十八円満抄 第十二章(天台宗の義も妙法五字に帰すを明かす)
上に挙ぐる所の法門は御存知為りと雖も書き進らせ候なり、十八円満等の法門能く能く案じ給うべし並びに当体蓮華の相承等日蓮が己証の法門等前前に書き進らせしが如く委くは修禅寺相伝日記の如し天台宗の奥義之に過ぐべからざるか、一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出でず敢て忘失すること勿れ敢て忘失すること勿れ、伝教大師云く「和尚慈悲有つて一心三観を一言に伝う」玄旨伝に云く「一言の妙旨なり一教の玄義なり」と云云、寿量品に云く「毎に自ら是の念を作す何を以てか 衆生をして無上道に入り速に仏身を成就することを得せしめん」と云云、毎自作是念の念とは一念三千生仏本有の一念なり、秘す可し秘す可し、恐恐謹言。
弘安三年十一月三日 日蓮花押
最蓮房に之を送る
現代語訳
上に挙げたところの法門はすでに御存知のことであるが、書いて差し上げたのである。十八円満等の法門をよくよく案じられるがよい。それとともに、当体蓮華の相承等日蓮が己証の法門等は前々に書きまいらせたとおりである。詳しいことは修禅寺相伝日記にあるとおりであり、天台宗の奥義はこれ以上のものはない。一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出ない。このことを決して忘れてはならない。決して忘れてはならない。伝教大師は「和尚は慈悲によって一心三観を一言で伝えた」といい、玄旨伝には「一言の妙旨である。一教の玄義である」と言っている。
法華経如来寿量品第十六には「何をもって、衆生を無上道に入らせ、速やかに仏身を成就することを得させようかと、仏は常に自ら念じているのである」と説いている「毎自作是念」の念とは一念三千であり衆生と仏に本有の一念である。秘すべきである、秘すべきである。恐恐謹言。
弘安三年十一月三日 日蓮花押
最蓮房に之を送る
語句の解説
当体蓮華の相承
一切衆生の当体が妙法蓮華経であるとの法門は天台家の深秘の法門である。その法門についての相承をいう。
玄旨伝
天台家の秘本とされている玄旨檀秘抄のこと。
無上道
種脱相対して、無上道とは文底下種の妙法であり、無上のなかの無上である。御義口伝には「無上道とは南無妙法蓮華経是なり」(0749:第十三但惜無上道の事:02)「今日蓮等の類いの心は無上とは南無妙法蓮華経・無上の中の極無上なり」(0727:第五無上宝聚不求自得の事:05)等とある。
一念三千生仏本有
「生仏」とは、衆生と仏のこと。一念三千の法門においては、衆生と仏とは本来「生仏不二」「生仏一如」として本から有ることをいう。すなわち、迷いの衆生も悟りを得た仏もただ一念・一心のあらわれにほかならず、この二つはそれぞれ別のものではなく、その本体は本来、一であること。
講義
本抄全体を締めくくられている部分である。
これまで述べられてきた種々の法門、十八円満の法門をよくよく思索しなさいと仰せられているとともに、日蓮大聖人が先に最蓮房に書かれた当体蓮華の法門と併せて、双方ともに天台宗の奥義の究極である、と説かれている。
しかし、その天台宗の奥義、例えば一心三観や一念三千の極理も、結局、南無妙法蓮華経の一言に尽き、かつ一言を出るものではないことを絶対に忘れてはならない、と厳しく戒められ、最後の「毎に自ら是の念を作さく、何を以ってか衆生をして、無上道に入り、速かに仏身を成就することを得せしめんと」という経文を釈されて、本抄を結ばれている。
当体蓮華の相承等日蓮が己証の法門等
当体蓮華の相承等とは、一切衆生の当体が妙法蓮華経であるという天台宗の深秘の法門についての相承ということである。
また、日蓮が己証の法門等とは「前前に書き進らせしが如く」と仰せのように、最蓮房に与えられた当体義抄のなかで説かれた法門をさしている。
このことは、当体義抄送状の次の文に明らかである。
「此の法門は妙経所詮の理にして釈迦如来の御本懐・地涌の大士に付属せる末法に弘通せん経の肝心なり、国主信心あらん後始めて之を申す可き秘蔵の法門なり、日蓮最蓮房に伝え畢んぬ」(0519:03)
一心三観・一念三千の極理は妙法蓮華経の一言を出でず敢て忘失すること勿れ
天台宗の奥義の法門である一心三観や一念三千の極理も、妙法蓮華経の五字の一言に収まり、妙法の一言を全く出ない、ということである。
すなわち、一心三観の観法にしても、一念三千の法門にしても、もとを正せば、法華経に説かれていた諸法実相の理を開したものである。ゆえに妙法蓮華経の五字の一言のなかに、一心三観も一念三千も収まってしまうのである。
なお、立正観抄には「止観一部は法華経に依つて建立す一心三観の修行は妙法の不可得なるを感得せんが為なり、故に知んぬ法華経を捨てて但だ観を正とするの輩は大謗法・大邪見・天魔の所為なることを、其の故は天台の一心三観とは法華経に依つて三昧開発するを己心証得の止観とは云う故なり」(0527:06)と仰せられて、法華経を捨てて一心三観を正行とする在り方を大謗法・天魔の所為と断ぜられている。
伝教大師云く「和尚慈悲有つて一心三観を一言に伝う」玄旨伝に云く「一言の妙旨なり一教の玄義なり」
一心三観や一念三千が妙法の一言を出ない、ということを伝教大師の言や玄旨伝の文を引用され裏付けておられるところである。
まず、伝教大師の文については、いかなる書に述べられたものか不明である。ここにある「和尚」はおそらく、伝教大師が相承を受けた行満か道邃のいずれかであろうと思われるが、一心三観の観法を解行するに困難な衆生のために、慈悲をもって一心三観を一言でもって伝え、これを修行するように教える、というものである。ここでいう「一言」が妙法蓮華経の五字であることはいうまでもないところであろう。
次の「玄旨伝」とは「玄師伝」とも書き、天台大師の玄旨を伝えた相伝の書である玄旨檀秘法のこと。とくに天台の一心三観や一念三千等の極理を相伝したものとされる。この書のなかに「一言の妙旨・一教の玄義」というものがある。
「一言の妙旨」も「一教の玄義」もともに、妙法蓮華経の五字を表わしている。とくに「一言の妙旨」の「一言」は妙法蓮華経の一言をいい、「一教の玄義」の「一教」は法華経をさし、その「玄義」とは、その所詮の理である妙法蓮華経をさしている。
なお、この「一言の妙旨」に関して、立正観抄において、伝教大師の血脈の文を引用されているので、参考のために挙げておきたい。
「夫れ一言の妙法とは両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし、故に此の一言を聞くに万法茲に達し一代の修多羅一言に含す」(0531:16)と。
毎自作是念の念とは一念三千生仏本有の一念なり、秘す可し秘す可し
法華経寿量品第十六の最後にある「毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、速成就仏身」のなかにある「念」の一字について、その奥義を説かれたところである。
この寿量品の文は、仏が衆生を常に思う慈悲の念を述べたもので、仏は久遠以来、常に、どうすれば衆生をして無上の道に入らしめ、速やかに仏身を成就させることができるかについて、念じ続けている、という内容である。
この「念」について、大聖人は「一念三千生仏本有の一念なり」と仰せられている。すなわち、この「念」は、当然のことながら、久遠以来の仏の念に即して述べられたものであるが、大聖人は、一念三千の法門に照らしたとき、この仏の「念」はそのまま衆生の一念であるとの立場から、このように述べられたのである。
すなわち、一念三千の法門においては、一念に十界を具すことがその根本の基盤であるから、本来、一念といえば、仏界も衆生としての九界も、ともに具しているのであり、逆にこの一念は仏の一念であるとともに、衆生の一念でもある。
この仏も衆生も本来、等しく見えている一念とは、妙法蓮華経にほかならない。
この法理はしかし、究極の法門であるがゆえに、大聖人は「秘す可し秘す可し」と仰せられて本抄を結ばれているのである。