現代語訳
「なきなをながさせ給うにや」の御文は、本抄が断簡で、前後不明のため語釈ができない。
三つの綱は今世において切れた。五つの障りもすでに晴れたであろう。心奥の仏性の月は曇りがなく煌々と照り輝き、苦集の身の罪障である垢は消えた。まさしく光日尼あなたは即身の仏である。まことに尊いことである。さらにくわしく法門のことなどをいうべきであるが、あまり文を多く書いたときに、このお手紙は書いたのです。恐恐謹言。
九月十九日 日 蓮 在御判
光日尼ごぜん御返事
語句の解説
なきなをながさせ給うにや
幾多の解釈がされているが、まずその一つに、死んだのちまで名を残されるであろう、との解釈がある。次に冒頭の「なき」を助動詞として用い、「……なき名」とも考えられる。
三つのつな
三従のこと。三従に縛られることから綱という語を使ったと思われる。三従とは女人が一生涯において服従すべき三つのことをいう。大智度論第九十九に「女人の体は幼なれば則ち父母に従い、少うして則ち夫に従ひ、老いては則ち子に従う」とあるように、生涯自由を得ることができず、家にあっては父母に、嫁しては夫に、夫死して子に服従し、修行をするのに困難な境涯にあると仏教典、儒教典に説かれている。したがって、従来の宗教では、女人成仏は不可能とされてきた。日蓮大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経によってのみ女人の成仏は可能なのである。「日眼女造立釈迦仏供養事」(1188:03)には「抑女人は一代五千・七千余巻の経経に仏にならずと・きらはれまします、但法華経ばかりに女人・仏になると説かれて候」とある。
五つのさわり
五障のこと。女人の持つ五つのさわりをいう。法華経提婆達多品第十二の舎利弗の疑問の中に、女人の身では梵天・帝釈・魔王・転輪聖王・仏身にはなれない、したがって、成仏できないのではないかとある。だが、舎利弗の疑いに対して、八歳の竜女が忽然の間に即身成仏の現証を示し、妙法蓮華経の正しさを証明するのである。
即身の仏
即身成仏のこと。衆生がこの一生のうちにその身のままで仏の境涯を得ること。爾前経では、何度も生死を繰り返して仏道修行を行い(歴劫修行)、九界の迷いの境涯を脱して仏の境涯に到達するとされた。これに対し法華経では、十界互具・一念三千の法理が説かれ、凡夫の身に本来そなわる仏の境地(仏界)を直ちに開き現して成仏できると明かされた。このように、即身成仏は「凡夫成仏」である。この即身成仏を別の観点から表現したのが、一生成仏、煩悩即菩提、生死即涅槃といえる。
講義
本抄は、大聖人が弥四郎なきあとの光日尼のけなげな信心をめでられ、三従、五障をはなれて、即身成仏できると記別を与えられた御抄であり、真実の女性の幸福を的確に明かされた御書である。光日尼は夫に先立たれ、頼みの綱とした子の弥四郎を文永11年(1274)に亡くしたのである。だがこうした苦しみにめげず、唯ひたすらに妙法を求め抜いたのである。この結果、冥の照覧あって、五障三従をはなれ、安楽な生涯を送ることができたのである。
この光日尼の信心こそ、女性の信心の鑑でなくして何であろう。われらもまた如何なる苦難があろうと、御本尊を堅く信じ、妙法を弘めゆく実践者、妙法の革命児として生きゆかねばならない。
思うに今日ほど女性にとって恵まれた時代はない。社会的地位の向上、参政権の行使、家庭における婦人の地位等、その社会的進出は目をみはるものがあり、戦前の日本の社会では夢にもみることができなかったことである。だがいかに社会が女性のために好転しようと、女性のもつ本来の宿業たる貪・瞋・癡の三毒より起こる苦悩、三従の苦縛が解かれずして、真実の女性の幸福、婦人解放はありえない。
外なる社会制度の変革によって、女性の幸福、婦人解放が行なわれても、内なる女性の本質にねざす幸福が究明されずして、真実の幸福、婦人解放はありえない。むしろその変革の実体は人間解放というべきであろうか。
すなわち、人間革命なくして真実の女性の幸福、否、人類全体の幸福はないといえる。
しかして、人間革命の原動力となる思想、哲学、これが色心不二の大生命哲理であり、三大秘法の大御本尊なのである。
三大秘法の御本尊の力用は、人間の持つ三毒の汚濁した生命を三徳の清浄な生命へと転ぜしめ、過去・現在・未来の三世に亘る、揺るぎなき幸福境涯を築く本源の力なのである。
「日女御前御返事」に「かかる御本尊を供養し奉り給ふ女人・現在には幸をまねぎ後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて闇に燈の如く険難の処に強力を得たるが如く……」(1244:05)と。
故に妙法を信ずる女性こそ、開けゆく栄光の未来にあって、人間を謳歌し幸福を満喫し得る女性となることができるのである。
だが、いかに偉大な妙法であっても、信受の度合い、信心の厚薄によって、幸福は決定するのである。
「日女御前御返事」に「穴賢・南無妙法蓮華経とばかり唱へて仏になるべき事尤も大切なり、信心の厚薄によるべきなり仏法の根本は信を以て源とす」(1244:14)と。
「日厳尼御前御返事」に「叶ひ叶はぬは御信心により候べし全く日蓮がとがにあらず、水すめば月うつる風ふけば木ゆるぐごとく・みなの御心は水のごとし信のよはきはにごるがごとし、信心の・いさぎよきはすめるがごとし」(1262:02)と。