富城入道殿御返事(弘安の役の事) 第一章(病中に執筆する心情を述ぶ)
弘安4年(ʼ81)10月22日 60歳 富木常忍
今月十四日の御札、同じき十七日到来す。また去ぬる後七月十五日の御消息、同じき二十日比到来せり。その外度々の貴札を賜うといえども、老病たるの上、また不食気に候あいだ、いまだ返報を奉らず候条、その恐れ少なからず候。
何よりも去ぬる後七月の御状の内に云わく「鎮西には大風吹き候いて、浦々・島々に破損の船充満のあいだ、乃至京都には思円上人」。また云わく「理あにしからんや」等云々。このこと、別してはこの一門の大事なり、総じては日本国の凶事なり。よって病を忍んで一端これを申し候わん。
これひとえに日蓮を失わんとして、無かろう事を造り出ださんこと、兼ねて知る。その故は、日本国の真言宗等の七宗・八宗の人々の大科、今に始めざることなり。しかりといえども、しばらく一を挙げて万を知らしめ奉らん。
現代語訳
今月十四日の御手紙は同じく十七日に到着、またさる閏七月十五日の御手紙も同じく二十日ごろに到着した。そのほかたびたび御手紙をいただいたが、老病の身の上であり、また食事が進まないので、まだ返事をさしあげていないことを恐縮に思っている。
それらのなかで、なによりも閏七月の御手紙のなかに「鎮西には大風が吹いて、浦浦・島島に破損の船が充満している」、また「京都で思円上人の調伏の祈禱によって蒙古が敗れたといわれている。またそのような道理があるでしょうか」等とあった。このことは、別しては日蓮一門の大事である。総じては日本国の凶事である。そのため、病苦を忍んでそのことについて一端を申し上げよう。
思円の祈禱によって蒙古を調伏したなどということは、ただ、日蓮を葬ってしまおうとして、ないことを造り出したこととかねてから知っている。それは日本国の真言宗等の七宗・八宗の人々の大悪事の謀は今に始まったことではない。しかし、ここで一例を挙げてすべてをお知らせしよう。
語句の解説
後の七月十五日
閏7月15日のこと。当時は太陰太陽暦が使用されて、現在使用している太陽暦より一年の日数が少ないため、そのずれた日数を調整するために、19年に7度、閏月が設けられた。
老病
老衰によって起こる病気。
鎮西
九州のこと。天平 14(742) 年1月筑紫におかれていた大宰府が廃され,翌年 12月鎮西府がおかれた。同 17年6月再び大宰府が復活したが,鎮西府と称され,鎮西は九州の別称として平安時代末期から鎌倉時代にかけて用いられた。
思円上人
(1201~1290)。叡尊のこと。思円は字。鎌倉時代の律宗の復興者。大和の人。謚号は興正菩薩。本朝高僧伝巻五十九等によると、はじめ密教を学んだが戒律の廃れていることを嘆いて律を学び、自誓受戒した。皇室・公家・幕府などに多く信者を得た。弘安4年(1281)6月、後宇多天皇の勅によって蒙古調伏の祈祷を命じられ、7月、山城国の男山八幡宮で蒙古調伏をしたという。弟子には極楽寺良観等がいる。著書には「梵網古迹文集」十巻などがある。
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
七宗・八宗
俱舎・成美・律・法相・三論・華厳の六宗に真言を加えて七宗。天台宗を加えて八宗となる。
大科
重罪、大きなあやまち。
講義
本抄は日蓮大聖人が、弘安4年(1281)10月22日、身延で認められて富木常忍に与えられた御消息である。
本抄の大意は、その5月から7月にかけ北九州地方に襲来した蒙古軍が台風によって壊滅したことについて、世人が思円上人の蒙古調伏の祈禱によると評判しているとの常忍からの書状に対し、大聖人は真言の邪法による祈禱が成就するはずは絶対にないと、承久の乱の先例を詳しく挙げて述べられている。
まず、富木常忍からの書状に蒙古の軍船が九州の海上で大破したとの報と、それが思円の調伏の効験だとする世評を伝えて質問したのに対して、そのような世評は大聖人を失おうとする諸宗のたくらみであると指摘、それを明らかにするために病をおして本抄を執筆される心情を述べられている。
富木常忍からの書状は、たびたび身延に届けられていたようだが、大聖人は「老病為るの上又不食気に候間未だ返報を奉らず候」と仰せのように、御病体であったために返報されなかったが、事が重大であり、門下を世評で動揺させないためにも、「病を忍んで一端是れを申し候はん」と、自ら筆を執られたのである。
弘安4年(1281)5月の池上兄弟への御状に「此の法門申し候事すでに廿九年なり、日日の論義・月月の難・両度の流罪に身つかれ心いたみ候いし故にや此の七八年間が間・年年に衰病をこり候いつれどもなのめにて候いつるが、今年は正月より其の気分出来して既に一期をわりになりぬべし、其の上齢既に六十にみちぬ、たとひ十に一・今年はすぎ候とも一二をばいかでか・すぎ候べき」(1105:01)と述べられているように、60歳という御老齢のためや、身延の厳しい気候環境や、衣食の不足、長い間の御苦難のお疲れなどが重なって、当時の大聖人は健康を損なわれていたのである。
鎮西には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間乃至京都には思円上人……
富木常忍からの閏7月15日の書状には、襲来した蒙古の軍船が、台風のためにその多くが沈没または破損して壊滅したとの報告がなされていたのである。
ここで第二次蒙古襲来、いわゆる「弘安の役」の経過について、簡単に述べてみよう。
文永11年(1274)10月の第一次蒙古襲来、いわゆる「文永の役」では、蒙古軍は九州上陸後、陸上戦闘で一方的に日本の沿岸警備軍を撃破して大勝しながら、夜になって海上の軍船に引き上げてしまい、その夜半に暴風雨にあって多くの兵船が難破したため、敗退している。
だが、蒙古の世祖フビライは、日本遠征をあきらめるどころか、翌文永12年(1275)には、再び日本に入貢し服属すべしと勧告した国書を杜世忠らに伝えさせた。鎌倉幕府は、その蒙古使五人を鎌倉郊外の竜の口で頸を斬っている。
このように強硬な措置をとった幕府は、戦備を固めることに全力をあげ、異国警護番役の規則を厳重にし、北条一族を九州諸国の守護にして派遣したほか、蒙古軍の上陸を阻止するために博多湾沿岸に防塁(石築地)を築くこととした。石築地の工事は、建治2年(1276)から始められ、述べ約20㌔にわたって防塁が築かれたという。
弘安2年(1279)6月、蒙古への服属をすすめる宋からの牃状をたずさえた使者が対馬に上陸したが、これも斬首している。そのため、蒙古側では外交折衝をあきらめ、弘安3年(1280)には日本遠征を具体化すべく征東行省を設けた。
弘安4年(1281)5月、900艘の軍船に40,000の東路軍で朝鮮の合浦を進発、21日に対馬を襲い、6月8日に博多湾に入ったが、防塁のために上陸できず、志賀島に拠った。一方、遠征軍の主力である江南軍は遅れて、3500艘の軍船に100,000の大軍で慶元を出発、6月下旬に壱岐を襲ったが、日本軍が奮戦したために上陸をあきらめている。その後、東路軍と江南軍は平戸島あたりで合流し、20日間にわたって海上で遊弋していた。ようやく、7月下旬に肥前(佐賀県)の鷹島に集結している。
ところが、閏7月1日の夜半から大暴風雨が北九州一帯を襲った、旧暦の7月は秋であり、すでに台風の季節になっていた。しかも、そのときの台風はかなり大型のものだったらしく、それがまともに博多付近を通過したのである。そのため、当時の粗悪な軍船ではひとたまりもなく、ほとんどが沈むか大破した。蒙古軍の大半は戦わずして海中に沈み、鷹島付近に打ち上げられていた敗残兵もことごとく捕えられ、首を打たれた、その数10,000余といわれる。遠征軍140,000のうち、本国へ帰り着いた者はわずかに30,000だったという。
嵐が過ぎ去った後には、海面をうずめ尽くして、軍船の残骸が無残な姿を示して漂っていたことが当時の記録にも見える。「大将軍の船は……恐れを成て逃去ぬ。残所の船共は皆破損して磯にあがり、興にただよいて、海の面は算を散すにことならず、死人多くかさなりて、島をつくに相似たり」と。
蒙古軍壊滅の報はただちに京・鎌倉に伝えられ、それを富木常忍が大聖人へお知らせしたのが「鎮西には大風吹き候て浦浦・島島に破損の船充満の間……」との一節なのである。
同時に常忍は、蒙古軍壊滅を、世人は京都の思円上人の祈禱の効験と評判しているが、そのようなはずがあるのでしょうか、との疑問を寄せた。それに対して大聖人は「此の事別して此の一門の大事なり総じて日本国の凶事なり」と、その重要性から本抄を著されたのである。
思円上人とは、奈良・西大寺の叡尊のことで、叡尊ははじめ高野山で密経を学び、のちに律宗の衰えていることを嘆いて東大寺の覚盛らに授戒し、西大寺に住んで南都の戒律を復活させ、律宗の再興をはかった。そして、皇室、公家、幕府の有力者に多くの信者をもち、亀山上皇や北条時頼などにも授戒している。真言による祈禱をよくしたため、弘安四年の蒙古襲来の際にも朝廷から命ぜられて男山八幡宮で蒙古調伏の祈禱を行じている。ところが、蒙古軍が壊滅したため、京都では思円上人が祈禱したためであるとするうわさが流れ、それが鎌倉にまで伝わったものであろう。また、鎌倉・極楽寺の忍性良観は叡尊の高弟であり、良観らが故意にそうしたうわさを鎌倉にまきちらしたとも考えられる。
大聖人はそうしたうわさを「是偏に日蓮を失わんと為て無かろう事を造り出さん事兼て知る、其の故は日本国の真言宗等の七宗・八宗の人人の大科今に始めざる事なり」と述べられている。すなわち、それは大聖人を葬るための作りごとであり、そうした諸宗の策謀は今に始まったことではないとの意である。
真言宗をはじめ諸宗は、大聖人の予言どおり自界叛逆と他国侵逼の二難が起きたことに脅威を感じており、とくに亡国の悪法と破折されている真言宗では、大聖人の諌暁が幕府や朝廷に用いられることをもっとも恐れていたであろう。それが、叡尊の愛染法等の真言密教の祈禱によって蒙古の軍船が覆滅したということになれば、叡尊の名があがるだけではなく、真言密教の霊験が明らかになり、反対に大聖人の破折が誤りだったことが証明される。
そのために〝思円上人が勅命により男山八幡宮に詣り、7月1日に戒を説き、仁王会を開き、愛染法を修したところ、雷雲俄に起こって西へ向かい、その夜西海に神風が吹いて蒙古の軍船が悉く覆没した〟という筋の虚構の霊験談を作って流布させたのであろう。
大聖人はその策謀を鋭く見抜かれるとともに、そのことが人々に信じられるようなことがあれば一国の凶事であるとして、本抄で、真言の祈禱は敵を調伏するどころか、国を亡ぼし家も我が身も亡ぼす大禍となることを、歴史の先例を挙げて証明されているのである。