諫暁八幡抄 第十三章(八幡を諌暁する資格あるを示す)

諫暁八幡抄 第十三章(八幡を諌暁する資格あるを示す)

 弘安3年(ʼ80)12月 59歳

今日蓮は去ぬる建長五年癸丑四月二十八日より今年弘安三年太歳庚辰十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり此れ又時の当らざるにあらず已に仏記の五五百歳に当れり、天台・伝教の御時は時いまだ来らざりしかども一分の機ある故に少分流布せり、何に況や今は已に時いたりぬ設とひ機なくして水火をなすともいかでか弘通せざらむ、只不軽のごとく大難には値うとも流布せん事疑なかるべきに真言・禅・念仏者等の讒奏に依りて無智の国主等・留難をなす此を対治すべき氏神・八幡大菩薩・彼等の大科を治せざるゆへに日蓮の氏神を諫暁するは道理に背くべしや、尼倶律陀長者が樹神をいさむるに・異ならず、蘇悉地経に云く「本尊を治罰する事鬼魅を治するが如し」等云云、文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために数年が間・法を修行するに成就せざれば本尊を或はしばり或は打ちなんどせよととかれて候、相応和尚の不動明王をしばりけるは此の経文を見たりけるか、此は他事にはにるべからず日本国の一切の善人は或は戒を持ち或は布施を行じ或は父母等の孝養のために寺塔を建立し或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財を止めて諸僧に供養をなし候に、諸僧謗法の者たるゆへに謀反の者を知ずしてやどしたるがごとく不孝の者に契をなせるがごとく今生には災難を招き後生も悪道に堕ち候べきを扶けんとする身なり而るを日本国の守護の善神等・彼等にくみして正法の敵となるゆへに此をせむるは経文のごとし道理に任せたり、

 

現代語訳

今、日蓮は、去る建長5428日から今年弘安312月に至るまで、28年の間、他事は一切なく、ただ、妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れようと励んできただけである。これはちょうど、母親が赤子の口に乳をふくませようとする慈悲と同じである。
 このような法華経の弘通はこれは時節が到来したからであって、今はすでに仏記の第五の五百年にあたっている。天台大師や伝教大師の御時は、いまだその時期に至っていなかったが、一分の機類があったから法華経を少々、流布したのである。ましてや今は、すでに時期が到来している。たとい機がなくて水火のように反発してきたとしても、どうして法華経を弘通せずにはいられようか。
 ただ不軽菩薩のように、大難に値ったとしても、この大法が流布する事は疑いないのに、真言、禅、念仏者等の讒奏によって無智の国主等が迫害して難を加えている。これを対治すべき氏神の八幡大菩薩は彼ら謗法者を治罰しないので、日蓮が氏神を諌暁するのは道理に背くことであろうか。これは尼倶律陀長者が樹神を諌めたのと道理は同じである。
 蘇悉地経に「本尊を治罰することは鬼魅を対治するごとくせよ」等とある。文の心は、経文のとおり所願を成就するために、数年の間修行をしても成就しない場合は、本尊をあるいは縛り、あるいは打ったりなどして責めよ、というのである。相応和尚が不動明王を縛り上げたのはこの経文をみたからであろう。
 日蓮の場合は、他に比較するものがないぐらいである。日本国のあらゆる善人は、あるいは戒を持ち、あるいは布施を行じ、あるいは父母等の孝養のため寺塔を建立し、あるいは成仏得道のために妻子を養うべき財宝を節約して諸僧に供養したりしているが、その僧が謗法の者であるために、あたかも謀叛人であることを知らずに宿を貸し、不孝の者と知らずに夫婦になったようなもので、今生には災難を招き、後生も悪道に堕ちるべきところを日蓮は助けようと努めているのである。
 それを日本国を守護すべき善神等が彼ら謗法の者に味方をして、正法の敵となってしまっているから、これを責めるのは経文のとおりであり、道理にかなっていることである。

 

語句の解説

癸丑
 干支の組み合わせの50番目で、前は壬子、次は甲寅である。陰陽五行では、十干の癸は陰の水、十二支の丑は陰の土で、相剋(土剋水)である。

太歳
 太歳とは木星の異称で、木星の公転周期はほぼ十二年で、古代中国では木星の位置によって年を数える歳星紀年法があった。その際用いた十二支の配列は木星の動きと逆だったので、逆に動く木星を仮想し、これを基準に年を数えるのを太歳紀年法という。

仏記
 仏の未来記。予言する経文。

五五百歳
 大集経巻55で釈尊滅後の2500年間に正法が衰退していく様相を5期の500年間に区切って、仏法流布の状態を説明しようとしたもの。順に①解脱堅固(仏道修行する多くの人々が解脱する、すなわち生死の苦悩から解放されて平安な境地に至る時代)②禅定堅固(人々が瞑想修行に励む時代)③読誦多聞堅固(多くの経典の読誦とそれを聞くことが盛んに行われる時代)④多造塔寺堅固(多くの塔や寺院が造営される時代)⑤闘諍言訟・白法隠没(=闘諍堅固、仏の教えの中の論争が絶えず、正法が見失われてしまう時代)の5時代をいう。堅固は変化、変動しない様をいい、定まっていることを意味する。五箇の五百歳ともいう。解脱・禅定堅固は正法時代、読誦多聞・多造塔寺堅固は像法時代、闘諍堅固は末法とされる。

天台
 (05380597)智顗のこと。中国の陳・隋にかけて活躍した僧で、中国天台宗の事実上の開祖。智者大師とたたえられる。大蘇山にいた南岳大師慧思に師事した。薬王菩薩本事品第23の文によって開悟し、後に天台山に登って円頓止観を覚った。『法華文句』『法華玄義』『摩訶止観』を講述し、これを弟子の章安大師灌頂がまとめた。これらによって、法華経を宣揚するとともに観心の修行である一念三千の法門を説いた。存命中に陳の宣帝と後主叔宝、隋の文帝と煬帝(晋王楊広)の帰依を受けた。【薬王・天台・伝教】日蓮大聖人の時代の日本では、薬王菩薩が天台大師として現れ、さらに天台の後身として伝教大師最澄が現れたという説が広く知られていた。大聖人もこの説を踏まえられ、「和漢王代記」では伝教大師を「天台の後身なり」とされている。

伝教
 (0767あるいは07660822)最澄のこと。伝教大師は没後に贈られた称号。平安初期の僧で、日本天台宗の開祖。比叡山(後の延暦寺、滋賀県大津市)を拠点として修行し、その後、唐に渡り天台教学と密教を学ぶ。帰国後、法華経を根本とする天台宗を開創し、法華経の一仏乗の思想を宣揚した。晩年は大乗戒壇の設立を目指して諸宗から反発にあうが、没後7日目に下りた勅許により実現した。主著に『守護国界章』『顕戒論』『法華秀句』など。

【桓武天皇らの帰依】伝教大師は生涯にわたり、桓武天皇、その第1皇子・平城天皇、第2皇子・嵯峨天皇の帰依を受けた。天台教学の興隆を望む桓武天皇の意向を受け、唐に渡り天台教学を究め、帰国後の延暦25年(806年)、伝教の「天台法華宗」が国家的に公認された。これをもって日本天台宗の開創とされる。大乗戒壇設立の許可が下りたのは、嵯峨天皇の時代である。

【得一との論争】法華経では、仏が教えを声聞・縁覚・菩薩の三乗に区別して説いたことは、衆生を導くための方便であり、一仏乗である法華経こそが、衆生を成仏させる真実の教えであると説いている。これを一乗真実三乗方便という。よって天台宗では、一仏乗を実践すればすべての衆生が成仏できるという立場に立つ。伝教大師は生涯、この一乗思想の宣揚に努めた。これに対し法相宗は、この一乗の教えがむしろ方便であり、三乗の区別を説くことこそが真実であるとした。これは三乗真実一乗方便といわれる。すなわち、五性各別の説に基づいて、衆生の機根には5性の差別があり、その中には不定性といって、仏果や二乗の覚りを得るか、何も覚りを得られないか決まっていない者がいると説く。そして一乗は、このような不定性の者に対してすべての人は成仏できると励まして仏果へと導くための方便として説かれた教えであるとした。ここにおいて、伝教大師と法相宗の僧・得一は真っ向から対立し、どちらの説が真実であるか、激しく論争した。これを三一権実論争という。この論争に関する記録は得一の現存する著作の中には残っていないが、伝教の『守護国界章』や『法華秀句』などからその内容をうかがい知ることができる。

【南都からの非難】伝教大師は37歳の時、唐に渡り、台州および天台山で8カ月間学んだが、都の長安には行かなかった。そのため、日本の南都六宗の僧らは「最澄は唐の都を見たことがない」と言って、仏教の本流を知らないと非難した。日蓮大聖人は、これを釈尊や天台大師が難を受けたこととともに挙げられた上で、「これらはすべて法華経を原因とすることであるから恥ではない。愚かな人にほめられることが第一の恥である」と仰せになっている。


 仏教を理解し信じ実践する能力・資質。根機ともいう。

不軽
 法華経常不軽菩薩品第20に説かれる常不軽菩薩のこと。釈尊の過去世における修行の姿の一つ。威音王仏の像法の時代に仏道修行をし、自らを迫害する人々に対してさえ、必ず成仏できるという言葉、「我は深く汝等を敬い、敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等は皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べければなり」(鳩摩羅什の漢訳では二十四文字なので「二十四文字の法華経」という)を唱えながら、出会ったすべての人を礼拝したが、増上慢の人々から迫害された。この修行が成仏の因となったと説かれる。

【日蓮大聖人の弘通との対比】不軽菩薩の弘通と大聖人の弘通との対比は、次の御文に示されている。「例せば威音王仏の像法の時・不軽菩薩・我深敬等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し一国の杖木等の大難を招きしが如し、彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意是れ同じ彼の像法の末と是の末法の初と全く同じ彼の不軽菩薩は初随喜の人・日蓮は名字の凡夫なり」「過去の威音王仏の像法に三宝を知る者一人も無かりしに・不軽菩薩出現して教主説き置き給いし二十四字を一切衆生に向って唱えしめしがごとし、彼の二十四字を聞きし者は一人も無く亦不軽大士に値って益を得たり、是れ則ち前の聞法を下種とせし故なり、今も亦是くの如し、彼は像法・此れは濁悪の末法・彼は初随喜の行者・此れは名字の凡夫・彼は二十四字の下種・此れは唯五字なり」以上から、不軽菩薩と大聖人の正法弘通における共通点は、次の点に整理できる。①教。法華経の要法を広める(ただし不軽菩薩の「二十四字の法華経」は法華経一部の要旨であり、広・略・要でいえば略にあたるのに対して、大聖人の「妙法蓮華経の五字」は法華経の所詮の法体であり、真の意味での要にあたる)。②機。逆縁の衆生への化導。衆生の機根が劣悪であり、ただちに法華経を説いて衆生に反発されても縁を結ばせる逆縁の化導を中心に行った。③時。仏の亡くなった後の乱れた世の中に出現し難を耐え忍んで弘通した。④行者の位。不軽菩薩は初随喜の位、大聖人は名字即の位という、いずれも菩薩として初信の位であった。不軽菩薩の実践は、仏の滅後の悪世における法華経弘通の方軌を示しており、大聖人もこの方軌に則って法華経を弘通されている。それ故、不軽品を御自身の弘通の例とされている。


 禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。

念仏者
 念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。

 蘇悉地羯羅経の略。中国・唐の善無畏訳。3巻。成立史の上からは、大日経に先行する経典と考えられており、さまざまな密教儀礼や行者の規範を説いている。

相応和尚
 (08310918))。平安時代前期の天台宗の僧。一般的には相応和尚と記述されている事が多い。建立大師ともいう近江国浅井郡の人で、俗姓は櫟井氏。比叡山に無動寺を開創。千日回峰行の祖とされ、数々の霊験譚が伝えられている。なお、最澄の伝教大師、円仁の慈覚大師の諡号は、相応の奏請による。

不動明王
 真言宗の本尊。大日如来の命を受け、または大日如来が化身して、仏道修行を妨げる障魔を破る明王。後代明王、八大明王の総主。不動尊・無動尊・不動金剛明王ともいう。


 サンスクリットのシーラの訳。仏道修行者が自ら誓い課した戒め。教団の規則であるヴィナヤ(律)とは異なるが、東アジアでは同一視され、まとめて戒律といわれる。律を構成する各条項は戒と呼ばれる。戒は伝統的に「防非止悪」の意義があるとされる。仏道修行者が習得すべき戒定慧の三学の一つ。『四分律行事抄』では、戒を四つ(四科)に分け、仏によって定められた戒についての教えを戒法、授戒の儀式によって心に納めて防非止悪の功徳を生ずる本体を戒体、戒を持って実践修行することを戒行、五戒・十戒・具足戒などの具体的な戒の規定を戒相とする。歴史上、仏教教団に属する僧尼らが権力と癒着して腐敗堕落すると、しばしば戒律復興運動が起こった。日本では、伝教大師最澄が、具足戒を小乗戒とみなして用いず、もっぱら法華円頓の大乗戒を授ける戒壇の建立を目指し、死の直後に勅許された。ただし法華経には円頓戒の教理は説かれているが具体的な戒相は説かれていないので、伝教大師は梵網経の三聚浄戒と十重禁戒・四十八軽戒を用いて円頓戒の戒相としている。日蓮大聖人は、末法無戒という立場に立たれる。伝教大師の法華円頓戒も、釈尊の教えが無益となる法滅尽の時である末法の衆生にとっては無益であり不要となる。「教行証御書」には「此の法華経の本門の肝心・妙法蓮華経は三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為せり、此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや、但し此の具足の妙戒は一度持って後・行者破らんとすれど破れず是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つ可し、三世の諸仏は此の戒を持って法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ」と述べられ、末法においては三大秘法の御本尊を受持することが持戒であるという受持即持戒を説かれる。この戒は金剛宝器戒であるとされる。

布施
 物や利益を施し与えること。大乗の菩薩が悟りを得るために修行しなくてはならない六波羅蜜の一つ。壇波羅蜜のこと。布施には財施・法施等、種々の立て分けがある。

 

講義

 ここでは、日蓮大聖人が建長5年(1253)の立宗以来28年間、一切衆生を救済すべく、忍難弘教に身を挺してきたことを述べられ、その大聖人を讒奏し、留難する諸宗の僧らを治罰せずにいる八幡大菩薩等を諫暁するのは経文のとおりであり、至極道理にかなったものであると述べられている。
 建長5年(1253428日の立宗から、本抄御述作の弘安3年(128012月に至る28年間、大聖人はひたすら、人々に妙法を信受せしめるために心労を尽くされてきた。「此れ又時の当らざるにあらず已に仏記の五五百歳に当れり」とは、この大聖人の御振る舞いは、あくまで仏意を根本としたものであるとの仰せである。すなわち、大聖人の妙法の弘通の戦いは、一方では八幡大菩薩の氏子である日本国の人々を救うためであり、もう一方では、仏の心にかなったものであるから、法華経の会座で守護を誓った八幡大菩薩としては、二重の意味で、日蓮大聖人を守るべき責任がある。
 それにもかかわらず、日蓮大聖人を迫害している謗法の僧や権力者になんらの治罰も加えないでいるから、今、八幡を諫暁しているのであって、これは正しい道理にのっとっているのであるといわれている。
 そして、蘇悉地経の巻下成就具支品第十七にある「本尊を治罰する事鬼魅を治するが如し」の文を挙げ、その文意について、経文のごとく所願成就のために、数年の間、法を修行しても、成就しない場合には、その本尊を縛り、打つなどして責めよ、ということであると釈され、平安初期の天台宗の僧・相応和尚(08310918)が、不動明王を縛り上げたとされるが、相応和尚は、この蘇悉地経の文を見てそのようにしたのであろうと述べられている。相応和尚は比叡山に不動明王像を安置した無動寺の創建者で、貞観8年(0866)に上奏して、伝教・慈覚に日本初の大師号を贈ったとされる。
 「不動明王をしばりける」という逸話は、元亨釈書巻十によると、皇后明子が狂い病にかかった時、二日間、祈禱しても験がなく、比叡山に帰って不動明王像の前で祈った。すると像が反対側を向くため、不思議に思って必死の祈りをしたところ、不動が「皇后には昔、金峰山で不動明王の明呪をたもっていた真済という僧の霊がとりついているので、同じ明呪をたもつ彼の霊は降伏できない。しかし、その霊に真済の名を告げて恥じ入るのを見て、大威徳明王の法を修すれば、霊は降伏する」と語った。そのとおり修すると、皇后の病は直ちに治ったという。
 元亨釈書のなかに相応和尚が不動を縛ったことは出ていないが、同書には貞観3年(0861年)に相応和尚が鬼魅を下すため、二人の童子を呪縛した記事があり、このことから、大聖人は「しばりける」と述べられたと拝察される。
 しかし、大聖人は「此は他事にはにるべからず」と、大聖人の八幡諫暁は尼倶律陀長者や相応和尚とは根本的に目的も意義も異なると述べられている。
 すなわち、日本国の一切の善人は父母等の孝養のため、あるいは自らの「成仏得道」のために寺塔を建立するなど、諸宗の僧らに供養しているが、諸宗の僧らはいずれも謗法の者であるから、「善人」の尊い志とは逆に、例えば謀叛人と知らずに宿を貸し、親不孝の者と気づかずに夫婦の契りを結んだように、今生には災難を招き、後生には悪道に堕すことになる。
 大聖人は、こうした仏法に無知な衆生を哀れんで、救済しようとされているのであるが、八幡をはじめ国を守護すべき善神等が、謗法の諸宗の僧らに味方しているので叱責しているのであり、したがって、経文の道理にかなったものであると仰せられている。

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