十八円満抄 第七章(仏意の五重玄を明かす)

十八円満抄 第七章(仏意の五重玄を明かす)

 仏意の五重玄とは諸仏の内証に五眼の体を具する即ち妙法蓮華経の五字なり、仏眼は妙・法眼は法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経なり、妙は不思議に名く故に真空冥寂は仏眼なり、法は分別に名く法眼は仮なり分別の形なり、慧眼は空なり果の体は蓮なり、華は用なる故に天眼と名く神通化用なり、経は破迷の義に在り迷を以て所対と為す故に肉眼と名く、仏智の内証に五眼を具する即ち五字なり五字又五重玄なり故に仏智の五重玄と名く、亦五眼即五智なり、法界体性智は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智は肉眼なり、問う一家には五智を立つるや、答う既に九識を立つ故に五智を立つべし、前の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智なり。

 

現代語訳

「仏意の五重玄とは諸仏の内証に五眼の体を具する。これがすなわち妙法蓮華経の五字である。すなわち、仏眼は妙・法眼は法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経にあたる。

また妙は不可思議を妙名づけるゆえに仏眼にあたる。真実にして空、冥寂であるがゆえに仏眼である。法は分別を法と名づけるゆえに法眼は仮であり、分別の形である。慧眼は空にあたる。果の体は蓮なのである。華は用であるゆえに天眼と名づける。神通化用のゆえである。経は迷いを破す義がある。迷いを所対とするゆえに肉眼と名づけるのである。仏智の内証に五眼を具する。これがすなわち五字であり、五字はまた五重玄と名づけるのである。

また五眼即五智である。法界体性智は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智は肉眼にあたるのである。

問うて言う。天台一家には五智を立てるのか。

答えて言う。すでに九識を立てるゆえに五智も立てるのである。九識のうち最初の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智にあたるのである」と。

語句の解説

五眼

物事を見る眼を肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の5種類に立て分けたもの。仏は五眼すべてをそなえてあらゆる人々を救済する。①肉眼は普通の人間の目。②天眼は神々の目。昼夜遠近を問わず見えるという。③慧眼は二乗の目。空の法理に基づいて物事を判断できるという。④法眼は菩薩の目。衆生を救済するための智慧を発揮するという。⑤仏眼は仏の目。仏の最高の智慧を発揮する。「開目抄」には「諸の声聞は爾前の経経にては肉眼の上に天眼慧眼をう法華経にして法眼・仏眼備われり」(204:012)と述べられている。

 

妙は不思議に名く

法華玄義の私記縁起に「妙は不可思議を名づくるなり」とある。

 

真空冥寂

「真空」は一切の迷妄の相を離れること。「妙寂」は一切の相対差別を絶した真空の理を形容する語。

 

法は分別に名く

発智論巻1に「法は分別に帰す」とある。

 

分別

いろいろな事象を思惟し識別する心の作用のこと。俱舎論では、自性分別・計度分別・随念分別に分けている。

 

法眼は仮なり

大乗義章巻20に「法眼の一種は境に従って称を立つ。能く法を見るを以って名づけて法眼と為す」とある。法をよくみることから仮諦にあたる。

 

実体のないこと。虚・権・方便。②三諦のひとつの仮諦のこと。一切の諸法・存在が常に有為転変し、因縁によって仮に和合しているとの真理観のこと。俗諦・有諦ともいう。

 

慧眼は空なり

慧眼は二乗が真理を洞察する智慧の眼をいい、一切諸法の差別の相を離れ、空理を知ることをいうことから「慧眼は空」となる。

 

果の体は蓮なり

因果一体をあらわす植物は蓮華であること。

 

華は用なる故に天眼と名く

総説の五重玄では「華は用」とし、妙法の用は自由自在に衆生を化導することであるので、自在になることが天眼に通ずるとして、「天眼は華」とされる。

 

神通化用

自在無礙の化導のはたらきのこと。「神通」は神通力のこと。仏・菩薩・諸天などの神変不可思議で自在無礙な力をいう。「化用」は教化・化導の働きをいう。

 

経は破迷の義

法華玄義巻8上には「経は是れ行本とは、人に無諍の法を示して通塞を導達し、眼目を開明して人の病を救治す。教の如く修行するときは、則ち通別の諸行を起こす。此れより彼に至り、清涼池に入り甘露地に至る」とある。

 

五智

五種の智のこと。諸教に説かれている。①密教、法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智。②仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智。③成美論、法住智・泥洹智・無諍智・願智・辺際智。等。

 

法界体性智は仏眼

五智のうち、法界体性智は密教の根本仏である大日如来の智であり、他の四智の根本智体であることから、五眼のなかで、一切の事物・事象を三世十方にわたって見通す仏眼に配されたものと思われる。

 

大円鏡智は法眼

五智のうち大円鏡智は、万象を映す鏡にたとえられるから、五眼のなかで一切の事物・事象を映し出して判断する智慧である法眼に配されたと思われる。

 

平等性智は慧眼

五智のうち平等性智は、一切の差別を滅して諸法の平等を感ずる智であるから、五眼のなかで、深い知識を得ることによって物事を判断する智慧である慧眼に配されていると思われる

 

妙観察智は天眼

五智のうち妙観察智はたくみに諸法を分別して衆生の機根を観察して疑いを断ずることから、五眼のなかで昼夜遠近を問わず見通すことのできる天眼に配されたものと思われる。

 

成所作智は肉眼

五智のうち成所作智は五識の転じた智慧であるから、五眼のなかで、人間の肉体の眼である肉眼に配されたと思われる。

 

九識

生命がものごとを認識する働きである識を9種に分けたもの。また、その第9識をいう。識には対象を認めて、その異同を知り、理解する心の作用という意味のほかに、認識によってあらわれる表象をも意味し、また認識の主体を意味することもある。9種類とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識という五感に基づく五識と、五識の知覚を内面的に捉え返す思考・感情などのはたらきと、夢を見たり過去や未来などを想像するなど五識とは直接関係のない自立的なはたらきである第6識・意識(マノーヴィジュニャーナ)、意識的であれ無意識的であれ常に第8識・阿頼耶識を自身(我)であると執着しつづける根底の自我意識である第7識・末那識(マナス)、善悪の業を蓄積しその果報としての苦楽の生死を生み出す源泉となる第8識・阿頼耶識(アーラヤヴィジュニャーナ)、生命の根源である清浄な第9識・阿摩羅識(アマラヴィジュニャーナ)の9種である。法相宗では、煩悩に染まった迷いの心の部分(染分)とそれを離れた清浄な部分(染浄の二法)からなる第8識を立てるが、天台宗などでは、それより根源的な生命の領域として、清浄で真理(真如)と一体である阿摩羅識を第9織として立てる。心のはたらきの中心となる本体である心王と、心王に基づく派生的なはたらきである心所・心数を立て分ける場合には、俱舎宗などでは、六識を対等のものと見なし、一つの本体の現れであるとし、この六識を心王と位置付ける。法相宗では、八つの識が心王とされ八識心王といわれる。これに対して天台宗などでは第9識が生命の働きの中心であるので心王といい、仏の覚りの真実である真如と一体であるので九識心王真如という。第9識は真如を覚った仏の境涯の識であるところから、天台大師智顗は『金光明経玄義』巻上で仏識と位置付けている。この第9識は、万物を貫く本性である覚りの法性が現れた覚りの境地そのものであり、法性と第9識は一体であるので、九識法性という。また第9識は、衆生の生命に本来的にそなわる覚りである本覚と一体であるので、九識本覚ともいう。

 

前の五識は成所作智

五識が転じて生じたのが五智のうちの成所作智である。

 

第六識は妙観察智

第六識の意識が転じて生じたのが五智のうちの妙観察智である。

 

第七識は平等性智

第七識の末那識が転じて生じたものが、五智のうちの平等性智である。

 

第八識は大円鏡智

第八識の阿頼耶識が転じて生じたのが五智のうちの大円鏡智である。

 

第九識は法界体性智

第九識の阿摩羅識が転じて生じたのが五智のうちの法界体性智である。

講義

前章に続いて伝教大師の修禅寺相伝日記の引用である。

二種の総説の五重玄のうち、まず、「仏意の五重玄」を示すこころである。

仏意の五重玄とは、仏の本意により立てる名体宗用教の五重玄のことである。次に釈されている「機情の五重玄」が衆生の機根に応じて説く五重玄であるのに対し、仏の内証における五重玄を明かされているのである。

仏の内証の五重玄を明かすにあたり、これを五眼・五智・九識に配して説明している。

 

諸仏の内証に五眼の体を具する即ち妙法蓮華経の五字なり

 

仏の内証・本意の五重玄を明かにするにあたり、まず、諸仏の悟りの境地においては五眼の体を具足しているが、この五眼の体とは妙法蓮華経の五字である、ということである。

五眼とは、肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五種の眼のことである。今、法華玄義によって、五眼の説明をみると、次のようになる。

すなわち「また経に『但父母所生の眼を以ってす』とは即ち肉眼なり。内外の弥楼山を徹見するは即ち天眼なり、諸色を洞見して而も染者無きは即ち慧眼なり、色を見ること錯謬無きは即ち法眼なり。末だ無漏を得ずと雖も、而も其眼根清浄なること此くの若し、一眼に諸眼の用を具するは即ち仏眼なり」とある。

ここでは、肉眼は父母所生の眼であり、天眼は内外の弥楼山を徹見する眼である。

もろもろの事物を洞察して執着やとらわれのない目が慧眼であり、もろもろの事物を見て誤りや錯覚のない清浄な眼が法眼、最後に仏眼は、以上四種の眼の働きをすべて具有している眼である、と説いている。

更に別の説き方では、肉眼は人界の眼、天眼は天人の眼、慧眼は空の理をとらえる二乗の眼、法眼は衆生教化のために一切の教法を照見する菩薩の眼、仏眼は以上の四種の眼を具足する仏の眼、とする場合もある。

この仏眼の体、すなわち成仏の根源が妙法蓮華経であるから、五眼の体はすなわち妙法蓮華経なのである。

このゆえに「仏眼は妙・法眼は法・慧眼は蓮・天眼は華・肉眼は経」とされるのである。この五眼即五字の一つ一つの説明については次に詳しく述べている。

 

妙は不思議に名く故に真空冥寂は仏眼なり

 

「仏眼は妙」についての説明である。

「妙」とは、不思議ということである。仏のみが悟っている究極の法は真に空にして妙寂である。すなわち、凡夫にとっては不可思議である。ゆえに妙を、ただ一人これを悟っている仏眼に配するのである。

 

法は分別に名く法眼は仮なり分別の形なり

 

「法」とは、もろもろの事物・現象をさし、これは「分別」によって把握されるがゆえに「法は分別に名く」と述べている。

また「法眼」は、「仮なり分別の形なり」とあるように、もろもろの事物・現象を見て誤りなき、清浄な眼であり、衆生教化のために一切の教法を徹見する菩薩の眼である。ゆえに法を法眼に配するのである。

「仮」とは、もろもろの事物・現象は実体的に存在しているのではなくて、相互に因となり縁となるという関係性において「仮」に和合して姿を現じているにすぎない、ということである。この仮としてあらわれた現実の衆生を分別して救済していくのが菩薩の法眼である。

 

慧眼は空なり果の体は蓮なり

 

「慧眼」は、諸法の差別の相を離れて空なる理をとらえる二乗の智慧である。このゆえに「慧眼は空なり」といわれているのである。

一切を空ととらえるのは証果を得た境地であるゆえに、果の面をあらわす「蓮」に、一切を空と見る慧眼を配するのである。

 

華は用なる故に天眼と名く神通化用なり

 

天眼について、大智度論巻三十三では「是の天眼を得れば遠近皆見て、前後、内外、昼夜、上下悉く皆礙なし」と述べている。

すなわち天眼は肉眼が近、前、外、昼、上のみを見るのに対し、肉眼が見ることのできない、遠、後、内、夜、下を自在にみることができる眼である。

しかるに華の字は五重玄では用に配されるから、仏の衆生教化の自在の力用は、自由自在を特色とする天眼に配されるのである。

 

経は破迷の義に在り迷を以て所対と為す故に肉眼と名く

 

「経」とは法華玄義巻八上に「経は是れ行本とは、人に無諍の法を示して通塞を導達し、眼目を開明して人の病を救治す。教の如く修行するときは、則ち通別の諸行を起こす。此れより彼に至り、清涼池に入り甘露地に至る」とあるように、衆生に「無諍の法」を教えて、「眼目開明」して病を治すために説かれているのである。

このことから「経は破迷の義に在り」と述べているのである。つまり、「経」は衆生の迷いを破るために説かれ、かつ存在するのである。したがって、「経」があくまで、その「所対」つまり対象とするものは「迷い」なのである。本文に「迷を以て所対と為す」とあるのはこのことである。

また、凡夫の父母所生の肉眼というのは、常に迷いをもって事物・諸現象をみているので、この「迷い」という一点において、肉眼は経、となるのである。

 

仏智の内証に五眼を具する即ち五字なり五字又五重玄なり故に仏智の五重玄と名く、亦五眼即五智なり、法界体性智は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智は肉眼なり

 

「仏智の内証」とは、これまで「仏意の内証」として説いていたところを、このように言い換えている。仏意から仏智へと展開することによって、仏の五眼がそのまま五智と転ずるのである。したがって、今度は、五眼から五智となって「仏智の五重玄」が説かれていくのである。

五智にも種々の立て方があるが、ここでは密教で説かれる五智を、法華経の絶対妙の立場から開会して、述べている。

 

五智について

 

五智については、無量寿経・成実論・仏地経等に見られる。本文に明かしている法界体性智・大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作智の五智は、仏他経に説くもので、密教では大日如来の五智として用いられるものである。

まず、法界体性智は、法界の本性を明確にする智のことである。次に、大円鏡智は、鏡のように万象を顕現する智のことであり、平等性智は、一切の諸法や事象の差別相を減じて平等であることを観ずる智、妙観察智は、先の平等性智が諸法の平等であることを観察する智であったのに対し、逆に諸法の差別相を正当に観察する智である。最後に成所作智は、自己及び他人のためになすべき事を成就させる智である。

密教では、大日如来の智をこの五種類に分けているが、また、この五智に五仏を配し「五智の如来」と称することもある。

すなわち、法界体性智を大日如来、大円境智閦を阿閦如来、平等性智を宝性如来、妙観察智を阿弥陀如来、成所作仏を不空成就、あるいは釈迦如来に配するのである。これは金剛界の五仏であるが、ここにも密教が釈迦如来を低く位置づけていることが明白である。

ただし修禅寺決では、法華経の絶対妙の立場に立って開会したうえで用いられると考えられる。

 

法界体性智は仏眼・大円鏡智は法眼・平等性智は慧眼・妙観察智は天眼・成所作智は肉眼なり

 

五智を五眼に配しているところである。

法界体性智は他の四智の根本であるから、当然のことながら、五眼の根本で、他の四根を統括する仏眼にあたるとされる。

大円鏡智は一切諸法の万法を鏡のごとく顕現する智であるから、衆生教化のために一切諸法を徹見する菩薩の眼である法眼に相当するとされるのである。

平等性智は一切諸法の平等相をとらえる智であるから、一切諸法の差別相を離れて空なる理とみる二乗の慧眼に相当するとされる。

妙観察智は平等性智と逆に一切諸法の差別相を正当に観察する智であるから、これを衆生教化のために、機根の差別相を的確に観察する智とするならば、天眼に相当するといえる。なぜなら、仏眼の力用としての天眼は、衆生教化の「神通化用」としての眼となるからである。

成所作智は自己及び他人になすべきことを成就させる智のことであるから、「なすべきこと」をとらえる智は仏眼の力用としての肉眼に相当すると思われる。なぜなら、「なすべきこと」は凡夫がなすべき義務や従うべき倫理・道徳、あるいは達成すべき目標などであるから、凡夫の肉眼でもとらえるころができるからである。

 

前の五識は成所作智・第六識は妙観察智・第七識は平等性智・第八識は大円鏡智・第九識は法界体性智なり

 

五智を九識に配しているところである。この文に至るまえに、一つの問答がある。

それは、天台家でも五智を立てるのか、という問いが起こされ、これに答えて「既に九識を立つ故に五智を立つべし」と述べている。

すなわち、天台家においては、既に九識論を立てているがゆえに、その九識論との関係で五智を立てることができる、としている。そして、その理由として説かれているのが、この文である。

まず九識についてであるが、人間が物事を識別する心の作用に九種あることを明らかにした法門である。九種の識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識・阿摩羅識である。

まず、感覚器官である五官にともなう識で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の五つとなる。

例えば、眼識は眼根が色境を見たときに起こる識別作用であり、以下、耳根が声境に、鼻根が香境に、舌根が味境に、身根が触境に、それぞれ縁したときに、それぞれの対境を了別する耳識・鼻識・舌識・身識が生ずるのである。こうして、根と境と識の三事が和合して認識が生ずるとされる。

次に、第六の意識は、意根が法境に縁して物事を判断、推量する心の作用である。

第七の末那識は、第六識までが対境に縁して起こる心であるのに対して、境に縁することなくして思考・感情を思い量る心で「思量識」ともいう。この識はとくに、我癡、我見、我慢、我愛の四つの煩悩に常にまといつかれて、自己中心的に働く心、である。

第八識の阿頼耶識は、以上の七識が起こってくる根底・基盤であり、一切法を含蔵するが故に含蔵識とも称する無意識の領域の心である。

最後の第九識・阿摩羅識は、一切の染法を離れた清浄無染の根本識であって、無垢識とも清浄識ともいう。

以上が九識の内容であるが、これと五智との関係は次のようになる。

まず、前の五識が転じて仏果の智とあると「成所作智」となる。これが「前の五識は成所作智」である。

次に第六識が転じて仏果の智となると「妙観察智」となる。これが「第六識は妙観察智」である。

更に第七末那識が転じて仏果の智として生ずると「平等性智」となる。これが「第七識は平等性智」である。第八阿頼耶識が転じて仏果を成ずると「大円境智」となる。これが「第八識は大円鏡智」である。最後に、第九阿摩羅識が転ずると「法界体性智」となる。これが「第九識は法界体性智」である。

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