諫暁八幡抄 第六章(伝経以前は法華の実義顕れず)
弘安3年(ʼ80)12月 59歳
当に知るべし伝教大師已前は法華経の文字のみ読みけれども其の義はいまだ顕れざりけるか、去ぬる延暦二十年十一月の中旬の比・伝教大師比叡山にして南都・七大寺の六宗の碩徳・十余人を奉請して法華経を講じ給いしに、弘世・真綱等の二人の臣下此の法門を聴聞してなげいて云く「一乗の権滞を慨き三諦の未顕を悲しむ」又云く「長幼三有の結を摧破し猶未だ歴劫の轍を改めず」等云云、其の後延暦二十一年正月十九日に高雄寺に主上・行幸ならせ給いて六宗の碩徳と伝教大師とを召し合はせられて宗の勝劣を聞し食ししに南都の十四人皆口を閉ぢて鼻のごとくす、後に重ねて怠状を捧げたり、其の状に云く「聖徳の弘化より以降た今に二百余年の間・講ずる所の経論其の数多し、彼れ此れ理を争い其の疑未だ解けず而も此の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」等云云、此れをもつて思うに伝教大師已前には法華経の御心いまだ顕れざりけるか、八幡大菩薩の見ず聞かずと御託宣有りけるは指なり指なり白なり白なり。
法華経第四に云く「我が滅度の後に能く竊に一人の為にも法華経を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の使なり乃至如来則ち衣を以て之れを覆い給うべし」等云云、当来の弥勒仏は法華経を説き給うべきゆへに釈迦仏は大迦葉尊者を御使として衣を送り給ふ、又伝教大師は仏の御使として法華経を説き給うゆへに八幡大菩薩を使として衣を送り給うか、
現代語訳
まさに、伝教大師以前の人は法華経の文字だけは読んだけれども、その義はいまだあらわれていなかったものと理解すべきであろう。
去る延暦20年11月の中旬ごろ、伝教大師が比叡山で南都七大寺の六宗の碩徳十余人を招請して、法華経を講じられたところ、和気広世と真綱の二人の臣下はこの法門を聞いて、嘆いて「法華一乗が権教にさえぎられとどこおっていたのを嘆き、三諦円融の理がいまだあらわれていなかったのを悲しむ」と言い、また「年のいった者も、いかない者も、三界の煩悩を砕き破りながら、いまだ権教で説く歴劫修行の轍を改めていない」等と言っている。
その後、延暦21年正月19日に高雄寺に桓武天皇が出かけられて、六宗の碩徳と伝教大師とを召し合わされて、宗旨の勝劣をお聞きになられたところ、南都の14人は皆、口を閉じて鼻のようにしてしまい、後に重ねて詫び状を献上したのである。その状には「聖徳太子が仏教を弘め教化されて以来、今に至る二百余年の間、講じられた経論の数は多い。お互いに法理の優劣を争い、その疑問は解けず、しかも、この最妙の円宗は、いまだ明らかになっていなかったのである」等とある。このことから思うに、伝教大師以前には法華経の御心はいまだあらわれていなかったということである。八幡大菩薩が「これまで見たことも聞いたこともない」と言ったのは、まさしくこのことをさしていることが明らかである。
法華経巻四の法師品第十には「私の入滅の後に、よくひそかに一人のためにも法華経を説くならば、まさに、この人は如来の使である、と知るべきである。(中略)如来はすなわち衣をもって、この人を覆われるであろう」等とある。
未来の弥勒仏は法華経を説かれるがゆえに、釈迦仏は大迦葉尊者を御使いとして衣を贈られたのである。また、伝教大師は仏の御使いとして法華経を説かれたがゆえに、八幡大菩薩を使いとして衣を贈られたものであろうか。
語句の解説
比叡山
滋賀県大津市と京都市にまたがる山。叡山ともいう。古来、山岳信仰の対象とされてきた。主峰を大比叡ケ岳といい、そのやや西に四明岳がそびえる。大岳から東北方に広がる山上の平坦部に日本天台宗の総本山・延暦寺があり、東麓に延暦寺の守護神を祭る日吉大社がある。
南都
奈良のこと。平安京(京都)を北都というのに対していう。
七大寺
奈良(南都)の中心的な七つの寺。諸説あるが、一般には東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺の7カ寺をさす。これらの寺は、奈良時代までに伝わり国家に公認されていた仏教学派(南都六宗)を研究する中心だった。
六宗
奈良時代までに日本に伝わった仏教の六つの学派。三論・成実・法相・俱舎・華厳・律の六宗。
弘世
生没年不詳。平安初期の貴族で、和気清麻呂の長子。弟の真綱と共に深く仏法を信じ、日本天台宗の成立に貢献した。
真綱
(0783~0846)平安初期の貴族で、和気弘世の弟。弘世とともに伝教大師最澄に帰依し、和気氏の氏寺である高雄山寺に南都六宗の高僧14人を集め、伝教大師を講師とする法華会を主催した。
三有
三界のこと。仏教の世界観で、地獄から天界までの六道の迷いの衆生が住む世界。欲界・色界・無色界からなる。このうち色界・無色界は、修得した禅定の境地の報いとして生じる。①欲界とは、欲望にとらわれた衆生が住む世界。地獄界から人界までの五界と、天界のうち6層からなる六欲天が含まれる。その最高の第六天を他化自在天という。②色界は、欲望からは離れたが、物質的な制約がある衆生が住む世界。大きく4層の四禅天、詳しくは18層の十八天に分かれる。③無色界は、欲望も物質的な制約も離れた高度に精神的な世界、境地のこと。4種からなる。最高は非想非非想処。それに次ぐのが無所有処。仏伝によると、釈尊が出家後に師事したというウドラカラーマプトラは無所有処という境地であり、アーラーダカーラーマは非想非非想処という境地であったという。
結
結縛の意味。煩悩のこと。
歴劫
成仏までに極めて長い時間をかけて修行すること。無量義経説法品第2にある語。「歴劫」とはいくつもの劫(長遠な時間の単位)を経るとの意。無量義経では、爾前経の修行は歴劫修行であり、永久に成仏できないと断じ、速疾頓成(速やかに成仏すること)を明かしている。
高雄山
京都市左京区梅ケ畑にある。現在は真言宗東寺派の別格本山高尾山神護寺となっている。これは延暦年間に和気清麻呂が河内に建てた神興寺を天長元年(0824)に移して、それまでの高尾寺と合したものである。したがって、伝教大師が法論を行った延暦21年(0802)には、まだ真言宗とは関係がなかった、真言宗の祖、空海が帰朝したのは、大同元年(0806)の8月である。
主上
天皇のこと。
行幸
天子の外出。ただし「御幸」は主体がより広く、上皇・法皇・女院にも使う。
退状
あやまり状。
聖徳
(0574~0622)飛鳥時代の政治家。厩戸皇子・豊聡耳皇子・上宮王ともいう。聖徳太子とは後代における呼称。用明天皇の第2皇子。四天王寺や法隆寺を造営し、法華経・勝鬘経・維摩経の注釈書である三経義疏を作ったと伝えられる。これらの業績が、実際に聖徳太子自身の手によるものであるか否かは、今後の研究に委ねられている。ただし、妃の橘大郎女に告げた「世間は虚仮なり、唯、仏のみ是れ真なり」という太子の言葉が残されていて、ここから仏教への深い理解とたどり着いた境地がうかがわれる。日本に仏法が公式に伝来した時、受容派と排斥派が対立したが、聖徳太子ら受容派が物部守屋ら排斥派を打ち破り、日本の仏法興隆の基礎を築いた。日蓮大聖人は二人を相対立するものの譬えとして用いられている。
円宗
円教である法華経をよりどころとする宗派のこと。天台宗の別名。
闡揚
はっきりあらわすこと。明らかに示すこと。
弥勒仏
慈氏と訳し、名は阿逸多といい無能勝と訳す。インドの婆羅門の家に生れ、のちに釈尊の弟子となり、慈悲第一といわれ、釈尊の仏位を継ぐべき補処の菩薩となった。釈尊に先立って入滅し、兜率の内院に生まれ、五十六億七千万歳の後、再び世に出て釈尊のあとを継ぐと菩薩処胎経に説かれている。法華経の従地涌出品では発起衆となり、寿量品、分別功徳品、随喜功徳品では対告衆となった菩薩である。
大迦葉尊者
釈尊の十大弟子の一人。梵語マハーカーシャパ(Mahā-kāśyapa)の音写である摩訶迦葉の略。摩訶迦葉波などとも書き、大飲光と訳す。付法蔵の第一。王舎城のバラモンの出身で、釈尊の弟子となって八日目にして悟りを得たという。衣食住等の貪欲に執着せず、峻厳な修行生活を貫いたので、釈尊の声聞の弟子のなかでも頭陀第一と称され、法華経授記品第六で未来に光明如来になるとの記別を受けている。釈尊滅後、王舎城外の畢鉢羅窟で第一回の仏典結集を主宰した。以後20年間にわたって小乗教を弘通し、阿難に法を付嘱した後、鶏足山で没したとされる。なお迦葉には他に優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある優楼頻螺迦葉・伽耶迦葉・那提迦葉・の三兄弟、十力迦葉、迦葉仏、老子の前身とする迦葉菩薩などある。
講義
すなわち、八幡の前で法華経を読誦した人は、伝教大師以前にも多くあったが、伝教大師のみが法華経の実義を正しく踏まえていたからである、と結論されている。
法華経そのものは、聖徳太子自身が法華義疏を著したとされているように、法華経は当初から尊崇されてきたが、法華経の実義を明らかにした人はいなかった。
伝教大師が初めて法華経の正義を説き明かしたことを物語る事実として、伝教大師の比叡山での講経、高雄寺での破折に対し、南都六宗の碩徳が屈伏して述べた言葉等を示されている。
延暦20年(0802)月中旬、伝教大師は南都の六宗の高僧十余人を比叡山に招き、法華経を講じた折、六宗の邪義を厳しく責めたので、彼らは一同に周章狼狽するという醜態をさらした。
この講席に参加していた和気清麻呂の子・和気広世・真綱の兄弟は「一仏乗を説く法華経の妙理が権教の考え方にはばまれ、三諦円融の義がいまだあらわれていないことを悲しむ」、また「諸宗は三界六道の迷いを打ち破ってはいるが、いまだ歴劫修行の跡を踏襲している」等といって、慨嘆した。
一仏乗の妙理である法華経がこれまで正しく理解されていなかった状態を嘆いたものであり、法華経の実義が伝教大師以前にはまだあらわれていなかったことを裏づけている。広世は大学別当、真綱は検非違使別当、美作守の要職にあり、後にともに伝教大師に帰依している。
更に延暦21年(0803年)1月19日には、50代桓武天皇の勅によって、高雄寺において南都六宗七大寺の善議・勝猷・奉基・勤操等14人の学僧と、伝教大師を対決させられた。
伝教大師は六宗の立義を一つ一つ取り上げ、経釈に照らして理路整然と破折したため、彼らは一言も答えることができず、口はその用をなさずに「鼻のごとく」であったという。
同じく29日、和気広世・大伴国道の両吏が勅使として、六宗の学僧を詰問したので、皆、大師に帰伏する旨の「怠状」、すなわち謝り状を奉ったのである。
それには「聖徳太子の弘法以来、二百余年の間に、講じられた経論は数多い。しかし、互いに勝劣を争って、いまだその疑いが解けなかった。この最妙の法華の円宗はいまだ世間に弘められていなかった」等と記されており、伝教大師が法華経の実義を初めて明かしたことを、この高僧達も認めているのである。
この公場対決の経緯については、天台宗の例講問答の草案を集めた天台直雑に説かれているので、少し長くなるが、引用しておこう。
「延暦二十一年正月十九日、高雄寺に於いて、桓武皇帝、勅在って、六宗の碩徳善義、勝献、奉基、寵忍、賢玉、安福、勤操、修円、慈誥、玄耀、歳光、道証、光証、観敏等を上首と為したる二百余人の貴僧、高僧、根本大師と召し合わせられ、宗論有り。爾の時に大師、三論の三蔵三転法輪、法相の三時五性各別、華厳の四教五教根本枝末、六相十玄等、総じて諸宗の大綱宗義を破し、天台一宗最極最頂の由を立てたもう。爾の時、諸宗の大綱、大諍論し、大師を邪見と謗ず。既に破言に及ぶ。然りと雖も大師、重ねて種種の誠証を出し、胸臆の口伝を破したもう。爾の時、諸徳一言に舌を巻いて諍論に及ばず。一同にして頭を傾け、手を叉えて大師の御弟子と天台宗義に帰し、始めて頓極の旨を得。爾の時に天子、大いに驚きたもう。而して同二十九日、弘世、国道両人の勅使を以って、重ねて六宗七寺に仰せ付けらるる時、各帰依の状に云く……」と。このあと、謝表が続くが、本抄で引用されている部分はそのなかほどにある。
大聖人は、これらの事実を挙げられて、伝教大師以前には法華経の実義を明らかにした人がいなかったから、八幡大菩薩も、それ以前に法衣を捧げたことがなかったのであると示されている。
法華経法師品第十には「我が滅度の後、能く竊かに一人の為にも、乃至一句を説かん。当に知るべし。是の人は則ち如来の使なり」とあり、その「如来の使」を「如来即ち、衣を以って之を覆いたもう為し」と説かれていることを示され、八幡大菩薩が伝教大師に法衣を捧げたのは、この法華経の文のとおりの振る舞いをしたのであると述べられている。
これは、先の幾つかの疑問のうち、この法衣を八幡は、いつ、どこから手に入れたのかとの問題に対する答えとなっているといえる。
すなわち、歴史的に、いつの時かに手に入れていたものではなく「如来則ち、衣を以て之を覆いたもう」とあるように、八幡大菩薩は如来の代理として、同じく如来の使いとして法華経を説いた伝教大師に奉ったものであるということである。