妙法比丘尼御返事 第六章(念仏宗の謗法の理由を明かす)

———————————–(第五章から続く)———————————————–

日蓮疑て云く日本には誰か法華経と釈迦仏をば謗ずべきと疑ふ、又たまさか謗ずる者は少少ありとも信ずる者こそ多くあるらめと存じ候、爰に此の日本国に人ごとに阿弥陀堂をつくり念仏を申す、其の根本を尋ぬれば道綽禅師・善導和尚・法然上人と申す三人の言より出でて候、是れは浄土宗の根本・今の諸人の御師なり、此の三人の念仏を弘めさせ給いし時にのたまはく未有一人得者・千中無一・捨閉閣抛等云云、いふこころは阿弥陀仏をたのみ奉らん人は一切の経・一切の仏・一切の神をすてて但阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と申すべし、其の上ことに法華経と釈迦仏を捨てまいらせよとすすめしかばやすきままに案もなく・ばらばらと付き候ぬ、一人付き始めしかば万人皆付き候いぬ、万人付きしかば上は国主・中は大臣・下は万民一人も残る事なし、さる程に此の国存の外に釈迦仏・法華経の御敵人となりぬ。

  其故は「今此三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此処は諸の患難多し唯我れ一人のみ能く救護を為す」と説いて、此の日本国の一切衆生のためには釈迦仏は主なり師なり親なり、天神七代・地神五代・人王九十代の神と王とすら猶釈迦仏の所従なり、何かに況や其の神と王との眷属等をや、今日本国の大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財ぞかし、全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等の他仏の物にはあらず、又日本国の天神.地神・九十余代の国主・並に万民・牛馬生と生る生ある者は皆教主釈尊の一子なり、又日本国の天神.地神・諸王.万民等の天地・水火.父母・主君.男女・妻子.黒白等を弁え給うは皆教主釈尊御教の師なり、全く薬師・阿弥陀等の御教にはあらず、されば此の仏は我等がためには大地よりも厚く虚空よりも広く天よりも高き御恩まします仏ぞかし、かかる仏なれば王臣・万民倶に人ごとに父母よりも重んじ神よりもあがめ奉るべし、かくだにも候はば何なる大科有りとも天も守護して・よもすて給はじ・地もいかり給うべからず。

  然るに上一人より下万人に至るまで 阿弥陀堂を立て阿弥陀仏を本尊ともてなす故に天地の御いかりあるかと見え候、譬えば此の国の者が漢土・高麗等の諸国の王に心よせなりとも、此の国の王に背き候なば其の身はたもちがたかるべし、今日本国の一切衆生も是くの如し、西方の国主・阿弥陀仏には心よせなれども我国主釈迦仏に背き奉る故に此の国の守護神いかり給うかと愚案に勘へ候、而るを此の国の人人・阿弥陀仏を或は金・或は銀・或は銅・或は木画等に志を尽くし仏事をなし、法華経と釈迦仏をば或は墨画・或は木像にはくをひかず・或は草堂に造りなんどす、例せば他人をば志を重ね妻子をばもてなして父母におろかなるが如し。

———————————-(第七章に続く)—————————————————

現代語訳

そこで日蓮は、日本国にはだれも法華経と釈迦仏を謗る者はあるまい。たまさか謗る者が少々あっても、信ずる者のほうが多いであろうと疑っていました。しかるにこの日本国の人は人ごとに阿弥陀堂を造り念仏を称えています。その根本を尋ねてみれば、中国の道綽禅師、善導和尚、日本の法然上人という三人の言葉から出たのです。これは浄土宗の根本、今の諸人の師なのです。この三人が念仏を弘めた時に言われたことは「未有一人得者」「千中無一」「捨閉閣抛」ということです。その意は、阿弥陀仏を頼み奉る人は一切の経、一切の仏、一切の神を捨てて、ただ阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と称えよということであり、そのうえ、とくに法華経と釈迦仏を捨てよと勧めたので、たやすいことなので、人々は考えもなく、ばらばらとその言葉に従ったのです。一人が従い始めたので万人がみな従ったのです。万人が従ったので、上は国主、中は大臣、下は万民に至るまで一人残らず従ったのです。そこでこの国は意外にも釈迦仏・法華経の敵人となってしまったのです。

そのわけは、法華経譬喩品第三に「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり。而も今此の処は、諸の患難多し。唯我れ一人のみ、能く救護を為す」と説いて、この日本国の一切衆生のためには釈迦仏が主君であり師匠であり親なのです。天神七代、地神五代、人王九十代の神と王でさえも、なお釈迦仏の所従です。いわんやそれらの神々や王の眷属等においてはなおさらです。今日本国の大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財なのです。全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等といった他方の仏の物ではありません。また、日本国の天神・地神・九十余代の国主並びに万民、牛馬など生きとし生ける生のある者はすべて皆教主釈尊の子なのです。また、日本国の天神・地神・諸王・万民等が天地・水火、父母・主君・男女・妻子・黒白等をわきまえることができたのは、皆教主釈尊が師として教えてくださったからであって、全く薬師仏・阿弥陀仏等が教えてくれたのではありません。

したがってこの釈迦仏は我らがためには大地よりも厚く虚空よりも広く天よりも高い御恩のあられる仏です。このような仏ですから、王臣・万民ともに、すべての人が父母よりも重んじ神よりも崇めるべきなのです。このように崇めるならどのような大科があったとしても、天も守護してよもや捨てるようなこともなく、地も怒られるようなこともないでしょう。

ところが上一人から下万民に至るまでが阿弥陀堂を立て、阿弥陀仏を本尊とするゆえに天地の怒りがあるようにみえます。たとえばこの日本国の者が中国・高麗等の諸国の王に心を寄せても、日本の国の王に背けばその身は保ちがたいようなものです。今日本国の一切衆生も同じです。西方極楽世界の国主・阿弥陀仏には心を寄せても、自分の国の釈迦仏に背くゆえに、この国の守護神が怒っておられるのであると思われるのです。

そうであるのに、この国の人々は阿弥陀仏を金や銀、あるいは銅、あるいは木像や画像に心を込めて造り、丁重に仏事をなしながら、法華経と釈迦仏をあるいは墨画、あるいは木像といっても金箔をひかなかったり、あるいは堂といっても粗末な草堂を造っているような次第です。例えば、他人に懇ろにし妻子を大事にして、父母を疎略にしているようなものです。

語句の解説

道綽禅師

05620645)。中国の隋・唐代の浄土教の祖師の一人。并州汶水(山西省太原)の人。姓は衛氏。14歳で出家し涅槃経を学ぶが、玄中寺で曇鸞(どんらん)の碑文を見て感じ浄土教に帰依した。曇鸞の教説を受け、釈尊の一大聖教を聖道門・浄土門に分け、法華経を含む聖道門を「未有一人得者」の教えであるとして排斥し、浄土門に帰すべきことを説いている。弟子に善導などがいる。著書に「安楽集」2巻等がある。

 

善導和尚

06130681)。中国・初唐の人で、中国浄土教善導流の大成者。姓は朱氏。泗州(安徽省)の人。幼くして出家し、経蔵を探って観無量寿経を見て、西方浄土を志した。貞観年中に石壁山の玄中寺(山西省)に赴いて道綽のもとで観無量寿経を学び、師の没後、光明寺で称名念仏の弘教に努めた。正雑二行を立て、雑行の者は「千中無一」と下し、正行の者は「十即十生」と唱えた。著書に「観経疏」(観無量寿経疏)四巻、「往生礼讃」一巻などがある。日本の法然は、観経疏を見て専ら浄土の一門に帰依したといわれる。

 

法然上人

1133~一1212)。平安時代末期、日本浄土宗の開祖。諱は源空。美作(岡山県北部)の人。幼名を勢至丸といった。9歳で菩提寺の観覚の弟子となり、15歳で比叡山に登って功徳院の皇円に師事し、さらに黒谷の叡空に学び、法然房源空と改名した。後、24歳の時に京都、奈良に出て諸宗を学んだ。再び黒谷に帰って経蔵に入り、大蔵経を閲覧した。承安5年(117543歳の時、善導の「観経散善義」及び源信の「往生要集」を見るに及んで専修念仏に帰し、浄土宗を開創した。その後、各地に居を改めつつ教勢を拡大。建永2年(1207)に門下の僧が官女を出家させた一件が発端となって、勅命により念仏を禁じられて土佐(高知県)に流された。同年11月に大赦があり、しばらく摂津(大阪府)の勝尾寺に住した後、建暦元年(1211)京都に帰り、大谷の禅房(知恩院)に住して翌年、80歳で没した。著書に、念仏の一門のみが往生成仏の正行であるとし浄土三部経以外の一切の経を捨閉閣抛すべきだと説いた「選択集」2巻をはじめ、「浄土三部経釈」3巻、「往生要集釈」1巻等がある。

 

未有一人得者

道綽が「安楽集」で法華経以前の経を聖道門と浄土門に分け、歴劫修行の聖道門を捨てよと説いたのを、法然が法華経をも歴劫修行の聖道門に含めて、これらではいまだ一人も得道した者がいないといった邪義である。

 

千中無一

善導が立てた。浄土三部経以外の諸経を、雑行として仏説を誹謗し、どんなに読誦しても千人に一人も成仏できない。また阿弥陀仏以外の諸仏菩薩をいかに礼拝しても、千人に一人も得道しがたいといった。これを法然は拡大して法華経を含めて誹謗した。法華経は唯一の真実教であり、善導の説は仏に敵対した邪義である。

 

捨閉閣抛

法然が著した「選択本願念仏集」には念仏以外の一切経自力の修行を非難して非難し、「捨閉閣抛」せよと説いた。すなわち法然は一切経を「捨てよ、閉じよ、閣け、抛て」と説いたのである。選択集は、建久9年(1198年)の作である。日蓮大聖人は立正安国論で「之に就いて之を見るに 曇鸞・道綽・善導の謬釈を引いて聖道・浄土・難行・易行の旨を建て法華真言惣じて一代の大乗六百三十七部二千八百八十三巻・一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て皆聖道・難行・雑行等に摂して、或は捨て或は閉じ或は閣き或は抛つ此の四字を以て多く一切を迷わし、剰え三国の聖僧十方の仏弟を以て皆群賊と号し併せて罵詈せしむ、 近くは所依の浄土の三部経の唯除五逆誹謗正法の誓文に背き、遠くは一代五時の肝心たる法華経の第二の『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば乃至其の人命終つて阿鼻獄に入らん』と破折されている。

 

南無釈迦牟尼仏

釈迦牟尼仏に南無すること。南無は梵語ナマス(Namas)の音写で、帰命と訳す。釈迦牟尼仏とは、釈迦は種族の名、牟尼は尊者・聖者の意で、釈迦族出身の聖者という意味。すなわち、インド応誕の釈尊のこと。

 

三界

欲界・色界・無色界のこと。生死の迷いを流転する六道の衆生の境界を三種に分けたもの。欲界とは種々の欲望が渦巻く世界のことで、地獄界・餓鬼界・修羅界・畜生界・人界と天界の一部、六欲天をいう。色界とは欲望から離れた物質だけの世界のことで、天界の一部である四禅天をさす。無色界とは欲望と物質の制約を超越した純然たる精神の世界のことで、天界のうちの四空処天をいう。

 

天神七代

地神五代より前に高天原に出た七代の天神。①国常立神②国狭槌尊③豊斟渟尊(以上、独化神三世代)④泥土煮尊・沙土煮尊⑤大戸之道尊・大苫辺尊⑥面足尊・惶根尊 ⑦伊弉諾尊 ・伊弉冉尊。

 

地神五代

日本神話の神々。天神七代のあと地上に降りて人王第一代の神武天皇に先立って日本を治め、皇統の祖神となったとされる五代の神。日本書紀には天照大神、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊、天津彦火瓊瓊杵尊、彦火火出見尊、鸕鷀草葺不合尊をさす。

 

人王九十代

神武天皇を第一として、大聖人御在世当時の90代亀山天皇までをいう。

 

眷属

①仏・菩薩などの脇士や従う人。②一族・親族。③従者・家来。

 

薬師仏

梵語( Bhaiajya)薬師如来・薬師琉璃光如来・大医王仏・医王善逝ともいう。東方浄瑠璃世界の教主。ともに菩薩道を行じていた時に、一切衆生の身心の病苦を救い、悟りに至らせようと誓った。衆生の病苦を治し、諸根を具足させて解脱へ導く働きがあるとされる。

 

他仏

他の世界の仏。

 

虚空

空中、空間の意。本品は虚空会の儀式の最後なので釈尊・大衆等はまだ虚空に住している。

 

大科

重罪、大きなあやまち。

 

本尊

根本として尊敬するもの。

 

高麗

朝鮮半島古代の王国。高句麗ともいう。

 

西方

西方極楽世界のこと。観世音菩薩は西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来の脇侍とされている。

講義

ここで、一国が謗法を犯しているときに起こると仏が説かれたとおりの災厄を惹き起こしている源が、実は念仏、真言、禅の諸宗そのものにあることを示されるのである。言い換えると、仏法を尊崇していると思って人々が励んでいるこれらの諸宗の信仰こそ、実は仏法に背く行為をしているのだということである。

まず念仏宗の謗法なる所以は「一切の経・一切の仏・一切の神をすてて但阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と申すべし」とくに「法華経と釈迦仏を捨てよ」と説くところにある。

すなわち阿弥陀仏と、この仏のことを明かす浄土三部経以外は信じないように説くのであるから、釈迦仏と法華経を謗ずることとなるのである。

釈迦仏が一切衆生にとり主・師・親の三徳を有する仏であることは、法華経譬喩品第三の有名な「今此の三界は 皆な是れ我が有なり 其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり 而るに今此の処は 諸の患難多し 唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」という文に由来する。この法華経の文は、釈迦仏自身が宣言したものであるだけに極めて重要である。

日蓮大聖人は、この文こそ釈迦仏の主・師・親三徳を表明したものとされてとくに重視され、諸御書に触れられている。

すなわち「今此の三界は 皆是れ我が有なり」が主の徳、「其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり」が親の徳、「而るに今此の処は 諸の患難多し 唯だ我れ一人のみ 能く救護を為す」が師の徳にそれぞれあたる。

この釈迦仏の宣言は、娑婆世界の一切衆生に対してなされたものであるから、日本国のみならず全世界の一切衆生に及ぶものであるが、ここでは日本国の阿弥陀仏信仰の謗法を指摘されるところに重点があるから、日本国の一切衆生にとって主・師・親三徳の仏はだれであるかとの観点から述べられている。

本文に「天神七代・地神五代・人王九十代の神と王とすら猶釈迦仏の所従なり、何かに況や其の神と王との眷属等をや、今日本国の大地・山河・大海・草木等は皆釈尊の御財ぞかし、全く一分も薬師仏・阿弥陀仏等の他仏の物にはあらず」の御文は主の徳について仰せである。次の「又日本国の天神・地神・九十余代の国主・並に万民・牛馬生と生る生ある者は皆教主釈尊の一子なり」は親の徳を述べられ「又日本国の天神・地神・諸王・万民等の天地・水火・父母・主君・男女・妻子・黒白等を弁え給うは皆教主釈尊御教の師なり、全く薬師・阿弥陀等の御教にはあらず」の御文は師の徳についての仰せである。すなわち釈尊こそ主であり師であり親である。ゆえに釈尊は、日本国の衆生のためには「大地よりも厚く虚空よりも広く天よりも高き御恩」のある仏なのであり、日本国の上下万民が何よりも釈迦仏を重んじなければならないのに、縁もゆかりもない阿弥陀仏を金、銀などで華美に造って信じ、釈尊や法華経を粗末に扱っているのである。すなわち前章に「法華経と申す経を謗じ我れを用いざる国あらばかかる事あるべし」と仏の言葉にあると示されたが、念仏は法華経を捨てよといって謗じており、阿弥陀を尊んで釈尊を用いないのであるから、この仏の言葉どおりの邪教なのである。

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