諫暁八幡抄 第十八章(八幡大菩薩の本地を明かす)
弘安3年(ʼ80)12月 59歳
二には出世の正直と申すは爾前・七宗等の経論釈は妄語・法華経・天台宗は正直の経釈なり、本地は不妄語の経の釈迦仏・迹には不妄語の八幡大菩薩なり、八葉は八幡・中台は教主釈尊なり、四月八日・寅の日に生まれ八十年を経て二月十五日申の日に隠れさせ給う、豈に教主の日本国に生まれ給うに有らずや、大隅の正八幡宮の石の文に云く「昔し霊鷲山に在つて妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云、法華経に云く「今此三界」等云云、又「常に霊鷲山に在り」等云云、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり、近くは日本国・四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり、今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし釈迦仏をすて奉るは影をうやまつて体をあなづり子に向いて親をのるがごとし、本地は釈迦如来にして月氏国に出でて正直捨方便の法華経を説き給い、垂迹は日本国に生れては正直の頂きにすみ給う、諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり、所謂跋倶羅尊者は三世に不殺生戒を示し鴦崛摩羅は生生に殺生を示す、舎利弗は外道となり是くの如く門門不同なる事は本凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示すなり、妙楽大師云く「若し本に従て説かば亦是れ昔殺等の悪の中に於て能く出離するが故なり是の故に迹中に亦殺を以て利他の法門と為す」等云云、
現代語訳
二に出世の正直というのは、爾前の諸経や七宗等の経論釈は妄語であり、法華経ならびに天台宗は正直の経釈である。
本地はこの不妄語の経を説かれた釈迦仏で、垂迹は不妄語の八幡大菩薩である。八葉の蓮華は八幡大菩薩であり、中台は教主釈尊である。
四月八日、寅の日に生誕され、八十年を経て二月十五日、申の日に入滅されたことは、教主釈尊が日本国に八幡大菩薩と生まれ給うたものではないか。
大隅の正八幡宮の石の文に「昔は霊鷲山にあって妙法華経を説き、今、正宮の中にあって大菩薩と示現す」等と記されている。
法華経の譬喩品第三に「今此の三界は皆是れ我が有なり。其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」等と説かれ、また如来寿量品第十六には「常に霊鷲山に在って説法教化す」等と説かれている。
それゆえ、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子であり、近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子である。
今、日本国の一切衆生は八幡大菩薩を頼りにして大事にしながら、釈迦仏を捨てているのは、影を敬って体を侮り、子に向かって親を罵っているのと同じである。
本地は釈迦如来として、月氏国に出現されて正直捨方便の法華経を説かれ、垂迹は八幡大菩薩として日本に生れて、正直な人の頂にすまわれるのである。
もろもろの権化の人々の本地は法華経の一実相であるが、垂迹の法門は無量である。いわゆる跋倶羅尊者は、三世にわたって不殺生戒を示し、鴦崛摩羅は、生々世々に殺生を示している。舎利弗は外道となった。このように各門が不同であることは、もと凡夫であったときの初発得道の始めを、成仏して化他門に向かうときに、我が得道の門はこれであったと示すためである。
妙楽大師は「若し本地に従って説くならば、かくのごとく過去世に殺生等の悪業の因縁によって、よく生死を出離したのであるから、垂迹の場合においてもまた、これをもって利他の法門とするのである」等といっている。
語句の解説
七宗
南都六宗に真言宗を加えた七宗。
八葉は八幡・中台は教主釈尊なり
真言密教で用いる胎蔵界漫荼羅では、中央に八葉院を置き、中台を大日如来とし、八葉を四仏・四菩薩を配し八葉九尊としている。大聖人はこれを中台を教主釈尊とし、八幡を釈尊の垂迹であるとされている。
今此三界
法華経譬喩品第3の文。同品に「今此の三界は|皆是れ我が有なり|其の中の衆生は|悉く是れ吾が子なり|而るに今此の処は|諸の患難多し|唯我一人のみ|能く救護を為す」(法華経191~192㌻)とある。釈尊がこの世界の主であることを述べた文。
常に霊鷲山に在り
法華経如来寿量品第16には「我諸の衆生を見るに、苦海に没在せり。故に為に身を現ぜずして、其れをして渇仰を生ぜしむ。其の心恋慕するに因って、乃ち出でて為に法を説く。神通力是の如し、阿僧祇劫に於いて、常に霊鷲山、及び余の諸の住処にあり」とある。
跋倶羅尊者
跋倶羅は「ばっくら」とも読む。釈尊の弟子。容姿端麗な羅漢。髪倶羅、薄拘羅、縛矩羅等とも音写し、善容、重姓等と訳す。増一阿含経、賢愚経、大智度論などにある。賢愚経によると、跋倶羅は舎衛国の長者の子として生まれ、父母に深く愛された。あるとき、父母が誤って跋倶羅を川の中に落としてしまい、跋倶羅は魚の餌食となったが、川下に住む長者が魚を割いて助け出した。跋倶羅は川上、川下両家に育てられ、嫁も両家でおのおの娶った。このことから字を重姓という。出家して仏所に詣で沙門となり、阿羅漢果を得たという。また跋倶羅は、過去久遠の昔に毘婆尸という仏に一銭を布施し、三自帰、不殺戒の教えを受けた長者の子供であったといわれる。
不殺生戒
戒律に規定されたことで,生物の生命を絶つことを禁止する戒。これを犯して殺すものは,僧伽では最も重い波羅夷 (教団追放の罪) になる。また在家信者に与えられた五戒の第一である。
鴦崛摩羅
釈尊在世当時の弟子。梵名アングリマーラー(Angulimālā)の音写。鴦掘摩羅・央掘摩羅・鴦掘摩等とも書く。指鬘と訳す。央掘摩羅経巻一等によると、人を殺して指を切り、鬘としたのでこの名がある。外道の摩尼跋陀を師としてバラモンを学んでいたが、ある時、師の妻の讒言にあい、怒った師は央掘摩羅に千人を殺してその指を取るよう命じた。そのため九百九十九人を殺害し、最後に自分の母と釈尊を殺害しようとしたが、あわれんだ釈尊は彼を教化し大乗につかせたという。鴦掘摩経では百人を殺そうとして九十九人を殺したとある。
舎利弗は外道となり
舎利弗が乞眼の婆羅門の責めによって、退転して外道の家に生まれたことをいう。大智度論巻十二の「舎利弗の如きは六十劫の中に於いて、菩薩の道を行じ、布施の河を渡らんと欲す。時に乞人あり、来って其の眼を乞う。舎利弗言く『眼には任すべき所ならず。何を以ってか之を索むるや。若し我が身及び財物を須いなば、当に以って相与うべし』と。答えて曰く『汝が身及び財物を以って須いず。唯眼を得んと欲す。若し汝実に檀を行ずるならば、以って眼を与えよ』と。爾の時、舎利弗は、一眼を出して之を与う。乞者は眼を得て、舎利弗の前に於いて之を嗅ぎ、臭を嫌って唾して地に棄て、又脚を以って蹹む。舎利弗思惟して言く『此くの如きの弊人等は、度す可きこと難し。眼は実に用無きも、而も強いて之を索め、既に得れば而も棄て、又脚を以って蹹む。何ぞ弊なるの甚だしきや。此くの如きの人輩は度す可からず。自ら調えて、早く生死を脱せんには如かず』と。是く思惟し已って、菩薩の道より退き、小乗に回向せり」の文によられたと思われる。
講義
世間の正直に続き、出世の正直について述べられている。すなわち、仏法上の正直とは法華経であり、その法華経によって立てられた宗である、と。そして、八幡の本地は不妄語の経を説いた釈迦仏であり、その釈迦仏の垂迹が八幡大菩薩として日本国に生まれ、正直の頂に栖むことを明かされているのであると述べられている。
ここで「法華経・天台宗は正直の経釈なり」と仰せられているのは、当時の天台宗は真言密教に堕して、もはや「正直の宗」とはいえなくなっていたが、開祖伝教大師が法華経を依経としていたことから、その本来の原点に立ち戻って「正直の経釈」とされたと拝される。
そして、仏法の奥義の立場から、八幡の本地は不妄語の法華経を説いた釈迦仏であり、釈迦仏の垂迹として現れたのが「不妄語の八幡大菩薩」であると御教示されている。
本地とは、本来の境地の意で、仏・菩薩の本身をいい、垂迹とは、本地から迹を垂れることで、仏が衆生を利益するために、機根に応じ、種々に身を変化して出現することをいう。
八葉は八幡・中台は教主釈尊なり
「八葉」とは、八枚の花弁の蓮華のことで、真言密教で用いる胎蔵界曼荼羅では、八葉九尊と称し、定印を結んで座す大日如来を中台に、八葉上に宝幢・無量寿などの四仏、観音・弥勒などの四菩薩を配し、これらをさして九尊としている。
ここでは「中台」を教主釈尊に、八幡大菩薩を釈尊の垂迹とし、「八葉」に位置するとされたものと拝察される。
そして八幡大菩薩が釈尊の垂迹とされる根拠として、生没の月日の一致を挙げられている。ともに「四月八日・寅の日」に生まれ、「二月十五日申の日」に滅したとされているのである。
また、鹿児島県大隅半島の正八幡宮にあったとされる石の銘文を挙げられている。この石は、一つの石が割れて二つになったもので、片方の石には「八幡」という二字が記されており、もう一方の石には「昔、霊鷲山にあって妙法華経を説き、今、正宮の中にあって大菩薩と示現した」とあったという。
続いて法華経譬喩品第三の「今此の三界は、皆是れ我が有なり。其の中の衆生は、悉く是れ吾が子なり」の文と、同寿量品第十六の「常に霊鷲山、及び余の諸の住処に在り」の文を引かれて、根本的にいえば「三千大千世界」の一切衆生は釈尊の子であり、狭めて日本国すべての人々についていえば、その釈尊の垂迹である八幡大菩薩の子であるということができるのである。
したがって、当世の日本国の一切衆生が、八幡を頼りにして大切にしているけれども、真言等の諸宗の本尊を信じて、八幡の本地である教主釈尊を捨ててしまっているのは、あたかも影を敬って体を侮り、子をほめて親をののしっているようなものである。
先に挙げられた朝廷方と鎌倉方の戦いに関していえば、朝廷方は、源平の戦でも承久の乱でも、盛んに真言の邪法によって調伏の祈祷を行った。
これに対し、頼朝は法華経を大事にしていたし、北条義時は少なくとも真言などの邪法に頼ることをしなかった。このため、仏法上でも、頼朝や義時が「正直の人」であったから、八幡は鎌倉方の人々の味方をしたのである。
次に、八幡の本地は釈迦如来で、月氏国に生まれては「正直に方便を捨てて」爾前権教を廃し、正直の法華経を説いたのであり、また釈迦如来が日本国に垂迹して八幡大菩薩と生まれ、「正直の頂き」に栖むのであると述べられている。
「諸の権化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり」と、一切の菩薩や諸神等の権化の衆生の本地は法華経の一実相であることを御教示されている。
そうしたあらゆる垂迹示現の「権化の人人」の例として「跋倶羅尊者」「鴦崛摩羅」「舎利弗」を挙げられている。「跋倶羅尊者」は過去世に不殺生戒をたもった功徳で不老長寿の果報を得たとされることから、三世にわたって不殺生戒を示し、反対に「鴦崛摩羅」は仏道に入る以前、千人を殺そうとして九百九十九人を殺し、その指を切ったとされる悪人だったことから、彼は生々世々に殺生の悪業を示しているのである。また舎利弗は、過去世において、外道の家に生まれたとされる。
このように垂迹の化他門が種々に異なるのは「本凡夫にて有りし時の初発得道の始を成仏の後・化他門に出で給う時我が得道の門を示す」ためだといわれている。
これは、成仏得道の後において、衆生を教化する化他門に向かうとき、初発得道以前の凡夫の状態を現じて得道への門がさまざまであることを示すためであったというのである。
次の妙楽大師の釈はそれを裏づけるための引用である。すなわち、もし本地に従って説くならば、初め殺生等の悪業の因縁によって、よく出離生死したのであるから、垂迹の場合においても、同じ殺生等の悪業を示すことをもって、化他の法門とする、という意である。