- 十八円満抄 第八章(機情の五重玄を説く)
- 現代語訳
- 語句の解説
- 互に円融して九箇と成る
- 入照門の機
- 講義
- 不思議の一心三観とは智者己証の法体・理非造作の本有の分なり三諦の名相無き中に於て強いて名相を以つて説くを不思議と名く
- 円融とは理性法界の処に本より已来三諦の理有り互に円融して九箇と成る
- 得意とは不思議と円融との三観は 凡心の及ぶ所に非ず但だ聖智の自受用の徳を以て量知すべき故に得意と名く
- 複疎とは無作の三諦は一切法に遍して本性常住なり理性の円融に同じからず故に複疎と名く
- 易解とは三諦円融等の義知り難き故に且らく次第に附して其の義を分別す故に易解と名く
- 本意に依て亦五重の三観有り、一に三観一心入寂門の機,二に一心三観入照門の機、三に住果還の一心三観・上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後観を極めんが為に一心三観を修す、四に為果行因の一心三観謂く果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す、五に付法の一心三観・五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く
- 一一に三観一心 入寂門の義
- 二に一心三観 入照門の義
- 三に住果還 一心三観・上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後観を極めんが為に一心三観を修す
- 四に為果行因 一心三観謂く果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す
- 五に付法の一心三観 五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く
- 山家の云く塔中の言なり亦立行相を授く三千三観の妙行を修し解行の精微に由つて深く自証門に入る我汝が証相を領するに法性寂然なるを止と名け寂にして常に照すを観と名くと
十八円満抄 第八章(機情の五重玄を説く)
次に機情の五重玄とは機の為に説く所の妙法蓮華経は即ち是れ機情の五重玄なり首題の五字に付いて五重の一心三観有り、伝に云く、
妙 不思議の一心三観 天真独朗の故に不思議なり。
法 円融の 一心三観 理性円融なり総じて九箇を成す。
蓮 得意の 一心三観 果位なり。
華 複疎の 一心三観 本覚の修行なり。
経 易解の 一心三観 教談なり。
玄文の第二に此の五重を挙ぐ文に随つて解すべし、不思議の一心三観とは智者己証の法体・理非造作の本有の分なり三諦の名相無き中に於て強いて名相を以つて説くを不思議と名く、円融とは理性法界の処に本より已来三諦の理有り互に円融して九箇と成る、得意とは不思議と円融との三観は凡心の及ぶ所に非ず但だ聖智の自受用の徳を以て量知すべき故に得意と名く、複疎とは無作の三諦は一切法に遍して本性常住なり理性の円融に同じからず故に複疎と名く、易解とは三諦円融等の義知り難き故に且らく次第に附して其の義を分別す故に易解と名く、此れを附文の五重と名く、次に本意に依て亦五重の三観有り、一に三観一心入寂門の機、二に一心三観入照門の機、三に住果還の一心三観・上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後観を極めんが為に一心三観を修す、四に為果行因の一心三観謂く果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す、五に付法の一心三観・五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く、山家の云く塔中の言なり亦立行相を授く三千三観の妙行を修し解行の精微に由つて深く自証門に入る我汝が証相を領するに法性寂然なるを止と名け寂にして常に照すを観と名くと。
現代語訳
次に機情の五重玄とは、衆生のために説くところの妙法蓮華経はこれ機情の五重玄である。首題の五字について五重の一心三観がある。
伝にいうには、
妙 不思議の一心三観 天真独朗のゆえに不思議である。
法 円融の 一心三観 理性円融である。総じて九箇の一心三観となる。
蓮 得意の 一心三観 果位である。
華 複疎の 一心三観 本覚の修行である。
経 易解の 一心三観 教えを談ずることである。
法華玄義の第二にこの五重の一心三観が挙げられており、その文にしたがって明らかにしよう。
不思議の一心三観とは天台智者大師己証の法体、理非造作の本有の分である。三諦の名相はないが、しいて三諦の名相をもって説くのを不思議と名づけるのである。
円融の一心三観とは、理性法界のところに本来、三諦の理があり、それが互いに円融して九箇となる。
得意の一心三観とは不思議の一心三観と円融の一心三観とが凡夫の心の及ぶところではなく、ただ聖人の自受用の徳をもって初めて量知できるのであるゆえに得意と名づけるのである。
複疎の一心三観とは無作が一切法に遍して本性常住であり、理性の円融と同じではないということから複疎と名づけるのである。
次に本意の一心三観にはまた五重の一心三観がある。一には三観一心(入寂門の機根に配する)二に一心三観(入照門の機根に配する)三には住果還の一心三観、上の機根があって善知識の人が『一切の法は皆是れ仏法なり』と説くのを聞いて真理を開くのである。この入真以後の観を極めんがために一心三観を修するのである。
四には為果行因の一心三観とは果位究竟の妙果を聞いて、この果を得んがために種々の三観を修行するのである。
五に付法の一心三観。五時八教などの種々の教門を聞いてこの教義を心に入れて観を修行するゆえに付法と名づけるのである。
天台大師のいうには(塔中の言葉である)『また立行相を授けるのである。三千三観の妙行を修行して解行の精微によって深く自証門に入る、我、汝が証相を領するに法性が寂然であることを止と名づけ、寂にして常に照らすことを観と名づけるのである』とある。
語句の解説
機
説法を受ける所化の衆生の機根。
首題
経典のはじめに書かれている題号。
五重の一心三観
付文と本位の一心三観がある。①付文の五重の一心三観。不思議の一心三観・円融の一心三観・得意の一心三観・複疎の一心三観・易解の一心三観。法華経方便品第2の十如是の文に空仮中の三諦の理があるとする文に基づいて立てた観法。②本位の一心三観。法華経の文々句々にとらわれることなく、ただちに一心三観することを五重にたてたもの。
不思議の一心三観
空仮中の三諦が一即三・三即一にして、同時に非一非三であり、円融相即して不思議の姿である己心中に感ずること。
天真独朗
作為のない自然の天性をもって独り明らかに開悟すること。
円融の一心三観
万法の本体を観ずるならば、一心に三諦の理が円融相即して九箇の理をそなえること。一切万法が妙法の一法にことごとく具足して円融していると観ずること。
理性円融
諸法の本体である理性に空仮中の三諦が円融融通して欠けることなくそなわっていること。理性は真如法性ともいい、実相のこと。
総じて九箇を成す
空仮中の三諦におのおの三諦を具していることから①空諦・空諦~⑨中諦・中諦となる。
得意の一心三観
付文の辺では不次第の一心三観の意を得ること。法華玄義巻2上に十如是の三転読誦を説いて、まず易解のために空・仮・中を次第分別して明かし、次に得意として円融・不次第の三観を明かしている。これは因位の修行に約して一心三観を説いたもの。本意の辺では果位の自受用身の証得した智慧のはたらきとしての一心三観である。「得意」とは因位の行者の智慧をさすのではなく、果位の自受用法身が証得した智慧をさすといえる。
果位
結果の位のこと。修行の因によって得られる果報・仏果の位をいう。
複疎の一心三観
円融無差別の心地から、改めて千早差万別の現実に反って、三諦にあらずしてしかも三諦である差別の妙法を観ずること。「複疎」は「疎にかえる」「かさねてあきらむ」の意。一切の本性が常住であると覚知した立場から、現実の事象を無作・本覚の仏と観ずること。
本覚の修行
本覚の仏の修行のこと。
易解の一心三観
三諦を理解しやすいように三諦を分別して説いたがゆえに易解といい、この三諦を分別して観ずることを易解の一心三観という。
教談
教え談ずること。教法を談じ、講ずること。
玄文の第二に此の五重を挙ぐ
法華玄義巻2上には不思議の一心三観・円融の一心三観・得意の一心三観・複疎の一心三観・易解の一心三観の五重の一心三観について述べている。すなわち五重の一心三観は法華経方便品第2の十如是の文に、空仮中の理があるとする法華玄義巻2上の文に基づいて立てた観法であり、法華玄義には「分別して解し易からしむる故に空仮中を明かす。意を得て言をなさば、空即仮中なり。如に約して空を明かさば、一空一切空、観を転じて相を明かさば、一仮一切仮なり。是れ就きて中を論ずれば、一中一切中なり。一二三に非ずして而も一二三、不縦不横なるを名づけて実相と為す」とあり、融通はすなわち円融、実相はただ仏と仏とのみ究竟する不思議の法であるから、これを不思議と名づければ、五重の名目は具備することになる。
玄文
天台大師智顗が講述し、章安大師が筆記した法華玄義のこと。10巻。
智者
智慧ある者。
己証
自ら真理・妙理を悟ること。またその悟り自体のこと。「己」はおのれ、「証」はあかしの意味。
法体
御義口伝には「法体とは心と云う事なり法とは諸法なり諸法の心と云う事なり諸法の心とは妙法蓮華経なり」(0709:04)とある。ここで「心」とは本体の意である。
理非造作の本有
修禅寺相伝日記には「一念三千とは一心より三千を生ずるにも非ず、一心に三千を具すにも非ず。三千並立にも非ず、次第にも非ず。故に理非造作と名づくる」とある。
三諦の名相
空仮中の三諦の三つの名称のこと。「名相」は名と相のこと。いずれも五相のひとつ。森羅万象の相をいい、それらにつけられた名前のこと。
理性法界
諸法にそなわる真如法性の境界をいう。「理性」は一のこと。切の事物・事象の中に本来そなわっている本性で、永遠不変の根本的な真理・法則をいう。「法界」は有情・非常にわたるすべての存在および現象
互に円融して九箇と成る
空仮中の三諦おのおのが三諦を含むことから九箇となることをいう。
凡心
凡夫のこと、凡夫の一念・生命。
聖智
真実の深い道理をもって、物事の真相をあやまらずに分別する智慧。また、一切に通達している勝れた智慧。
自受用の徳
自受用法身如来の徳のこと。自受用身とは法報応の三身が相即し、主観の智とその対境の真理とが境智冥合した仏身をいう。
作の三諦
諸法に本来そなわっている天然自然のままの三諦の理。諸法は本性が無作であるかあら、無作の三諦は本性徳本性の三諦と同義になると思われる。
本性常住
不変の真理である本性が過去・現在・未来の三世にわたって常に存在し、生滅変化のないことをいう。
三諦円融
円融の三諦のこと。円教で説く三諦のこと。
次第
①順序。前後。②少しずつ状態が変わるさま。③成り行き、事情。
三観一心
一切万法の三諦を正しく観ずることによって己心を悟ること。空仮中の三観に照らされた万物を一心に収めるから寂に入るといい、この入寂門の機根に対して立てたものであるとする。
入寂門の機
衆生の一心が静寂の境地に入った状態をさす。
一心三観
一心に空仮中の三諦が円融し相即していることを観ずる修行。天台大師智顗が立てた観心の法門。天台大師はこれを止観の正行とした。別教で立てる次第三観に対して円融三観ともいう。別教においては、まず空観を修し、三惑のうちまず見思惑を断じて空諦の理を証し、次に仮観を修し、塵沙惑を破して仮諦の無量の法門を知り、そののちに中道観を修し、無明惑を断じて中道の理を証する。このように、空・仮・中の三諦を次第に観じていくので次第三観という。これに対して天台大師の一心三観では三観を修行の初めから直ちに修するので不次第三観という。修行の時間も隔たりがなく、中道の理を証するにも空間の隔たりがなく、一境の上に三諦が相即し、三観も一心に円融するので円融三観という。この一心三観を基盤として一念三千の法門が展開される。
入照門の機
一心を空仮中の三諦に開き、万物を照らす状態をいう。
住果還の一心三観
「住果還」とは「果に住して還りて」住果還と読み、仏果に住して一心三観を修するとの意。仏果を得るための修行としてではなく、仏果を証得して後に自在な境涯を楽しむための一心三観を修することをいう。妙法蓮華経の五字のうちでは蓮の一字に配される。
上の機
勝れた機根のこと。円にあって発動する機根のこと。上機は仏の教法を受け、発心して修行に励み成仏する衆生の機根をいう。
知識
仏法を正しく教えてくれる先達。
一切の法は皆是れ仏法なり
摩訶止観巻1下の文。
真理
中道実相の真理のこと。
入真已後
教の初住位を入真、第二住位以後を已後という。初住位にのぼって、中道実相の真理を証得するゆえに、このようにいう。
観
一心三観の修行のこと。
為果行因の一心三観
仏果を得るための因となる修行をすること。
果位究竟の妙果
「果位」は因位の修行によって得られる果報・仏果の位。「究竟」は無上・至極の意。「妙果」は仏果と同意。
付法の一心三観
五時八教の教相の義を心に入れて、これを観心の対象とすること。
五時八教
天台大師智顗が明かした教判を後代の天台宗が体系化したもの。法華経を中心に、諸経に説かれる教えを釈尊一代で説かれたものとして総合的に矛盾なく理解しようとした。五時とは、華厳時・阿含時・方等時・般若時・法華涅槃時の五つ。八教には、「化儀の四教」と「化法の四教」がある。
教門
仏の教説、教法のこと。仏の教えは生死解脱の道に入る能入の門である。
山家
①中国における天台宗一門。②日本における比叡山一門。
塔中の言なり
多宝塔の中で説かれた説法。
立行相
①教法によって立てられた修行の姿・形。②起立歩行の相貌。
三千三観の妙行
「三千」は一念三千の三千。三観は一心三観の三観のこと。一念三千・一心三観の妙行をいう。
解行
知解と修行のこと。
自証門
証得の相のこと。仏法を証得した姿・相貌。
証相
証得の相のこと。仏法を証得した姿、相貌。
講義
前章に続いて伝教大師の修禅寺相伝日記の引用である。
総説の五重玄に、仏意の五重玄と機情の五重玄の二種あるうちの、機情の五重玄を明かすところである。
「機情」というのは、衆生の機根のことで、仏の説法を聞き受け入れることのできる衆生の心の可能性をさす。
したがって、「機情の五重玄」とは、本文に「機の為に説く所の妙法蓮華経」とあるように、衆生の機根を考慮しつつ説かれる妙法蓮華経の五字について、五重玄、ということになる。
先の「仏意の五重玄」があくまで仏の悟りの内証に具足する五眼・五智に即して説かれたのとは対照的に、ここでは衆生の機根に応じて説くものであるがゆえに、因位としての衆生が行う修行に即して妙法蓮華経の五字総説の五重玄が展開されている。
その修行とは天台大師のたてた「一心三観」であるから、「首題の五字に付いて五重の一心三観有り」と述べられ、妙・法・蓮・華・経のそれぞれに一心三観を配当して、妙法五字が一心三観のすべての修行の相貌を含むことが明かされているのである。
この五重玄の一心三観に、付文と本意の二種の一心三観が立てられるのである。
伝に云く
妙 不思議の一心三観 天真独朗の故に不思議なり。
法 円融の 一心三観 理性円融なり総じて九箇を成す。
蓮 得意の 一心三観 果位なり。
華 複疎の 一心三観 本覚の修行なり。
経 易解の 一心三観 教談なり。
二種の「五重の一心三観」のうち、まず、付文の一心三観の内容が示されている。
付文の一心三観とは、妙法蓮華経の五字の各字に一心三観を立てたもので、妙が不思議の一心三観、法が円融の一心三観、蓮が得意の一心三観、華が複疎の一心三観、経が易解の一心三観、にそれぞれあたると示されている。
そして、これら五重の一心三観の一つ一つの内容については、次に、法華玄義巻二上の釈文に基づいて、詳述されているので、これにしたがって解説を加えていくことにしたい。
まず、天台大師の法華玄義巻二上の釈文には、法華経方便品第二の十如実相の文に空・仮・中の三諦の義があることを、次のように明らかにしている。
「今経には十法を用て一切の法を摂す、所謂る諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり。南岳師は此の文を読みて皆如と云う、故に呼んで十如と為す。天台師の云く、『義に依って文を読むに凡そ三転有り、一に云く、是相如、是性如、乃至是報如なり。二に云く、如是相、如是性、乃至如是報なり。三に云く、相如是、性如是、乃至報如是なり』と。若し皆如と称するは、如は不異を名づく、即座の義なり。若し如是相、如是相と作すは、空の相性を点じて名字施設し、リイ不同なるは即仮の義なり。若し相如是、性如是と作すは、中道実相の是に如す。即中の義なり。分別して解し易からしむ、故に空仮中を明かす。意を得て言を為さば、空即ち仮中なり。如に約して空を明かさば一空一切空なり、如を点じて相を明かさば一仮一切仮なり、是に就いて中を論ずれば一中一切中なり。一二三に非ずして而も一二三、不縦不横なるを名ずけて実相と為す。唯仏と仏とのみ此の法を究竟したもう。是の十法に一切の法を摂するなり」と。
少し長文の引用になったが、この釈文のなかに付文の五重の一心三観が順次説かれているのである。
初めに「一心三観」は、天台大師が摩訶止観巻三上、巻五上等に明らかにした観心修行の法門である。これに対するのが、「一境三諦」で、一つの対象には空・仮・中の三諦が円満に具足していることをいい、これを自己の一心に「観ずる」ことが「一心三観」ということになる。
天台大師の教えでは、別教は、「隔歴の三諦」を観ずるのに対し、法華円教は「円融の三諦」を観ずるのである。別教では、まず、入空観を修して、見思の惑を断じて空諦を証し、次に入仮観を修して、塵沙の惑を破って仮諦を証し、最後に中道観を修して、無明の惑を断じて中諦を修する。というように、所観の対境を空諦から仮諦・中諦と証していく過程に応じて、能観の主体も、空諦から仮諦・中道観、と三諦を順次に次第に修行していくのである。これを、次第の三観ともいうのである。
これに対して、円教では、所観の境について、一境に三諦が円融すると説くので、能観の三観についても、いずれか一観を修すれば三観を同時に修したことになる、と説く。これを、不次第三観とも、不思議三観ともいうのである。なお、この場合、一心三観に「一心」とはあくまで、一念無明の心である。所観の対象がすべて一境三諦であれば、何を対象として観察を修してもよいことになるが、天台大師は修行上の便宣のうえから「一色」や「一香」等を対象として観察することをやめて、自分に最も身近な日常の妄念をもって、所観の対境としたのである。
この場合は「一心」は所観の境としての衆生自身の心をさし、この一念の心に空仮中の三諦が円融相即して具わっていることを観ずることが「一心三観」ということになる。すなわちひとおもいの心のうちに空観・仮観・中観の三観を同時に実現することをいうのである。
さて、付文の五重の一心三観について解説すると、次のようになる。
先に引用した法華玄義巻二上の文に即して述べていくと、まず「分別して解し易からしむるが故に空仮中を明かす」の文が「易解の一心三観」を表し、次に「意を得て言をなさば空即仮中なり」の文が「得意の一心三観」を表し「如に約して空を明かさば一空一切空、如を点じて相を明かさば一仮一切仮、是に就いて中を論ずれば一中一切中なり」の文が「円融の一心三観」を表わしている。なぜなら、この文について妙楽大師は法華玄義釈籤で「融通」を表す、と釈しているからである。
更に、「一二三に非ずして而も一二三」の文が「複疎の一心三観」を表わしている。これは法華玄釈籤に、この文について「複疎」を表す、としている点からも明らかである。
最後に「不縦不横なるを名ずけて実相と為す」の文は「不思議の一心三観」を表わしている。これは、不縦不横なるところの「実相」はまさに、凡夫の思議を超えた不思議としかいいようのない法であるから、このように名づけるのである。
以上が、付文の五重玄であるが、これを妙法蓮華経の五字にそれぞれ配当すると、本文にあるように、妙=不思議の一心三観、法=円融の一心三観、蓮=得意の一心三観、華=複疎の一心三観、経=易解の一心三観、となる。そして、何ゆえに、この配当が成立するかについて、一つ一つ、その理由が示されているのである。
不思議の一心三観とは智者己証の法体・理非造作の本有の分なり三諦の名相無き中に於て強いて名相を以つて説くを不思議と名く
「不思議の一心三観」の説明である。
前述の法華玄義の文で、空仮中の三諦が「一二三に非ずして而も一二三、不縦不横なるを名けて実相と為す」とあったのと関係する。文中の「一二三」は空仮中の三諦がバラバラであることを表す。「一二三に非ず」とは、三諦がバラバラでないことをいい、「而も一二三」とは別々の真理としてとらえられていることをいう。「一二三に非ずして而も一二三」というのは、空仮中の三諦が否定されると同時に肯定されることを表わしている。
続いて「不縦不横なるを実相と為す」というのは、空仮中の三諦は「実相」においては、否定にも肯定にもとどまることができない、という凡夫の通常の認識や思議では把握しえないことをいう。これを「不思議の一心三観」というのである。
ゆえに、これを説明して「智者己証の法体・理非造作の本有の分なり三諦の名相無き中に於て強いて名相を以つて説くを不思議と名く」と説明されているのである。
「智者己証の法体」とは天台智者大師が自ら証得した諸法の本体、ということであり、「理非造作」の「理」とは天然自然の理のことであり、「非造作」とは、この天燃自然の理が後天的に作られたものではないことを表わしている。天台大師の証得は天真独朗ではあるが、これについて同じ修禅寺決に「理非造作の故に天真と曰い、証智円明の故に独朗と云う」と説き、あるいは「一念三千とは一心より三千を生ずるにも非ず、一心より三千を生ずるにも非ず、一心に三千を具するにも非ず、三千並立にも非ず、次第にも非ず。故に理非造作と名づく」と述べられている。
したがって、この「理非造作の本有の分」である作法は、本来、言語道断・心行所滅であるがゆえに「三諦の名相」、すなわち、空・仮・中のそれぞれの名をもって表現しえないのである。あえて名相をもって説くとすれば「不思議」としか命名のしようがない。
このような「不思議の三観」は妙法蓮華経の五字に配当すると、まさに「妙」がそれにあたるのである。
円融とは理性法界の処に本より已来三諦の理有り互に円融して九箇と成る
「円融の一心三観」の説明である。
法華玄義巻二上の文に「如に約して空を明かさば一空一切空なり、如を点じて相を明かさば一仮一切仮、是に就いて中を論ずれば一中一切中なり」とあったとの関係している。
これは、一切諸法に空仮中の三諦を具することを明らかにした文であるが、先の不思議の一心三観に比べて、空仮中の三諦が具すと肯定的に把握しているところである。本来、実相の究極は三諦としてとらえきれない言語道断・心行所滅の「不思議」の当体であり、それを「妙」というのであるが、「法」とは、三諦として把握されている面をあらわしているのである。
「理性法界の処」とは、理性の法界としてあらわれているところの意で、そこに三諦の理があり、この三諦おのおのが三諦を具え、九箇となっている。
この三諦が円融している姿を心に観ずるのが「円融の一心三観」であり、これが法界の姿であるので、「法」の字に配されているのである。
得意とは不思議と円融との三観は 凡心の及ぶ所に非ず但だ聖智の自受用の徳を以て量知すべき故に得意と名く
「得意一心三観」の説明である。法華玄義巻二上の「意を得て言を為せば、空即ち仮中なり」とあった文と関係している。
「不思議の円融との三観は凡心の及ぶ所に非ず」とは、不思議の一心三観も円融の一心三観も、いずれも凡夫の心では到達することのできない境地であるとの意。ただ「聖者の自受用の徳」、すなわち、修行円満した仏が自ら悟った境地において自らの智慧をもってのみ量り知ることのできるところであるので「得意」と名づける、というのである。
これを五字に配当すると、仏果の境地においてのみ覚知できるゆえに、果位である「蓮」にあたるとされている。
複疎とは無作の三諦は一切法に遍して本性常住なり理性の円融に同じからず故に複疎と名く
「複疎の一心三観」の説明である。法華玄義巻二上に「一二三に非すして而も一二三」という文と関連している。
この文の「一二三に非ずして而も一二三」というのは、空仮中の三諦に非ずして同時に空仮中の三諦、ということである。否定と肯定とが同時に表現しているのである。
この文を何ゆえ「複疎の一心三観」と称するのか、といえば「複疎」というのが「疎にかえる」「かさねてあきらむ」の意味であるところから、これまで述べられてきた不思議、円融、得意の一心三観がすべて円融無差別の境地に入っていく一心三観であったのに対して、この境地から再び千差万別の一切諸法に還って、三諦にあらずしてかつ三諦であることを観ずるからである。
本文にある「無作の三諦」の「無作」とは、前述した「理非造作」と同じ意味で、諸法に本来具わっている天燃自然そのままの三諦ということである。したがって、この無作の三諦は一切法、すなわち、一切の個々の事物・現象を貫いており、その「本性」は常住である。
すなわち無作の三諦は、横に一切法を遍して、縦に過去・現在・未来の三世にわたって、常に存在しているのである。
「理性の円融」はあくまで「聖智の自受用の徳」によって把握されているのに対し、「無作の三諦」は「聖者」の働きを前提としつつも、千差万別の諸法をそのまま無作・本覚と観ずることをいう。したがって、「複疎の一心三観」は五字に配当していえば、因位にあたる「華」にそうとうする。とはいえ、因果俱時を表す「蓮華」の「華」であるから、果位のうえでの因位であり、ゆえに「本覚の修行なり」としめされるのである。つまり本来の悟りに入った上での修行が「複疎の一心三観」となるのである。
易解とは三諦円融等の義知り難き故に且らく次第に附して其の義を分別す故に易解と名く
「易解の一心三観」についての説明である。法華玄義巻二上の「分別して解し易からしむ、故に空仮中を明かす」とうい文と関係している。
「三諦円融等の義知り難き故に且らく次第に附して其の義を分別す」とは、三諦円融等の意義は深遠であるための凡夫にはなかなか知りがたいので、教理を解り易く分別して順序や次第をつけて説くということである。このように、三諦を分別して観ずることを「易解の一心三観」というのである。
五字のなかには「経」に配されているのである。これは「教談なり」とあるように、まさに教え談じ講ずるための一心三観、ということになる。
以上の附文が五重の一心三観である。
本意に依て亦五重の三観有り、一に三観一心入寂門の機,二に一心三観入照門の機、三に住果還の一心三観・上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後観を極めんが為に一心三観を修す、四に為果行因の一心三観謂く果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す、五に付法の一心三観・五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く
ここは、二種の五重の一心三観のうちの「本意の五重の一心三観」について述べている。「本意」というのは、仏の内証の意のことであり、法華経の文によるのではなく、直ちに達意的に一心三観していくことである。
さて、その具体的な名目を挙げれば、三観一心、一心三観、住果還の一心三観、為果行因の一心三観、付法の一心三観、となっている。
一一に三観一心 入寂門の義
万法の本性を空仮中の三諦を観ずる三観は、あくまで観ずる主体の「一心」からあらわれるわけであるから、逆に三観は一心に収束される。これが三観一心である。これを「寂照」の法門からいえば、空仮中の三観に照らされた万物を一心に収めるので「寂に入る門」とし、入寂門の機根に対して立てられたものとする。なお、修禅寺相伝日記には略されているが、妙法蓮華経の五字のなかでは「妙」の字に配当される。
二に一心三観 入照門の義
先の「三観一心」とは逆に、一心から三観へと開いていくことであり、「寂照」の法門からいえば、万物を三観より照らしていく境地であるがゆえに、「照に入る門」すなわち、入照門の機根に対して立てられたものであるとする。なお、妙法蓮華経の五字のうち「法」の字に配される。
三に住果還 一心三観・上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後観を極めんが為に一心三観を修す
「住果還」とは「果に住して還りて」と読む。すなわち、仏果を証得し、仏果に住した後、自受用の境地を楽しむために、還って一心三観を修することをいう。それゆえ、仏果を獲得するために行う一心三観ではないことに留意しなければならない。
本文の「上の機有りて知識の一切の法は皆是れ仏法なりと説くを聞いて真理を開す入真已後観を極めんが為に一心三観を修す」とは「上の機」とは上根のことであり、「知識」とは善知識のことで、仏法を教え導く人のことである。
すなわち、上根の機の衆生は、善知識が「一切の法は皆是れ仏法なり」と説くのを聞いて、自ら真理を聞くことができる。そして、その真理に入った後に、「入真已後」、自在の境地を楽しむために「観を極めんが為に」一心三観を修する、というのである。このゆえに、古来、「悟後の修行」と称されてきたのである。
仏果の後の修行を述べているところであるから、妙法蓮華経の五字のなかでは、「蓮」の字にあたる。
四に為果行因 一心三観謂く果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す
「為果行因」とは「果の為に因を行ず」と読む。仏果を成就するための因行としての一心三観である。
本文の「果位究竟の妙果を聞いて此の果を得んが為に種種の三観を修す」とは、仏が究め尽くした妙果の深遠な境地を聞いて発心し、自身もこの妙果を獲得せんとして、種々の三観を修行するということである。
仏果を得るための因位の修行であるから、妙法蓮華経の五字のなかでは、「華」の字に配される。
五に付法の一心三観 五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く
「付法」とは、教法に付く、ということで、教法自体を対象として行ずる一心三観を「付法の一心三観」というのである。
仏教の修行の階梯は、基本的には「聞・思・修」の三段階を経ているのであるが、本文に「五時八教等の種種の教門を聞いて此の教義を以て心に入れて観を修す故に付法と名く」とあるように、仏の教説を聞いて、聞いたことを思索し、観心修行していく、というものである。
この場合、教法はあくまで修行者をさして仏教の深遠な悟り・生死解脱の道へと導く門、となるので「法門」あるいは「教門」とも称されるのである。
本文の場合も、この規範にしたがって、五時八教の種々の教説を聞き、これらの教説・教義を思索し、更にこれらを対象として観心修行するのを「付法の一心三観」というのである。
これは、妙法蓮華経のなかでは、「経」の字に相当する。以上が、本意の五重の一心三観である。
山家の云く塔中の言なり亦立行相を授く三千三観の妙行を修し解行の精微に由つて深く自証門に入る我汝が証相を領するに法性寂然なるを止と名け寂にして常に照すを観と名くと
第二の大段落を閉じるにあたり、修禅寺相伝日記のなかの他の文を引用して結びとしている。
「山家の云く」とは、ここでは天台大師の言葉である。「山家」とは山に住む一門の意で、さまざまな宗派にわたるが、中国においてはとくに天台宗一門をいう。とくに、異義の生じた趙栄時代において、天台宗の正統派を主張した人々を山家派といい、これ以外の派を山外派と呼ぶ。このときの「山家派」の中心者は四明知礼である。
本文の「亦立行相を授く三千三観の妙行を修し解行の精微に由つて深く自証門に入る我汝が証相を領するに法性寂然なるを止と名け寂にして常に照すを観と名く」とあるのは、天台大師が大蘇道場において開悟したとき、釈尊から直授された仏語とされている。このゆえに「塔中の言」と付記されているのである。
「亦立行相を授く」とは、修禅寺相伝日記の原文には「亦授行の立相に依りて」とあり、塔中の釈尊から授けられた立行の相によって、ということである。
この立行の相によって天台大師は「三千三観の妙行を修し解行の精微に由って深く自証門に入る」ことができた。というのである。すなわち、一念三千、一心三観の妙なる修行を行じ、かつ、解と行とが一体不二で「精微」な体系を構築することによって、天台大師は深く「自証門」、すなわち、成仏の悟りの境地を自ら証得する門に入ることができた、といっている。
「我汝が証相を領するに法性寂然なるを止と名け寂にして常に照すを観と名く」の「我」とは釈尊で、天台大師の仏法証得の相を釈尊が領解して「法性寂然なるを止」「寂にして常に照すを観」と命名したというのである。