光日上人御返事 第三章(国家滅亡の根本原因を明かす)

 去る承久の合戦に隠岐の法皇の御前にして京の二位殿なんどと申せし何もしらぬ女房等の集りて王を勧め奉り戦を起して義時に責められ・あはて給いしが如し、今今御覧ぜよ法華経誹謗の科と云ひ日蓮をいやしみし罰と申し経と仏と僧との三宝誹謗の大科によつて現生には此の国に修羅道を移し後生には無間地獄へ行き給うべし、此れ又偏に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と此れ等の人人を結構せさせ給う国主の科と、国を思ひ生処を忍びて兼て勘へ告げ示すを用いずして還つて怨をなす大科、先例を思へば呉王・夫差の伍子胥が諫を用いずして越王・勾践にほろぼされ、殷の紂王が比干が言をあなづりて周の武王に責められしが如し。

 

現代語訳

去ぬる承久の合戦のときに、隠岐の法皇の前で京の二位・藤原兼子などというなにも知らない女官達が集まって、法皇をそそのかして合戦を起こし、かえって北条義時に打ち破られ、あわてたようなものである。現在をよくよく見なさい。法華経を誹謗した科といい、日蓮を卑しんだ罰といい、経である法華経と仏と僧の三宝を誹謗した大科によって、現世にはこの国に修羅道を現出し、後生には無間地獄に堕ちゆくであろう。これはまた偏に真言宗の弘法、慈覚、智証の三人の法華経を誹謗した科と、禅宗の達磨・念仏宗の善導・律宗の僧等の一乗誹謗の科と、これらの邪僧悪侶を増長させた国主の科と、国を思い生地を大事にして、かねてから諫暁しているのを用いないで還って怨を為す大科によるものである。これらの大科は、先例を思えば、呉王の夫差が伍子胥の諌言を用いないで越王の勾践にほろぼされ、殷の紂王が比干の忠言をあなどって周の武王に攻め滅ぼされたようなものである。

 

語句の解説

承久の合戦

承久3年(1221)朝廷が幕府を倒そうとして企てた乱、失敗に終わった。地頭職問題で幕府側と不穏になった朝廷側は後鳥羽上皇を中心として謀議を企て、北面の武士や、幕府に不満をもつ武士等を集めるべく、北条義時追討の院宣を発した。義時は家人を結束させ、朝廷の軍勢を二か月で討った。その結果、幕府は後鳥羽上皇を隠岐に配流したのをはじめとして、三上皇を配流し、天皇を交代させた。この結果、皇室は全く権力を失い、北条執権政治の時代が出現した。

後鳥羽上皇を中心とする朝廷軍の根本的な敗因は、幕府調伏のため真言の祈禱を行なったことによる。「還著於本人」の経文どおり、亡国の悪法たる真言宗に祈禱したのであるから、かえってわが身を亡ぼす結果となったのである。

 

隠岐の法皇

後鳥羽上皇(11801239)のこと。承久の合戦の主謀者とされ、合戦ののち、幕府により隠岐に流された。

 

京の二位殿

藤原兼子(11551229)をさす。藤原範兼の女。後鳥羽上皇の乳母。朝廷内の陰の政治家で、典侍、従二位であったため二位殿とよばれた。院の幕府対策に常に参与し、幕府側の権勢者・尼将軍と相並んで、東西の二大女性政治家といわれた。承久の合戦後、上皇が隠岐の島に流されたあとも京にあったが、その勢力は衰えた。

 

義時

北条義時(11631224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。

 

三宝

仏・法・僧のこと。この三を宝と称する所以について究竟一乗宝性論第二に「一に此の三は百千万劫を経るも無善根の衆生等は得ること能はず世間に得難きこと世の宝と相似たるが故に宝と名づく」等とある。ゆえに、仏宝、法宝、僧宝ともいう。仏宝は宇宙の実相を見極め、主師親の三徳を備えられた仏であり、法宝とはその仏の説いた教法をいい、僧宝とはその教法を学び伝持していく人をいう。三宝の立て方は正法・像法・末法により異なるが、末法においては、仏宝は久遠元初の自受用身であられる日蓮大聖人、法宝は事行の一念三千の南無妙法蓮華経、僧宝は日興上人である。

 

呉王・夫差の伍子胥が諌を用いず

夫差(不明~前0473)は中国春秋時代の呉王朝最後の王である。父の呉王闔閭は越王勾践に敗れ、その復讐を子の夫差に託して死ぬ。そこで夫差は、2年後に再び勾践と相対して勾践を敗る。勾践は夫差に和解を申し入れるが、内心はこれに取り入って再起をうかがう腹であった。そのとき家臣の伍子胥は、越が後日軍備を整えて攻めてくるのを見通して、夫差に勾践の首をはねることを進言した。夫差はこれを聞き入れないので、再び勾践を殺すことを進言するが、それも聞き入れられず、かえって宰相・嚭の讒言により自害させられる。そのとき、伍子胥は「自分の死んだのちに、わが眼を呉の東門にかけておけ、敵国越が呉を亡ぼすさまを見届けよう」といって自害した。その後予言どおり呉は越に亡ぼされた。

 

殷の紂王・比干

紂王は紀元前12世紀ごろの中国殷代最後の王。帝辛ともいう。智力・能力・腕力ともに勝れたが、妲己を溺愛してからは淫楽にふけり、盛んに宮苑楼台を建築し、珍しい禽獣を集め、妲己のいうがままに酒を池とし、肉を木にかけて林とし、長夜の宴を張った。側近が諌めるのを全くとりあわず挙句は刑罰を重くし、炮烙の刑を新設した。また、自分のいうことを聞かない臣下を殺して塩漬けの肉としたり、それを諌めた家来を乾し肉にしたり、少しでも、敵意をもつ者は捕え、逆に讒言の上手な家来を用いるなどの悪行に、民心は完全に離れていった。このような紂王の乱行に、王子の比干は再三の諌言をしたが、全く聞き入れられず、ついに比干は「人臣たる者は、死を賭してお諫めしなければならない」と面をおかして紂王を諫めた。すると紂王は「聖人の心臓には七つの穴があるそうだな」といって比干を殺し、その心臓を解剖したという。こうした悪行の連続で、すでに民心は紂王のもとにはなく、ために周の武王が僅か800騎で攻めてきたのに、紂王70万の軍は寝返りを打つ者、戦意皆無の者ばかりで武王に敗れたのである。

 

修羅道

阿修羅道のこと。六道のひとつ。修羅界に生きる道のこと。修羅が古代インドでは戦闘を好み、帝釈天と争う鬼神であったことから、争い、闘争、戦闘をいう。

 

弘法・慈覚・智証等の三大師

弘法は日本真言宗の開祖、渡唐し長安青龍寺の恵果に胎蔵・金剛両部の法を学び、帰朝後、大日如来を本尊とし、法華経を戯論の法と唱え真言密教の邪義を弘めた。

慈覚ははじめ伝教の弟子となり、天台宗延暦寺第三の座主となったが、伝教の法に従わず理同事勝と称して、大日経を尊び法華経を軽んじて、慈覚派の祖となった。

智証は慈覚のあとをうけ、比叡山第四の座主となった。智証派の祖。慈覚以上に真言の邪法を重んじ、仏教界混濁の源をなした。いずれも悪相を現じて没した。

 

達磨・善導・律僧等

達磨は中国禅宗の祖、菩提多羅のこと。達磨は般若多羅より教えを受け、彼の滅後60余年間中国に法を弘めるように命ぜられ、梁の普通元年(0520)中国に入り、武帝に禅を説いたが、帝に拒否され、魏に渡り嵩山の少林寺の壁にむかい九年間坐禅した。そのため壁観婆羅門とよばれる。悪相を現じて死んだ。

善導は中国唐時代の浄土宗の僧である。道綽の弟子で、浄土教を修し、念仏を弘め、浄土教義を完成した。のちに気が狂い柳の木に縄をかけ自殺しようとしたが地面におち、14日間苦しみぬいて死んだ。

律僧は律宗の僧で、中国唐代の道宣等がいる。

 

講義

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