諫暁八幡抄 第一章(天神の威力の増減を説く)

諫暁八幡抄 第一章(天神の威力の増減を説く)

 弘安3年(ʼ80)12月 59歳

 夫れ、馬は、一歳二歳の時は、たといつがいのび、まろすねにすねほそく、うでのびて候えども、病あるべしとも見えず。しかれども、七・八歳なんどになりて、身もこえ、血ふとく、上かち下おくれ候えば、小船に大石をつめるがごとく、小さき木に大いなる菓のなれるがごとく、多くのやまい出来して、人の用にもあわず、力もよわく、寿もみじかし。天神等も、またかくのごとし。成劫の始めには、先生の果報いみじき衆生生まれ来る上、人の悪も候わねば、身の光もあざやかに、心もいさぎよく、日月のごとくあざやかに、師子・象のいさみをなして候いしほどに、成劫ようやくすぎて住劫になるままに、前の天神等は年かさなりて下旬の月のごとし。今生まれ来れる天神は果報衰減し、下劣の衆生多分は出来す。しかるあいだ、一天に三災ようやくおこり、四海に七難ほぼ出現せしかば、一切衆生始めて苦と楽とをおもい知る。

現代語訳

さて、馬は一歳、二歳の時は、たとえ頸が伸び、関節のところは丸く、細く腕が伸びていても、病気があるであろうとも思われない。
 しかしながら、七、八歳等になって、身も肥え、血管も太く、上体の発達が勝り、四肢の発達が遅れていたときには、小船に大石を積んだように、小さい木に大きな果実がなったように、多くの病気が出てきて、人の役にも立たず、力も弱く、命も短い。
 諸天善神等も、また同様である。成劫の初めには過去世の果報が優れた衆生が生まれてくるうえ、人界に悪もないので、身の光沢も鮮やかに、心も潔く、日や月のように鮮やかに輝き、師子や象のように力強いが、成劫が次第に過ぎて住劫になるにつれて、先の諸天善神等は年をとって下旬の月のようになってしまう。今、生まれてくる諸天善神は果報が衰え減じ、下劣の衆生が多く出現してくる。
 そのため、天下に三災が次第に起こり、世の中に七難の多くが出現したので、一切衆生は初めて苦と楽とを痛感したのである。

 

語句の解説

天神
 天界の衆生の総称。諸天善神のこと。

成劫
 仏教の世界観で、この世界が生成し消滅する過程を四つの時期に区分したもの。長阿含経巻21などに説かれる。成劫(成立する期間)住劫(安定して存続する期間)壊劫(崩壊する期間)空劫(再び成立するまでの期間)。空劫が過ぎればまた成劫が始まり、この成・住・壊・空の四劫が循環して尽きることがないといい、その第一。

果報
 善悪の行いの結果としてもたらされる報い。善悪ともにある。

住劫
 仏教の世界観で、この世界が生成し消滅する過程を四つの時期に区分したもの。長阿含経巻21などに説かれる。成劫(成立する期間)住劫(安定して存続する期間)壊劫(崩壊する期間)空劫(再び成立するまでの期間)。空劫が過ぎればまた成劫が始まり、この成・住・壊・空の四劫が循環して尽きることがないといい、その第二。

三災
 古代インドの世界観で、時代の大きな区切りの末期に起こる三つの災害のこと。大小2種ある。小の三災。世界のなかで起こる穀貴(飢饉などによる穀物の高騰)、兵革(戦乱)、疫病(伝染病の流行)の三つの災害。大の三災。世界そのものを破壊する火災・水災・風災の三つの災害。大集経で説かれる三災。

七難
 正法に背き、また正法を受持する者を迫害することによって起こる災害。七難は経典により異なるが、薬師経には人衆疾疫難(人々が疫病に襲われる)他国侵逼難(他国から侵略される)自界叛逆難(国内で反乱が起こる)星宿変怪難(星々の異変)日月薄蝕難(太陽や月が翳ったり蝕したりする)非時風雨難(季節外れの風雨)過時不雨難(季節になっても雨が降らず干ばつになる)が説かれる(19㌻で引用)。仁王経には日月失度難(太陽や月の異常現象)星宿失度難(星の異常現象)災火難(種々の火災)雨水難(異常な降雨・降雪や洪水)悪風難(異常な風)亢陽難(干ばつ)悪賊難(内外の賊による戦乱)が説かれる(19㌻で引用)。日蓮大聖人は「立正安国論」で、三災七難が説かれる経文を引かれ、正法に帰依せず謗法を放置すれば、薬師経の七難のうちの他国侵逼難と自界叛逆難、大集経の三災のうちの兵革、仁王経の七難のうちの悪賊難が起こると予言されている(31㌻)。そして鎌倉幕府が大聖人の警告を無視したため、自界叛逆難が文永9年(1272年)2月の二月騒動として、他国侵逼難が蒙古襲来(文永11年=127410月の文永の役、弘安4年=12815月の弘安の役)として現実のものとなった。

 

講義

本抄は弘安3年(128012月、日蓮大聖人が59歳の御時、身延で著された御抄である。御真筆は富士大石寺に現存している(全体は47紙からなっているが、第16紙から末尾までが現存。ただし、第46紙後半11行は欠失)。
 本抄は特定の人に与えられたものではなく、「各各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ」(0589:04)と末尾で仰せられているように、門下一同のために著された書と拝される。
 当時、蒙古国は既に二度目の日本侵攻の準備を進めており、鎌倉幕府は防備態勢を固めることに懸命だった。そのような折に、この年1114日、鎌倉の鶴岡八幡宮が炎上し、人々に大きな動揺を与えた。本抄はこうした八幡宮炎上、蒙古の日本侵攻の意味について、正法の行者を迫害する日本を梵天・帝釈等が責めているのであると述べられている。
 鎌倉における大火災は、前の月にも発生していた。すなわち、1028日、中の下馬橋付近から起こった火事が燃え広がり、鶴岡八幡宮の東側の大蔵幕府後方の丘陵中腹にあった源頼朝の廟所や、そこから東に少し離れた所にあった北条義時の墓所まで類焼し、鎌倉の町の中心部が灰塵に帰した。
 このとき鶴岡八幡宮は、その境内にあった神宮寺と千体堂が焼けている。しかし、本抄御述作の機縁となった弘安31114日の火事では、上・下宮をはじめ、境内の建物がことごとく焼け落ちてしまったのである。
 再度の蒙古襲来を控えていたときだけに、この守護神の神社炎上に、武士も庶民も、いいしれぬ不安を募らせたことは想像に難くない。
 鶴岡八幡宮の焼失については、同じ弘安3年(128012月御述作の四条金吾許御文と、智妙房御返事にも触れられており、両抄では一国謗法のゆえに八幡大菩薩が国を捨て去った証拠であると指摘されている。
 本抄の内容は二つに大別される。
 第一は、八幡大菩薩の怠慢を戒められている。八幡大菩薩は、正法を持つ者を守護すると仏に誓ったにもかかわらず、法華経の行者である日蓮大聖人を迫害する鎌倉幕府を懲らしめようとしないできた。それゆえ、梵天・帝釈・日天・月天等が八幡大菩薩を治罰するのであり、八幡大菩薩は速やかに幕府の謗法を罰して、正法の法華経の行者を守護すべきであると、厳しく諫暁されている。
 第二は、このように八幡大菩薩を責めるのは、諸経論に説いてあるように、まことの願いがかなわないときは、守護神を叱るべきであるからだと述べられ、大聖人が、大難に値いながら法華経を説いて邪宗邪義を破折しているのは、一切衆生を救うためであるから、八幡大菩薩は必ず法華経の行者を守護しなければならないことを説かれている。
 最後に「天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(058818)と、末法においては大白法が東土の日本から出現して、中国・インド、そして全世界へ流布されていくことを明かされ、門下に弘通を勧められている。
 なお、諫暁とは、諌め暁す意で、「諫」は礼をもって他の過ちをただす、「暁」はさとし明かすことである。普通は国家などの安否について、為政者に進言したり、あるいは重大事について、相手の蒙を啓いて目を覚まさせることをいうが、この場合は、八幡を諫暁するという意である。

 

天神の威光盛衰と民族の興亡

 

まず馬の成長・老衰の姿にたとえて、民族を守護する諸天善神の生命力の盛衰について述べられている。
 馬は、一歳や二歳の時は、たとえ関節が伸び、丸い脛で、細長く脚が伸びていても、別に病気があるようにもみえない。つまり、若さが漲っているゆえに、形は整っていなくても丈夫なのである。
 しかし、七歳、八歳になって、身も血管も太く、上体が重くなって、下半身とのバランスが崩れてくると、ちょうど小船に大石を積み、小さな木に大きな果実が生ったようなもので、そのときには病気も起こり、力も弱く、人の役にも立たず、寿命も短くなってくる。諸天善神等も同様であるとされて、天神の威力の増減と、民族の興亡との関連を示されている。
 「成劫の始」には、前世の果報の優れた衆生が天神として生まれてくるうえに、人界の衆生の機根もよく、悪事を働く人が少ないから、天神の身の光も鮮やかであり、心も潔く、日月のごとく輝いて、生命力も満々としている。
 しかし成劫も過ぎて、安定した住劫の時代に入ると、以前はたくましかった天神も、年をとって、その威力はあたかも下旬の月のように衰えてくる。そして新しく生ずる天神は果報も少なく、人間界も下劣な機根の衆生が多く生まれてくることから、世の中に次第に三災七難が並び起こり、ここに、一切衆生は苦楽を味わうようになるといわれている。
 ちなみに、仏法で説く成劫・住劫とは、成住壊空の四劫の一つで、成劫は器世間および有情世間が成立していく期間をいう。
 住劫は、器・有情の二世間が安定した状態を持続する期間をいう。倶舎論では、現在を「住劫第九の減」としている。これは住劫のなかで衆生の寿命が増減を繰り返すなかの第九番目の減劫の意である。
 この増減のリズムは、人寿八万歳から、百年ごとに一歳減じて十歳にまでなると、次は、百年ごとに一歳増えていって、八万歳にまでなり、その後再び減のリズムになるというのである。

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