諫暁八幡抄 第二十章(仏法西遷の定理を明かす)

諫暁八幡抄 第二十章(仏法西遷の定理を明かす)

 弘安3年(ʼ80)12月 59歳

天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ。
弘安三年太歳庚辰十二月 日 日 蓮 花押

 

現代語訳

天竺国を月氏国というのは仏の出現し給うべき国名である。扶桑国を日本国という。どうして聖人が出現されないはずがあろうか。月は西より東へ向かうものであるが、それは月氏の仏法が東のほうへ流布する相である。日は東から出る。日本の仏法が月氏国へ還るという瑞相である。月はその光が明らかでない。それと同じように仏の在世はただ八年である。日の光明は月に勝っている。これは五の五百歳・末法の長き闇を照らす瑞相である。
 仏は法華経を誹謗する者を治されることはなかった。それは在世に謗法の者がいなかったからである。末法には必ず一乗法華経の敵が充満するであろう。ゆえに不軽菩薩の折伏逆化によって利益するのである。おのおの我が弟子等、ますます信心に励まれるべきである。
 弘安三年太歳庚辰十二月  日      日 蓮  花 押

 

語句の解説

天竺国
 中国および日本で用いられたインドの古称。

扶桑国
 扶桑は、古代中国において東方の日の出る所に生ずるとされた木。ここから日本の名称として用いられた。日蓮大聖人は「法華取要抄」の冒頭に「扶桑沙門日蓮之を述ぶ」と記された。これには日本から末法の大法が出現し、一閻浮提に広宣流布されていくとの意義を込められていると拝される。

聖人
 日蓮大聖人のこと。仏のこと。智慧が広く徳の優れた人で、賢人よりも優れた人。世間上では「せいじん」と読み、仏法上では「しょうにん」と読む。

瑞相
 きざし、前知らせ。必ず物事の前にあらわれる現証。天台は法華玄義巻第六の上に神通妙を釈したなかに「世人は蜘蛛掛るときは則ち喜事来り、鳱鵲鳴くときは則ち行人至ると以ふ。小尚徵あり。大焉んぞ瑞無からん。近を以て遠きを表するに、亦応に是の如くなるべし」と。

講義

本抄の結文として、大聖人の仏法を太陽に、釈尊の仏法を月にたとえて、勝劣を明らかにするとともに、大聖人の仏法が日本から東洋、全世界へ広宣流布していくことを予言されている。
 まず天竺国を月氏国と称することは、インド出現の釈尊の仏法が「月」のようであることを象徴しており、これに対して日本の名は、出現する日蓮大聖人の仏法が「日」すなわち太陽のようであることをあらわしているとされている。そして、日と月との対比になぞらえて、釈尊の仏法と大聖人の仏法とを比較されている。
 すなわち、月は、その輝き始める位置が、一夜ごとに西の空から東の空に移る。これと同じように、西方のインドに出現した釈尊の仏法は、東へ東へと流布して、日本に伝えられてきた。これを仏法東漸という。
 これに対し、日が東天から出て西に向かっていくように、日蓮大聖人の仏法は東の日本に出現してインドに還っていくと述べられている。これを仏法西還、仏法西遷という。
 また、日と月との光の強弱にたとえられ、釈尊の法華経が釈尊在世のうちのわずか八年間であったのに対して、日蓮大聖人の仏法は第五の五百歳に始まる末法万年の長き闇を照らし続けていく大白法であると断言されている。
 日寛上人は当流行事抄で「此の文正しく種脱勝劣を明かすなり」として、御文を二段に分け、始めに「天竺国をば月氏国と申すは……五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」が勝劣を明かし、次は「仏は法華経謗法の者を……不軽菩薩の利益此れなり」が種脱を明かすと御教示されている。  
 初めに勝劣を明かす段において「亦三意有り。同じく日月を以て即ち種脱に喩う」として「一には国名に寄す。謂く、月氏は是れ迹門の名なり。故に脱迹の仏応に出現すべきなり。日本は即ち本門の名なり。下種の本仏、豈出現せざらんや。国名寧ろ勝劣に非ずや。二には順逆に寄す。謂く、月は西従り東に向かう、是れ左道にして逆なり。日は東従り西に入る、是れ右繞にして順なり。順逆豈勝劣に非ずや。三に長短に寄す。月は光、明らかならず、在世は但八年なり。日は光、明らかにして、末法万年の闇を照らす。長短寧ろ勝劣に非ずや」と説かれている。

 

天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり

 

「天竺国」とは、日本および中国で用いられたインドの古称であり、また「月氏国」ともいわれた。月氏は本来、中央アジアで活躍した遊牧民族で、西方に移住し、現在のアフガニスタン北部の地に定着して国を作った。そこから、中国・日本では、インドの雅称として「月氏」または「大月氏」と呼んだ。
 六世紀にインドを訪れた玄奘(06020664)は、大唐西域記巻二において、インドを別名「月氏」と呼ぶ理由について説明している。
 「天竺の名称は異議糺紛しているが、古くは身毒といい、賢豆ともいったが、今は正音にしたがって、インドと呼ぶべきだ。ただし、その一称として、唐で月という意味は、もろもろの生ある者は輪廻してやまず、あたかも無明の長夜に明月を必要とするように、この土の聖賢が遺法を受け継いでいる。それは、ちょうど明月が闇を照らしているようなものであるから、インドのことを月と呼ぶのである」。
 唐以後、中国や日本において、インドの雅称として「月氏国」が一般化したのは、この玄奘の説によるとみられる。

 

扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ

 

「扶桑国」とは、中国の古い伝説で東方の海中にあるとされた国の名で、扶桑樹を多く産する所という意味で名づけられた。日本の呼称も、中国との交流が行われた大化改新ごろから東方の国という意で日本の字が用いられたといわれている。
 日寛上人はこの「日本」の名に三意があることを依義判文抄で御教示されている。
 「一には所弘の法を表して日本と名づくるなり。謂く、日は是れ能譬、本は是れ所譬、法譬(倶に挙げて日本と名づくるなり。経に云く「日天子の能く諸闇を除くが如し』云云。宗祖云く『日蓮云く、日は本門に譬うるなり』云云。日は文底独一本門に譬うるなり。四条抄に『名の目出度きは日本第一』と云うなり、是れなり云云。
 二に能弘の人を表して日本と名づくるなり。謂く、日蓮の本国なるが故なり。故に顕仏未来記に云く『天竺漢土に亦法華経の行者之れ有るか如何。答えて云く、四天下の中に全く二の日無し、四海の内に豈両主有らんや』云云。故に知りぬ、此の国は日蓮の本国なり云云。
 三には本門の広布の根本を表して日本と名づくるなり。謂く、日は即ち文底独一の本門三大秘法なり。本は即ち此の秘法広宣流布の根本なり、故に日本と云うなり。応に知るべし、月は西より東に向かう日は東より西に入る、之を思い合わすべし。然れば則ち日本国は、本因妙の教主日蓮大聖の本国にして、本門三大秘法広宣流布の根本の妙国なり」

 

月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり

 

ここでは月と太陽の運行に即して、仏法流布の定理を示されている。
 「月は西より東に向へり」とは、月は、太陽が沈んで輝き始める位置が一日ごとに西の空から東寄りの空へ移っていくことをさしている。これは釈尊の仏法が東へ向かって広まっていく相をあらわしているとされている。
 これに対して「日は東より出づ」が、太陽が一日のうちに東の空から出て、西へ移って沈んでいく相であることはいうまでもない。これは大聖人の仏法が月氏へ向かって還っていく瑞相であるとされている。
 釈尊の仏法は月のように、西のインドから西域・中国に移り、朝鮮半島から日本へ伝えられてきた。
 インドから中国へ初めて伝えられたのは西暦一世紀であるが、天台の法門が中国で興隆したころには、既にインドの仏教は衰退しており、同じく中国から朝鮮半島を経て、六世紀中ごろ、日本へ伝えられ、八世紀末、伝教大師が出て日本で興隆したころには、中国の仏教は衰えの兆しをみせていたのである。まさに、この推移は月の西から東への移り変わりと共通している。
 日蓮大聖人の教えは太陽のごとき仏法であり、東の日本から興って、正法・像法時代の釈尊の仏法の流伝とは逆の方向をたどりつつ、東洋へ、全世界へ流布していくと仰せである。
 「月は光あきらかならず在世は但八年」とは、釈尊の法華経が衆生を利益した期間は、わずか八年にすぎなかったということであり、それに対し「日は光明・月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり」とは、大聖人の三大秘法の南無妙法蓮華経は、第五の五百歳すなわち末法の始めから、尽未来際の長き闇を照らし続けていく大白法であると断言されている。
 これは、釈尊の仏法と大聖人の仏法を、月と太陽の光の強さに約されて、勝劣を明確にされているのである。

 

仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり

 

末法においては折伏を行ずべきことを仰せである。
 釈尊は法華経を誹謗する者を治癒することはなかった。それは、基本的には謗法の者がいなかったからである。
 すなわち、釈尊の化導は、爾前権教によって調機調養し最後に法華経を説いたのであって、基本的に摂受の法によったのである。
 それに対し末法の時代は、一仏乗の法華経に敵対する強敵が充満する五濁悪世である。
 したがって、末法における弘通は、不軽菩薩のように折伏を行じ、逆縁を結んで衆生を利益していくのである、と仰せられている。
 ゆえに、日寛上人は「種脱を明かす」段であるとされ、「法華誹謗の者を治せざるは、即ち在世脱益の迹仏なり。末法は即ち不軽の利益に同じ、豈下種本仏に非ずや。十章抄に、所謂、迹門を月に譬え、本門を日に譬う云云。学者応に知るべし、蓮祖若し久遠元初の自受用身に非ずんば、焉んぞ教主釈尊に勝るることを得べけんや」と説かれている。
 最後に「各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ」と仰せのように、弟子門下一人一人がますます折伏弘教に精進し、東洋へ、世界へと大法を流布していくよう励まされ、本章を結ばれている。

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