去ぬる六月十五日のげんざん、悦び入って候。さては、こうぬし等がこと、いままでかかえおかせ給いて候こと、ありがたくおぼえ候。ただし、ないないは法華経をあだませ給うにては候えども、うえにはたのことによせて事かずけにくまるるかのゆえに、あつわらのものに事をよせて、かしこ・ここをもせかれ候こそ候めれ。さればとて、上に事をよせてせかれ候わんに御もちい候わずば、物おぼえぬ人にならせ給うべし。おかせ給いてあしかりぬべきようにて候わば、しばらくこうぬし等をばこれへとおおせ候べし。めこなんどはそれに候とも、よも御たずねは候わじ。事のしずまるまで、それにおかせ給いて候わば、よろしく候いなんとおぼえ候。
よのなか、上につけ下によせてなげきこそおおく候え。よにある人々をば、よになき人々は、きじのたかをみ、がきの毘沙門をたのしむがごとく候えども、たかはわしにつかまれ、びしゃもんはすらにせめらる。
そのように、当時、日本国のたのしき人々は、蒙古国のことをききては、ひつじの虎の声を聞くがごとし。また、筑紫へおもむきていとおしきめをはなれ子をみぬは、皮をはぎ肉をやぶるがごとくにこそ候らめ。いおうや、かの国よりおしよせなば、蛇の口のかえる、ほうちょうしがまないたにおけるこい・ふなのごとくこそおもわれ候らめ。今生はさておきぬ、命きえなば一百三十六の地獄に堕ちて、無量劫ふべし。
我らは法華経をたのみまいらせて候えば、あさきふちに魚のすむが、天くもりて雨のふらんとするを魚のよろこぶがごとし。しばらくの苦こそ候とも、ついにはたのしかるべし。国王の一人の太子のごとし、いかでか位につかざらんとおぼしめし候え。恐々謹言。
弘安三年七月二日 日蓮 花押
上野殿御返事
人にしらせずして、ひそかにおおせ候べし。
現代語訳
去る六月十五日のご面会、大変うれしく思っている。さて神主等を今日まで庇護されていること、ありがたく思っている。ただし、内々は法華経を怨敵としていても、表面には他の事にかこつけて憎まれるのが常であるから、熱原の者に事寄せて、ここ、かしこと妨げられるのであろう。そうかといって、上に事を寄せて、妨げられるのに、従わなければ、ものをわきまえぬ人になってしまわれる。神主等を置かれてはまずいようならば、しばらくこちらに来るように申されたい。妻子などはそちらに置いても、まさか捜されるようなことはないであろう。事が静まるまでそちらに置かれたならばよいように思う。
世の中は上につけ下に寄せて、とかく嘆き悲しむことが多い。栄えて世にある人を、貧しく世に用いられない人々が、雉が鷹を見るように怖れ、餓鬼が毘沙門をすばらしいとうらやむようなものであるが、その鷹は鷲に摑まれ、毘沙門は修羅に責められるのである。
同じように、今日本国で富み栄えている人々は、蒙古国が攻めてくることを聞いては、羊が虎の声を聞いたように怖れるのである。また筑紫へ行き、愛する妻と別れ、子と会えなくなることは、生皮を剥がれ、肉をえぐられるような苦しみであろう。いわんや蒙古国から押し寄せて来たならば蛇の口のかえるか、料理人の俎の上に置かれた鯉か鮒のようなものである。今生はさしおいて、死んだなら一百三十六の地獄に堕ちて無量劫を経るであろう。
我等は法華経を信じているから、今は浅い淵に住んで苦しんでいる魚が、やがて天が曇って雨の降るのを喜ぶようなものである。
しばらくの間苦しいことはあっても、未来は必ず楽しみとなるのである。たとえば国王のたった一人の太子が、必ず位を継ぐように、我等もどうして成仏できないことがあろうか。恐恐謹言。
弘安三年七月二日 日蓮花押
上野殿御返事
人に知らせないで、ひそかに神主等に知らせなさい。
語句の解説
かうぬし
神主のこと。神に仕える人で神官熱原新福地神社の神主で下級の神職であった。法華経の信仰に帰依したため行智や代官から嫌われ追われていたのを、南条時光が匿ったと思われる。
餓鬼
梵語プレータ(Preta)の漢訳。常に飢渇の苦の状態にある鬼。大智度論巻三十には「餓鬼は腹は山谷の如く、咽は針の如く、身に唯三事あり、黒皮と筋と骨となり。無数百歳に、飲食の名だにも聞かず、何に況んや見ることを得んや」とある。
毘沙門
毘沙門天王のこと。四大天王、十二天のひとつ。多聞天ともいう。須弥山の中腹の北面に住し、つねに仏の説法を聞き、仏の道場を守護する働きをする。陀羅尼品では法華経の行者の守護を誓った諸天善神のひとつ。財宝富貴をつかさどり、施福の働きを持つ。
すら
阿修羅のこと。阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも書く。非天、非端正、非善戯、非類、無酒、不飲酒、障蔽、質諒、劣天、非類と訳す。六道のひとつで修羅はこの略称。帝釈に敵対する鬼神で大別して三つの意味がある。①無端の義・醜い容貌をしていること。②非天の義・天にあらざること、悪がその戯楽だからである。③無酒の義・悪業の報いにより、酒が得られないのである。戦闘を好む鬼神であり、十界に約し、生命論のうえからいえば、怒りの生命をいう。十法界明因果抄には「修羅道とは止観の一に云く「若し其の心・念念に常に彼に勝らんことを欲し耐えざれば人を下し他を軽しめ己を珍ぶこと鵄の高く飛びて下視が如し而も外には仁・義・礼・智・信を掲げて下品の善心を起し阿修羅の道を行ずるなり」(0430:06)とある。常に内には慢心が強く、心が曲がっているため、すなおに物事を考えることができず、正しいことをいわれてもすぐにカッとなる。しかも外には礼儀をわきまえているような生命の姿である。「諂曲なるは修羅」とあるように諂いっ曲がれる心を修羅とし、闘争を好み、たがいに事実を曲げ、またいつわって他人の悪口をいいあうことである。
蒙古国の事
13世紀の初め、チンギス汗によって統一されたモンゴル民族の国家。東は中国・朝鮮から西はロシアを包含する広大な地域を征服し、四子に領土を分与して、のちに四汗国(キプチャク・チャガタイ・オゴタイ・イル)が成立した。中国では5代フビライ(クビライ。世祖)が1271年に国号を元と称し、1279年に南宋を滅ぼして中国を統一した。鎌倉時代、この元の軍隊がわが国に侵攻してきたのが元寇である。日本には、文永5年(1268)1月以来、たびたび入貢を迫る国書を送ってきた。しかし、要求を退ける日本に対して、蒙古は文永11年(1274)、弘安4年(1281)の2回にわたって大軍を送った。
筑紫
九州の北部、現在の福岡県を中心とする一帯をいうが、全九州をさす場合もある。蒙古軍の襲来した当時は、ここが防衛線となり、全国から武士や防塁建設のための人足が派遣された。
一百三十六の地獄
長阿含経、倶舎論、正法念経等に説かれている。大小の地獄の全体の数で、八熱地獄は等活、黒縄、衆合、叫喚、大叫喚、焦熱、大焦熱、大阿鼻地獄のおのおのに十六の別処があり、合わせて百二十八、これに八大地獄を加えて一百三十六の地獄となる。
無量劫
量り知れないほどの長い期間。「無量」は無限の意。「劫」は長遠の時間。長さについては経論によって諸説があるが、倶舎論巻十二によると、人寿十歳から始めて百年ごとに一歳を加え、人寿八万歳にいたるまでの期間を一増といい、逆に八万歳から十歳にいたるまでを一減とし、この一増一減を劫としている。(他説あり)。
講義
本抄は、南条時光に与えられた御手紙で、日蓮大聖人が59歳の御時、弘安3年(1280)7月2日、身延において御述作された。御真筆は大石寺にある。
弘安3年(1280)7月といえば、熱原法難の頂点というべき神四郎らの処刑から約9ヵ月後にあたるが、いまだ法難が終息したわけではなく、熱原の関係者に対する厳しい追及が行われていたことが本抄からうかがわれる。
本抄では、まず、過日、南条七郎次郎時光と七郎五郎の兄弟が身延の大聖人のところへ元気な姿をみせたことを悦ばれている。次に妙法に帰依したため法難によって安住の地を失った神主とその妻子等を南条家に保護していることについて感謝され、追及がなおも厳しくなるようならば、身延へ寄越すよう指示されている。そして、現世の苦難はだれびとにもあり、避けることはできないが、正法の信心なき世の人々の苦が、後生は地獄であるのに対して、妙法受持の人は、最後は大楽を受けることを述べられている。
さて、弘安3年(1280)6月15日に、南条七郎次郎時光が弟の七郎五郎をともない、身延を訪れたのは、地頭の立場にありながら、反法華の権力側の追及から、同信の者達を守るため、大聖人から種々の御指南を仰ぐことが一つの目的であったろうと拝察される。
また、もう一つは16歳になり、いわゆる成人した弟・七郎五郎を大聖人にご紹介するためであったとも考えられる。しかし、七郎五郎は、このすぐ後の九月初旬、死去したことが、9月6日御述作の「上野殿御書」に見られる。
「さては・かうぬし等が事……」の段の神主とは、日興上人の弟子分帳によると「富士下方熱原新福地の神主は下野房の弟子なり。仍て日興之を与え申す」と記されており、日興上人のもとに富士方面の弘教に活躍していた下野房日秀の縁で大聖人の仏法に帰依していたのである。法難の時、日秀も、ともに弘教・化導の任にあたっていた日弁も、富士方面での厳しい難を避けて、やむなく下総の地に移っている。
熱原法難は、弘安2年(1279)9月、熱原郷の農民信徒を、この地が北条氏の直轄領でもあるところから、幕府権力を背景にして反法華党の勢力が弾圧、処罰した事件である。この勢いに乗じて反法華党は、更に法華宗を根絶しようとして、追及の手をゆるめなかった。
この神主について堀日亨上人は、「現今の富士宮市の浅間神社から分社した吉原市・三日市場の地にある浅間神社の祠官であり、下級の神職である」と記されている。そして、この神主は、勇猛な信仰に励み、そのため、かねてから反法華の元凶である熱原・滝泉寺の院主代・行智や、代官達から、ねらわれていた。だが、農民信徒達が稲刈りの時に反法華党の襲撃を受けた際は、現場にいなかったため、捕らえられずにいたのである。しかし、その後も、ずっと目をつけられて、安住の地を失うことになったと解説されている。
時光はこのような窮地にいた神主等を、かくまい保護していたのである。それは、法難の根源地である下方荘熱原郷付近の下方政所管内にいたのでは危険であるため、管轄違いの上方荘上野郷の南条家に避難させたのである。南条家が大聖人の門下であり、強信者であることは知られており、疑いの目で見られ、政治的行政上の圧迫がさまざまに加えられていた。南条時光は、この苦難の中で、厳然と同信の人々を保護していたわけである。
このような時光の外護の任を称賛された上で、大聖人は「ただし……」と仰せられ、行方を厳しく追及されている神主を、かくまい、当家にとどめておくことが、賢明な判断かどうか細心の配慮をされているのである。
ここで、大聖人は、末法における法華経の信心実践に対して、どのような形で法難が起き、迫害が加えられてくるかに論及され、そのことをよく知ったうえで対処するように、注意されていると拝される。
すなわち法華宗に対する迫害は「ないないは法華経をあだませ給う」と、法華経の敵視がその本心である。だが、まともに法華経の法義と対決し、その信仰実践を非難、攻撃をしてくるようなことはない。実際に事を起す場合は「たの事によせて事かづけ・にくまるる」と、すなわち表面上は他のことにかこつけて憎み、非を鳴らすのが常套手段であるというのである。
「他のことにこかこつける」とは、仏法以外の世法・国法上の過失などを暴きたてて、社会的な面から制裁を加え、弾圧してくるのである。事実、熱原法難の場合も、当地域に折伏・弘教が次第に進み・法華帰依の僧侶が増えてきたのに怖れをなした反法華の勢力が法華宗の信徒を弾圧するために、これら農民信徒達が「院主の田から稲を刈り取って盗んでいる」ということで、稲刈りの現場を襲撃して捕らえ、デタラメの告訴状を作って、盗みの罪で弾圧したのである。その後も、熱原の関係者に対する官憲の調査・追及は厳しく行われ、神主もその一人として、目をつけられていたわけである。
だからといって、南条時光の場合、幕府の御家人たる地頭の立場にいるだけに、たとえその底意が反法華によるものであっても、「上に事をよせて」、すなわち幕府の命令・指示ということで圧迫されたならば、それに、ことごとに反抗して従わなければ「物をぼへぬ人」すなわち道理をわきまえない、愚迷の人となり、社会的、政治的に信頼を失い、地頭としての職務遂行に支障をきたすであろうことを大聖人は御心配されているのである。
現実に、時光の場合は、幕府から熱原の関係者をかくまっているのではないかと疑われ、行政上に託して種々の圧迫を加えられた。過分の租税や人足の割り当てを課せられ、時光が乗る馬さえなく、家族は衣食に事欠く苦労をしたのである。
このような、南条家の立場を配慮され、状況が悪いと判断したならば、神主等にしばらく当地を離れ、身延の方へ行くようにいいなさい、と指示されているのである。しかも追申では、事をはこぶにあたっては「人にしらせずして、ひそかにをほせ候べし」と述べておられることからも、いかに厳しい環境のもとにあったかがうかがわれる。
「よのなか上につけ下によせて……」からの後半の段では、法難の中で苦闘している信徒達に対して妙法受持の者は必ず未来永遠の成仏の大楽を得られるのであるから、今生の一時的苦難などに負けず、難を乗り越える覚悟の信心を全うするように、訓誡されている。
「よのなか上につけ下によせて・なげきこそををく候へ」との仰せは、人間は、ともすると、自分だけが苦労し、不幸であるかのように思いがちであるが、苦しめている立場の権力者も、更に大きな力によって苦しめられていることがあり、この当時も日本中が蒙古襲来という大苦にあっていることを指摘されている。
今世の苦楽を相対的に見れば、一方に「よになき人人」つまり、社会的に不遇の人等がある。このような境遇にある人々から見れば、「よにある人々」、すなわち社会の陽の当たる道を生きている権力者、有名人、成功者、富める人等は、実に幸福そうであり、うらやましい存在として目に映る。
しかし、それは、ちょうど「きじの・たかをみ・がきの毘沙門をたのしむ」ようなものである。だが、その鷹も「わしにつかまれ」毘沙門も「すらにせめらる」のであり、それぞれに苦しみがある。
大聖人一門を迫害している権力者は鷹のようなもので、大聖人一門は雉の立場である。権力を謳歌している連中を毘沙門とすると、社会的弱者である大聖人門下の人々は餓鬼の立場である。しかし鷹も鷲という更に強い敵に怯えているのであり、毘沙門も修羅に責められる立場である。この鷲や修羅にあたるのは世界的に強大な戦力を誇っていた蒙古軍であった。日本の国土・社会を基盤として安穏な生活を築いていた「たのしき人々」も、蒙古軍の侵略にあえば、不安と恐怖にとらわれ、防備のための九州派遣で親兄弟・妻子との「皮をはぎ・身をやぶる」ような愛別離苦を味わい、そして蒙古軍に破られて「蛇の口の蛙、俎上の鯉鮒」のような大苦悩に転落してしまうのである。
しかも、今生における苦しみでなく、彼等は法華誹謗の罪業によって「命きえなば一百三十六の地獄に堕ちて無量劫ふべし」と仰せのように、死後は地獄に堕ちるのである。死後の地獄の苦しみは、今生にあういかなる苦しみをも超えるものであり、その長さも無量劫という想像を絶するものである。
これに対して「我等は法華経をたのみまいらせて候へば……しばらくの苦こそ候とも・ついには・たのしかるべし」と仰せのように、妙法受持の人は、今世は苦しみにあっていても、それは、この一生という「しばらく」のことであり、死後は成仏を遂げ絶対的な幸福境界に住することができるのである。
それは、国王の位を必ず継ぐ唯一人の太子と同じで、仏の種子である妙法を受持する者は、必ず成仏することができるのである。だから、どんなことがあろうと、妙法への信心を持続することが大事であると励まされているのである。