十八円満抄 第五章(蓮の用・教の義を釈す)
次に蓮の用とは六即円満の徳に由つて常に化用を施すが故に。
次に蓮の教とは本有の三身果海の蓮性に住して常に浄法を説き八相成道し四句成利す、和尚云く証道の八相は無作三身の故に四句の成道は蓮教の処に在り只無作三身を指して本覚の蓮と為す、此の本蓮に住して 常に八相を唱へ常に四句の成道を作す故なり已上、修禅寺相伝の日記之をみるに妙法蓮華経の五字に於て各各五重玄なり蓮の字の五重玄義.此くの如し余は之を略す,日蓮案じて云く此の相伝の義の如くんば万法の根源、一心三観:一念三千・三諦・六即・境智の円融・本迹の所詮源蓮の一字より起る者なり云云。
現代語訳
次に蓮の用とは、六即円満の徳によって常に化用を施すゆえにである。
次に蓮の教とは、本有の三身・果海の蓮性に住して常に浄法を説き、八相成道し、四句を成ず。和尚がいうには『証道の八相は無作三身のゆえに四句の成道は蓮の教の処にあり、ただ無作三身をさして本覚の蓮というのである。この本蓮に住して常に八相を唱え、常に四句の成道をなすゆえである』とある。修禅寺相伝の日記之をみるに妙法蓮華経の五字に於て各各五重玄なり蓮の字の修禅寺相伝の日記之をみるに、妙法蓮華経の五字においておのおの五重玄がある。(蓮の字の五重玄義は以上のとおりである。余はこれを略す)。
日蓮が案じていうには、この修禅寺相伝の義によるならば、万法の根源、一心三観、一念三千、三諦、六即、境智の円融、本迹の所詮は、源は蓮の一字から起こっているのである。
語句の解説
蓮の用
蓮の用玄義のこと。用は化他の働きをいう。妙法蓮華経即無作三身如来は、六即円満の徳をもって常に化用の働きをすることをいう。
蓮の教
蓮の教玄義のこと。妙法蓮華経無作三身如来が仏果に住して、常に衆生を教化することをいう。
本有の三身
一切衆生に本来的に備わっている三身をいう。無作の三身と同意。
果海の蓮性
広大・深遠な仏果が因位の修行の中にそなわっていることをいう。蓮は果実であるから「蓮性」とは果性であり、因に果性を含むことをいう。本有無作三身が衆生の生命にあること。
浄法
清浄な法のこと。
八相成道
時に応じて出現した仏が、成道を中心として、一生の間に示す八種の相のこと。八相とは①下天、②託胎、③出胎、④出家、⑤降魔、⑥成道、⑦転法輪、⑧入涅槃。をいう。
四句成利
阿羅漢が成道する時に誦する四句のこと。長阿含経などに説かれる。四句とは①諸の漏已に尽く②梵行已に立つ③所作已に弁ず④後有を受けざる、をいう。
証道の八相
証道は教えに基づいて真理を証得すること。証道の八相は仏身のみでなく、万物の変化相に八相をみること。
本覚
始成に対する語。①本来備わっている悟り、一切衆生は煩悩に満ちた迷いの身心を有し、生死を繰り返しているが、その本体は本来清浄で一切の妄想離れた覚体であること。②現象界の諸相や凡夫がそのままの姿で仏であると覚ること。③本仏の正覚、本地の覚り。㋑法華経文上では五百塵点劫の釈尊の悟りをさす。㋺久遠元初の自受用身の悟りのこと。総勘文抄には「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき」(0568:13)「己心と心性と心体との三は己身の本覚の三身如来なり是を経に説いて云く『如是相(応身如来)如是性(報身如来)如是体(法身如来)』此れを三如是と云う、此の三如是の本覚の如来は十方法界を身体と為し十方法界を心性と為し十方法界を相好と為す是の故に我が身は本覚三身如来の身体なり」(0561:16)等とある。④天台家においては、本覚法門と始覚法門があり、両派は古くから対立している。
本覚の蓮
本有常住である無作三身を妙法蓮華経の蓮にたとえた語。
四句の成道
四句成利と同義。阿羅漢が成道する時に誦する四句のこと。長阿含経などに説かれる。四句とは①諸の漏已に尽く②梵行已に立つ③所作已に弁ず④後有を受けざる、をいう。
一心三観
一心に空仮中の三諦が円融し相即していることを観ずる修行。天台大師智顗が立てた観心の法門。天台大師はこれを止観の正行とした。別教で立てる次第三観に対して円融三観ともいう。別教においては、まず空観を修し、三惑のうちまず見思惑を断じて空諦の理を証し、次に仮観を修し、塵沙惑を破して仮諦の無量の法門を知り、そののちに中道観を修し、無明惑を断じて中道の理を証する。このように、空・仮・中の三諦を次第に観じていくので次第三観という。これに対して天台大師の一心三観では三観を修行の初めから直ちに修するので不次第三観という。修行の時間も隔たりがなく、中道の理を証するにも空間の隔たりがなく、一境の上に三諦が相即し、三観も一心に円融するので円融三観という。この一心三観を基盤として一念三千の法門が展開される。
一念三千
天台大師智顗が『摩訶止観』巻5で、万人成仏を説く法華経の教えに基づき、成仏を実現するための実践として、凡夫の一念(瞬間の生命)に仏の境涯をはじめとする森羅万象が収まっていることを見る観心の修行を明かしたもの。このことを妙楽大師湛然は天台大師の究極的な教え(終窮究竟の極説)であるとたたえた。「三千」とは、百界(十界互具)・十如是・三世間のすべてが一念にそなわっていることを、これらを掛け合わせた数で示したもの。このうち十界とは、10種の境涯で、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏をいう。十如是とは、ものごとのありさま・本質を示す10種の観点で、相・性・体・力・作・因・縁・果・報・本末究竟等をいう。三世間とは、十界の相違が表れる三つの次元で、五陰(衆生を構成する五つの要素)、衆生(個々の生命体)、国土(衆生が生まれ生きる環境)のこと。日蓮大聖人は一念三千が成仏の根本法の異名であるとされ、「仏種」と位置づけられている。「開目抄」で「一念三千は十界互具よりことはじまれり」と仰せのように、一念三千の中核は、法華経であらゆる衆生に仏知見(仏の智慧の境涯)が本来そなわっていることを明かした十界互具であり、「観心本尊抄」の前半で示されているように、特にわれわれ人界の凡夫の一念に仏界がそなわることを明かして凡夫成仏の道を示すことにある。また両抄で、法華経はじめ諸仏・諸経の一切の功徳が題目の妙法蓮華経の五字に納まっていること、また南無妙法蓮華経が末法の凡夫の成仏を実現する仏種そのものであることが明かされた。大聖人は御自身の凡夫の身に、成仏の法であるこの南無妙法蓮華経を体現され、姿・振る舞い(事)の上に示された。その御生命を直ちに曼荼羅に顕された御本尊は、一念三千を具体的に示したものであるので、「事の一念三千」であると拝される。なお、「開目抄」などで大聖人は、法華経に説かれる一念三千の法理を諸宗の僧が盗んで自宗のものとしたと糾弾されている。すなわち、中国では天台大師の亡き後、華厳宗や密教が皇帝らに重んじられ隆盛したが、華厳宗の澄観は華厳経の「心如工画師(心は工みなる画師の如し)」の文に一念三千が示されているとし、真言の善無畏は大日経を漢訳する際に天台宗の学僧・一行を用い、一行は大日経に一念三千の法理が説かれているとの注釈を作った。天台宗の僧らはその非を責めることなく容認していると批判されている。
三諦
仏が覚った究極の真理を三つの側面から捉えたもの。諦とは、明らかな真実・真理のこと。天台大師智顗は『法華玄義』『摩訶止観』で、空諦・仮諦・中諦の三つを挙げている。①空諦は、あらゆる事物・事象(諸法)には不変的・固定的な実体はなく空であるという真理。②仮諦は、あらゆる事物・事象は空なるものであって、因縁によって仮に生起する(縁起)ものであるという真理。③中諦は、中道第一義諦ともいい、空と仮をふまえながら、それらにとらわれない根源的・超越的な面をいう。天台大師は法華経の教説に基づいて三諦の法門を確立した。蔵・通・別・円の四教に即していえば、蔵・通の二教は中道を明かさないので三諦が成立せず、別教と円教には三諦が説かれる。別教の三諦は、「但空・但仮・但中」として互いに隔たりがあり、融和することがない。また修行において、初めに空を観じて見思惑を破し、次に仮を観じて塵沙惑を破し、さらに中道を観じて無明惑を破すという段階的な方法を取り、順に歴ていくことが求められる。それ故、隔歴の三諦という。これに対し、円教の三諦は、三諦のそれぞれが他の二諦を踏まえたものであり、三諦は常に「即空・即仮・即中」の関係にある。究極的真実を中諦にのみ見るのではなく、空諦も仮諦も究極的真実を示すものである。したがって、一は三に即し、三は一に即して相即相入する。これを円融三諦という。この円融三諦の法門は、個別と全体、具体と抽象、差別と平等などの対立する諸原理が相互に対立による緊張をはらみながら同時に融即するという、一側面に固執することのない融通無礙の世界観を開くものである。この三諦を一心に観ずることを一心三観といい、天台大師は一心三観の中核として一念三千の観法を立てた。
境智の円融
「境智」は境智の二法のこと。境は認識・価値判断の対象として客観視した世界・自己をさし、智は認識し評価する心作用、主観的智慧をいう。円融は互いに妨げることなく融合して一体となっていくことをいう。境智不二・境智冥合と同意。
本迹の所詮
本迹は本門と迹門。本門は仏の本地をあらわした法門。迹門は迹仏のあらわした法門。迹は影を意味する。所詮は詮ずるところ、結局・つまり。本門と迹門の究極の意である。
講義
「蓮」の五重玄義のうち「用」玄義と「教」玄義を釈し、修禅寺相伝日記の引用を終え、日蓮大聖人が結びの言葉を加えられるところである。
次に蓮の用とは六即円満の徳に由つて常に化用を施すが故に
「用」は本来、その経の功徳をいい、「論用」とは、効用を論ずるものである。ここでは、論の字に具わる功徳、効用を述べられる。
蓮の字に円教の修行の位である六即がそなわることは既に「宗」玄義で説き明かしたところである。したがって、蓮の功徳、効用とは、とりもなおさず、六即が円満に備わった功徳とその効用をさす。言い換えれば、六即のどの位であっても常に衆生教化の働きを施していくことをいっている。
次に蓮の教とは本有の三身果海の蓮性に住して常に浄法を説き八相成道し四句成利す
「教」玄義、すなわち「教判」とは、その経典の位置を判定することでもある。もともと「教」は仏が衆生に自らの悟りを教え導くために説くものである。したがって「蓮の教とは本有の三身果海の蓮性に住して常に浄法を説き八相成道し四句成利す」とある。
「本有の三身」とは、無作の三身のことである。この三身が「果海の蓮性に住して」とは、蓮がすでに述べたように仏果であるから、無作三身如来が仏果の位に住することである。
ここで「果海」とは「果性」のことで、果性とは、天台の説く五仏性の一つをさしている。五仏性とは、仏性を因と果とに分けて、因に正因・了因・縁因の三因仏性を、果に果性・果果性の二性を説き、合して五仏性とする。ちなみに果性とは、了因仏性の智慧が発現して菩提の果に至るものであり、果果性とは、縁因である行法を行じて惑を断ずることによって涅槃の果に至るものである。この果性・果果性といえども、あくまで因の中に含まれた果であることは「五仏性」という言葉からも明らかである。先の蓮の「宗」を明かすなかで「果性円満」なる言葉が出てきたが、これも同じ意義である。
したがって、無作三身如来が大宇宙のなかの仏界に住しながら「常に浄法を説き八相成道し四句成利す」と述べているように、人間世界に姿を現し、衆生を化導するものである。
和尚云く証道の八相は無作三身の故に四句の成道は蓮教の処に在り只無作三身を指して本覚の蓮と為す、此の本蓮に住して常に八相を唱へ常に四句の成道を作す故なり
「常に浄法を説き八相成道し四句成利す」との文の意より詳しく明かしたものとして、道邃和尚の言を挙げたのである。
まず「証道の八相」とは、いわゆる「八相作仏」のことで「証道の八相は無作三身の故に」とは、仏が人間世界に現われて八相成道の姿を示すが、その本地はあくまでも無作三身であるということである。
次に「四句の成道は蓮教の処に在り」の「四句の成道」とは、先の文の「四句成道」と同じ意味を表す言葉で、阿羅漢が成道する時に唱える四句偈のことである。その四句とは「諸漏已尽・梵行已立・所作已弁・不受後有」である。
「梵行已立」とは、「梵行已に立つ」と読み、涅槃のためのあらゆる清らかな修行、すなわち梵行がすでに立った、すなわち、行じ尽くした、ということである。
「所作已弁」とは「所作已に弁ず」と読み、所作すなわちなすべきことをすでに果たした、ということである。
「不受後有」とは「後有を受けず」と読み、未来世の生存を受けない、ということである。
以上のような、小乗の教えも、本来、妙法蓮華経の悟りに住したうえでの説法にほかならないということである。
したがって、衆生本有の無作三身如来は衆生に対して、口業によって浄法を説法し、身業によって八相成道・四句成道の説法をして教化していることになる。ゆえに「此の本蓮に住して常に八相を唱へ常に四句の成道を作す故なり」との「此の本蓮に住して」とは、衆生の因位すなわち一念に住する果性としての無作三身如来ということであり、この無作三身が常に八相成道を唱える四句の成道を果たして衆生を教化している、というのである。
修禅寺相伝の日記之をみるに妙法蓮華経の五字に於て各各五重玄なり蓮の字の五重玄義.此くの如し余は之を略す,日蓮案じて云く此の相伝の義の如くんば万法の根源、一心三観・一念三千・三諦・六即・境智の円融・本迹の所詮源蓮の一字より起る者なり
蓮の一字についての五重玄義を修禅寺相伝日記にみると、万法の根源、一心三観・一念三千・三諦・六即・境地の円融・本と迹の所詮の法門ことごとくが蓮の一字から起こっていることが、明らかであるとのべられている。
このことは、題目を唱える一行のなかに、天台大師の立てた一切の法門の功徳が具足されているということであり、妙法口唱の功力の大きさをあらわされようとの御心と拝される。