諫暁八幡抄 第十七章(八幡大菩薩は正直の人を守護)
弘安3年(ʼ80)12月 59歳
平城天皇の御宇に八幡の御託宣に云く「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり」等云云、今云く人王八十一・二代隠岐の法皇・三・四・五の諸王已に破られ畢んぬ残の二十余代・今捨て畢んぬ、已に此の願破るるがごとし、日蓮料簡して云く百王を守護せんというは正直の王・百人を守護せんと誓い給う、八幡の御誓願に云く「正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭ず」等云云、夫れ月は清水に影をやどす濁水にすむ事なし、王と申すは不妄語の人・右大将家・権の大夫殿は不妄語の人・正直の頂八幡大菩薩の栖む百皇の内なり、正直に二あり一には世間の正直・王と申すは天・人・地の三を串くを王と名づく、天・人・地の三は横なりたつてんは縦なり、王と申すは黄帝・中央の名なり、天の主・人の主・地の主を王と申す、隠岐の法皇は名は国王・身は妄語の人なり横人なり、権の大夫殿は名は臣下・身は大王・不妄語の人・八幡大菩薩の願い給う頂きなり、
現代語訳
平城天皇の治世に、八幡大菩薩の託宣に「我は日本の鎮守の八幡大菩薩である。百王を守護する誓願をもっている」等とある。
今、人がいうのに「人王八十一代、八十二代の隠岐の法皇、八十三代、八十四代、八十五代の諸王が、臣下のために破られ、その後の二十余代の諸王も今では、捨ててしまわれた。八幡大菩薩の誓願は破られてしまったようである」と。
日蓮が考えていう。「百王を守護するというのは、正直な王を百人守護すると誓われたのである。八幡大菩薩の御誓願に「『正直の人の頂をもってすみかとし、諂曲の人の心をもって宿らず』等といわれているからである」と。
月は清水に影を映すが、濁水に映すことはない。王というのは元来、不妄語の人である。右大将家や権の大夫殿は不妄語の人であったから、八幡大菩薩が正直の人の頂にすむといわれた百皇の中に入っているのである。
正直に二ある。一には世間の正直である。王の字には天、人、地の三を貫くという義があり、それを王と名づけるのである。天、人、地の三は横で、貫いている点は縦である。王というのは黄帝のことで中央の名である。天の主、人の主、地の主を王という。
隠岐の法皇は名は国王であったが、身は妄語の人で道に外れた人であった。権の大夫殿は名は臣下であったが、身は大王であり、不妄語の人であったから、八幡大菩薩がすみかとしたいと願われた頂であった。
語句の解説
平城天皇
(0774~0824)第51代天皇。桓武天皇の第1皇子。病気のため弟の嵯峨天皇に譲位した後、藤原薬子・仲成とともに再び権力を握ろうと故京・平城京への再遷都を企てたが、失敗し出家した(薬子の変)。
隠岐の法皇
(1180~71239)。82代天皇。鎌倉前期の天皇。高倉天皇と修理大夫坊門信隆の娘殖子(七条院)の子。寿永2(1183)年,平氏が安徳天皇(後鳥羽の兄)を伴って都落ちしたため,祖父後白河法皇の詔によって践祚,尊成と名づけられた。建久3(1192)年院政を行っていた後白河が没し,後鳥羽天皇の親政となったが,実権は関白九条兼実が握り,同7年,兼実の失脚後は源通親に移った。同9年後鳥羽は皇子の土御門天皇に譲位して院政を始め,土御門・順徳(土御門の弟)・仲恭(順徳の子)の3天皇の時代,23年にわたって院政を行い,特に建仁2(1202)年通親の没後は,独裁的な権力を振るった。当時近衛家・土御門家(通親の系統)と九条家との間には激しい対立があったが,後鳥羽上皇はそれを解消し,すべての貴族に支持される体制を樹立しようとした。また近臣坊門信清の娘(後鳥羽の母の姪)を将軍源実朝の妻として鎌倉に下すなど,鎌倉幕府との友好を図った。しかし幕府内での実朝の権限は弱く,執権北条氏らは,上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すことを警戒した。承久1(1219)年,実朝が暗殺されるにおよび,上皇は幕府との友好を断念,討幕を決意し,上皇の皇子を将軍に迎えたいとする幕府の要望を拒否した。そのかわりに摂関家から九条(藤原)頼経(兼実の曾孫)が鎌倉に下ることになったが,上皇は内心これにも不満で,討幕計画を進めた。同3年,上皇は執権北条義時追討の宣旨を出して挙兵し,承久の乱が起こったが,幕府が上洛させた大軍の前に上皇方は敗れ,上皇は出家した(法名は金剛理,あるいは良然)。出家の際,藤原信実に肖像を画かせたが,大阪府水無瀬神宮所蔵の画像(国宝)がそれと伝える。幕府は上皇の兄の後高倉法皇に院政をとらせ,仲恭天皇を退位させ,後高倉の子の後堀河天皇を践祚させ,後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流した。隠岐に流された後鳥羽上皇は,18年間のわびしい生活ののち,同地で没した。鎌倉前期の天皇。高倉天皇と修理大夫坊門信隆の娘殖子(七条院)の子。寿永2(1183)年,平氏が安徳天皇(後鳥羽の兄)を伴って都落ちしたため,祖父後白河法皇の詔によって践祚,尊成と名づけられた。建久3(1192)年院政を行っていた後白河が没し,後鳥羽天皇の親政となったが,実権は関白九条兼実が握り,同7年,兼実の失脚後は源通親に移った。同9年後鳥羽は皇子の土御門天皇に譲位して院政を始め,土御門・順徳(土御門の弟)・仲恭(順徳の子)の3天皇の時代,23年にわたって院政を行い,特に建仁2(1202)年通親の没後は,独裁的な権力を振るった。当時近衛家・土御門家(通親の系統)と九条家との間には激しい対立があったが,後鳥羽上皇はそれを解消し,すべての貴族に支持される体制を樹立しようとした。また近臣坊門信清の娘(後鳥羽の母の姪)を将軍源実朝の妻として鎌倉に下すなど,鎌倉幕府との友好を図った。しかし幕府内での実朝の権限は弱く,執権北条氏らは,上皇が実朝を介して御家人の権益を侵すことを警戒した。承久1(1219)年,実朝が暗殺されるにおよび,上皇は幕府との友好を断念,討幕を決意し,上皇の皇子を将軍に迎えたいとする幕府の要望を拒否した。そのかわりに摂関家から九条(藤原)頼経(兼実の曾孫)が鎌倉に下ることになったが,上皇は内心これにも不満で,討幕計画を進めた。同3年,上皇は執権北条義時追討の宣旨を出して挙兵し,承久の乱が起こったが,幕府が上洛させた大軍の前に上皇方は敗れ,上皇は出家した(法名は金剛理,あるいは良然)。出家の際,藤原信実に肖像を画かせたが,大阪府水無瀬神宮所蔵の画像(国宝)がそれと伝える。幕府は上皇の兄の後高倉法皇に院政をとらせ,仲恭天皇を退位させ,後高倉の子の後堀河天皇を践祚させ,後鳥羽・土御門・順徳の3上皇を配流した。隠岐に流された後鳥羽上皇は,18年間のわびしい生活ののち,同地で没した。
王と申すは不妄語の人
正法念処経巻20善業道品には、十善道をたもつ者は、天界に生じては梵天・帝釈となり、人界に生まれては転輪聖王となる、と説かれている。
右大将家
(1174~1199)源頼朝のこと。鎌倉幕府初代将軍。清和源氏の嫡流・義朝の三男。右近衛府の長官である右近衛大将になったことからこう呼ばれた。平治の乱に敗れて逃げる途中、平氏にとらえられて伊豆へ流された。治承4年(1180)に以仁王の命旨を受け、北条時政の援助を得て挙兵したが、石橋山の合戦で平氏に敗れ、安房に逃れた。再起を図って間もなく勢力を回復し、富士川で平氏に大勝、後、鎌倉に居を構え、関東各地を固め、武家政権の基礎の確立を図った。以来、弟の範頼・義経らを西進させて木曽義仲を討ち、文治元年(1185)壇ノ浦で平氏を滅ぼした。ついで朝廷の信任を得た義経を追放し、その追補を理由に諸国に守護・地頭を設置し、武家政権を確立した。文治5年(1189)には藤原泰衡を討って奥州を勢力下に入れた。建久元年(1190)、上洛して権大納言・右近衛大将に任じられ、同3年(1192)征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた。
権の大夫
(1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。
黄帝
中国古代の伝説上の帝王。三皇五帝のひとり。姓は公孫。軒轅とも、有熊氏ともいう。中国では地上最古の帝王とされ、すべての帝王、漢民族は黄帝の子孫と考えられた。五穀の栽培を教え、衣服、家屋、医術、文字などの発明者とされた。帝王のなかの帝王という意と、中国の古義で五色を五方に配するとき黄色を中央におくことから、黄帝中央と仰せられたと拝せる。
講義
本章からは、これまで論述されてきた八幡大菩薩への〝破邪的諫暁〟に対し、〝顕正的諫暁〟ともいうべき内容となっている。
この段では、八幡の百王守護の託宣を挙げ、八幡は正直の人を守護する旨を述べ、正直に二義あるとして、まず世間の正直について説かれている。
八幡大菩薩の百王守護の誓い
東大寺八幡験記には、八幡大菩薩が51代平城天皇の代に「我は日本の鎮守八幡大菩薩なり。百王守護の誓願あり」と託宣を下したことが記されている。
他にも、大和大安寺の行教という寺僧が、唐から帰朝し、筑紫豊前国(大分県)宇佐宮に参詣したとき、同じ内容の託宣としては、「我、誓って日本国の百王を守護するであろう」という意味のことを述べたという。
「百王」は古来、代々の王という意味で使われていたが、平安時代末期から、百代の王と限定した見方になってきたと推される。
しかし、81代安徳天皇が源氏に攻められた平氏とともに西海に沈み、更に82代後鳥羽上皇、83代土御門上皇、84代順徳上皇が、承久の乱の際、北条氏によって、それぞれ隠岐、阿波、佐渡へ流罪され、85代仲恭天皇はわずか70余日で譲位させられている。このことから、八幡の百王守護の誓いはもはや破られたのではないかという疑念を当時の人々は抱いていた。
「残の二十余代・今捨て畢んぬ」とは、15代応神天皇が八幡大菩薩であるという立場から、以後の百王守護となれば、115代までの守護となる。
しかし、承久の乱後、実権は鎌倉幕府に奪われてしまっており、「今」といわれた時は91代後宇多天皇の御代であるが、この先も朝廷復権の見込みはなく、もはや八幡神から捨てられてしまったとみられていたのである。
そこから「已に此の願破るるがごとし」と述べられるように、八幡の百王守護の誓いといっても、あてにはならないとの不信があった。
そこで大聖人は、仏法の法理に照らして、八幡の百王守護というのは、天皇であれば無条件に守護するという意味ではなく、その大前提として「正直の頂を以て栖と為す」という原則があることを示されている。
元来、王とは過去世に十善戒を持った福徳をもつ人で、そのなかには不妄語戒が含まれている。八幡大菩薩が百王を守護すると誓ったのは、この前提によっているのである。
しかるに安徳天皇や後鳥羽上皇と源頼朝、北条義時を比べると、後者のほうが「正直」であったので、八幡は頼朝や義時を王として守ったのである。
「正直」について
一般に「正直」は、自己の心を偽らないという意味に用いられているが、自己の心が誤りを犯す場合も少なくない。その場合、誤りを犯している自己に対しては正直であっても、真実に対しては不正直となる。
「正直」は、こうした誤りの多い自己の心に対してではなく、真実そのものや真実の教えに対して誠実であることをいうのである。
この正直な生き方をする人、真っ直ぐ正しい心をもった人の上に、諸天善神が守護の働きをあらわすというのが、一般にもいわれる「正直の頭に神やどる」という考え方である。「正直の人の頂を以て栖とする」という八幡の誓願の本意も、ここにあることはいうまでもない。
源頼朝や北条義時は「不妄語の人・正直の頂」であったから八幡大菩薩は彼らを守ったのであり、「八幡大菩薩の栖む百皇の内」に入る。したがって、八幡の「百王守護」の誓いに偽りはないことを述べられている。そして「正直」にも世間法上の正直と出世間法上の正直の二種があるとされ、まず「世間の正直」について、「王」の文字の意義を明かされている。「王」の字は天・人・地の三を串くという字義であり、天・人・地の三は横、それを貫いている線は縦である。つまり、天・人・地の三を一貫する正直の人を「王」というわけである。
また「王」は「黄帝・中央の名」であるといわれているのは、中国の古義では五色を五方に配するとき、黄色は中央に位置し、各方位を主宰するところから「帝」とされる。したがって「王」とは「天の主・人の主・地の主」と定義されているのである。
「隠岐の法皇」は「名は国王」でも「身は妄語の人」であり「横人」であったと仰せられているのは、後鳥羽上皇が策を弄し、人を欺くことが多かったことをいわれたのであろう。
それに対し、北条義時は「名は臣下」でも、「身は大王」「不妄語の人」であった。ゆえに、八幡が栖としたいと望んだ頂であったと仰せられている。