身とならん」とは成仏するということである。〝生死の身〟とは生死生死と流転していく苦悩多き凡夫の身のことであり、その凡身を離れるとはすなわち成仏することであるからである。
ちなみに、出家の動機を説かれたその他の御文を参考までに挙げておこう。
「日蓮幼少の時より仏法を学び候しが念願すらく人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし・風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも老いたるも若きも定め無き習いなり、されば先臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて」(1404:05、妙法尼御前御返事)。
しかし、ただ自身の成仏得道を遂げればよしとされたのではない。自身の得道とともに、あらゆる人々を救うことを目指されたことは次の御文を拝するとき明白である。
「予はかつしろしめされて候がごとく幼少の時より学文に心をかけし上・大虚空蔵菩薩の御宝前に願を立て日本第一の智者となし給へ、十二のとしより此の願を立つ其の所願に子細あり今くはしく・のせがたし」(1292:17、破良寛等御書)。
「本より学文し候し事は仏教をきはめて仏になり恩ある人をも・たすけんと思ふ、仏になる道は必ず身命をすつるほどの事ありてこそ仏にはなり候らめと・をしはからる」(0891:01、佐渡御勘気抄)。
大聖人は12歳で清澄寺に登り基礎的な修学をされた後、16歳で正式に僧となることを決意され、道善房を師として出家得道されたのであった。この時、幼名の善日磨を改めて是聖房蓮長と名乗られている。
そして、本格的な仏教研究のため、まず鎌倉へ出て数年間学ばれたあと、京都へのぼられて比叡山はじめ各地を遊学されたのであった。
「皆人の願わせ給う事なれば阿弥陀仏をたのみ奉り幼少より名号を唱え候し」と仰せられているのは道善房のもとにおられた、十二歳から十六歳の時までのことと拝される。出家され遊学に出られたころは、すでに念仏に対して疑いを抱いておられたことが「いささかの事ありて、此の事を疑いし故に」との御言葉にうかがわれる。