妙法比丘尼御返事 第十一章(日蓮大聖人の諌暁ゆえの大難)
弘安元年(ʼ78)9月6日 57歳 妙法尼
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今日本国すでに大謗法の国となりて他国にやぶらるべしと見えたり。
此れを知りながら申さずば縦ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし、後生を恐れて申すならば流罪・死罪は一定なりと思い定めて去ぬる文応の比・故最明寺入道殿に申し上げぬ、されども用い給う事なかりしかば、念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程に・かなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ、されば極楽寺殿と長時と彼の一門皆ほろぶるを各御覧あるべし、其の後何程もなくして召し返されて後又経文の如く弥よ申しつよる、又去ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国へ流さる、日蓮御勘気の時申せしが如くどしうちはじまりぬ、それを恐るるかの故に又召し返されて候、しかれども用ゆる事なければ万民も弥弥悪心盛んなり。
縦ひ命を期として申したりとも国主用いずば国やぶれん事疑なし、つみしらせて後用いずば我が失にはあらずと思いて、去ぬる文永十一年五月十二日・相州鎌倉を出でて六月十七日より此の深山に居住して門一町を出でず既に五箇年をへたり。
本は房州の者にて候いしが地頭東条左衛門尉景信と申せしもの極楽寺殿・藤次左衛門入道・一切の念仏者にかたらはれて度度の問註ありて・結句は合戦起りて候上・極楽寺殿の御方人理をまげられしかば東条の郡ふせがれて入る事なし、父母の墓を見ずして数年なり、又国主より御勘気二度なり、第二度は外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべしとて、鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に頚の座に引きすへられて候いき、いかがして候いけん月の如くにをはせし物・江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず、とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頚はのがれぬ、又佐渡の国にて・きらんとせし程に日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち始まりぬ、使はしり下りて頚をきらず・結句はゆるされぬ、今は此の山に独りすみ候。
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現代語訳
いま日本国はすでに大謗法の国となって他国に侵略されようとしている。
今日本国はすでに大謗法の国となって、他国に侵略されようとしている。これを知りながら言わなければ、たとい現在は安穏であるとしても後生は必ず無間地獄に堕ちるであろう、後生を恐れてこのことを言うならば、流罪・死罪は必定と思い定めて、去る文応のころ、故最明寺入道殿(北条時頼)に申し上げたのです。しかし用いることがなかったので、念仏者等はこのことを聞いて上下の諸人を仲間に引き入れて日蓮を打ち殺そうとしたが果たせなかったので、執権である武蔵守の北条長時殿は極楽寺殿(北条重時)の子であるゆえに、親の心を知って理不尽にも伊豆国へ流したのです。したがって、極楽寺殿と長時と彼の一門の皆は滅んでしまったことは、各々御覧のとおりです。
その後、いくほどもなく赦されて鎌倉に帰って後、また経文に仰せのとおり、さらに強く申し上げました。
また文永8年(1271)9月12日に佐渡国へ流されました。日蓮がその逮捕の際に言ったとおり、同士打ちが始まったのです。それを恐れたのでしょうか、また赦されて鎌倉に帰ってきました。しかし、諌言を用いないので、万民はいよいよ悪心が強盛になったのです。
たとい命をかけて諌言したとしても、国王が用いなければ国が亡ぶことは疑いありません。罪を教えて後に用いないのは我が失にはあらずと思い、去る文永11年(1274)5月12日、相模国鎌倉を出て6月17日から、この山深い身延山に居住して門一町も出ることなく、すでに5年を経ました。
日蓮はもと安房国の者ですが、地頭・東条左衛門尉景信という者が、極楽寺殿(北条重時)、藤次左衛門入道、一切の念仏者にそそのかされて、たびたびの問註があり、結局は合戦が起こったうえ、極楽寺殿の身内の方が理を曲げたので、東条郡を塞がれて入ることがありませんでした。父母の墓を見ることなく数年たっています。
また国主からの御勘気は二度です。二度目は外には遠流といわれていたけれども、内々には頚を切るというので、鎌倉の竜の口という所に九月十二日の丑の時に頚の座に引き据えられたのです。ところが、どうしたことか、月のような物が江ノ島のほうから飛び出して役人の頭にかかったので、役人は恐れて切らず、そうしているうちにさまざまな子細があって、その夜は打首は免れたのです。
また、佐渡国で切ろうとしましたが、日蓮が言ったように鎌倉で同士打ちが始まったので、役人が急ぎ佐渡国にきて頸を切らず、結局は赦されて、今はこの山に独り住んでいます。
語句の解説
流罪
罪人を遠隔地に送って移転を禁ずること。律によって定められた五刑のひとつ。鎌倉幕府の法律である御成敗式目の第12条には「右、闘殺の基、悪口より起こる。その重きは流罪に処せられ、その軽きは召籠めらるべきなり」とある。
死罪
死刑のこと。鎌倉時代の五刑のひとつ。
最明寺入道殿
(1227~1263)。北条時頼のこと。最明寺で出家したので、最明寺殿、また最明寺入道殿と呼ばれた。法名は道崇。鎌倉幕府第五代執権。時氏の子。母は安達景盛の娘(松下禅尼)。初め五郎と称し、のち左近将監・相模守に任じられた。兄経時の病死によって北条氏の家督を継ぎ、寛元4年(1246)執権となる。ときに叔父名越光時が前将軍藤原頼経と通謀して自ら執権たらんと企てた。時頼は鎌倉を厳戒してこの陰謀を察知して光時を召喚したところ、光時は謝罪出家した。結局光時を伊豆に流し、頼経を京都に追放した。宝治元年(1247)舅の景盛と謀って幕府成立以来の豪族三浦氏を滅ぼし、建長元年(1249)引付衆を設けて訴訟制度の能率化を図り、同4年(1952)将軍藤原頼嗣を廃して宗尊親王を京都から迎えるなど、幕政の刷新と執権北条氏の権力確立に努力を傾けた。また宋僧道隆について禅法を受け建長寺を建立した。出家の前日執権職を重時の子長時に委ね、最明寺を山内に造りそこに住んだが依然として幕政にたずさわっていた。当時鎌倉においては、法然の念仏宗をはじめ、禅、真言等の邪宗邪義がはびこり、政界にも動乱たえまなく、地震、大風、疫病等の天変地夭により、民衆は塗炭の苦しみにあえいでいた。ここに大聖人は、文応元年(1260)7月16日に宿屋入道を通じて、立正安国論を最明寺時頼に上書し、為政者の自覚をうながし、治国の者が邪宗に迷い正法を失うならば、必ず国の滅びる大難があると、大集経、仁王経、金光明経、薬師経等に照らされて訴えられた。しかし時頼は反省せず、かえって弘長元年(1261)5月12日に、長時により大聖人は伊豆に流罪される。同三年に赦されたが、聖人御難事に「故最明寺殿の日蓮をゆるししと此の殿の許ししは禍なかりけるを人のざんげんと知りて許ししなり」(1190-09)とあるように、時頼の意図であったことがわかる。
長時
(1230~1264年)。北条長時のこと。鎌倉幕府・第2代執権・北条義時の三男・重時を父として生まれる。父・重時が鶴岡八幡宮近くの赤橋に屋敷を構えたことから「赤橋長時」とも称する。弟に長時の跡を継いで六波羅探題北方に就任する・北条時茂、第6代連署・塩田義政、第7代連署・普恩寺業時らがいる。嫡男・義宗も弟・時茂の死後、六波羅探題北方に任じられ、「二月騒動」において8代執権・北条時宗の異母兄・時輔を討ち取る活躍を見せている。なお、赤橋流・北条氏は得宗北条氏に次ぐ家格として重んじられ、曾孫の赤橋守時は幕府最後の執権となるなど代々要職を歴任している。
極楽寺殿
(1198~1261)。北条重時のこと。鎌倉幕府第二代執権・北条義時の三男で、第三代執権泰時の弟。駿河・相模・陸奥守を兼任。寛喜2年(1230)から宝治元年(1247)まで京都北方の六波羅探題をつとめた。宝治元年、三浦泰村の死後、鎌倉に帰り、執権北条時頼の連署(執権の補佐役)となった。その後陸奥守になり、康元元年(1256)に職を辞し、入道して観覚と号した。極楽寺に別邸を構え、住んでいたので、極楽寺殿と称された。日蓮大聖人が念仏を無間地獄の業と破折されたので、重時は大聖人を激しく憎み、文応元年(1260)に起こった松葉ケ谷の草庵襲撃事件の黒幕的存在とされる。翌弘長元年(1261)五5月には子の長時に働きかけて、大聖人を伊豆国(静岡県東部)伊東へ流罪し、その年の11月に病没している。
文永八年九月十二日
竜の口の法難をいう。北条執権の内管領で侍所所司である平左衛門尉は、同日、武装した家人を率いて、松葉ケ谷の草庵を襲い、大聖人を捕え、未明に殺害しようとしたが、果たせなかった。発迹顕本の法難である。種種御振舞御書にくわしい。
佐渡の国へ流さる
文永8年(1271)9月12日、大聖人は平左衛門尉頼綱に捕えられ、同深夜、鎌倉の外れ竜口で斬首の刑にあおうとした。しかし夜空に輝く〝光り物〟が現われて、恐れた平左衛門尉らは斬首を果たせず、そのまま依知を経由して大聖人を佐渡に流罪したのである。流罪期間は文永8年(1271)10月10日~文永11年(1274)3月25日まで。種種御振舞御書にくわしい。
佐渡
佐渡島のこと。新潟県の佐渡島のこと。神亀元年(0724)遠流の地と定められ、承久3年(1221)には順徳天皇も流されている。大聖人の流罪は文永8年(1271)10月~文永11年(1274)3月までである。
御勘気
主人または国家の権力者から咎めを受けること。
どしうち
味方同士が戦うこと。ここでは北条時輔の乱をさす。執権・北条時宗の異母兄にあたる北条時輔は、第七代執権・政村のあとに時宗が擁立されたのを不満とし、さらに蒙古、高麗の使者が相次いで来朝して京都、鎌倉と折衝を加えるに及んで時宗と対立した。時宗は文永9年(1272)2月11日、時輔に異心ありとし、大蔵頼季を派遣して時輔に加担していた名越教時らを鎌倉で誅殺させ、同15日北条義宗に京都六波羅で時輔を殺害させた。これを二月騒動ともいい、北条得宗家の内乱であることから人心に大きな動揺を与えた。日蓮大聖人が立正安国論で予言した自界叛逆難にあたる。
地頭
鎌倉時代の官職名で、源頼朝が源義経の追捕の名目として全国の荘園や公領に設けられ、その後も、土地の管理・警察・徴税の権限を有し幕府による全国支配の出先機関となった。
東条左衛門尉景信
生没年不明。鎌倉時代の武士。安房国長狭郡東条郷の地頭。念仏の強信者であったらしく、建長5年(1253年)4月、清澄寺での立教開宗の時には日蓮大聖人を害しようとし、以後ずっと敵対した。文永元年(1264)11月、大聖人とその門下を東条郷小松原で襲い、門下を殺傷し、大聖人にも傷を負わせた。
藤次左衛門入道
生没年不明。鎌倉時代の武士。極楽寺(北条)重時の家臣。重時とともに日蓮大聖人に数々の迫害を加えた。詳細は不明。
問注
①問うて記録すること。②原告と被告を取り調べ、その陳述を記録すること。③訴訟して対決すること。
結句は合戦起りて
文永元年(1264)11月11日、安房の小松原で、東条景信が家来を率いて大聖人一行を襲ったこと。小松原の法難。
方人
味方。加担者。「かた」は加わるの意。名詞形の「かたひと」の音便変化。
父母の墓
大聖人の父三国大夫重忠は正嘉2年(1258)2月14日、母は文永4年(1267)8月14日死去との記録はあるが、墓所はどこにあるか不明である。小湊にあったのは確かなようである。
御勘気二度なり
文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難と同10月10日~文永11年(1274)3月25日までの佐渡流罪をさす。
竜の口
現在の神奈川県藤沢市片瀬にあった地名で、鎌倉時代、幕府の刑場があった。文永8年(1271)9月12日、幕府は、大聖人をここで斬首しようとしたが、諸天の加護が厳然としてあり、斬ることはできなかった。これを竜口の法難と言うが、この時に大聖人は発迹顕本なされたのである。
江の島
神奈川県相模湾北東部にある小島。藤沢市に属する。
講義
日蓮大聖人はついに進言を決意されたのであるが、大聖人が予想されたとおり、さまざまな大難が競い起こってきた。
「今日本国すでに大謗法の国となりて他国にやぶらるべしと見えたり」と洞察された日蓮大聖人が「此れを知りながら申さずば縦ひ現在は安穏なりとも後生には無間大城に堕つべし」と思索されて、進言する決意をされるのであるが、同時に「申すならば流罪・死罪は一定なり」との覚悟を固められて、ついに「去ぬる文応の比・故最明寺入道殿」に進言されたのである。これが第一回の国主諌暁である立正安国論の上奏であることはいうまでもない。しかしながら、賢王の時代ではないので進言は用いられず、そればかりか念仏者達は、大聖人を打ち殺そうとしたのであった。これが松葉ケ谷草庵の襲撃である。その後、伊豆流罪、佐渡流罪にあわれたこと、その間、徹底して進言されたこと、さらには同士打ち、すなわち自界叛逆難の予言が的中したことが機縁で佐渡流罪を赦免になられたこと、鎌倉に帰られてさらに諌められたが結局、幕府は用いなかったことを述べられている。
「縦ひ命を期として申したりとも国主用いずば国やぶれん事疑なし、つみしらせて後用いずば我が失にはあらずと思いて」との仰せは、大聖人が第三回の国主諌暁を終えられて身延に入られた理由である。文永11年(1274)5月12日に鎌倉を出られて六6月17日から身延山にこもられることになる。以来、この御手紙を書かれている時まで五年がたっているのである。
さて、次に大聖人の出身地で故郷であられる房州の地に入ることができず、そのために父母の墓に詣でることのできなくなった理由を明かされた後、竜の口法難について述べられている。
また、幕府による御勘気は伊豆と佐渡の二度であるが、二度目の佐渡流罪の時は、表面では遠方へ流すと宣告しておいてその実、幕府権力者たちは、ひそかに頸を切ろうと竜の口の頸の座に引き据えたのである。実際には、幕府権力者たちは、月のような光り物が江ノ島から飛んで来て切れなかったのであるが、幕府の日蓮大聖人に対する理不尽な処置が鮮やかに語られていて、まことに重要な御文といえよう。