諫暁八幡抄 第七章(謗法治罰せぬ八幡を叱責)
弘安3年(ʼ80)12月 59歳
又此の大菩薩は伝教大師已前には加水の法華経を服してをはしましけれども先生の善根に依つて大王と生れ給いぬ、其の善根の余慶・神と顕れて此の国を守護し給いけるほどに今は先生の福の余慶も尽きぬ、正法の味も失せぬ謗法の者等・国中に充満して年久しけれども日本国の衆生に久く仰がれてなじみせし大科あれども捨てがたく・をぼしめし老人の不孝の子を捨てざるが如くして天のせめに合い給いぬるか、又此の袈裟は法華経最第一と説かん人こそ・かけまいらせ給うべきに伝教大師の後は第一の座主義真和尚・法華最第一の人なれば・かけさせ給う事其の謂あり、第二の座主・円澄大師は伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なり・すこし謗法ににたり、此の袈裟の人には有らず、第三の座主・円仁慈覚大師は名は伝教大師の御弟子なれども心は弘法大師の弟子・大日経第一・法華経第二の人なり、此の袈裟は一向にかけがたし、設いかけたりとも法華経の行者にはあらず、其の上又当世の天台座主は一向真言の座主なり、又当世の八幡の別当は或は園城寺の長吏或は東寺の末流なり、此れ等は遠くは釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵・近くは伝教大師の讐敵なり、譬へば提婆達多が大覚世尊の御袈裟をかけたるがごとし、又猟師が仏衣を被て師子の皮をはぎしがごとし、当世叡山の座主は伝教大師の八幡大菩薩より給て候し御袈裟をかけて法華経の所領を奪ひ取りて真言の領となせり、譬へば阿闍世王の提婆達多を師とせしがごとし。而るを大菩薩の此の袈裟をはぎかへし給わざるは第一の大科なり、
現代語訳
また、この大菩薩は伝教大師以前には、水を加えて薄めたような法華経を服しておられたけれども、前世の善根により大王として生まれられた。
その善根の余光で神と顕れてこの国を守護されているうちに、今では前世の福徳の余光も尽きてしまい、正法の法味もなくなった。
謗法の者等が国中に充満して年久しくなるけれども、日本国の衆生に長いあいだ尊まれ、なじんできたために、衆生に大罪があっても見捨てがたく思われ、年とった者が不幸な子を見捨てないようにしていて、天の責めにあわれたものであろうか。
また、この袈裟は法華経最第一と説く人こそが懸けられるべきで、伝教大師の後は、第一代座主・義真和尚は法華最第一とした人なので懸けられて当然である。
第二代座主・円澄大師は、伝教大師の御弟子であるけれども、また、弘法大師の弟子でもあり、少し謗法のようにみえる。この袈裟を懸けるべき人ではない。
第三代座主の円仁・慈覚大師は、名は伝教大師の御弟子であるけれども、心は弘法大師の弟子であり、大日経を第一、法華経を第二とする人である。この袈裟は全く懸ける資格がない。たとえ懸けたとしても、法華経の行者ではない。
そのうえ、また、今の世の天台座主は全く真言の座主である。また、今の世の八幡神社の別当は園城寺の長吏か、あるいは東寺の末流の者である。これらは遠くは釈迦・多宝・十方の諸仏の大怨敵であり、近くは伝教大師の讐敵(しゅうてき)である。例えば、提婆達多(だいばだった)が大覚世尊の御袈裟を懸けたようなものであり、また、猟師が仏の衣を着て師子の皮を剝いだようなものである。
今の世の比叡山の座主は、伝教大師が八幡大菩薩からいただいた御袈裟を懸けて、法華経の領地を奪い取って真言の領地としている。例えば、阿闍世王が提婆達多を師としたようなものである。そうであるのに、八幡大菩薩がこの袈裟を剝ぎ、奪い返されないのは、第一の大きな過ちである。
語句の解説
加水の法華経
水を加えられ、薄められた法華経のこと。すなわち、仏の意を知らないため、成仏の直道である法華経に自己の我見を加えること。涅槃経巻五には「その時に諸賊醍醐をもっての故に、これに加うるに水をもってす」とあり、章安大師の涅槃経疏には「醍醐」を真道、「加水」を我見にたとえている。
先生
前世・過去世のこと。
善根
「ぜんごん」とも読む。善の果報を招き生ずる善因のこと。草木の根が、幹や枝を成長発展させる力をもっているように、善因は善なる果報を生ずる力と強い作用を有するので善根という。
余慶
功徳善根の報いによって起こった慶事のこと。祖先の行った善根の報いが子孫によって現れたり、前世に積んだ全魂の報いが残って今世にあらわれたりした吉事をいう。また、ものの余ることの意もある。
謗法
誹謗正法の略。正法、すなわち釈尊の教えの真意を説いた法華経を信じず、かえって反発し、悪口を言うこと。これには、正法を護持し広める人を誹謗する、謗人も含まれる。護法に対する語。日蓮大聖人は、文字通り正法を謗ることを謗法とするだけでなく、たとえ法華経を信じていても、法華経を爾前経より劣る、あるいは同等であると位置づけて受容することも、釈尊が法華経をあらゆる経に対して第一とした教判に背くので謗法とされている。そして、諸宗が犯しているこの謗法こそが、万人成仏という仏の根本の願いに背き人々を不幸に陥れるものであるので、仏法上、最も重い罪であると人々や社会に対して明示し、その誤りを呵責された。
義真和尚
(0781~0833)平安初期の天台宗の僧。比叡山延暦寺の初代座主。伝教大師最澄の弟子で、伝教大師の通訳として共に唐に渡った。伝教没後、延暦寺の運営を担い、824年に初代天台座主となった。▷
円澄大師
(0772~0837)平安初期の天台宗の僧。伝教大師最澄の弟子。比叡山延暦寺の初代座主である義真の後を受けて第2代座主となった。日蓮大聖人は「報恩抄」で、伝教大師の教えは義真には純粋に伝わったが、円澄からは半ば密教が入って濁乱したとされている。
円仁慈覚大師
(0794~0864)平安初期の天台宗の僧。第3代天台座主。慈覚大師ともいう。伝教大師最澄に師事したのち唐に渡る。蘇悉地経など最新の密教を日本にもたらし、天台宗の密教(台密)を真言宗に匹敵するものとした。法華経と密教は理において同じだが事相においては密教が勝るという「理同事勝」の説に立った。また、五台山の念仏三昧を始めたことで、これが後の比叡山における浄土信仰の起源となった。主著に『金剛頂経疏』『蘇悉地経疏』など。唐滞在を記録した『入唐求法巡礼行記』は有名。日蓮大聖人は、円珍(智証)とともに伝教大師の正しい法義を破壊し人々を惑わせた悪師として厳しく破折されている。
当世の天台座主は一向真言の座主なり
日本天台宗は第3代座主慈覚以降、真言の影響を受けて理同事勝を唱え、法華経第一をたてないのみならず、真言に重きをおいてきたことをいう。
天台座主
日本天台宗では、天長元年(0824)に就任した義真を初代とする。
当世の八幡の別当は或は園城寺の長吏或は東寺の末流なり
鎌倉時代における鶴岡八幡宮の歴代別当職は、園城寺系と東寺系の二派に独占されていたということ。
別当
僧官名。寺社の事務を統制する最高責任者として置かれた。法隆寺・東大寺・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などの別当が有名。
園城寺
滋賀県大津市園城寺町にある天台寺門宗の総本山。山号は長等山。三井寺ともいう。山門(比叡山延暦寺)に対する寺門をいう。大友皇子の子、大友与多王によって7世紀後半に建立されたと伝えられる。天智・天武・持統の3帝の誕生水があるので御井(三井)と呼ばれた。比叡山の円珍(智証)が貞観元年(0859)に再興し、同6年(0864)12月に延暦寺の別院とし、円珍が別当となった。しかし、円仁(慈覚)門徒と円珍門徒との間に確執が生まれ、法性寺座主が円珍系の余慶となったことをめぐって争うなど、双方の対立は深刻化する。そして正暦4年(993年)には比叡山から円珍門徒1000人余りが園城寺に移り、以降、山門(円仁派)と寺門(円珍派)の抗争が続いた。
長吏
寺の事務を統轄する僧の役職。園城寺(三井寺)などの貫主の名称。
東寺
教王護国寺のこと。京都にある真言宗東寺派の総本山。延暦15年(796年)に桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門の左右に東西両寺を建立したのが始まり。平安京の東半分にある寺なので東寺と呼ばれる。弘仁14年(823年)、嵯峨天皇より空海(弘法)に与えられ、灌頂道場とされた。「一の長者」といわれる東寺の住職が、真言宗全体の管長の役目を果たした。
提婆達多
サンスクリットのデーヴァダッタの音写。調達とも音写する。釈尊の従弟で、最初は釈尊に従って出家するが、慢心を起こして敵対し、釈尊に種々の危害を加えたり教団の分裂を企てた(三逆罪=破和合僧・出仏身血・殺阿羅漢)。その悪行ゆえに生きながら地獄に堕ちたという。
【提婆の成仏】法華経提婆達多品第12では、提婆達多は阿私仙人という釈尊の過去世の修行の師であったことが明かされ、無量劫の後、天王如来になるだろうと記別を与えられている。これは悪人成仏を明かしている。【釈尊や仏弟子への迫害】①仏伝によれば、提婆達多は釈尊を殺そうとして耆闍崛山(霊鷲山)から大石を投げ落としたが、地神の手に触れたことで釈尊は石を避けることができた。しかし、破片が釈尊の足に当たり親指から血が出たという。これは五逆罪の一つ、出仏身血にあたる。②阿闍世王は、提婆達多を新たに仏にしようとして、象に酒を飲ませて放ち、釈尊を踏み殺させようとしたという。これは釈尊が存命中に受けた九つの難(九横の大難)の一つにあたる。③『大智度論』などによると、蓮華比丘尼(華色比丘尼)は、釈尊の弟子で、提婆達多が岩を落として釈尊を傷つけて血を出させた時に、提婆達多を非難して、提婆達多に殴り殺されたという。
猟師が仏衣を被て師子の皮をはぎしがごとし
涅槃経巻四には「我涅槃の後、無量百歳にして、四道の聖人、悉く復涅槃し、正法滅して後、像法の中に於いて、当に比丘有るべし。像は律を持つに似て、少しく経を読誦す。飲食を貪嗜して其の身を長養し、身に被服する所、麤陋醜悪、形容憔悴、威徳有ること無し。牛羊を放畜し、薪草を擔負す。頭鬚髪爪、悉く皆長利なり。袈裟を服すと雖も猶猟師の如し。細視徐行すること、猫の鼠を伺うが如く、常に是の言を唱う、『我羅漢を得』と。諸の病苦多くして、糞穢に眠臥す。外に賢善を現じて、内に貪嫉を懐く。瘂法を受くる婆羅門等の如し。実は沙門に非ずして、沙門の像(かたち)を現ずるのみ。邪見熾盛にして、正法を誹謗す」とある。
阿闍世王
釈尊在世から滅後にかけてのインドの大国・マガダ国の王。阿闍世はサンスクリットのアジャータシャトルの音写。未生怨と訳す。本来の意味は「敵対する者が生じない(無敵)」との意だが、中国・日本では「生まれる前からの敵」という解釈が広がった。釈尊に敵対していた提婆達多にそそのかされ、釈尊に帰依し外護していた父を幽閉して死亡させ、自ら王位についた。その後も、提婆達多にそそのかされて、象に酒を飲ませてけしかけさせ、釈尊や弟子たちを殺そうとしたが失敗した。後に父を殺した罪に悩み、全身に大悪瘡(悪いできもの)ができた。その際、大臣・耆婆の勧めによって釈尊のもとに赴き、その説法を聴聞し、釈尊が月愛三昧に入って放った光が阿闍世に届くと、彼をむしばんでいた大悪瘡はたちどころに癒えたという。釈尊入滅後、第1回の仏典結集を外護したと伝えられる。
講義
八幡大菩薩は先生の善根により大王と生まれ、神と崇められてきたのであるが、国中に充満している謗法の者を治罰しないゆえに、梵天・帝釈等の天の責めを被ったのであると述べられ、謗法と化した比叡山座主の衣をはぎとらないのは第一の大科であると、八幡を叱責されている。
八幡大菩薩について「大王と生れ給いぬ」といわれているのは、人王第15代応神天皇として生まれたとの伝承に基づいての仰せである。
応神天皇は、在位41年、111歳で崩じたが、その善根の余光で八幡神として崇められ、我が国を守護してきた。扶桑略記には「今の八幡宮なり」、帝王編年記にも「今の八幡宮は此の天皇なり」とある。
しかし、今は余慶も尽きて、日本の国からは「正法の味」は失せ、謗法が国中に充満している。本来なら八幡神は、謗法を治罰しなければならない責任があるにもかかわらず、情にとらわれて罰しないでいるために、梵釈等の「天のせめ」を受け、宝殿を焼かれるはめになったのであろうといわれている。
また、八幡が伝教大師に与えた法衣は、「法華経最第一」と説いた正師にして初めて懸ける資格があるのに、比叡山延暦寺の第二代以降は伝教大師以来の清流を濁し、真言密教に堕してしまったのであるから資格を失っている。八幡神はこの法衣を天台座主から剝いで取り返すべきであるのに、これをしないことは、大なる罪にあたると弾劾されている。
更に鎌倉八幡宮の別当も、密教化した天台宗寺門派総本山・園城寺の長吏か、真言宗の本山・東寺の末流がその任に就いていたのである。
彼らはすべて、遠くは「法華経最第一」と説いた釈迦・多宝・十方の諸仏に背く「大怨敵」であり、近くは天台宗の開祖・伝教大師の正義に違背する「讐敵」であり、したがって彼らが伝教大師の衣を受け継いでいる姿は、あたかも「提婆達多が大覚世尊の御袈裟をかけたるがごとし」とたとえられている。
第三代慈覚以後の座主や、そのもとに列なる僧等は、伝教大師の正しい教えから外れ、邪師となっているにもかかわらず、伝教大師の権威だけは巧みに利用していたのである。
八幡大菩薩の衣も、そのために利用されていたのであるから、結果的に彼らの謗法を助けることになっていた。
ゆえに、八幡大菩薩が彼らから「袈裟をはぎかへ」さないでいるのは「第一の大科」であると叱責されているのである。