本抄は、武蔵公御房という人に十住毘婆娑論を探すよう依頼された御手紙である。御真筆は現存しない。

武蔵公という人についても不詳で、御執筆時期についても「十月十四日」とあるだけで、年次の記載はない。ただし、本抄にお述べになっている内容、また他の御抄との関連のうえから、正元元年(1259)と推定される。

この御手紙で大聖人は、念仏の破折に関連して十住毘婆娑論を求められている。大聖人は諸御抄で念仏の破折をされているが、特に守護国家論でこれを用いて破折されている。守護国家論は正元元年(1259)の御述作なので、同時期の書と考えられるのである。これは次の武蔵殿御消息と一連をなすものと考えられる。

まず、最初に、武蔵前司の使いによって念仏者を召し合わせられたことが述べられている。ここでいわれている武蔵前司とは北条朝直であろう。

大聖人の時代に武蔵の国主となり、職を退いた後、前司と名乗った人は泰時・朝直・宣時の三人であるが、泰時は大聖人が立宗される以前に亡くなっており、また宣時が武蔵前司と呼ばれたのは文永10(1273)以後で、大聖人が佐渡流罪中以降であるから、問答対論の機会はなく、また宣時は種種御振舞御書等によると、御教書を偽造して大聖人を亡き者にしようとしたくらいであるから、念仏者と対論させるなどという公平なことはしなかったであろう。とすると、朝直ということになる。朝直も念仏を信仰していたので、念仏者と対論させようとしたことは、類推できる。

この朝直が武蔵前司と称していた期間は、康元元年(1256)から文永元年(1264)までであり、このことからも、本抄御執筆と推定できる正元元年(1259)の期間と符号する。また本抄中に出てくる「十郎」についても末詳であるが、幕府の役人であったのではなかろうか。

さて、大聖人は建長5(1253)の立宗以来、特に念仏を中心に強く破折された、そこでこのころ、念仏者との対論も多かったのであろう。大聖人がどれほど一切経に精通しておられたかを知らない諸宗の者達は、大聖人何するものぞと、たかをくくっていたのかも知れない。

大聖人は今後、本格的な対論の機会もあるかもしれないとお考えになり、守護国家論、さらには立正安国論の御述作に進まれたものと拝される。

ここで本抄で触れられている十住毘婆娑論について、守護国家論を中心にして、少し述べておきたい。十住毘婆娑論は、竜樹の造とされており、華厳経の十地品の解釈の書である。

この十住毘婆娑論のなかに、易行について述べられた箇所がある。菩薩の行に難行と易行があるとし、仏・菩薩の名号を称えて祈念することにより不退の位に入ることを述べている。ここでは一切諸仏、諸菩薩であって、特定の仏を念ずることをのべたのではないが、中国浄土教の一人・曇鸞は、その著・往生論註において阿弥陀仏を易行としたのである。その後道綽は同じくその意を受けて聖道門と浄土門の立て分けをしていた。

大聖人は守護国家論で十住毘婆娑論でこうした構成を述べられた後曇鸞や道綽の修行を難行・易行や聖道・浄土道綽に分けたが、ともに法華・涅槃をこの両者に含めないことを指摘されている。つまり、十住毘婆娑論の立て分けは法華・涅槃以前の経について難行・易行を立てたものであるということである。

そうであるのに、日本の法然は選択集でこれらの論をさらに拡大解釈して、法華・涅槃をも雑行・聖道門の教えにしてしまった。選択集に「之に準して之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」と述べ、密大乗経や実大乗経まで雑行のなかに入れてしまったのである。

しかし、これは誤りであり、そのことは十住毘婆娑論に二乗作仏を許してないことから明白であり、「若し二乗地に堕すれば畢境して仏道を遮す」等の文がそうであると仰せである。

大聖人は、法然が十住毘婆娑論を援用し、また曇鸞や道綽の教えを用いながら、実は己義をまじえて邪見を展開したことを、十住毘婆娑論の文証を引用して破折されているのである。

念仏者達は、盛んに十住毘婆娑論を援用し、曇鸞や道綽等の義を借りて念仏の正当性を主張していた。その根源は法然の邪義にある。大聖人は十住毘婆娑論の確かな証拠をもって、念仏、なかんずく法然の邪義を破折するため十住毘婆娑論の収集を武蔵公に依頼して求められたのであろう。

なお、武蔵公については不詳ではあるが、本抄で十住毘婆娑論の収集を依頼されていることや、次の御抄「武蔵殿御消息」で法華八講をいつ行うのか尋ねられていることから考えると、天台の学僧ということも考えられる。また、兵衛志殿御返事に「鵞目二貫文・武蔵房円日を使にて給び候い畢んぬ」(1089:01)とあり、もし、この「武蔵房日円」と同一人物であるとすれば、池上家と姻戚か縁故の人であったことも考えられる。

後半は武蔵公の返書であろうと思われる。すなわち、大聖人から依頼のあった十住毘婆娑論を14巻拝上する旨を述べている。1巻だけは不足していたものか。十住毘婆娑論は現在大正新脩大蔵経に収められているものは17巻であるが、他に16巻・15巻のものがあり、武蔵公が所持していたものは全16巻のうちの15巻であろう。大聖人が御覧になった後は草々に返却してほしい旨依頼されていることから考えると、よほど貴重な資料であったのだろう。

昨日の論断を大変にありがたく思ったと述べ、五十展転の随喜であると語っている。五十展転の功徳は直接聞いた者の功徳でなく、人づてに聞いた者の随喜の功徳であるから、武蔵公も又聞きだったのかもしれない。

「昨日」の「論談」が大聖人が仰せの念仏者との対論であるのか、全く別のことであるかは、明確でない。対論が頻繁に行われたとは考え難いから、法門に関する説法とも考えられる。袴品を賜りたいとのべているが、袴品が何を意味するかも不明である。

また大聖人の御手紙に「十月十四日」とあるのに対し武蔵公の返書が「十月一日」とあり、矛盾が生じるが、当時の暦からすると正元元年十月には閏月があり、武蔵公の返書は閏十月一日であったかもしれない。