富城入道殿御返事(弘安の役の事) 第二章(真言亡国の前例を承久の乱に見る)
弘安4年(ʼ81)10月22日 60歳 富木常忍
去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失わしめんが為に調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日・山道・海道・北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、同じき六月十三日其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて震動雷電して武士共首の上に鳴り懸り鳴り懸りし上・車軸の如き雨は篠を立つるが如し、爰に十九万騎の兵者等・遠き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり在家の人は皆隠れ失せぬ冑は雨に打たれて緜の如し、武士共宇治勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁・七丁・十丁に及ぶ、然る間・一丈・二丈の大石は枯葉の如く浮び五丈・六丈の大木流れ塞がること間無し、昔利綱・高綱等が度せし時には似る可くも無し武士之を見て皆臆してこそ見えたりしか、然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故に馬筏を作りて之を度す処・或は百騎・或は千万騎・此くの如く皆我も我もと度ると雖も・或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し、然る間・緋綴・赤綴等の甲其の外弓箭・兵杖・白星の冑等の河中に流れ浮ぶ事は猶長月神無月の紅葉の吉野・立田の河に浮ぶが如くなり、爰に叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等之を聞くことを得て真言の秘法・大法の験とこそ悦び給いける、内裏の紫宸殿には山の座主・東寺・御室・五壇・十五壇の法を弥盛んに行われければ法皇の御叡感極り無く玉の厳を地に付け大法師等の御足を御手にて摩給いしかば大臣・公卿等は庭の上へ走り落ち五体を地に付け高僧等を敬い奉る。
又宇治勢田にむかへたる公卿・殿上人は冑を震い挙げて大音声を放つて云く義時・所従の毛人等慥に承われ昔より今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや、狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く修羅が日月を射るに其の箭還つて其の眼に中らざること無し遠き例は且く之を置く、近くは我が朝に代始まつて人王八十余代の間・大山の皇子・大石の小丸を始と為て二十余人王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし皆頸を獄門に懸けられ骸を山野に曝す関東の武士等・或は源平・或は高家等先祖相伝の君を捨て奉り伊豆の国の民為る義時が下知に随う故にかかる災難は出来するなり、王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に乗せられて東西南北に馳走するが如し今生の恥之れを何如、急ぎ急ぎ冑を脱ぎ弓弦をはづして参参と招きける程に、何に有りけん申酉の時にも成りしかば関東の武士等・河を馳せ度り勝ちかかりて責めし間京方の武者共一人も無く山林に逃げ隠るるの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧・御師・御房達は或は住房を追われ或は恥辱に値い給いて今に六十年の間いまだ・そのはぢをすすがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達・御祈禱承はられて候げに候あひだいつもの事なれば秋風に纔の水に敵船・賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取たりなんど申し祈り成就の由を申し候げに候なり、又蒙古の大王の頸の参りて候かと問い給うべし、其の外はいかに申し候とも御返事あるべからず御存知のためにあらあら申し候なり。
乃至此の一門の人人にも相触れ給ふべし
現代語訳
去る承久三年に隠岐法皇が北条義時を除くために、義時調伏を比叡山の座主・東寺・仁和寺・七寺・園城寺に命ぜられ、同じ三年の五月十五日、鎌倉幕府の代官・伊賀太郎判官光末を京都の六波羅で殺害させたのである。
そうする間に同じ五月十九日二十日にその報が届き、鎌倉中が大騒ぎとなって、北条義時は、同五月二十一日東山道・東海道・北陸道の三道から十九万騎の兵を京都に向けて出発させた。同じく六月十三日、その夜の戌亥の時から青天がたちまち曇って雷電が鳴りわたって、武士達の頭の上に懸ったうえ、車軸のような激しい雨は篠を立てたようであった。
十九万騎の兵達は、遠い道を行軍して、兵乱のために米は尽き、馬は疲れていた。付近の住民は皆逃げ隠れてしまった。冑は雨に打たれて綿のようだった。武士達が宇治・瀬田に押し寄せてみると、いつもなら三丁・四丁の幅の川なのが、大雨のため六丁・七丁・十丁の川幅にもなっている。しかも、一丈・二丈もある大石が枯葉のように浮かび、五丈・六丈の大木によって流れが塞がれることも間がない。昔、足利利綱と佐々木高綱等が渡った時とは比べることもできなかった。武士はこれを見て、皆臆したようにみえたが、きょうを過ごしてしまうと皆心を飜して京都方に堕ちてしまうだろう。そのために、馬筏を作って向こう岸に渡ろうとしたところ、あるいは百騎、あるいは千騎、万騎と、そのようにして皆われもわれもと川を渡ったのだが、あるいは一丁、あるいは二丁、三丁と渡りかけても、向こう岸に着く者は一人もいない。こうして緋綴・赤綴等の甲、そのほか弓や箭や刀や薙刀、白星の冑等が川の中に浮かぶ姿は、まるで九月十月ころの紅葉が吉野・立田の川に浮かぶようであった。
このことを聞いた比叡山・東寺・七寺・園城寺等の高僧等は、真言の秘法・大法の験と喜んだのである。宮中の紫宸殿では、比叡山の座主・東寺・仁和寺の高僧が、真言密教の五壇・十五壇の修法をいよいよ盛んに行じたので、後鳥羽院上皇は感嘆されることこの上もなく、玉の飾りを地につけ、修法の大法師等の足をその手で摩でられたので、そのほかの大臣・公卿等は庭の上へ走り落ちて五体を地につけ高僧等を敬った。
また宇治・瀬田に出陣した公卿・殿上人は関東武士に対し冑を震いあげて大音声を放っていった。「義時の家来のいなかもの達よ、心して聞け。昔より今にいたるまで王法に敵対した者で安穏であった者がいるか。犬が師子を吼えてその腹が破れなかったことがなく、修羅が日月を射てかえってその箭が自らの眼にあたらなかったことはなかった。遠い外国の例はしばらくおいて、近くは日本がはじまって以来、人王八十余代の間の例を挙げれば、大山の皇子、大石の小丸をはじめとして二十余人が王法に敵対したが、誰一人として謀叛の目的を達した者はいない。皆獄門に頚をかけられ、骸を山野に曝した。今や関東の武士等、あるいは源氏と平氏、あるいは家柄の良い家々が先祖から相伝えた大君を捨てて、伊豆の国の民である北条義時の命令に随うために、このような災難が起こったのである。王法に背き民の命令に随う者は、師子王が野狐に乗せられて東西南北に駈けまわっているようなものである。これこそ一生の恥であり、これをどうするのか。急ぎ急ぎ冑を脱ぎ、弓弦をはずして降参せよ、降参せよ」と招いた。ところがどうしたことか。申酉の時にもなると、関東の武士等は川をかけ渡り、勝ちほこって攻撃したので、京都方の武者達は、一人のこらず山林に逃げ隠れてしまった。そこで、関東の武士達は四人の王を四つの島へ流罪にしてしまい、また高僧・御師・御房達は、あるいは住む寺を追われ、あるいはさまざまな恥辱にあって、それから今まで六十年の間、いまだにその恥をすすいでいないと思われているのに、今また、それらの祈禱を修した僧侶の弟子達が祈禱を仰せつけられたようである。そして、いつも吹く秋風によるわずかの波浪で蒙古の船が破損したのを、蒙古の大将軍を生け取りにしたなどといい、祈りが成就したなどと吹聴しているのである。また、祈りが叶ったというならば、蒙古の大王の頸が届いたのかと反問すべきである。そのほかのことはどのように言っても、返事をしてはならない。知っておかれたほうがよいと思うので、あらあら申したのである。なお、このことは一門の人々にも伝えておきなさい。
語句の解説
隠岐の法皇
(1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈祷をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。
義時
北条義時(1163~1224)のこと。鎌倉幕府第二代の執権。時政の子で政子の弟。源頼朝の挙兵に政子と参加。平氏討伐、幕府創建の功労者として重用された。政子がその子実朝の死後政権をにぎると、共に政治を執行し、北条氏の地位を確立した。承久の乱には政子と謀って院側をやぶり、三上皇を配流した。
調伏
仏に祈り仏力によって、怨敵や魔を降伏することであるが、謗法による調伏は悪い結果をもたらす。
山の座主
比叡山延暦寺の貫首・管長。
東寺
第50代桓武天皇の勅により、延暦15年(0796)、羅城門(羅生門)の左右に、左大寺・右大寺の2寺が建ち、その左大寺が東寺。弘仁4年(0823)、第52代嵯峨天皇が空海に勅わった。
御室
第59代宇多天皇(在位0887~0895)が譲位後、入道して京都西に仁和寺を建立し住んだ。そのことから仁和寺のことを御室御所という。その後、法皇、法親王はだいたい仁和寺の流れをくむようになり、それらをいうようになった。本文にある「御室は紫宸殿にして……」の御室は、あとの方の意で、後鳥羽天皇の第二子である道助法親王をさす。
七寺
奈良・長岡・平安京と遷都されたなかで、奈良は平安京の南にあたるので、奈良のことを長く南都といった。奈良七大寺のこと。東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺である。日寛上人の分段には「南都は奈良の七大寺なり、棟梁は東大寺・興福寺なり、ゆえに註には但二寺を標するなり、四箇の大寺というもこれなり。延暦三年十一月奈良の都を長岡に遷す。同十三年十月二十一日に長岡を平安城に遷す、奈良は平安城の南なりゆえに南都という。東大寺は『人王四十五代聖武帝・流沙の約に称い良弁を請じて大仏の像を創む、実に天平十五年十月なり』と云云。流沙の約とは釈書二十八に出たり、供養の事は太平記二十四巻に出たり。興福寺は四十三代明帝の治、和銅三年淡海公これを建立す。これ藤氏の氏寺なり」とある。
園城
琵琶湖西岸、大津市園城にある三井寺ともいう。天台宗寺門派の総本山で延暦寺の山門派と対立する。天智天皇が最初に造寺しようとして果たさず、弘文天皇の子・与多王によって天武14年(0686)完成した。天智・天武・持統の三帝の誕生水があるので三(御)井といった。叡山の智証が唐から帰朝して天安2年(0858)当時の付属を受け、慈覚を導師として落慶供養を行ない、貞観元年(0866)延暦寺別院と称した。正暦4年(0992)法性寺座主のことで、叡山から智証の末徒千余人が園城寺に移り、その後、約500年にわたって山門・寺門の対立抗争がつづいた。
鎌倉殿
鎌倉幕府・将軍のこと。
御代官
主君の代理として職務に当たる者。
伊賀太郎判官光末
鎌倉時代前期の鎌倉幕府の御家人。伊賀朝光の長男。母は二階堂行政の娘。姉妹に北条義時の継室・伊賀の方がいる。姉妹が鎌倉幕府の執権北条義時の正室である事から、北条氏外戚として重用された。建暦2年(1212年)、常陸国内に地頭職を与えられる。建保3年(1215年)、左衛門尉、検非違使。建保7年(1219年)2月、大江親広と共に京都守護として上洛。
六波羅
京都の鴨川東岸の五条大路から七条大路一帯の地名。現在の京都市東山区の一部。六原とも記される。天暦5年(0951)空也がこの地に西光寺を創建し、後に中信がこの寺を六波羅蜜寺と改名したことから「六波羅」と呼ばれているとされる。
山道・海道・北陸道
古代・中世のころ京都と東国を結んだ三つの街道。①山道、東海道。近江の草津で東海道と別れ木曽・塩尻から武蔵野国に至る(中山道ともいう)。②海道、東海道。近江の草津から桑名・浜松を通る太平洋側の街道。③北陸道、近江・米原から福井を通る日本海側の街道。
戌亥の時
現在の午後8時から10時までの間をいう。
在家
①在俗のままで仏法に帰依すること。またその人。②民家、在郷の家、田舎の家。③中世、領事の所轄内で屋敷を与えられ、居住し、在家役を負担していた農民。
宇治勢多
宇治川と瀬田川に沿った一帯の地名。滋賀県琵琶湖に源を発する瀬田川は勢多・瀬多とも書き、京都府宇治市に入って宇治川に名を変える。古来、東海道から京都に入る要所である。この県境付近は急流となっているが、流れをはさんでしばしば合戦が行われた。
丁
長さの単位。現在の109㍍。
丈
長さに単位。現在の3.03㍍。
利綱
生没年不明。足利俊綱のこと。平安末期の武将。治承4年(1180)に以仁王が源頼政の勧めで平氏追討の宣旨を出した時、子の忠綱とともに、頼政の軍を宇治川で破り、平氏に大勝をもたらした。
高綱
(~1214)。佐々木高綱のこと。鎌倉初期の武将。源氏と縁故関係にあり、治承4年 (1180)源頼朝挙兵の報を聞いて加わり、石橋山の合戦の時は奮戦して頼朝の危機を救った。寿永3年(1184)義経のもとで義仲追討に加わり、梶原景季との宇治川の先陣争いで名をあげた。戦功により左衛門尉に任ぜられ、長門・備前の守護となった。
馬筏
流れの急な大きな川などを騎馬で渡るときにとる隊形を、筏にたとえた語。馬をつなぎ合わせ強い馬を上流に、弱い馬を下流に配置して筏のようにつくる。
緋綴・赤綴
ともに鎧の威の一種。威とは鎧の扎を綴る糸または細い革のこと。赤綴は緋綴に比べてやや黒みがかっている。
弓箭
弓矢のこと。
兵杖
武器。
白星の冑
冑の鉢を釘づけする鋲頭の星の表面を銀で包んだもの。
長月
旧暦の9月
神無月
旧暦の10月
吉野・立田の河
①吉野、奈良県吉野郡吉野。古くからの桜の名所。②立田川、奈良県北西部、生駒山地の東側を南流して大和川に注ぐ川。古くからの紅葉の名所。
験
働き方によって現れる結果。
内裏の紫宸殿
天皇が居住する御殿で、正殿・即位・朝賀・節会など公式行事が行われる場所。
五壇
五壇法のこと。密教で行われる修法の一つ。密教修法の中で五大明王(不動明王・降三世明王・大威徳明王・軍荼利明王・金剛夜叉明王)を個別に安置して国家安穏を祈願する修法のことである。
十五壇の法
後鳥羽上皇の命で承久3年(1221)4がつ19日、密教の髙僧等41人が各寺院で関東調伏のために行った修法が15あったことをいう。祈祷抄にくわしい。
法皇
仏門に入った上皇のこと。
御叡感
天皇・上皇などの皇族が感嘆・感激すること。
大臣
太政官の上官の長。
公卿
朝廷や王族に仕える貴族の総称。
殿上人
清涼殿に昇ることを許された人。
毛人
大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東方(現在の関東地方と東北地方)や、北方(現在の北海道地方)に住む人々を異端視・異族視した呼称である。
王法
①国王・君主が定める国の法令。②憲法・法律③社会の習慣・規範
狗犬
犬のこと。
修羅
梵語アスラ(Asura)の音訳。非天・非端正等と訳す。戦闘を好み、つねに帝釈・天人等と争う鬼神をいう。大智度論巻十によると阿修羅には毘摩質多羅・羅?羅・婆梨の三兄弟の阿修羅王がおり、ここでは羅?羅阿修羅王をさす。
大山の皇子
生没年不明。第十五代応神天皇の皇子・大山守皇子のこと。日本書紀巻十一等によると、弟の菟道稚郎子皇子が皇太子に任じられたことに不満を抱き、父の応神天皇の死後、ひそかに弟の殺害を計ったが、密計がもれて逆に殺害された。
大石の小丸
生没年不明。日本書紀巻十四の第二十一代雄略天皇13年(0469)8月の条にある播磨国御井隈(兵庫県・詳細不詳)の人・文石小麻呂のことを、鎌倉時代には大石の小丸と誤伝していたものか。日本書紀では暴虐で商客の船を奪い取り、法を犯して租税を納めなかったので、討伐されたと記されている。
二十余人
日本国の初代から大聖人御在世当時までに皇帝に敵した数と思われる。
素懐
かねてからの望み、平素の志、まえからの願い。
源平
源氏と平家。
高家
格式の高い家、権勢のある家柄のこと。由緒正しい家。名門。
伊豆の国
静岡県東部の伊豆半島をいう。
下知
上から下に出す指令・命令。
申酉の時
現在の午後4時から6時にあたる。
四つの王をば四つの島へ
承久の乱によって後鳥羽上皇は隠岐へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ配流され、4歳の仲恭天皇は廃された。
蒙古の大王
フビライ汗のこと。
蒙古
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
講義
本章では、真言によって祈禱・調伏しても、叶うどころか、かえって国を亡ぼし我が身を亡ぼすことになると、承久の乱の先例を詳しく挙げて述べられ、今、例年のように台風が吹いたために蒙古の軍船が破損したのを、真言師らの祈りが成就したなどと主張しているのは偽りである、と破折されている。
去ぬる承久年中に隠岐の法王……
ここで、承久の乱に京の朝廷方が破れたのは、真言の祈禱によることを、戦乱の経過をとおして述べられている。
承久の乱はこの段で述べられているとおりの経過で、承久3年(1221)5月14日、朝廷の実権をにぎっていた後鳥羽院上皇の討幕計画により、流鏑馬ぞろえの名目で北面・西面の武士をはじめ、総勢二千騎が鳥羽離宮に集まって幕府追討に決起したことに始まる。幕府側の京都守護の一人だった大江親広をはじめ、大番役で在京した諸国の武士達も多く参加している。
上皇の意に背いて参加しなかった京都守護の伊賀光季の館は、翌15日、上皇方の軍勢に包囲され、激しい抵抗のすえ滅ぼされた。そして、執権として幕府の実権を握っていた北条義時追討の院宣が、諸国の守護・地頭に向かって発せられた。
その報が5月19日ごろ鎌倉に届き、朝敵となった幕府側は重大な危機に立たされて動揺したようである。しかし、急を聞いて馳せつけた多くの御家人を前にして、尼将軍と呼ばれた源頼朝の妻政子が熱弁をふるったため、結束して幕府を守り抜くことになった。
5月21日、義時の長子泰時が大将として鎌倉を出発、東国十五か国の御家人が動員され、吾妻鏡によれば、東海道を北条泰時以下100,000余騎、東山道を武田信光ら50,000余騎、北陸道を北条朝時ら40,000余騎と、合計190,000騎の大軍が京へ向かったとされている。
六月六日、木曽川沿岸の防御陣地を破られた上皇方は、全軍を集めて京都防衛の最後の要衝であった宇治川での決戦を期した。幕府側は宇治へ北条泰時、勢田へ北条時房が向かい、6月13日、降り続く豪雨の中で戦いが始まった。守る上皇方は宇治・勢田の橋板をすべて引き落として幕府方の進撃を阻み、橋げたを伝わったり川を渡ろうとする東国勢に雨霰と矢をふりそそいだので、さすがの坂東武者も攻めあぐんだ。
しかし、翌14日の明け方、宇治の泰時軍が強引な攻撃を行い、濁流に流されたり、矢でうちとられるなど多くの犠牲者を出しながら、川を渡ることに成功したのである。そのため、上皇方は総崩れとなり散りぢりに敗走していった。
幕府側の大軍が京に侵入したため、後鳥羽上皇はあわてて義時追討の宣旨を取り消し、「今回の討幕計画はすべて謀臣らのなせることで、よって藤原秀康・三浦胤義らの追討を命ずる」という宣旨を発したのである。泰時・時房らは16日に六波羅の館に入り、上皇側近の公卿6人を首謀者として捕え、処刑したうえ、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳天皇を佐渡へ、土御門上皇を土佐へ配流し、仲恭天皇を退位させ、後堀川天皇を皇位につけるという厳しい報復措置をとった。
この間の経過については、「祈禱抄」にも「承久三年辛巳四月十九日京夷乱れし時、関東調伏の為、隠岐の法皇の宣旨に依って始めて行はれ御修法十五壇の秘法(中略)五月十五日伊賀太郎判官光季京にして討たれ、同十九日鎌倉に聞え、同二十一日大勢軍兵上ると聞えしかば、残る所の法、六月八日之れを行ひ始めらる(中略)五月二十一日武蔵守殿が海道より上洛し、甲斐源氏は山道を上(る、式部殿は北陸道を上り給う。六月五日大津をかたむる手、甲斐源氏に破られ畢んぬ。同六月十三日、十四日、宇治橋の合戦、同十四日に京方破られ畢んぬ。同十五日に武蔵守殿六条へ入り給ふ。諸人入り畢んぬ。七月十一日に本院は隠岐の国へ流され給ひ、中院は阿波の国へ流され給ひ、第三院は佐渡の国へ流され給ふ。殿上人七人誅殺せられ畢んぬ」(1353:09)と述べられている。
この承久の乱により、京の朝廷と鎌倉幕府の立場が逆転したといってよく、律令制国家なって以来、不可侵の存在であった天皇方が惨敗したことによって、幕府こそ天下の実力者であり、支配者であることを世に示すとともに、東国を支配する地方政権ともいえた幕府の勢力が、西国へ浸透して全国規模に拡大強化されたのであり、「武士の世」の到来を告げた、日本の歴史の上で重大な分岐点・転換点だったといえる。
本文中に「今日を過さば皆心を翻し堕ちぬ可し」と仰せのように、戦いが長引いて幕府方が不利になるようなことがあれば、もともと、上皇の宣旨に背き、朝廷に敵対することに恐れを抱いていた御家人達の多くが、心をひるがえして朝廷方についてしまう恐れが多分にあったのである。北条泰時が京へ出陣する時、上皇自ら出陣されたらどうしたらいいかと父義時にたずねたところ、そのときは弓のつるを切って降参せよ、と義時が答えたという逸話も伝えられており、幕府側の雰囲気を伝えている。
大聖人は、なぜ国主である上皇方が破れ、臣下である義時側が勝って実権を握ったのかについて、諸御書で次のように評されている。
「承久の合戦の御時は天台の座主・慈円・仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催して・日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行われ給う、所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行わる、天台の座主は一字金輪法等・五月二日は仁和寺の御室・如法愛染明王法を紫宸殿にて行い給う、又六月八日御室・守護経法を行い給う、已上四十一人の高僧・十五壇の大法・此の法を行う事は日本に第二度なり、権の大夫殿は此の事を知り給う事なければ御調伏も行い給はず(中略)いかにいのらずとも大王の身として民を失わんには大水の小火をけし・大風の小雲を巻くにてこそ有るべけれ、其の上大火に枯木を加うるがごとく・大河に大雨を下すがごとく・王法の力に大法を行い合せ(中略)頼朝と義時との御魂・御名・御姓をば・かきつけて諸尊・諸神等の御足の下にふませまいせていのりしかばいかにもこらうべしともみへざりしに・いかにとして一年・一月も延びずして・わづか二日一日にはほろび給いけるやらむ」(1520:05)
「隠岐の法皇の御宇に至つて一災起れば二災起ると申して禅宗・念仏宗起り合いぬ……此の三の大悪法鼻を並べて一国に出現せしが故に此の国すでに梵釈・二天・日月・四王に捨てられ奉り守護の善神も還つて大怨敵とならせ給う然れば相伝の所従に責随えられて主上・上皇共に夷島に放たれ給い御返りなくしてむなしき島の塵となり給う詮ずる所は実経の所領を奪い取りて権経たる真言の知行となせし上日本国の万民等・禅宗・念仏宗の悪法を用いし故に天下第一・先代未聞の下剋上出来せり而るに相州は謗法の人ならぬ上・文武きはめ尽せし人なれば天許し国主となす」(0354:10)
すなわち、朝廷方が亡国の大悪法である真言の修法によって幕府を調伏したために、悪法によって人を害そうとすると祈りが逆になって自らが破れるという法理どおりになり、主君を臣下が流罪するという前代未聞の異常事態が起き、天下の実権が北条義時に移ったのである、と仰せになっている。
また、真言の祈禱に加えて、禅・念仏の二宗が流布したことも、その因となっていると指摘されているのである。
なお、調伏のための修法については「十五壇の法と申すは一字金輪・四天王・不動・大威徳・転法輪・如意輪・愛染王・仏眼・六字・金剛童子・尊星王・太元守護経等の大法なり此の法の詮は国敵王敵となる者を降伏して命を召し取りて其の魂を密厳浄土へつかはすと云う法なり」(0372:08)と仰せであり、また「祈禱抄」にも詳しく述べられている。
朝敵を降伏して密厳浄土へつかわすはずの修法をしながら、反対に朝廷方が簡単に幕府側との戦いに敗れて、三上皇が臣下によって辺土に配流されるという亡国の結果になっているのだから、まさに還著於本人というしかないのである。
真言亡国の先例について、大聖人は、承久の乱以外にも、平氏一門が政治を私して乱したうえ、源頼朝を真言で調伏したため安徳天皇とともに滅亡したことを挙げられている。
今亦彼の僧侶の御弟子達……問い給うべし
大聖人は、承久の乱の先例を詳しく述べたられうえで、その折に祈禱を修した僧達の弟子等が、今また蒙古襲来にあたって調伏を命ぜられているのだから、その祈りは、成就するどころか、かえって国を亡ぼす悪行となるであろうと警告されているのである。そして、だからこそ叡尊の祈禱が成就したなどと世人が考えることを「日本国の凶事なり」とされているのである。
叡尊に限らず、蒙古調伏の祈禱・祈願を行った社寺の中には、我が祈禱の効験だとして、朝廷や幕府に恩賞を請求するところまで現れていた。
そして、蒙古の軍船が破損・沈没したことは、例年のように北九州地方を襲った台風による波浪のためにすぎないとされ、それにもかかわらず、蒙古の大将軍を生け捕りにしたなどといい、祈りが成就したと言いふらしているのであると、諸宗の主張が虚構であることを指摘されている。
そして、もしも祈禱が叶ったと主張するのなら、蒙古の大王の首が届いたのかと反論すべきであると教えられ、蒙古の大王が討ち死にしたか降伏したのでない限り、禍いの根が断たれたわけではなく、調伏が成就したとはいえないと指摘されているのである。
事実、蒙古の世祖フビライは、二度にわたる侵攻の失敗にもかかわらず、日本遠征をあきらめたわけではなく、その後も日本行中書省を二度、三度と復活して遠征の準備を進めたが、中国本土や、高麗、ベトナムなどで反乱や紛争が続発したために実行されず、永仁2年(1294)にフビライが死んではじめて、日本遠征計画に終止符が打たれている。
幕府側も蒙古があきらめたとは思えなかったので、その後も、九州の異国警護番役と石築地の築造を継続しており、そこから生まれた御家人の経済的負担や政治的不満が、鎌倉幕府を滅亡させる一つの大きな原因となったのである。
なお、大聖人は、蒙古の大軍が九州に襲来したことを知られた直後の弘安4年(1281)6月16日、「人人御中」として門下一同に対して「小蒙古の人・大日本国に寄せ来るの事、我が門弟並びに檀那等の中に若し他人に向い将又自ら言語に及ぶ可からず、若し此の旨に違背せば門弟を離すべき等の由・存知せる所なり、此の旨を以て人人に示す可く候なり」(1284:01)と通知されている。
すなわち、蒙古軍襲来について、門下の者が、他人に対しても、またうちうちのなかでも話題にして、大聖人の予言が的中したことを誇ったり語ったりしてはならないと命ぜられ、それに背いた者は破門にする、と厳しく戒められたのである。
大聖人の「立正安国論」の予言は、あくまでも人々に正法を信受させるための諌言であり、日本の国が滅びることを座視されたものではない。大聖人が日本の安穏と民衆の幸福を心から祈願されていたことは、「此の国の亡びん事疑いなかるべけれども且く禁をなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ今までは安穏にありつれども・はうに過ぐれば罰あたりぬるなり」(0919:16)等の御文に明らかである。
御本仏日蓮大聖人がおられ、その大慈悲に包まれていたればこそ、日本は二度の他国侵逼の大難を切りぬけることができたのである。