妙法比丘尼御返事 第七章(真言宗・禅宗の謗法の理由を明かす)

妙法比丘尼御返事 第七章(真言宗・禅宗の謗法の理由を明かす)

 弘安元年(ʼ78)9月6日 57歳 妙法尼

———————————–(第六章から続く)———————————————–

又真言宗と申す宗は上一人より下万民に至るまで此れを仰ぐ事日月の如し、此れを重んずる事珍宝の如し、此の宗の義に云く大日経には法華経は二重三重の劣なり、釈迦仏は大日如来の眷属なりなんど申す此の事は弘法・覚・智証の仰せられし故に今四百余年に叡山・東寺・園城・日本国の智人一同の義なり。

  又禅宗と申す宗は真実の正法は教外別伝なり法華経等の経経は教内なり、譬えば月をさす指・渡りの後の船・彼岸に到りて・なにかせん月を見ては指は用事ならず等云云、彼の人人謗法ともをもはず習い伝えたるままに存の外に申すなり、然れども此の言は釈迦仏をあなづり法華経を失ひ奉る因縁となりて、此の国の人人・皆一同に五逆罪にすぎたる大罪を犯しながら而も罪ともしらず。

———————————-(第八章に続く)—————————————————

現代語訳

また真言宗という宗は、上一人から下万民に至るまで、これを仰ぐこと日月のごとくであり、これを重んずる事珍宝のごとくです。

この宗の義にいうには「大日経に比較すれば法華経は二重・三重に劣った経である。また、釈迦仏は大日如来の眷属である」などと言っています。このことは弘法・慈覚・智証の仰せられたことであり、四百余年たった今も、比叡山・東寺・園城寺をはじめ、日本国の智人一同の義なのです。

また、禅宗という宗は「真実の正法は教外別伝である。それに対し法華経等の経々は教内である。たとえば月をさす指、渡りの後の船のようなものである。向こうの岸に到着すれば船はいらず、月を見てしまえば指が不要なようなものである」と言っています。

これらの宗の人々はそれを謗法とも思わず、習い伝えたままになんの考えもなくいっているのです。しかし、これらの言葉は釈迦仏を侮り、法華経を失う因縁となって、この国の人々は、皆一同に五逆罪に過ぎた大罪を犯しながら、しかも罪を犯しているとも知らないでいるのです。

語句の解説

真実の正法

禅宗では、大梵天王問仏決疑経の「仏摩訶迦葉に告げて言く吾に正法眼蔵、涅槃の妙心、実相無相、微妙の法有り。文字を立てず教外に別伝し……摩訶迦葉に付嘱す」の文を根拠として宗義を立てる。涅槃経巻二に「我今有らゆる無上の正法を悉く以って摩訶迦葉に付嘱す」とあるように、迦葉に付嘱されたことは事実であるが、元来、当時の付嘱も仏典結集も文字化されていなかったのであり、文字を立てずうんぬんというこの決疑経自体、偽経と考えられる。

 

教外別伝

「以心伝心」「不立文字」等の義に同じく、禅宗で説く教義。仏の悟りの心は、文字や言葉であらわされた経典や教理によって伝えることはできず、ただ心をもって伝えられたとする。「無門関」によると、世尊が霊鷲山で説法していると、梵天が金波羅花を献じた。世尊はこれを受け取り弟子たちに示したところ、並み居る弟子衆は誰もその意味を理解できず、黙然とするだけであったが、ひとり摩訶迦葉だけが破顔微笑した(「拈華微笑。そのとき世尊は「吾に正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門あり、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」と言ったと伝える。即ち禅宗の立義で、仏法の真随は一切経の外にあり、それは釈尊から摩訶迦葉に、文字によらずに密かに伝えられ、その法を伝承しているのが禅宗であると主張する。

 

月をさす指

大方広円覚修多羅了義経(円覚経)に「修多羅の教は月を標する指の如し、若し復月を見れば、所標は畢竟して月にあらざることを了知す」とある。禅宗では月を見ればその指が無用であるように、坐禅によって悟りを得れば経文は不要であるとする。

 

因縁

果を生ずべき直接の原因。因を助け果にいたらせるものを縁という。たとえば植物の種子は因で、日光・雨・土等は縁である。この因と縁が和合して、芽が生じ、成長するのである。一切衆生の心中の仏性は因で、それが諸法を縁として、はじめて成仏の果をあらわすのである。総勘文抄には「因とは一切衆生の身中に総の三諦有つて常住不変なり此れを総じて因と云うなり縁とは三因仏性は有りと雖も善知識の縁に値わざれば悟らず知らず顕れず善知識の縁に値えば必ず顕るるが故に縁と云うなり」(0574:11)御義口伝には「衆生に此の機有つて仏を感ず故に名けて因と為す」(0716:第三唯以一大事因縁の事:03)とある。

講義

念仏宗が謗法である所以を示されたのに続いて真言宗、禅宗の謗法なる所以を明かされるところである。真言宗は自らの依経とする大日経に比べて法華経は二重三重に劣るとして、法華経を謗じている。また、釈迦仏は大日如来の眷属であると下して、あからさまに釈迦仏を謗じている。

禅宗は真実の正法は教外別伝といって教説によらずに別にこっそりと伝えられたとして、仏の教えである法華経は仏の悟りを説いたものではないと謗じている。すなわち仏が言葉によって説いた教えは月をさす指、彼岸へ渡る船のようなもので、月を見てしまえば指は不要であり、彼岸へ着いてしまえば船はもういらない。それと同じで法華経などの教えはもはや用のないものであるといって、法華経をないがしろにしているのである。

ところで、禅宗が「教外別伝・不立文字」と主張する根拠と称しているのが大梵天王問仏決疑経なる経であるが、「不立文字」などという言葉が釈尊自身によって出る道理がないことは、釈尊が文字によらないで法を弟子達に伝えたこと、釈尊滅後の仏典結集さえも文字に記すのでなく暗誦と口唱によった事実が明らかに示している。「不立文字」という言葉自体が、この決疑経なるものは後世に偽作された経であることを、はからずも露顕しているといわなければならない。

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