九郎太郎殿御返事(題目仏種の事)第二章(題目の七字こそ仏種なるを明かす)
弘安元年(ʼ78)11月1日* 九郎太郎〈南条殿の縁者〉
それ山をみ候へば・たかきよりしだいにしもえくだれり、うみをみ候へば・あそきより・しだいにふかし、代をみ候へば三十年・二十年・五年・四三二一・次第にをとろへたり、人の心もかくのごとし、これはよのすへになり候へば山には・まがれるきのみとどまり・のには・ひききくさのみをひたり、よには・かしこき人はすくなく・はかなきものはをほし、牛馬のちちをしらず・兎羊の母をわきまえざるがごとし。
仏御入滅ありては二千二百二十余年なり・代すへになりて智人次第にかくれて山のくだれるがごとく・くさのひききににたり、念仏を申しかいをたもちなんどする人は・ををけれども法華経をたのむ人すくなし、星は多けれども大海をてらさず・草は多けれども大内の柱とはならず、念仏は多けれども仏と成る道にはあらず・戒は持てども浄土へまひる種とは成らず、但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ、
現代語訳
さて、山を見れば、高い頂から次第に下へ降っていき、海を見れば、浅い所から次第に深くなる。世の中を見れば、三十年、二十年、五年、四年、三年、二年、一年と次第に衰えている。人の心もまた同じである。これは、世が末になれば、山には曲がった木だけが残り、野には低い草だけが生え、世の中には賢い人は少なくなり、愚かな者は多くなる。牛や馬が父を知らず、兎や羊が母を見分けることができないようなものである。
仏が御入滅になってから二千二百二十余年になる。世は末になって、智人は次第に亡くなり、それは、山を降っていくようであり、草が低くなるのに似ている。念仏を称え、戒を持つ人は多くいるけれども、法華経を信ずる人は少ない。星は多くても、大海は照らせない。草は多くても、御殿の柱とはならない。このように、念仏を多く称えても、仏になる道とはならない。戒を持っていても、浄土へ参る種とはならない。ただ南無妙法蓮華経の七字だけが仏になる種なのである。
語句の解説
念仏
念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
かい
戒定慧の三学の一つ。仏道を修行する者が守るべき規範。非を防ぎ悪を止める義で、身口意の悪業を断じて一切の不善を禁制すること。三蔵の一つ・律蔵の中に説かれる。五戒・八斎戒・十戒・二百五十戒・五百戒・十重禁戒・四十八軽戒など種々ある。
大内
大内裏の略。「たいだい」「おおうち」ともいう。御所、皇居のこと。
浄土
浄らかな国土のこと。仏国土・煩悩で穢れている穢土に対して、仏の住する清浄な国土をいう。ただし大聖人は「穢土と云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり」(0384:02)と申されている。
種
成仏の種子のこと。衆生の心田に植えられる仏になる種を草木にたとえていったもの。仏種。
講義
人々の機根が劣ってきたために、法華経の正法を信ずる人が少なく、念仏等の邪法を人人が信ずるようになってきたことを述べられている。こうした時代の移り変わりは、あたかも山が頂から次第に下ってくるように、また海が浅瀬から次第に深みに入っていくようなものであると仰せになっている。
大聖人は「よのすへ」の様相として「山には・まがれるきのみとどまり・のには・ひききくさのみをひたり」と表現されている。これは「人の心もかくのごとし」として、人々の性根をいわれているのである。
「まがれるき」とは、人々の根性がひねくれていて疑い深いことであり、「ひききくさ」とは、道徳観の低下であり、低い次元の醜い争いに明け暮れている姿をいわれていると拝せられる。
「減劫御書」には「減劫と申すは人の心の内に候、貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに・次第に人のいのちもつづまりせいもちいさくなりもつてまかるなり」(1465:01)と仰せになっている。貪・瞋・癡の三毒が強くなるのであり、この生命の濁りが肉体の面にまで反映してくると教えられているのである。
「よには・かしこき人はすくなく・はかなきものはをほし」と仰せになっているのは、「崇峻天皇御書」には「一代の肝心は法華経・法華経の修行の肝心は不軽品にて候なり、不軽菩薩の人を敬いしは・いかなる事ぞ教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ、穴賢・穴賢、賢きを人と云いはかなきを畜といふ」(1174:14)と仰せである。不軽菩薩は一切衆生に仏性があるとして、礼拝行を貫いた。この人間としての振る舞いの究極を説き極めたのが仏教の真髄たる法華経なのである。本抄で仰せの「かしこき」「はかなき」も、このことから明らかであろう。
人を尊敬する人が賢人であり、そうした価値観のわからない人が愚人なのである。次下に「牛馬のちちをしらず・兎羊の母をわきまえざるがごとし」と、たとえをもって仰せになっていることと軌を一にする。
真実の仏法を知ろうとせず、また真実の仏法をもって人々を苦悩から救おうとされている主師親三徳具備の御本仏・日蓮大聖人の教えを用いようとしないのは、父を知らない牛馬、母をわきまえない兎や羊と同じであるということである。南無妙法蓮華経は、三世十方の諸仏の能生の根源であり、それを用いないのはまさしく父を知らず母をわきまえない者なのである。
このような濁った世の中にあっては、智人は隠れ、代わって智人を装った邪智の人が世に用いられるのである。「念仏を申しかいをたもちなんどする人は・ををけれども法華経をたのむ人すくなし」との仰せのごとく、流行の念仏を称えたり、戒律をたもって世間からあたかも生き仏のごとく思われる似非宗教者が出没するのである。
しかし、星は多くても暗闇の大海を明るく照らすことはできない。と同じように、どんなに念仏を称えても生死の大海を渡って成仏を遂げることはできない。また、草は何万本集めても大きな建物を支える柱にはならない。と同じように、戒律をいくらたもっても、仏道修行を支えることはできず、また「浄土へまひる種」にもならないのである。かえって念仏無間、律国賊等の現証があらわれるのみである。南無妙法蓮華経のみが末法において一切衆生を成仏させる法なのである。