十八円満抄 第三章(蓮の体を明かす四義を挙げる)

次に蓮の体とは体に於て多種有り、一には徳体の蓮謂く本性の三諦を蓮の体と為す、二には本性の蓮体三千の諸法本より已来当体不動なるを蓮の体と為す、三には果海真善の体一切諸法は本是れ三身にして寂光土に住す設い一法なりと雖も三身を離れざる故に三身の果を以て蓮の体と為す、四には大分真如の体謂く不変・随縁の二種の真如を並びに証分の真如と名く本迹寂照等の相を分たず諸法の自性不可思議なるを蓮の体と為す。

 

現代語訳

次に蓮の体とは、体については多くの種類がある。一には徳体の蓮であり、本性の三諦を蓮の体とするのである。二には本性の蓮体であり、三千の諸法は本よりこのかた当体が不動であることを蓮の体とするのである。三には果海真善の体で、これは、一切諸法は、もとは法報応の三身であって寂光土に住むのである。たとえば一法であっても三身を離れることはないゆえに三身の果をもって蓮の体とするのである。四には大分真如の体である。これは不変真如・随縁真如の二種の真如をいずれも証分の真如と名づけるのに対し、本迹・寂照などの相を分けず、諸法の自性がそのまま不可思議であるのを蓮の体とするのである」と。

 

語句の解説

蓮の体

妙法蓮華経の一字一字に名・体・宗・用・教の五重玄があり、ここでは蓮の体について、四種を示している。①徳体の蓮②本性の蓮体③果海真善の体④大分真如の体、である。

 

徳体の蓮

一切諸法にはもともと空仮中の三諦が欠けることなくそなわっていること。十八円満抄の蓮の体の項には「一には徳体の蓮謂く本性の三諦を蓮の体と為す」とある。

 

本性の三諦

一切衆生に本来そなわっている空仮中の三諦。

 

三諦

仏が覚った究極の真理を三つの側面から捉えたもの。諦とは、明らかな真実・真理のこと。天台大師智顗は『法華玄義』『摩訶止観』で、空諦・仮諦・中諦の三つを挙げている。①空諦は、あらゆる事物・事象(諸法)には不変的・固定的な実体はなく空であるという真理。②仮諦は、あらゆる事物・事象は空なるものであって、因縁によって仮に生起する(縁起)ものであるという真理。③中諦は、中道第一義諦ともいい、空と仮をふまえながら、それらにとらわれない根源的・超越的な面をいう。天台大師は法華経の教説に基づいて三諦の法門を確立した。蔵・通・別・円の四教に即していえば、蔵・通の二教は中道を明かさないので三諦が成立せず、別教と円教には三諦が説かれる。別教の三諦は、「但空・但仮・但中」として互いに隔たりがあり、融和することがない。また修行において、初めに空を観じて見思惑を破し、次に仮を観じて塵沙惑を破し、さらに中道を観じて無明惑を破すという段階的な方法を取り、順に歴ていくことが求められる。それ故、隔歴の三諦という。これに対し、円教の三諦は、三諦のそれぞれが他の二諦を踏まえたものであり、三諦は常に「即空・即仮・即中」の関係にある。究極的真実を中諦にのみ見るのではなく、空諦も仮諦も究極的真実を示すものである。したがって、一は三に即し、三は一に即して相即相入する。これを円融三諦という。この円融三諦の法門は、個別と全体、具体と抽象、差別と平等などの対立する諸原理が相互に対立による緊張をはらみながら同時に融即するという、一側面に固執することのない融通無礙の世界観を開くものである。この三諦を一心に観ずることを一心三観といい、天台大師は一心三観の中核として一念三千の観法を立てた。

 

本性の蓮体

法界三千の諸法の当体はもともと真如実相であり、不変不動であること。

 

三千の諸法

一念三千の法門における三千の法門のこと。一念三千を諸法実相に約せば一念が実相・三千が諸法となる。

 

果海真善の体

仏果の真実で正しい本体。一切諸法は本来、無作三身の当体であり、広大な仏界に住することをいう。真善とは真実の善、最高の善のこと。

 

大分真如の体

妙法蓮華経には随縁真如・不変真如の二真如をともに具していること。この二真如をそれぞれ小分の真如として、不変・隨縁のに真如の分がたずところを大分の真如の体としている。

 

不変・随縁の二種の真如

不変真如の理と随縁真如の智をいう。①不変真如の理。真如の「真」とは、「真実」ということであり、「如」とは「ごとく」「そのまま」「ありのまま」。「不変真如の理」とは、永久に変わらざる真実。真正の法理。ほけきょう迹門では、諸法実相に約して十界互具・百界千如・一念三千の理を説き明かした。これ不変真如の理である。天台大師は大御本尊出現に先立ち、摩訶止観で理の一念三千法門を説いた。これまた不変真如の理となり、大聖人の一念三千当体の法門からみれば迹門となる。②随縁真如の智。縁に従って、刻一刻と変化しゆく事象に対応した幸福への生命活動をいい、仏界を涌現すること。一念三千の当体の生命の確立。仏の振る舞いを根本に、因果国に約して、一念三千を説き明かした本門は随縁真如の智となる。また、宇宙の森羅万象を説き明かした御本尊は、随縁真如の智とも不変真如の理ともなる。

 

証分の真如

大分真如をしばらく隨縁・不変の二真如に分け、おのおのの真如を証分の真如という。

 

本迹

法華経の本門と迹門のこと。本門は仏の本地をあらわした法門で、迹門は垂迹仏の説いた法門をいう。

講義

第二章に続いて伝教大師の修禅寺相伝日記の引用である。

蓮について、名・体・宗・用・教の五重玄を説き明かすうち、蓮の「体」を釈すところである。

初めに蓮の体については多くの種類があると断ったうえで、以下の文にみられるとおり、四義を挙げている。

 

一には徳体の蓮謂く本性の三諦を蓮の体と為す

 

四つの「蓮の体」を明かすなかの第一である。

初めに「徳体」とは、同じ修禅寺決の「法の五重玄」を明かすなかの「法の体」の項で次のようにあるところが参考となると思われる。すなわち、「法の体とは、或いは不変真如の理を以って体となし、或いは三千常住の本法を以って法体となす。総じて体を論ずるに三種あり、一には徳体、二には性体、三には不可思議体なり。徳体とは三諦なり、一切諸法は本より已来三諦の徳を具するなり。地獄の生に猛火等の色相を具するは仮諦なり。内心虚通するは空諦なり、色心一処に住するは中道なり、乃至仏界もまたかくのごとし…次に性体とは、三千の諸法これなり。三に不思議体とは、三千・三諦の名相を絶して言辞に説くべからざるなり。経に云く『諸法は寂滅の相なり』と」とある。

ここで、法の体というのは、不変真如の理や三千常住の法をさすと説かれている。ここに、徳体・性体・不可思議の三種が体であるとしている。

「徳体」とは、一切の諸法はどの法を取り上げても本来、三諦の徳を具足している、ということである。そして、一切諸法の一つの例として「地獄の生」を挙げ、これを三諦に配している。すなわち、地獄の衆生が猛火等に巻き込まれている姿が仮諦であり、地獄の衆生の内心が虚ろであるところが空諦であり、地獄の衆生の色心が同じところにあることが中道である、と述べている。

こうして、仏界に至るまでの十界のすべての諸法の体に三諦の働きがある、というのが「徳体」の意味であり、ゆえに、徳体の蓮を説いて、「法性の三諦を蓮の体と為す」と述べているのである。

 

二には本性の蓮体三千の諸法本より已来当体不動なるを蓮の体と為す 

 

四つの「蓮の体」を明かすなかの第二である。

「本性の連体」とは、先の引用文中の「性体」にあたることは明白であろう。「性体」が三千の諸法をさしていたとおり、本性の蓮体も、三千の諸法を表し、その当体が本来真如実相で不変不動であるところを「蓮の体」とするということである。

 

三には果海真善の体一切諸法は本是れ三身にして寂光土に住す設い一法なりと雖も三身を離れざる故に三身の果を以て蓮の体と為す

 

四つの「蓮の体」を明かすなかの第三である。

「果海真善」の「果海」は、既に仏果を得て成仏し終わった心地を、ちょうど、波一つ起きない海が一切諸法・森羅万象の象をことごとく浮かべていることにたとえたものである。この仏果の境地は絶対の善であり、悪と相対したうえで説かれる善ではなく、善・悪の二元を超越した真実の善という意味で「真善」としている。

この、仏界の境地においては、一切諸法はことごとく本来、法・報・応の無作三身の当体なのであって、寂光土に住していることになる。

したがって「設い一法なりと雖も三身を離れざる故に三身の果を以て蓮の体と為す」とあるように、果海真善の体においては、たとえ一法であっても、法・報・応の三身を離れることはない。このように、一切諸法が三身の果を具しているところを「蓮」の体とする、というのである。なお、この、果海真善の体、の項は、十八円満の第四の果海円満の項と対比させて読むと、より明瞭になるであろう。

 

四には大分真如の体謂く不変・随縁の二種の真如を並びに証分の真如と名く本迹寂照等の相を分たず諸法の自性不可思議なるを蓮の体と為す

 

四つの「蓮の体」を明かすなかの第四である。

「大分真如」については、既に十八円満の第十八の「不思議円満」の項で少し触れておいたが、ここで、もう少し詳細に解説すると、次のようになる。

修禅寺決では、妙法の「妙」と「法」のそれぞれの「体」を明らかにするに際して、「法の体」については、先の「徳体の蓮」の項で触れたとおり、徳体・性体・不思議体の三つの体をもって論じている。これに対して「妙の体」を論ずるときは、大分真如を体として、本迹不変真如と本門随縁真如とを具するものとしている。この大分真如は、伝統的な天台教学の教理には全く存在しない、修禅寺決の新語である。

これに関して、修禅寺決の「妙体」を明かす文は「妙体とは、直ちに万法の自体を摂して、即ちこれ諸法の自体を談ず。機に依りてまた不同あり、迹門の心は、不変真如の一理を以って妙体となす。迹は情理に向かいて修行すれば、修行は理に帰して漠然たり、観心門の時は直ちに大真如を摂す。大真如とは不変・随縁一体にして二相を分かたざる体なり、大真如門において且く二義を以って分別するが為に不変・随縁の二種と名づく」とある。

ここに、妙体とは、直ちに「万法の自体を摂す」と述べているように、森羅万法・万象の「自体」すなわち、ありのままのところが妙体であるが、しかし、この諸法の自体を捉える側の機根の程度の相違に応じて、同じ諸法の自体も異なってあらわれている、というのである。まず、法華経迹門の対告衆である凡夫・二乗の機情にとっては、諸法の自体は「不変真如の一理」となる。凡夫・二乗の機情は、不変真如の一理を目標として設定して、これに向かって修行していった果てに、この一理に帰していく、という在リ方がふさわしいのである。

これに対して、法華経本門の衆生に対しては、久遠の仏の生命の事実に即して妙体を明かすのであるが、これを「随縁真如の事」という。

更に、観心門という究極の機根においては、不変真如・随縁真如の同一不二、理と事の同一不二、を表す「大真如」を妙体として説く、ということである。

逆にいえば、本来、諸法の自体としての「妙体」を説くときに、迹情に対しては「不変真如の理」、本門の衆生に対しては「随縁真如の事」というように、しばらく二義があるかのごとく分別して明かすということである。

さて、この修禅寺決の文を踏まえて本文をみると、大分真如の体、すなわち、観心門の究極の妙体について「不変・随縁の二種の真如を並びに証分の真如と名く本迹照等の相を分たず諸法の自性不可思議なるを蓮の体と為す」と説いている。この「証分の真如」とは、同じ個所の修禅寺決に「小分の真如」とあって、同じ意味と捉えるころができよう。すなわち、真如に不変と随縁の二種がある、とするのはどこまでも、大分真如それぞれの部分を説いているので「小分」の真如であり、部分的な証悟にすぎないのである。

これに対して、本門と迹門、寂と照などの相を分別せずに、諸法の自性が、言語道断・心行所滅の「不可思議」であることを悟る「大分真如」を「蓮の体」とするのである。

 

不変真如・随縁真如について

 

伝教大師の「三大章疏七面相承口決」には、この二種の真如について次のように説いている。すなわち「玄と文とは随縁不変二種の真如を以って本理と為し、摩訶止観の不二の大真如を以って本理と為す。不二の大真如とは又云く『真如の妙理に両種の義有り。随縁真如は縁起常住なり、不変真如は懝然常住なり、随縁不変、二種の真如は機に従いて別義あり、本性の真如は随縁不変の両相有すること無し。寂照不二の大相是なり』と。文に云く『寂照の二法は初後を言うと雖も二無く別無し。是を円頓止観と名づく』寂は是不変真如、照は是れ随縁真如なり」と。

すなわち、天台三大部のうち法華玄義と法華文句の二著は、随縁不変の二種の真如を本理とするのに対し、摩訶止観は、随縁・不変不二の大真如を本理とするのであり、この不二の大真如を、円頓止観の寂照不二の法理に即してみるとき、「寂」が不変真如、「照」が随縁真如、となるのである。

真如は、実相・法性・中道の異名であり、究極の悟りの内証であるが、これを、止観に約すと、「止」が「寂」で不変真如にあたり、「観」が「照」で随縁真如にあたるのである。

「寂照」の意義については、既に、十八円満の寂照円満の項でも触れたとおりであるが、止は森羅三千の諸法の真実の姿が「寂然」として不生不滅であることを表す。これが真如でいえば不変真如の側面にあたり、また、森羅三千の諸法の「理」となる。

観は森羅三千の諸法が寂然として不生不滅の理であることを悟った後、その悟りの智慧に基づいて、三千諸法をありのままに捉え返すとき、三千の諸法の一つ一つの法が差別相を持したまま、それぞれが流動しているダイナミックな姿をみることができる。これが、真如の随縁真如の側面であり、三千諸法を「事」として蘇生させた悟後の「智」となるのである。ゆえに「随縁真如の事」というのである。

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