妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)第二章(白色の相の果報を推す)
弘安元年(ʼ78)7月14日 57歳 妙法尼
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しかるに、今の御消息に云わく「いきて候いし時よりも、なおいろしろく、かたちもそんぜず」と云々。天台云わく「白々は天を譬う」。大論に云わく「赤白端正なる者は天上を得」云々。天台大師御臨終の記に云わく「色白し」。玄奘三蔵御臨終を記して云わく「色白し」。一代聖教の定まれる名目に云わく「黒業は六道にとどまり、白業は四聖となる」。これらの文証と現証をもってかんがえて候に、この人は天に生ぜるか。
————————————(第三章に続く)————————————————-
現代語訳
しかしながら、今回のお手紙に「生きていたときよりも、さらに色も白く、形も損なわれなかった」とありますが、天台大師は「白白は天界の生命に譬える」といい、大智度論には「赤白色で端正な者は天上界に生まれる」とあり、天台大師の御臨終を記したものには「色が白かった」とあり、玄奘三蔵の御臨終を記したものには「色が白かった」とあり、釈尊一代の聖教を定めた名目に「黒業をなした者は六道に留まり、白業をなした者は四聖となる」とあります。これらの文証と現証をもって考えみると、この人は天界に生まれているのでしょうか。
語句の解説
玄奘三蔵
(0602~0664)。中国・唐代の僧。中国法相宗の開祖。洛州緱氏県に生まれる。姓は陳氏、俗名は褘。13歳で出家、律部、成実、倶舎論等を学び、のちにインド各地を巡り、仏像、経典等を持ち帰る。その後「般若経」600巻をはじめ75部1335巻の経典を訳したといわれる。太宗の勅を奉じて17年にわたる旅行を綴った書が「大唐西域記」である。
黒業
悪業のこと。苦果をもたらす邪悪な業をいう。
六道
十界のなかの地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六界のこと。迷いの衆生が輪廻する境界をいう。
白業
善業のこと。楽果をもたらす善い業をいう。
四聖
声聞・縁覚・菩薩・仏のこと。法華経では「仏及び大菩薩・辟支仏・阿羅漢」とある。
文証
文書・記録などの文献上の証拠。教義・主張・正邪・優劣を判断する三証のひとつ。
理証
現実の証拠。教義・主張・正邪・優劣を判断した論理。三証のひとつ。
講義
ここでは妙法尼からの手紙の中の、夫の臨終の相が白かったことについて述べた部分を再び挙げ、白色の相についての文証、また天台大師や玄奘三蔵等の臨終の相が白かったと記されていたことなどを考え合わせ、一往、妙法尼の夫は天界に生まれているのであろうかと推論されているところである。
天台大師の「白白は天に譬ふ」の文は、前章で引用されていた摩訶止観巻五上の文と一連のものである。人界が白なのに対し、天界は白白にたとえられている。白と白白の違いはどのようなものかといえば、白が単なる白色なのに対して白白は美しく輝いている白色を形容しているといえよう。白色でつややかな美しい輝きは、清純な安らぎとともに楽しみ躍動する生命を感じさせ、天界をたとえるのにふさわしかったのであろう。
次の大論の文は、前章の大論の文と同じく、これもまた大智度論の中には見当たらない。前後の文がはっきりしないが、この文は、やはり臨終の相について述べた文であろうと思われる。色の問題でいうならば、この文に「赤白」とあるが、これは「赤」と「白」ということではない。血の気の失せた青白い相ではなく、血色のよいつややかな白色の相をさしていったものであろう。臨終の時、血色のよいつややかな白色で相が崩れず端正な者は天上界に生まれる、というのである。
また、天台大師と玄奘三蔵の臨終の状況を記したものによると、いずれも「色が白かった」と書かれているとして、この二人が臨終の際に白色の相を示したことを挙げられている。しかし、これは天台大師も玄奘三蔵も天界に生まれたということを意味しているのではない。
天台大師と玄奘三蔵とでは、その説くところは正反対である。天台大師が一乗真実三乗方便を説いて法華経が皆成仏道の法であることを明らかにしたのに対し、その後に出た玄奘三蔵は五性各別の説を唱え、三乗真実一乗方便と唱えたのである。この二人が、同様に臨終の相が白かったといっても同じ意味でないことは当然である。端的にいうならば、天台大師の臨終の白色の相は成仏の意味であり、玄奘三蔵の相は外見は同じでも生命自体は堕地獄であろう。日寛上人の臨終用心抄には「他宗謗法の行者は縦ひ善相有りとも地獄に堕つ可き事」とある。
此等の文証と現証をもんてかんがへて候に、此の人は天に生ぜるか
ここで簡単に、文証と現証について考えておきたい。
仏法を学び、それを実践する者が、仏典に基づくべきことは当然で、異論の余地はないだろう。もし仏の経典によらず、勝手な我見に基づいて、あたかも仏法を説いているような格好をしているとすれば、それは仏法を破壊し衰滅させる行為といわざるをえない。
このことを戒めて、涅槃経卷七には「若し仏の所説に随わざる者あらば、是れ魔の眷属なり」と説かれている。また、天台大師は法華玄義巻十上で「修多羅と合する者は録して之を用いよ、文無く義無きは信受す可らず」と述べ、論や釈においても修多羅すなわち経の教えと合致するものを用い、裏づけになる経文もなく義もないようなものは信受してはならない、といっている。したがって、仏法においては「文証」を挙げて論ずるという姿勢が大事となる。
この「文証」にもまして重視されるのが「現証」である。このことを大聖人は、三三蔵祈雨事のなかで「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(1468:16)と明確に述べられている。
しかし、現証が重要だからといって、現証だけで判断して、文証や道理をないがしろにしてよい、というものではない。やはり、文証をふまえて現証を見るということが大切である。現象面では同じような姿が現れていたとしても、その本質面では大きく異なるということがあるからである。例えば、ここで引かれていた天台大師と玄奘三蔵の臨終の相である。同じく白色であっても、その果報は異なる。したがって、現証は文証・理証よりも直接的であるという意味で重要ではあるが、文証・理証に基づいて判断していかなければならないといえよう。
さて大聖人は、これらの文証と現証を挙げられたところで、ひとまず、妙法尼の夫はその臨終の相からして天界に生じているのであろうか、と推測されている。
しかしながら、このような、相をもってその境界を見る、というところに大聖人の仏法の本義があるわけではない。現実を鋭く凝視し、正しく認識したうえで、今度は状況をどう変革していくか、ここに大聖人の仏法の本義があることを知らなければならない。