富城入道殿御返事(弘安の役の事) 第三章(法華堂修築に御供養を充つ)

富城入道殿御返事(弘安の役の事) 第三章(法華堂修築に御供養を充つ)

 弘安4年(ʼ81)10月22日 60歳 富木常忍

又必ずしいぢの四郎が事は承り候い畢んぬ、予既に六十に及び候へば天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだみぐるしげに候房をひきつくろい候ときに・さくれうにおろして候なり、銭四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし、恐恐。

       十月二十二日 日蓮花押

     進上富城入道殿御返事 

 

現代語訳

また、椎地四郎のことは承知した。

日蓮はすでに齢六十にもなったので、天台大師の御恩を報じようと思って、見苦しくなっている房を修繕、改築する費用に御供養の銭を下して使用した。

銭四貫文を供養して、一閻浮提第一の法華堂を造ったと、霊山浄土に行かれた時には申し上げられるがよい。恐恐。

十月二十二日             日 蓮  花 押

進上 富城入道殿御返事

 

語句の解説

しいぢの四郎

大聖人御在世当時の信徒。弘長元年(1261)「椎地四郎殿御書」をいただいている。詳細は不明だが四条金吾と交流があったと思われる。

 

天台大師

538年~597年。智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って一念開悟し、円頓止観を悟った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳・隋を治めていた、陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」(611㌻)とされている。

 

天台大師の御恩……

大聖人は天台大師への報恩として、天台大師の忌日である1124日に法会を行われた。文永7年(127011月の金吾殿御返事に「此の大師講・三四年に始めて候が今年は第一にて候いつるに候」(0999:03)と仰せになっていることから、文永三、四年ごろから始められていたと思われる。法会には、天台大師の画像を安置して、読経、法華経や摩訶止観等の著作の談義も行われていたらしい。

 

僧房のこと。修行僧の居所。房所ともいう。もと寺院で僧の住する区域を坊と呼び、坊の中にいくつかある建物を房と称したが、後には坊は房と混同された。日蓮大聖人は身延入山後庵室を作られ、建治3年(1277)に一度修理を加えられたが、手狭であり、建物も痛みが激しくなって来たので、本抄を御執筆された弘安4年(128110月に大坊の建設に着手した。111日に小坊と馬屋が完成し、8日に柱だて、910日に屋根を葺き終え、1123日に10間四面の大坊建設が落成している。

 

さくれう

①物を作る代金。②耕作地を借りる代金。

 

一閻浮提第一

閻浮提は梵語ジャンブードゥヴィーパ(Jumb-ūdvīpa)の音写。閻浮とは樹の名。堤は洲と訳す。古代インドの世界観では、世界の中央に須弥山があり、その四方は東弗波提、西瞿耶尼、南閻浮提、北鬱単越の四大洲があるとする。この南閻浮提の全体を一閻浮提といった。すなわち世界一のこと。

 

法華堂

法華経を修行する道場。

 

霊山浄土

釈尊が法華経の説法を行なった霊鷲山のこと。寂光土をいう。すなわち仏の住する清浄な国土のこと。日蓮大聖人の仏法においては、御義口伝(0757)に「霊山とは御本尊、並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」とあるように、妙法を唱えて仏界を顕す所が皆、寂光の世界となる。

 

講義

本抄の結びにあたって、富木常忍から供養された銭四貫文を、身延の大坊造営の費用にあてたことを述べて謝意を表されている。

椎地四郎のことは承知したと仰せになっているが、その内容はわからない。椎地四郎については、弘長元年(1261428日付けで大聖人から御消息をいただいており、その中に「四条金吾殿に見参候はば能く能く語り給い候へ」(1449:02)との御文があるところから、四条金吾と親交があったことがうかがわれる。現在の静岡県沼津市に「椎路」という地名が残っているところから、そのあたりの住人だったとも考えられる。

いずれにせよ、古くからの門下であった椎地四郎に関して、富木常忍のほうから何らかの報告があったものであろう。

つぎに、富木常忍から御供養された銭四貫文を、身延の房を修繕する費用として用いたとことわられ、それで「一閻浮提第一の法華堂」を造立したとされているのは、弘安4年(12811123日に完成した十間四面の身延の大坊をさしておられる。

一閻浮提第一の御本尊が御安置され、一閻浮提第一の法華経の行者が住される所であるゆえに、こういわれたのである。

文永11年(1274)に大聖人が身延へ入られた時建てられた最初の草庵は、3年後の建治3年(1277)にははなはだしく破損したために修復の手が加えられており、その後も修繕や建て増しでしのがれてきたが、弘安4年(128111月に、十間四面の大坊として建て直されたのである。

弘安4年(12811125日に波木井実長へ与えられた地引御書に「坊は十間四面にまたひさしさしてつくりあげ……十一月ついたちの日せうばうつくり馬やつくる・八日は大坊のはしらだて九日十日ふき候い了んぬ」(1375:01)と、大坊建設のようすが詳細に述べられている。

そして、この御文に「二十四日に大師講並びに延年心のごとくつかまつり」(1375:01)といわれているところから、天台大師の忌日である1124日に、新築なった大坊で、天台大師講がとり行われ、延年の舞いも演ぜられているのである。

大聖人はこの大坊を「身延山久遠寺」と命名されたのである。おそらく銭四貫だけで出来たわけではなく、建立費用の一部として用いられたのであろうと思われるが、富木常忍の御供養が造立の資となったことについて、来世にわたる功徳善根を積んだことを確信するよう述べられているのである。

タイトルとURLをコピーしました