妙法尼御前御返事(臨終一大事の事)第一章(臨終の大事を明かす)
弘安元年(ʼ78)7月14日 57歳 妙法尼
御消息に云わく「みょうほうれんげきょうを、よるひるとなえまいらせ、すでにちかくなりて、二声こうしょうにとなえ、乃至いきて候いし時よりも、なおいろもしろく、かたちもそんぜず」と云々。
法華経に云わく「如是相乃至本末究竟等」云々。大論に云わく「臨終の時に色黒きは、地獄に堕つ」等云々。守護経に云わく「地獄に堕つるに十五の相、餓鬼に八種の相、畜生に五種の相」等云々。天台大師の摩訶止観に云わく「身の黒色は地獄の陰を譬う」等云々。
夫れ以んみれば、日蓮幼少の時より仏法を学し候いしが、念願すらく「人の寿命は無常なり。出ずる気は入る気を待つことなし。風の前の露、なお譬えにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも、定め無き習いなり。されば、まず臨終のことを習って後に他事を習うべし」と思って、一代聖教の論師・人師の書釈あらあらかんがえあつめて、これを明鏡として一切の諸人の死する時とならびに臨終の後とに引き向かえてみ候えば、すこしもくもりなし。この人は地獄に堕ちぬ、乃至人天とはみえて候を、世間の人々、あるいは師匠・父母等の臨終の相をかくして、西方浄土往生とのみ申し候。悲しいかな、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しのびがたければ、弟子はとどまりいて師の臨終をさんだんし、地獄の苦を増長せしむる。譬えば、つみふかき者を口をふさいできゅうもんし、はれ物の口をあけずしてやまするがごとし。
————————————(第二章に続く)————————————————-
現代語訳
御手紙に「亡夫は妙法蓮華経を夜昼と唱え、いよいよ臨終近くになって二声大きな声で唱え(中略)生きていたときよりも、さらに色も白く、形も損なわれなかった」と書かれていました。
法華経方便品第二に「如是相(中略)本末究竟等」とあり、大智度論には「臨終のとき色の黒い者は地獄に堕ちる」とあり、守護国界主陀羅尼経には「地獄に堕ちる臨終の相に十五種の相があり、餓鬼に生ずるのに八種の相があり、畜生に生ずるのに五種の相がある」とあり、天台大師の摩訶止観には「身が黒色なのは地獄の闇に譬える」とあります。
そもそも、振り返ってみれば、日蓮は幼少のときから仏法を学んできましたが、念願したことは「人の寿命は無常である。出る息は入る息を待つことがない。風の前の露というのは単なる譬えではない。賢い者も愚かな者も、老いた者も若い者も、いったいどうなるかわからないのが世の常である。それゆえ、まず臨終のことを習って、後に他のことを習おう」と思って、釈尊一代の聖教と論師や人師の書や釈をあらあら考え集め、これを明鏡として一切の人々の死ぬ時と臨終の後とを引き合わせてみたところ、少しも曇りがありません。この人は地獄に堕ちられた……この人は人・天に生じているというふうに見えるのを、世間の人々は師匠や父母等の臨終の相を隠して西方浄土の往生とのみいっています。悲しむべきことに、師匠は悪道に堕ちて多くの苦しみを忍びがたいときに、残った弟子は師匠の臨終を賛嘆し、地獄の苦しみを甚だしくさせています。たとえば罪の深い者を口を塞いで問いただし、できものを切り開かないでひどくするようなものです。
語句の解説
如是相乃至本末究竟等
法華経方便品第二の十如是の前後をあわせ、中間を略した文。
大論
大智度論の略称。百巻。竜樹造と伝えられる。姚秦の鳩摩羅什訳。摩訶般若波羅蜜経釈論ともいう。内容は摩訶般若波羅蜜経を注釈したもので、序品を第一巻から第三十四巻で釈し、以後一品につき一巻ないし三巻ずつに釈している。大品般若経の注釈にとどまらず、法華経などの諸大乗教の思想を取り入れて般若空観を解釈し、大乗の菩薩思想や六波羅蜜などの実践法を解明しており、単に般若思想のみならず仏教思想全体を知るための重要な文献であるとともに、後の一切の大乗思想の母体となった。
地獄
十界・六道・四悪趣の最下位にある境地。地獄の地とは最低の意、獄は繋縛不自在で拘束された不自由な状態・境涯をいう。悪業の因によって受ける極苦の世界。経典によってさまざまな地獄が説かれているが、八熱地獄・八寒地獄・一六小地獄・百三十六地獄が説かれている。顕謗法抄にくわしい。
身の黒色は地獄の陰に譬う
摩訶止観巻五上には「『正法念』に云わく『画師の手の五彩を画き出すが如し。黒・青・赤・黄・白・白白なり。画手は心に譬え、黒色は地獄の陰を譬え、青色は鬼を譬え、赤は畜を譬え、黄は修羅を譬え、白は人を譬え、白白は天を譬う』と」とある。
餓鬼
梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
畜生
飼い畜われていきるものの意で、動物を総称する。三悪道・十界のひとつ。観心本尊抄には「癡は畜生」(0241:08)とあり、理性を失い、本能の命ずるままに行動する姿をさす。
天台大師
(0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
摩訶止観
天台三大部の一つ。天台教学の原典。天台大師が隋の開皇14年(0594)、一夏九旬にわたって講説したものを、章安が筆録し一部十巻になした書。内容は五略十広にわたっているが、そのなかに天台教学の極説一念三千が説かれている。
一代聖教
釈尊が成道してから涅槃に入るまでの間に説いた一切の説法。天台大師は説法の順序に従って華厳・阿含・方等・般若・法華の五時に分けた書。詳しくは御書全集「釈迦一代五時継図」(0633)参照のこと。
人天
十界のなかの人間界と天上界の生命状態・境界のこと。
西方浄土
阿弥陀仏の住む西方十万億土の極楽浄土のこと。ここでは鎌倉時代に阿弥陀信仰が盛んであったために、西方浄土にことよせて成仏の境涯に入ることを示されたのであり、当抄の本義は娑婆即寂光の即身成仏をいう。
往生
死後、他の世界に往き、生まれること。おもに極楽浄土をさす。
悪道
三悪道(地獄・餓鬼・畜生)四悪趣(三悪道+修羅)の略。悪行によって趣くべき苦悩の世界。悪趣ともいう。
講義
本抄は弘安元年(1278)7月14日、妙法尼が夫の臨終の際の様子を報告したお手紙に対する御返事である。御真筆は池上本門寺に存しているが、中段と末尾の部分が欠けている。
内容は、妙法尼の夫の臨終のさまが報告されたのに対し、その相から亡夫は天界に生じているであろうかとされ、臨終間際まで唱えていた題目の功徳によって成仏は間違いなく、また、そのような人と夫妻になった妙法尼の成仏も疑いないと激励されている。
最初に、妙法尼からの手紙の中の、亡夫の臨終の時の様子を綴った部分を挙げられている。この手紙から、妙法尼の夫が題目を唱えつつ、尼に見とられながら、安らかに息を引き取っていった様子がうかがわれる。また、夫を失った妙法尼は悲しみと嘆きのなかにあったであろうが、臨終の様子を報告した文面からは、夫の成仏を確信した毅然たる信心の姿勢が感じられる。
この手紙に対して、日蓮大聖人はまず経論の文を挙げ、臨終の相について述べられている。法華経方便品第二の「如是相乃至本末究竟等」の文は、正しくは「如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等」で、諸法実相を説いた十如是の文であるが、ここでは「如是相」を本とし、「如是果、如是報」を末として、この本末が究竟して等しい、すなわち相と果報とが即応しているという意味で挙げられたものであろう。臨終の相に来世の果報が示されているというのである。
その他、大論・守護経・摩訶止観の残りの三つの文は、特に地獄の相に関して説かれたものである。これらは、地獄という最悪の境界についての相と果報との連関を述べた文証として挙げられたものであるが、妙法尼の亡夫の臨終の相との違いをはっきりさせるための伏線になっていると同時に、世間で極楽往生といっているその実態を文証のうえから断破されるという意味もあったのではないかと拝される。
なお、大論の文として挙げられている「臨終の時色黒き者は地獄に堕つ」の文は、大智度論には見当たらず、出典ははっきりしない。ただ他に千日尼御前御返事にも「人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる」(1316:11)と、同じような内容の記述が見られる。ところで、この地獄と黒色の関係はどのように理解されるべきであろうか。当然のことながら、単なる地肌の黒さをいっているのではないであろう。ましてや人種的特徴としてもっている肌の色は問題にならない。摩訶止観巻五上には、黒・青・赤・黄・白・白白を六道の境界にたとえ、「黒色は地獄の陰に譬う」と述べられているが、生きている時の色から変じて暗い苦悩に沈んだ黒色になることをさしているとみるべきであろう。
次に、大聖人御自身が仏法を習学されるにあたって何よりも死という問題と対決してこられたことを述べられ、そうして経文や論師・人師の書釈に基づいて人々の臨終の姿を見てみたとき、その果報が明瞭に推察できると述べられている。ところが世間では、師匠や父母といった人が亡くなると、だれも彼もが臨終の相に関係なく、西方極楽浄土の往生といっている。こうして仏法の理に反して死者の臨終をいくら賛嘆しても、なんの救いにもならないばかりか、かえって死者の苦を増す結果になるのであると、たとえを用いて指摘されている。
先臨終の事を習うて後に他事を習うべし
これは大聖人が仏法を習学するにあたって、何にもまして臨終のことを学び、その後、他のことを学ぼうと思われたということである。
大聖人はこのように思われる前に人の命の無常であることを観じられている。だれびとも免れることのできない死という厳しい現実に思いを巡らすとき、人は否応なく自身の生に思いをいたさざるをえない。死が一つの生の規範となっているともいえよう。死をどう捉えるかによって、生き方は大きく異なってくる。死が生の消滅であり、無を意味するならば、生の意味も無に帰するし、また、死ねばみな同じというのであれば、精神的向上への努力等はなんの意味もないものとなろう。因果の理法は三世を通じて存在すると説く仏法の三世の生命観に立つとき、初めて生の意味が明らかになってくるといえよう。
三世の生命観に立つとき、この人生の終わりは未来への始まりでもある。そうであるならば、どうして臨終のことをいいかげんに考えられようか。この世の総決算ともいうべき臨終をどう迎えるかということを視点において、人生万般を処していくことが大事となろう。そこに仏道修行の意味もあるのである。このことを新池御書には「抑人界に生を受くるもの誰か無常を免れん、さあらんに取つては何ぞ後世のつとめを・いたさざらんや」(1439-01)と述べられている。
世間の人人或は師匠・父母等の臨終の相をかくして西方浄土往生とのみ申し候、悲いかな師匠は悪道に堕ちて多くの苦みしのびがたければ、弟子はとどまりゐて師の臨終をさんだんし地獄の苦を増長せしむる
当時は念仏信仰が広く世に流布していた。そして、人が死んだ場合、その臨終の相に関係なく、死者を賛嘆して、みな西方浄土に往生した、と言っていたのであろう。こうした傾向は今でもあり、死を成仏という言い方に、それはあらわれている。
しかし、仏法の法理のうえからみるならば、そのような行為はかえって死者の苦しみを増してしまうのであると仰せられているのである。死者が生前になした身口意の行為は、すべて自身に業因となって刻み込まれ、その果報を受けずしては消えることはない。悪業をなした場合は苦の果報を受けることによって消えるのである。これは、あくまでも苦を受けることによって、自身の悪業の罪を悔い改めるがゆえに消えていくのである。罪を悔い改めずに悪業を賛嘆するならば、かえって罪を増し、より苦しみを受けていくのは当然といえよう。その意味で、残った人達が、悪業の報いで死者が苦しんでいるのも知らず、死者を西方浄土に往生しているなどと賛嘆するならば、かえって死者の苦を増すのである。それは、あたかも罪人の口をふさいで罪を問いただすようなもので、罪を悔い改めさせないがゆえに、いつまでも責め苛まれさせるようなものであり、また腫物の口をあけて膿を出さないようにして、いつまでたっても治らずに苦しめているようなものであるとされているのである。