諫暁八幡抄 第十一章(謗者を守護し梵釈の責めを受く)

諫暁八幡抄 第十一章(謗者を守護し梵釈の責めを受く)

 弘安3年(ʼ80)12月 59歳

此れをもつてをもうべし道鏡法師・称徳天皇の心よせと成りて国王と成らんとせし時清丸・八幡大菩薩に祈請せし時八幡の御託宣に云く「夫れ神に大小好悪有り乃至彼は衆く我は寡し邪は強く正は弱し乃ち当に仏力の加護を仰て為めに皇緒を紹隆すべし」等云云、当に知るべし八幡大菩薩は正法を力として王法を守護し給いけるなり、叡山・東寺等の真言の邪法をもつて権の大夫殿を調伏せし程に権の大夫殿はかたせ給い隠岐の法皇はまけさせ給いぬ還著於本人此れなり。
  今又日本国・一万一千三十七の寺・並に三千一百三十二社の神は国家安穏のために・あがめられて候、而るに其の寺寺の別当等・其の社社の神主等はみなみな・あがむるところの本尊と神との御心に相違せり、彼れ彼れの仏と神とは其の身異体なれども其の心同心に法華経の守護神なり、別当と社主等は或は真言師或は念仏者或は禅僧或は律僧なり皆一同に八幡等の御かたきなり、謗法不孝の者を守護し給いて正法の者を或は流罪或は死罪等に行なわするゆへに天のせめを被り給いぬるなり、

 

現代語訳

道鏡法師が称徳天皇の寵愛を得て天皇になろうとしたとき、和気の清丸が祈請したが、そのときの八幡大菩薩の御託宣に「神にも大小好悪がある。(中略)彼は多く我は寡ない。邪は強く正は弱い。ゆえに仏力の加護を仰いで皇位継承を紹隆すべきである」等とある。このことから八幡大菩薩は正法を力として王法を守護されたことが明らかである。
 承久の乱において朝廷方は比叡山や東寺等の真言の邪法をもって権の大夫殿の調伏を祈願されたので、かえって権の大夫殿が勝ち、隠岐の法皇は負けてしまわれたのである。経文に説かれている「還著於本人」とはこのことである。

今また、日本国の一万一千三十七の寺、ならびに三千百三十二社の神は国家安穏のために崇められているが、それらの寺々の別当等、それらの神社の神主等は皆々、彼らが崇めるところの本尊や神の御心に相違している。
 その仏と神とはさまざまで、その身は異体であるが心は同一で、皆、法華経の守護神なのである。ところが、別当や社主等はあるいは真言師であったり、念仏者であったり、禅僧であったり、律僧であったりして、皆、一同に八幡大菩薩等の敵となっている。
 それなのに、八幡は謗法や不孝の者を守護されて、正法の法華経を持つ行者を流罪、あるいは死罪等に行わせたために、天の責めを被られたのである。

 

語句の解説

道鏡法師
(?~0772)。奈良時代の法相宗の僧。俗姓は弓削氏。河内国の人で、出家して葛木山に登り修学の後、東大寺に入った。天平宝字5年(0761)、孝謙上皇の病を平癒させて信任を得、上皇が称徳天皇になると、天平神護元年(0765)、太政大臣禅師に任ぜられ、翌2年(0766)法王の位を得て政治の実権を握り、専横を極めた。更に皇位を窺ったが、和気清麻呂に退けられた。神護景雲四年(0770)、天皇の死後、下野国(栃木県)薬師寺別当に左遷され、その地で没した。

称徳天皇
(0718~0770)。第 48代の天皇,女帝 (在位0764~0770) 。第 46代孝謙天皇 (在位0749~0758) の重祚。名は阿倍,また高野姫。聖武天皇の第2皇女。母は贈太政大臣藤原不比等の娘安宿媛。

清丸
(0733~0799)奈良末期から平安初期の貴族・政治家、和気清麻呂のこと。称徳天皇に寵愛を受けた道鏡を天皇に立てよとの宇佐の八幡神の託宣を、勅使として確認に行ったが、「無道の人を除くべし」との神託を報告して道鏡の野心を退けた。そのため別部穢麻呂と名を変えられて大隅国(鹿児島県東部)に流され、一族もともに流罪となったが、後に許されて都に帰った。

御託宣
神の言葉。お告げ。祈禱した人に対する神の答え。

紹隆
先の人が行ったことを継いで、それを更に発展させること。

叡山
比叡山(滋賀県大津市)にある日本天台宗の総本山。山号は比叡山。山門または北嶺とも呼ばれる。延暦4年(785年)7月、伝教大師最澄が比叡山に入り、後の比叡山寺となる草庵を結んだことを起源とする。同7年(0788)、一乗止観院(後の根本中堂)を建立し薬師如来を本尊とした。唐から帰国した伝教大師は同25年(0806)、年分度者2名を下賜され、天台宗が公認された。ここに比叡山で止観業と遮那業を修行する僧侶を育成する制度が始まった。伝教没後7日目の弘仁13年(0822)、大乗戒壇の建立の勅許がおり、翌・同14年(823年)、延暦寺の寺号が下賜され、大乗戒による授戒が行われた。天長元年(0824)6月、勅令によって義真が初代天台座主となり、戒壇院や講堂が建立された。承和元年(0834)、第2代座主の円澄らが西塔に釈迦堂を、嘉祥元年(0848)、第3代座主の円仁(慈覚)が横川に首楞厳院を建立。寺内は東塔・西塔・横川の三院に区分され、山内の規模も整った。教学面では伝教没後、空海(弘法)の真言宗が勢力を増す中、円仁は唐に渡って密教を学び、帰国して『蘇悉地経疏』『金剛頂経疏』を作るなどして天台宗の教義に密教を積極的に取り入れた。第5代座主の円珍(智証)はさらに密教化を進めた。円仁の弟子であった安然は顕密二教を学び天台密教を大成した。康保3年(0966)に第18代座主となった良源は中興の祖といわれる。しかし良源没後は後任の座主をめぐって対立が起こり、円仁門徒と円珍門徒の争いが激化。正暦4年(0993)に円珍門徒は山を下って別院の園城寺(三井寺)に集まり、これから後、延暦寺は山門、園城寺は寺門として対立が続いた。このころ比叡山の守護神を祭る日吉神社が発展し、後三条天皇の行幸以来、皇族らの参詣が盛んに行われた。その権勢を利用して山門は、朝廷に強訴する時に日吉神社の神輿を担ぎ京都へ繰り出すなど横暴を極めた。平安末期になると山門の腐敗堕落も甚だしくなり、多くの僧兵を抱えた叡山は源平の争いには木曾義仲と結んで平家と対立し、承久の乱には後鳥羽上皇に味方した。日蓮大聖人は立宗前に比叡山で修学されている。また法然(源空)・親鸞・一遍・栄西・大日能忍・道元など、鎌倉時代に活躍した多くの僧が比叡山で学んでいる。

東寺
教王護国寺のこと。京都にある真言宗東寺派の総本山。延暦15年(796年)に桓武天皇が平安京の鎮護として、羅城門の左右に東西両寺を建立したのが始まり。平安京の東半分にある寺なので東寺と呼ばれる。弘仁14年(823年)、嵯峨天皇より空海(弘法)に与えられ、灌頂道場とされた。「一の長者」といわれる東寺の住職が、真言宗全体の管長の役目を果たした。

権の大夫
(1163~1224)。北条義時のこと。建保5年(1217)右京権大夫になったところからこの呼称となる。

隠岐の法皇
(1180~1239)。第82代後鳥羽天皇のこと。高倉天皇の第四皇子。寿永2年(1183)に安徳天皇が平氏とともに都落ちしたのち、同年8月、祖父・後白河法皇の院旨で即位し、三種の神器を持たぬ天皇となった。その治世は平安時代末の動乱期で源平の対立、鎌倉幕府成立の時期であった。天皇は19歳で土御門天皇に位を譲って院政をしき、幕府に対しては外戚坊門信清の娘を源実朝の室とし、その子を次の将軍とすることを密約したが、実朝の横死で果たさなかった。実朝の死後、北条義時が執権として権力を掌握し幕府体制を固めていったので、政権を朝廷に奪回しようと、順徳上皇や近臣と謀って、承久3年(1221)義時追討令を諸国に下した。そして、比叡山・東寺・仁和寺・園城寺等の諸寺に鎌倉幕府調伏の祈禱をさせたが効なく、敗れて出家し隠岐に流された。このため隠岐の法皇と呼ばれた。

調伏
敵や魔を退散させるための密教の祈禱儀礼のこと。

還著於本人
法華経観世音菩薩普門品第25の文。「還って本人に著きなん」と読む(法華経635㌻)。法華経の行者に呪いや毒薬で危害を加えようとする者は、かえって自らの身に、その害を受けることになるとの意。日蓮大聖人は承久の乱の時に上皇方が真言の祈禱を用いて敗れたことを還著於本人の道理によるものだとされている。またこの例に倣い、蒙古の襲来に際し、朝廷と幕府が真言師を用いて調伏の祈禱を行っていることに対しても、還著於本人として亡国の結果を招くことになると警告されている(283,321㌻など)。

三千一百三十二社の神
日蓮大聖人御在世当時の神社の数。出典は不明。

別当
僧官名。寺社の事務を統制する最高責任者として置かれた。法隆寺・東大寺・石清水八幡宮・鶴岡八幡宮などの別当が有名。

神主
神に仕える人で神官熱原新福地神社の神主で下級の神職であった。法華経の信仰に帰依したため行智や代官から嫌われ追われていたのを、南条時光が匿ったと思われる。

社主
神社の神官のこと。

流罪或は死罪
❶流罪。①伊豆流罪。日蓮大聖人が弘長元年(1261)5月12日から同3年(1263)2月22日まで、伊豆国伊東(静岡県伊東市)に不当に流罪された法難のこと。前年の文応元年(1260)7月、大聖人は「立正安国論」を北条時頼に提出して第1回の国主諫暁を行ったが、幕府はそれを用いなかった。「安国論」で大聖人は、念仏を厳しく破折されていたが、この「安国論」提出からほどなく、念仏者は執権・北条長時の父である極楽寺入道重時をうしろだてにして、名越にある大聖人の草庵を襲った(松葉ケ谷の法難)。大聖人は一時的に房総方面に避難されたが、しばらくして鎌倉へ帰られた。幕府は不当にも大聖人を捕らえ、伊豆の伊東へ流刑に処した。はじめ川奈の海岸に着かれた大聖人は、船守弥三郎にかくまわれ支えられ、のち伊東の地頭・伊東祐光の邸へ移られ、2年後に赦免された。その間、日興上人が伊豆に赴いて給仕され、さらに付近を折伏・教化された。また伊東祐光が病気になった時、念仏信仰を捨てる誓いを立てたので、大聖人は平癒の祈念をされた。病気が治った伊東氏は海中から拾い上げた釈迦像を大聖人に御供養した。大聖人はその像を生涯、随身仏として所持され、臨終に当たり墓所に置くよう遺言されたが、百箇日法要の時に日朗が持ち去った。②佐渡流罪。日蓮大聖人が文永8年(1271)9月12日の竜の口の法難の直後、不当な審議の末、佐渡へ流刑に処せられた法難。この法難において大聖人は、同年10月10日に依智を出発し、11月1日に塚原の三昧堂に入られた。その後、同9年(1272)4月ごろ、一谷にあった一谷入道の屋敷に移られる。同11年(1274)2月14日には無罪が認められて赦免状が出され、3月8日にそれが佐渡に届いた。同13日に大聖人は佐渡・一谷を出発され、同26日に鎌倉に帰還された。約2年5カ月に及ぶ佐渡滞在中は、衣食住も満足ではなく、暗殺者にも狙われるという過酷な環境に置かれたが、「開目抄」「観心本尊抄」など数多くの重要な御書を著され、各地の門下に励ましの書簡を多数送られた。❷死罪。竜の口の法難。文永8年(1271)9月12日の深夜、日蓮大聖人が斬首の危機に遭われた法難。大聖人は、9月10日に平左衛門尉頼綱の尋問を受け、同月12日の夕刻に頼綱が率いる武装した多数の軍勢によって鎌倉の草庵を急襲された。その際、大聖人は少しも動ずることなく、かえって頼綱に対し、謗法を禁じ正法を用いなければ「立正安国論」で予言したように自界叛逆難・他国侵逼難が起こると再度、警告された。これは、第2回の国主諫暁と位置づけられる。大聖人は捕縛され、鎌倉の街路を引き回されて、武蔵守兼佐渡国の守護であった北条宣時の邸宅に勾留された。ところが、その深夜(現代の時刻表示では13日の未明。当時は夜明け前、午前3時ごろまでは前の日付を用いた)に突然、護送されることになり、鎌倉のはずれの竜の口あたりに到達した時、斬首が試みられた。しかし突如、光り物が出現し、その試みは失敗した。この斬首の謀略は、大聖人を迫害する一派が、正式な処分が決定する前に護送中の事故に見せかけて、暗殺を図ったものと推定される。大聖人は、竜の口でのこの暗殺未遂によって、末法の凡夫(普通の人間)である日蓮の身は、業の報いをすべて受けてこれを消し去って、死んだととらえられた。そして、法華経の行者としての魂魄が佐渡に流されたと位置づけられている。すなわち、竜の口の法難を勝ち越えたことを機に、宿業や苦悩を抱えた凡夫という姿(迹)を開いて、凡夫の身において、生命に本来そなわる仏の境地(久遠元初の自受用身という本地)を顕されたのである。この御振る舞いを「発迹顕本」と拝する。この法難の後、大聖人は、北条宣時の部下で佐渡の統治を任されていた本間重連の依智(神奈川県厚木市北部)の邸宅に移動した。一旦は無罪であるとして危害を加えないようにとの命令が出たものの、正式な処分が決まるまでそこにとどめ置かれた。その間、反対勢力の画策により、大聖人門下に殺人・傷害などのぬれぎぬが着せられ、厳しい弾圧が行われた。その中で多くの門下が信仰を捨て退転した。しばらくして佐渡流罪が決定し、大聖人は10月10日に依智をたって佐渡へと向かわれた。

 

講義

本段では、弓削の道鏡(?~0772)が皇位をねらった時、和気清麻呂への八幡神の託宣を捧げて、八幡も仏法を力として王法の正義を守り得ることを示されている。
 道鏡は法相宗の僧であるが、修学の後、東大寺に入り、天平宝字5年(0761)に孝謙上皇の病を癒して上皇の信任を得、上皇が第48代称徳天皇になると、天平神護元年(0765)に太政大臣禅師に任じられ、翌2年(0766)には法王の位を授けられて、政治の実権をも握るようになった。
 更に皇位を窺ったが、和気清麻呂などに退けられた。その折、清麻呂が宇佐八幡宮に勅使として神意を請けた際に、八幡の託宣には「仏力の加護を仰いで皇位の継承を紹隆させなければならない」とあったという。
 この託宣によって、日本の王法は守られたのであるが、逆に王法が敗れた例として、承久の乱を挙げられ、その原因は真言の邪法によって祈ったことにあると指摘されている。
 承久の乱は朝廷が鎌倉幕府から権力奪回を図ったことから起きた戦いである。承久3年(1221514日、後鳥羽上皇は鎌倉幕府第二代執権・北条義時追討の院宣を下した。しかし、幕府は直ちに総軍19万の兵を上洛させて、攻め入った。
 この間、朝廷側は比叡山・東寺・仁和寺・園城寺などの諸大寺に幕府調伏の祈祷をさせたが、一向に験なく、あっけなく敗れ去ったのである。そして後鳥羽上皇は隠岐、順徳上皇は佐渡、土御門上皇は土佐と、それぞれ配流され、仲恭天皇は廃された。
 つまり、朝廷方は真言の邪法をもって調伏したために、法華経観世音菩薩普門品第二十五に「還著於本人」と説かれているとおり、自らに害を招いたのだといわれている。この経文は「還って本人に著きなん」と読み、邪法の者が正法の人を呪詛して害そうとすると、かえって自らの身にそれを受けるようになるという意味である。
 以上のことを承けて、全国にある各寺社の神々は、国家安穏のために崇められているが、その寺社の別当や神主等は、いずれも、その本尊と神との心に相違している。すなわち、仏と神とは、体は異なっても、その心は同一で「法華経の守護神」なのである。
 しかるに、法華経に敵対する真言師・念仏者・禅僧・律僧等が別当や神主となっている。このように、仏・神に対して「不孝の者」というべき謗法の徒輩を守護して、最も守護しなければならない「正法の者」を、流罪・死罪など身命に及ぶ難にあわせてきたゆえに、八幡大菩薩は梵天・帝釈等の諸天の治罰を被ったのであると述べられている。

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