諫暁八幡抄 第八章(法華行者の受難傍観を難ず)

諫暁八幡抄 第八章(法華行者の受難傍観を難ず)

 弘安3年(ʼ80)12月 59歳

而るを大菩薩の此の袈裟をはぎかへし給わざるは第一の大科なり、此の大菩薩は法華経の御座にして行者を守護すべき由の起請をかきながら数年が間・法華経の大怨敵を治罰せざる事不思議なる上、たまたま法華経の行者の出現せるを来りて守護こそなさざらめ、我が前にして、国主等の怨する事・犬の猿をかみ蛇の蝦をのみ鷹の雉を師子王の兎を殺すがごとくするを一度もいましめず、設いいましむるやうなれども・いつわりをろかなるゆへに梵釈・日月・四天等のせめを八幡大菩薩かほり給いぬるにや、例せば欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・已上三代の大王・物部大連守屋等がすすめに依りて宣旨を下して金銅の釈尊を焼き奉り堂に火を放ち僧尼をせめしかば天より火下て内裏をやく、其の上日本国の万民とがなくして悪瘡をやみ死ぬること大半に過ぎぬ、結句三代の大王・二人の大臣・其の外多くの王子・公卿等・或は悪瘡或は合戦にほろび給いしがごとし、其の時日本国の百八十の神の栖給いし宝殿皆焼け失せぬ釈迦仏に敵する者を守護し給いし大科なり、又園城寺は叡山已前の寺なれども智証大師の真言を伝えて今に長吏とがうす叡山の末寺たる事疑いなし、而るに山門の得分たる大乗の戒壇を奪い取りて園城寺に立てて叡山に随わじと云云、譬へば小臣が大王に敵し子が親に不孝なるがごとし、かかる悪逆の寺を新羅大明神みだれがわしく守護するゆへに度度・山門に宝殿を焼る、此のごとし、今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼かれ給いぬるか、例せば秦の始皇の先祖・襄王と申せし王・神となりて始皇等を守護し給いし程に秦の始皇・大慢をなして三皇五帝の墳典をやき三聖の孝経等を失いしかば沛公と申す人・剣をもつて大蛇を切り死ぬ秦皇の氏神是なり、其の後秦の代ほどなくほろび候いぬ此れも又かくのごとし、安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり平家ををごらせし失に伊勢太神宮・八幡等に神うちに打ち失われて其の後平家ほどなく・ほろび候いぬ此れも又かくのごとし。

 

現代語訳

この大菩薩は法華経の会座で、法華経の行者を守護するとの誓いを書きながら、数年のあいだ法華経の大怨敵を治罰しなかったことは不思議であるのに、そのうえ、たまたま法華経の行者が出現したのに、来て守護をもしないのみでなく、自分の目の前で、犬が猿を噛み、蛇が蛙を飲み、鷹が雉を、師子王が兎を殺すかのように国主等が法華経の行者を迫害しているのを、一度も戒めず、たとえ戒めるようであっても本心からではないゆえに、梵天・帝釈天や日天・月天や四天王等の責めを八幡大菩薩が受けられたのであろう。
 例えば、欽明天皇・敏達天皇・用明天皇という三代の大王が、物部大連・守屋等の勧めによって、命令を下して金銅の釈尊像を焼き、堂に火を放ち、僧尼を責めたので、天から火が降ってきて内裏を焼いてしまった。そのうえ、日本国の万民は罪なくして悪性のできものを病んで、死ぬ者は大半を越えた。結局、三代の大王・二人の大臣・その他、多くの王子や公卿等が、悪性のできものか、あるいは合戦によって滅んでしまわれたようなものである。そのとき、日本国の多くの神が住まわれていた宝殿は皆、焼失してしまった。釈迦仏に敵対する者を守護された大罰である。
 また、園城寺は比叡山延暦寺以前の寺であるけれども、智証大師の真言を伝えている寺で、今は長吏と称している。
 比叡山の末寺であることは疑いないのに、比叡山の得分である大乗の戒壇を奪い取って園城寺に建立して、比叡山に従うまいとしたことは、例えば、小臣が大王に敵対し、子が親に逆らうようなものである。このような悪逆の寺を、新羅大明神が誤って守護するゆえに、たびたび比叡山の僧徒によって宝殿を焼かれたのである。
 同様に、今、八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して、天の火に焼かれたのであろう。例えば、秦の始皇帝の先祖の襄王という王は神となって始皇帝等を守護されたが、秦の始皇帝は大慢心を起こして三皇五帝の典籍を焼き、三聖の孝経等を失ったので、沛公という人が剣をもって秦王朝の氏神である大蛇を切り殺した。その後、秦の代は間もなく滅びてしまった。これも、また同様である。
 安芸の国の厳島の大明神は平家の氏神であるが、平家をおごらせた罪によって、伊勢大神宮や八幡大菩薩等に神罰を受けて征伐され、その後、平家は間もなく滅びてしまった。これも、また同様である。

 

語句の解説

敏達天皇
 (05380585)。諡号は渟中倉太珠敷尊という。その在位14年間は、ここに述べられている仏教の問題のほか、朝鮮との外交問題など、多難であった。皇后は、のちの推古天皇。

用明天皇
 欽明天皇の第4皇子。在位、585~587年。仏教を信仰することを群臣に協議させたところ、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の対立が激化したと伝えられる。聖徳太子は同天皇の第2皇子である。用明天皇は現代では31代と数える。近代までは、一般的に神功皇后を天皇歴代に数え入れていた。

物部の大連
 生没年不明。物部尾輿のこと。守屋の父。日本書紀巻十九等によると欽明天皇の時代に大連となり、朝鮮政策をめぐって対立者の大連大伴金村を失脚させ、大連を独占した。ついで、蘇我稲目と対立し、排仏・崇仏で激しく争った。

守屋
 (~05587)。物部の守屋のこと。日本に仏教が伝来したのは、第30代欽明天皇の13(0552)10月、百済国の聖明王が釈迦仏の金銅像と幡葢、経論を献上したのが最初とされる。以後、仏教派の蘇我氏と神道派の物部氏の間で争いが続き、国内は乱れ災害が続出した。第32代用明天皇の崩御のあと、0587年、物部守屋一族と、聖徳太子および蘇我馬子との間に、決戦が行なわれ、太子は守屋を打ち破って、日本の仏教流布を確立したのである。日寛上人の分段には「四条金吾抄三十九を往いて見よ。ある抄にいわく『守屋も権者なり、上宮は救世観世音、守屋は将軍地蔵なり、俱に誓願に依り日本国に生るるなり、守屋最後の時太子唱えて云く如我昔所願今者已満足と云云。守屋唱えて云く化一切衆生皆令入仏道と云云、権者なること疑いなし』されば開目抄にいわく聖徳太子と守屋とは蓮華の華菓同時なるがごとしと云云」とある。

内裏
 古代都城の宮城における天皇の私的区域のこと。御所、禁裏、大内などの異称がある。都城の北辺中央に 官庁エリアである宮城(皇城)があり、宮城内部に天皇の私的な在所である内裏があった。

公卿
 朝廷や王族に仕える貴族の総称。

百八十の神
 日本国を守護するとされる数多くの神々。

叡山
 滋賀県大津市と京都市にまたがる山。叡山ともいう。古来、山岳信仰の対象とされてきた。主峰を大比叡ケ岳といい、そのやや西に四明岳がそびえる。大岳から東北方に広がる山上の平坦部に日本天台宗の総本山・延暦寺があり、東麓に延暦寺の守護神を祭る日吉大社がある。

山門
 滋賀県大津市と京都市にまたがる山。叡山ともいう。古来、山岳信仰の対象とされてきた。主峰を大比叡ケ岳といい、そのやや西に四明岳(838メートル)がそびえる。大岳から東北方に広がる山上の平坦部に日本天台宗の総本山・延暦寺があり、東麓に延暦寺の守護神を祭る日吉大社がある。園城寺を寺門というのに対し山門という。

大乗の戒壇
 大乗戒を授ける儀式が行われる戒壇。日本では弘仁13年(0822611日、嵯峨天皇の勅によって比叡山延暦寺に法華一乗の円頓戒壇が建立された。

新羅大明神
 園城寺北院にある新羅善神堂の祭神で、園城寺の鎮守神とされた。天安2年(0858)智証が唐から帰朝する時、船中に老翁が現れ「自分は新羅国の明神であるが、仏法を護持して日本に垂迹っする」と述べたことから、定観2年(0860)園城寺に堂宇を修復する際、社殿を設け、明神の像を作って守護神として祀ったと伝えられる。

秦の始皇
 (BC0259BC0210)は、中国戦国時代の秦王(在位BC0246BC0221)。姓は嬴、氏は趙、諱は政。現代中国語では、秦始皇帝、または秦始皇と称する。BC0221年に史上初の中国統一を成し遂げると最初の皇帝となり、紀元前210年に49歳で死去するまで君臨した

襄王
 中国・周代のひとつである秦の初代の王。西周の幽王が殺されたとき、幽王の子・平王を東都楽邑まで護衛し、東周の建国に寄与し、その功によって封土を受け諸候に列せられた。末裔の始皇帝に至って中国初の統一王朝・秦が誕生した。

三皇五帝の墳典
三皇五帝は中国古代の伝説上の聖天子8人の総称。三皇は燧人・伏羲 ・神農。別に天皇・地皇・人皇ということもある。五帝は黄帝・颛顼・高辛・唐堯・虞舜 のことで、彼らの残したとされる典籍。

三聖
 中国古代の三人の聖人のこと。孔子・老子・顔回をいう。その他、文王・武王・周公旦をいう場合などもある。

孝経
孝(親に対して子が尊敬し仕えること)について記した儒教の経典の一つ。孔子の弟子である曾子の門人が編纂したとされる。

沛公と申す人・剣をもつて大蛇を切り死ぬ
 沛公が亭長であったころ、行く道を遮ろうとした蛇を、剣を抜いて切ったことをさす。史記高祖本紀第八等には「高祖……豊西の沢中に到り、止まりて飲す……行前する者、還りて報じて曰く、前に大蛇あり、径に当たる。願わくは還れと。高祖、酔いて曰く、壮士行く、何ぞ畏れんと。乃ち前みて剣を抜き、撃ちて蛇を斬る。蛇遂に分かれて両と為る」とある。これを、劉邦を漢に、蛇を秦になぞらえ、漢が秦を滅ぼすとして劉邦が喜んだという。

沛公
 劉邦のこと。(BC0247BC0195)前漢の初代皇帝。廟号は高祖。沛県の出身のため沛公と呼ばれる。項羽とともに秦を滅ぼしたが、その後の覇権を項羽と激しく争い、BC0202年、垓下の戦いに勝利し天下を統一。漢を建国した。

安芸の国
 山陽8ヵ国の一つ。現在の広島県。

いつく島の大明神
 厳島神社のこと。、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある神社。宗像三女神を祀る。式内社(名神大社)、安芸国一宮。旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「三つ盛り二重亀甲に剣花菱」。

平家
 「平」を氏の名とする氏族。姓は朝臣。家紋は 揚羽蝶、鱗など。 日本において皇族が臣下に下る(臣籍降下)。その伊勢平氏の 傍流であったが、いわゆる平氏政権を打ち立てた平清盛とその一族を特に「平家」と呼ぶ。

伊勢太神宮
 三重県伊勢市にある神社。内宮といわれる皇大神宮と外宮といわれる豊受大神宮とから成り、両宮のそれぞれに別宮・摂宮・末社などの所属の宮社を持つ。内宮は天照坐皇大御神、外宮は豊受大御神を祭神としている。

講義

ここでは、八幡大菩薩が法華経の行者・日蓮大聖人を守護せず、大聖人に迫害を加える謗法の者をただの一度も戒めないゆえに、梵天・帝釈・日月・四天王等の責めを被ったのであると、古例を挙げて八幡を呵責されている。
 「法華経の御座にして行者を守護すべき由の起請」とは、法華経安楽行品第十四の「諸天昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護し」、同嘱累品第二十二の「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし」等の文をさす。
 八幡大菩薩は日本の守護神であり、民族神であるが、新池御書にも「今の八幡大菩薩も其の座におはせしなり争か霊山の起請の破るるをおそれ給はざらん」(1442:010)と仰せられており、法華経の会座に列なっていたことを述べられている。
 にもかかわらず、八幡は末法の法華経の行者・日蓮大聖人を守護せず、国主等が大聖人を迫害する様が「犬の猿をかみ蛇の蝦をのみ鷹の雉を師子王の兎を殺す」ようであるのに、八幡は彼らに一度も治罰を加えず、傍観しているため、八幡宮の炎上は梵天・帝釈の責めを受けた結果であろうといわれている。

 

仏敵を守護する大科の先例

 

そのことに関連し、古代における仏敵を守護した諸神が罰を被った先例を示されている。まず日本に仏教が渡来した当時の史実を挙げられている。
 既述したように、仏教は29代欽明天皇の時代に日本に伝来したが、この仏教を信ずるかどうかについて、天皇が臣下に意見を聞いたところ、崇仏と排仏の二派に分かれた。崇仏派の中心は大臣蘇我稲目であり、排仏派の中心は大連物部尾輿である。
 欽明天皇は結局、試みに蘇我氏のみに仏像を崇めさせることにしたが、ほどなくして疫病が流行したため、物部氏はそれを理由に排仏を天皇に進言し、排仏派の勢力が増大した。
 しかし、その後も決着がつかないまま「欽明天皇・敏達天皇・用明天皇・已上三代の大王」の時代は仏教を用いることはなかった。
 「守屋」とは物部尾輿の子で、弓削の守屋のことである。父の死後、大連に任じられている。
 この間、疫病は依然としてやまず、死者が続出していた。弓削の守屋は、これを蘇我氏が仏教を崇めているせいであるとして、天皇に讒奏した。そのため「仏法をよろしく退けるべきである」旨の勅宣が下ったのである。守屋等は蘇我氏が崇めていた寺に火を放って、僧尼の袈裟をはぎ、鞭をもって責めた。
 その後、天皇の住む内裏が焼失し、そのうえ、国中に悪瘡が流行して、死者が大半を超えたという。
 結局、排仏派の弓削の守屋と、崇仏派の蘇我の馬子・聖徳太子とのあいだで四度にわたって戦いが行われ、崇仏派が勝利を収めて、正式に仏教は日本に受け入れられたのであった。
 その折「日本国の百八十の神の栖給いし宝殿皆焼け失せ」たのである。この「百八十の神」の災禍は、釈尊に敵対する者を守護した罪によると、大聖人は喝破されているのである。
 次に、園城寺の守護神とされる新羅大明神の例を挙げられている。園城寺は白鳳時代、39代弘文天皇の皇子・大友与多王が建立したのが始まりとされ、その歴史は八世紀末創建の比叡山延暦寺より古い。天台座主記等によると、園城寺は貞観8年(0866514日、延暦寺別院とされた。
 同10年(08686月、円珍が延暦寺座主になると、園城寺を仏法灌頂道場とし、地名の御井を改めて三井とし、寺主を真言宗東寺にならって「長吏」と号していた。しかし「叡山の末寺」だったことには変わりはなかった。
 しかるに園城寺は、独自の戒壇の勅許を朝廷に請願し、大聖人御在世の文応元年(12601月、園城寺の三摩耶戒壇の勅許が下されたのである。叡山の大乗戒壇は伝教大師が建立したものであり、園城寺はこれに対抗しようとしたのである。
 この悪逆のゆえに、園城寺の守護神である「新羅大明神」は、その宝殿を何度も焼かれたのであると指摘されている。
 天安2年(0858)に智証が唐から帰朝の時、船中に老翁が現れ、自分は新羅国の明神であるが、仏法を護持し、日本に垂迹すると教示したので、後に園城寺の堂塔を修復する際、貞観2年(0860)、明神の像を造り、神殿を設けて安置し、守護神として祀ったと伝えられている。
 同様に、今の八幡大菩薩も「法華経の大怨敵」たる謗法の者を守護したために、「天火」に宝殿を焼かれたのだと述べられている。
 更に、秦の氏神とされた大蛇を漢の沛公が剣で切り殺したところ、間もなく秦は滅亡した。
 平氏も、その氏神である厳島大明神が打ち破られたあと、滅亡した。鎌倉北条氏も、八幡宮が焼けたことから、ほどなく滅びるであろうと、大聖人はいわれているのである。

 

タイトルとURLをコピーしました