十八円満抄 第四章(蓮の宗を釈し蓮の六つの勝能を明かす)
次に蓮の宗とは果海の上の因果なり、和尚の云く六即の次位は妙法蓮華経の五字の中には正しく蓮の字に在り蓮門の五重玄の中には正しく蓮の字より起る、所以何ん理即は本性と名く本性の真如・理性円満の故に理即を蓮と名け果海本性の解行証の位に住するを果海の次位と名く、智者大師自解仏乗の内証を以て明に経旨を見給うに蓮の義に於て六即の次位を建立し給えり故に文に云く此の六即の義は一家より起れりと、然るに始覚の理に依て在纒真如を指して理即と為し妙覚の証理を出纒真如と名く、正く出纒の為めに諸の万行を修するが故に法性の理の上の因果なり故に亦蓮の宗と名く蓮に六の勝能有り一には自性清浄にして泥濁に染まず理即、二には華・台・実の三種具足して減すること無し名字即.諸法即是れ三諦と解了するが故に三には初め種子より実を成ずるに至るまで華.台・実の三種相続して断ぜず観行即・念念相続して修し廃するなき故に四には華葉の中に在つて未熟の実真の実に似たり相似即五には花開き蓮現ず分真即、六には花落ちて蓮成ず究竟即、此の義を以ての故に六即の深義は源・蓮の字より出でたり。
現代語訳
「次に蓮の宗とは、果海のうえの因果のことである。和尚のいうのに『六即位は妙法蓮華経の五字のなかには、正しく蓮の字にある。蓮についての五重玄義の中では、まさしく蓮の宗から起こっているからである』と。それはなぜかといえば、理即は本性と名づけるのである。本性の真如は理性円満のゆえに理即を蓮と名づけ、果海本性の解行証の位に住するのを果海の位と名づけているのである。天台智者大師は自解仏乗の内証をもって明らかに経の主旨を見られるとき、蓮の義において六即の位を建立されたのである。それゆえに、文に『この六即の義は一家より起こっているのである』と。しかるに、始覚の理を拠りどころとしている在纒真如をさして理即とし、妙覚の証理にたつのを出纒真如と名づけるのである。まさしく出纒のために諸の万行を修行するがゆえに法性の理の上の因果なのである。ゆえに、また蓮の宗と名づけるのである。この蓮には六つの勝能がある。一には自性清浄にして泥濁に染またない。(理即にあたる)、二には華・台・実の三種が具足して欠けることがない(名字即にあたる。それは諸法が三諦であると解了するがゆえに)、三には初め種子から実を成ずるまで華・台・実の三種が続いて断ずることがない(観行即にあたる。念々が相続いて修し、念々が廃することがないゆえに)四には華葉の中にある未熟の実が真の実に似ている。(相似即にあたる)、五には花が開き蓮が現ずる(分真即にあたる)、六には花が落ちて蓮が成ずる(究竟即に当たる)この義をもってのゆえに六即の深義はその源は蓮の字から出ているのである」と。
語句の解説
蓮の宗
妙法蓮華経の一字一字に名・体・宗・用・教の五重玄があり、蓮の字の宗玄義を示している。「蓮」は果実、仏果であって無作三身のこと。「宗」は因果、「蓮の宗」とは無作三身の仏因・仏果をさす。
和尚
仏教の僧の敬称である。また、「御僧」を表現するのに、特定の宗派で「わじょう」と言われているのを僧のことだと思い、それが一般化して「おしょう」と言われるようになったという説がある。本来の意味は、出家して受戒した僧が、日常親しく教えを受ける教師を指す。日本では、天平宝字2年(758年)に戒師として渡来した鑑真に対して「大和尚」の号が授与されており、その後、高僧への敬称として使用され、更に住職以上の僧への敬称となった。
六即の次位
六即は天台大師の立てた法華円教を修行する菩薩の六種の修行位。「次位」は仏道修行における次第階位のことで、修行において次第に進んでいく位をいう。
理即
天台の立てた六即位のひとつ。理の上で仏性を具しているというのみの凡夫の位。
解行証
解とは解了であり信解である。行とは実践行であり、自行化他にわたる題目である。証とは悟りであり、最高の悟りは成仏である。
智者大師
天台大師のこと。(0538~0597)。智者大師の別称。諱は智顗。字は徳安。姓は陳氏。天台山に住んだのでこの名がある。中国南北朝・隋代の人で、天台宗第四祖、または第三祖と称されるが、事実上の開祖である。伝によれば、梁の武帝の大同4年(0538)、荊州に生まれ、梁末の戦乱で一族は離散した。18歳の時、果願寺の法緒のもとで出家し、20歳で具足戒を受け、律を学び、また陳の天嘉元年(0560)北地の難を避け南渡して大蘇山に仮寓していた南岳大師を訪れた。南岳は初めて天台と会った時、「昔日、霊山に同じく法華を聴く。宿縁の追う所、今復来る」と、その邂逅を喜んだという。大蘇山での厳しい修行の末、法華経薬王菩薩本事品第二十三の「其中諸仏、同時讃言、善哉善哉。善男子。是真精進。是名真法供養如来」の句に至って身心豁然、寂として定に入り、法華三昧を感得した。これを大蘇開悟という。後世、薬王品で開悟したことから、薬王菩薩の再誕であるといわれるようになった。その後、大いに法華経の深義を照了し、のち金陵の瓦官寺に住んで大智度論、法華経等を講説した。陳の宣帝の太建7年(0575)、38歳の時に天台山に入り、仏隴峰に住んで修行したが、至徳3年(0585)詔によって再び金陵に出て、大智度論、法華経等を講ずる。禎明元年(0587)法華経を講じたが、これを章安が筆録したのが「法華文句」十巻である。その後、故郷の荊州に帰り、玉泉寺で法華玄義、摩訶止観を講じ、天台三大部を完成する。その間、南三北七の諸師を信伏させ、天台山に帰った翌年の隋の開皇17年(0597)、60歳で没した。著書に法華三大部のほか、五小部と呼ばれる「観音玄義」「観音義疏」「金光明玄義」「金光明文句」「観経疏」がある。
自解仏乗
「自ら仏乗を解す」と読む。教えを受けることなく、自ら仏の境地を解ること。『法華玄義』の章安大師灌頂による序文で、章安大師が天台大師智顗の偉大さをたたえた言葉。「寂日房御書」には「日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし」(0903:2)と述べられている。
一家
天台宗のこと。(但し天台宗を特定する語ではない。)
始覚
始成正覚といい、永遠の生命に立脚しないこと。仏がこの世で始めて仏になったとする見方、また、そのような仏の境涯、これに対して永遠の生命に立つことを本覚という。
在纒真如
煩悩に纏われ覆われた真如のこと。在纒は煩悩の纏縛の中に在ることで、真如は真実不変清浄の存在。煩悩の束縛のゆえに仏性が顕れないことをいう。
妙覚の証理
妙覚の仏が証得した究極の真理のこと。
妙覚
菩薩の修行の段階。五十二位のうちの最高位の第52位。等覚位の菩薩が、42品の無明惑のうち最後の元品の無明を断じて到達した位で、仏と同じ位。六即位(円教の菩薩の修行位)では究竟即にあたる。文底下種仏法では名字妙覚の仏となる。「法華取要抄」には「今法華経に来至して実法を授与し法華経本門の略開近顕遠に来至して華厳よりの大菩薩・二乗・大梵天・帝釈・日月・四天・竜王等は位妙覚に隣り又妙覚の位に入るなり、若し爾れば今我等天に向って之を見れば生身の妙覚の仏本位に居して衆生を利益する是なり」(334㌻)と述べられている。法華経の文上の教説では、釈尊在世の衆生は、釈尊によって過去に下種されて以来、熟益の化導に従って本門寿量品に至った菩薩の最高位である等覚の位にまで登って得脱したとされる。日寛上人の『当流行事抄』によれば、これを文底の意から見た場合、等覚位の菩薩でも、久遠元初の妙法である南無妙法蓮華経を覚知して一転して南無妙法蓮華経を信ずる名字の凡夫の位に帰り、そこから直ちに妙覚位(仏位)に入ったとする。これを「等覚一転名字妙覚」という。
出纒真如
煩悩の束縛から出ている真実にして永遠に不変不改である悟りの境地のこと。出纒は煩悩の纏縛をでることで、真如は真実不変清浄の存在。煩悩の束縛のゆえに仏性が顕れないことをいう。
蓮に六の勝能有り
蓮華の成長過程を円教修行の六段階に配立している。
一には自性清浄にして泥濁に染まず
天台大師の法華玄義巻七下には「蓮華は汚泥より生じて汚泥に染まらず」とある。
華・台・実の三種
蓮華の華と台と実のこと。
名字即
天台大師が法華経を修行する人の位を理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六即位にわけたもので、名字即はその第二、初めて仏法の信仰に入った位をいう。日蓮大聖人の仏法には、修行の段階はない。即身成仏のゆえに名字妙覚という。名字即の凡夫が御本尊を拝んで、仏の生命を感得したときが、妙覚の仏である。総勘文抄には「一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す故に円頓の教には次位の次第無し」(0566:15)とある。
観行即
「観行」とは、観心(自分の心を観察する)の修行のことであり、「観行即」は修行内容の上で仏と等しいという意。仏の教えのとおりに実践できる段階。
相似即
菩薩の修行の六即位の中の第四。惑障を伏する位をいう。
五には花開き蓮現ず
天台大師の法華玄義巻七下には「華開きて蓮現ず」とある。
分真即
天台の立てた六即位のひとつ。菩薩が慈悲に立って人々を化導し、救おうとする位。
六には花落ちて蓮成ず
天台大師の法華玄義巻七下には「華落ちて蓮成ず」とある。
究竟即
天台の立てた六即位のひとつ。元品の無明を断じた極聖の位を天台六即配立の究竟即といい、究竟円満のこと。御義口伝には「無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり」(0752:10)とある。
講義
前章に続いて伝教大師の修禅寺相伝日記の引用である。蓮の五重玄義を明かすうち、続いて「宗」玄義を明かすところである。
「宗」とは本来、その経の力用のことで、「明宗」とは、主として修行の因果を説くのであるが、諸法実相を説く法華経においては、仏の自行の因果を明かすことが「宗」玄義となる。
したがって、まず「蓮」の宗とは「果海の上の因果」であると述べ、次に、和尚の言を引いて、法華円教の修行である六即位の次第が、この「蓮」のなかに含まれていることを明かし、逆に「六即の深義は源・蓮の字より出でたり」と締めくくっている。
次に蓮の宗とは果海の上の因果なり
すでに述べたように、華が因をさしているのに対し、蓮は仏果をさしているところから、「蓮の宗」というのは「果海」のうえの因果を表わしていることになる。
「果海」は仏果果海とも真如果海ともいい、諸法・森羅三千をことごとく包含する仏の悟りの境地を、万物の姿を映す広大な海にたとえたものである。したがって「果海の上の因果」とは、既に成道し終わった仏の境地に具わる修行の因果、すなわち仏因仏果ということである。
所以何ん理即は本性と名く本性の真如・理性円満の故に理即を蓮と名け果海本性の解行証の位に住するを果海の次位と名く
和尚の言を受けて、その理由を説いている。
和尚の言とは、法華円教の修行の位階である六即位が、妙法蓮華経の五字のうち「蓮」の字に含まれることを述べ、その理由を明かしたものである。
六即位とは、円教における六種の修行の位のことであり、天台大師は摩訶止観巻一下において詳細に展開している。六即位の名称を挙げると、理即・名字即・観行即・相似即・分身即・究竟即、となる。
理即とは、本来、理として仏性がそなわっている位であり、名字即とは、理として仏性の名字を教師や経典をとおして聞き知って、これを信ずる位である。
次に観行即とは、聞き知って後、実際に仏性を観持し行じていく位であり、「理と慧と相応し、行うところは言うところのごとく、言うところは行うところのごとくなるべし」と説かれている位である。
相似即とは、観じ行じていくことにより見思・塵沙の惑が断ぜられて、悟りに相似した境地に達する位であり、分身即とは根本の惑である無明の一分が断ぜられ、悟りが部分的に成就され、真如・仏性の一部が実現される位である。
最後に究竟即とは、無明が完全に断ぜられ、真如・仏性が全き顕現に至る位である。
以上の六つの位のそれぞれに「即」の字が付されているのは、すべての位が常に仏を根底としていることを表わしている。ゆえに、六即の「六」は理即から究竟即に至る初後の浅深を示し「即」は、どの段階も常に仏に即しており初後の不二なることを示す、とされている。
このように、初後浅深と初後不二との相互に矛盾する修行の次第が同時に説かれているのは、摩訶止観によると、つぎのような理由による。
「即」によって「信」なき者が卑屈におちいることを免れ、「六」によって「智」なき者が増上慢を起こすことを治す、ということである。
さて、以上の六即の位がことごとく「蓮」の一字に由来するというのは、いかなる理由によるのであろうか。
まず「理即は本性と名く本性の真理・理性円満の故に理即を蓮と名け」とある。
六即の第一である理即とは、末だ仏法を聞いたこともない凡夫であっても、その凡夫の「本性」においては、真如・理性が円満に具しているわけであるから、本性においては仏と相即するのであり、したがって「理即を蓮と名」づける、と述べている。
次に「果海本性の解行証の位に住するを果海の次位と名く」とある。この文の「解行証の位」のなかに、名字即、観行即、相似即、分身即、究竟即の五即が含まれている。すなわち、「解」が名字即にあたり、「行」が観行即、相似即にあたり、「証」が分身即、究竟即にあたる。
蓮の宗とは、果海すなわち成仏の境地における因果である。これらの五即は「果海の次位」をさし、仏果のうえでの五即の修行の次第であり、もともと凡夫の因行であった五即がここでは仏果上の因となるのである。
然るに始覚の理に依て在纒真如を指して理即と為し妙覚の証理を出纒真如と名く、正く出纒の為めに諸の万行を修するが故に法性の理の上の因果なり故に亦蓮の宗と名く
ここで「始覚の理」の「始覚」とは、「本覚」に対する言葉である。この本覚と始覚とが初めて説かれているのは大乗起信論である。起信論の「解釈分」のなかでは、真如門と生滅論の二門を立てるが、本覚と始覚とは生滅論において説かれている。すなわち、衆生が生滅の現実界にあっても、その本来においては真如と覚する性分を有していることを「本覚」といい、末だ本覚に至らない段階を「始覚」と呼んで「不覚」ともいうのである。
言い換えれば、起信論においては、本覚と始覚とはともに現実界や衆生の内なる原理として説かれ、真如を「覚」することにおける浅深因果の層として位置づけられている。
ところが、以上のような本覚・始覚の意味が、後に更に展開して、修禅寺決の使用法では、本覚が衆生本来の仏性を意味するに至っている。すなわち、起信論では「真如」とは別の原理として説かれていた本覚が、ここでは「真如」と同一の意味となっている。
始覚とはしたがって、この仏性・真如としての本覚を「始めて覚する」、すなわち、覚知していく、という意味になっているのである。
これを踏まえると、本文の「始覚の理」とは、仏性・真如の本覚を覚知していくという修行の因果の差別を立てる理からいえば、ということで、これは、文中には言葉がないが「本覚の理」と対比のうえで述べられている。つまり、本覚の立場においては、六即の位の次第も、後に見る真如の在纏・出纏の区別もないが、始覚の理においては六即の次第も在纏・出纏真如の区別もあらわれてくる、といっているのである。
「在纒真如を指して理即と為し妙覚の証理を出纒真如と名く」とある。「在纏真如」の「纏」とは、「まとわれ、覆われる」意味で、煩悩等にまとわれ、覆われた真如のことを「在纏真如」といい、凡夫のことである。これに対し、「出纏真如」というのは「纏」としての煩悩等を出離した真如ということである。
ゆえに、本文にあるように、在纏真如は真如がいまだ煩悩等に覆われた段階をさしているので、六即でいえば理即にあたることになる。
これに対して「妙覚の証理」すなわち、五十二位の最高段階である妙覚が証得した悟りの境地は、煩悩等を全く出離してしまって、真如が完全にあらわれきっているので「出纏真如」というのである。
更に「正く出纒の為めに諸の万行を修するが故に法性の理の上の因果なり故に亦蓮の宗と名く」とある。
この文の意はこうである。仏道修行は「在纏真如」から「出纏真如」へ至るために、もろもろの万行を修行するのである。その因から果への修行自体が法性すなわち真如のうえで因果にすぎないこととなる。なぜなら、因としての在纏真如も仏果としての出纏真如も、ともに真如における僭在・顕在の差こそあれ、真如そのものには変わりがないからである。ここをさして「蓮の宗」とするのである、と説いている。
蓮に六の勝能有り一には自性清浄にして泥濁に染まず理即、二には華・台・実の三種具足して減すること無し名字即・諸法即是れ三諦と解了するが故に三には初め種子より実を成ずるに至るまで華・台・実の三種相続して断ぜず観行即・念念相続して修し廃するなき故に四には華葉の中に在つて未熟の実真の実に似たり相似即五には花開き蓮現ず分真即、六には花落ちて蓮成ず究竟即、此の義を以ての故に六即の深義は源・蓮の字より出でたり
この文は、蓮のもつ勝れた特徴を六即位に配することによって、六即位が蓮の字から由来することを明かしているのである。
まず第一には「一には自性清浄にして泥濁に染まず」として、蓮華が泥濁の中に育ちながら、泥濁に染まらない、という本来の清浄性を、衆生が本来有する真如・仏性の境地にたとえている。
すなわち、真如・仏性は自性が清浄であるから煩悩の泥濁にも染まらないところを「理即」の位にあたっている。
第二に「華・台・実の三種具足して減すること無し」とは、蓮華が華と台と実の三つが備わって少しも減ずるところがないということである。これを、諸法がそのまま空・仮・中の三諦であることを解了する位である「名字即」とするのである。
第三に「初め種子より実を成ずるに至るまで華・台・実の三種相続して断ぜず」とは、蓮華が種子から始まって実を結ぶに至るまで、華と台と実の三つが「相続して断絶なきことをいう。これを、念々に相続して修行し続け少しも修行を廃しない位としての「観行即」とするのである。
第四に「華葉の中に在って未熟の実真の実に似たり」とは、いまだ熟しきっていない実が華葉の中にあって真実の実に相似した姿をしている段階である。これを、観行によって、次第に境地が進み、三惑のうち、見思惑・塵沙惑の二惑を断じて六根清浄の徳を得て、仏の悟りに相似する位である「相似即」とするのである。
第五に「花開き蓮現ず」とは、蓮華の花が開くにつれて蓮の実が姿を現することで、これを根本の惑である無明の一分が断ぜられて、悟りが部分的に成就され、真如・仏性の一部が実現される位である「分身即」にあたるのである。
第六に「花落ちて蓮成ず」とは、蓮華の花が落ちて蓮の実が完全に熟することで、これは無明が完全に断ぜられて真如・仏性が全き顕現に至る「究竟即」に相当する。
以上から「六即の深義は源・蓮の字より出でたり」ということが明確になる、と結論している。