昨日、武蔵前司殿の使いとして、念仏者等、召しあわせられて候いしなり。また十郎の使いにて候わんずるか。
十住毘婆沙論を内々見るべきこと候。万事を抛って尋ね出だし給い候え。
十月十四日 日蓮 花押
武蔵公御房
〈武蔵公からの書状〉
十住毘婆沙論十四巻拝上せしむ。今一巻は求め失せ候なり。御要以後は、早々に返し給わるべく候。愚身も必ず必ず参り候いて承るべく候。昨日の論談〈五十展転の随喜〉、誠にもって有り難く候。また袴品賜るべし。あなかしこ、あなかしこ。恐々謹言。
十月十一日 判
日蓮阿闍梨御房
現代語訳
昨日、武蔵前司殿の使によって、念仏者等と召し合わせられた。また、十郎の使いであったろうか。十住毘婆娑論を内々見たことがある。万事を差し置いて探し出していただきたい。
十月十四日 日蓮 在 御 判
武蔵公御房
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十住毘婆娑論十四巻をお送りします。あと一巻は手に入りませんでした。お使いになった後は、早々にお返しください。私も必ず参りまして承りたいと思います。昨日の論談=五十展転の随喜は実に有り難いことです。また袴品を賜わりたいと思います。穴賢穴賢、恐恐。
十月十一日 判
日蓮阿闍梨御房
語句の解説
武蔵前司
武蔵国の前の国司のこと。武蔵国は現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部。鎌倉時代には幕府の重臣が国司となっていた。北条家では泰時・朝直・経時・長時・宣時・義政などが国司の任についている。
念仏者
念仏宗(浄土宗)を信じる人・僧侶。念仏とは本来は、仏の相好・功徳を感じて口に仏の名を称えることをいった。しかし、ここでは浄土宗の別称の意で使われている。浄土宗とは、中国では曇鸞・道綽・善導等が弘め、日本においては法然によって弘められた。爾前権教の浄土の三部経を依経とする宗派であり、日蓮大聖人はこれを指して、念仏無間地獄と決定されている。
十郎
詳細は不明。種種御振舞御書に出てくる「十郎入道」とすれば、幕府の内情に通じていた北条家の直参と思われる。佐渡御書に出てくる「大蔵たうのつじ十郎入道」は別人と思われる。
十住毘婆沙論
竜樹の造。羅什の訳で十七巻からなる。華厳経十地品の初地、二地を釈したもので、難行道・易行道の文は第五巻「易行品」にある。爾前経について難易を論じたもので法然のごとく法華経までいわれたものではない。
五十展転
法華経を聞いて随喜した人が次々に他人に語り伝え、50人目になってもその功徳があるということ。随喜功徳品には「是の如く第五十人の展転して、法華経を聞いて随喜せん功徳、尚無量無辺阿僧祇なり」とある。展転とは、ころがる、めぐるの意で、教法を人から人へと伝えていくこと。この50番目の人が法を聞いて、随喜する功徳は、400万億阿僧祇の世界の衆生に80年にわたり楽具、珍宝等を供養し、阿羅漢果を得させる功徳よりも、はるかにすぐれていると説いている。化他の功徳を欠く50番目の者さえ功徳が絶大であることを説いて、一番目の自行・化他を具足する者の功徳がいかに大きいかをあらわしている。
講義
本抄は、武蔵公御房という人に十住毘婆娑論を探すよう依頼された御手紙である。御真筆は現存しない。
武蔵公という人についても不詳で、御執筆時期についても「十月十四日」とあるだけで、年次の記載はない。ただし、本抄にお述べになっている内容、また他の御抄との関連のうえから、正元元年(1259)と推定される。
この御手紙で大聖人は、念仏の破折に関連して十住毘婆娑論を求められている。大聖人は諸御抄で念仏の破折をされているが、特に守護国家論でこれを用いて破折されている。守護国家論は正元元年(1259)の御述作なので、同時期の書と考えられるのである。これは次の武蔵殿御消息と一連をなすものと考えられる。
まず、最初に、武蔵前司の使いによって念仏者を召し合わせられたことが述べられている。ここでいわれている武蔵前司とは北条朝直であろう。
大聖人の時代に武蔵の国主となり、職を退いた後、前司と名乗った人は泰時・朝直・宣時の三人であるが、泰時は大聖人が立宗される以前に亡くなっており、また宣時が武蔵前司と呼ばれたのは文永10年(1273)以後で、大聖人が佐渡流罪中以降であるから、問答対論の機会はなく、また宣時は種種御振舞御書等によると、御教書を偽造して大聖人を亡き者にしようとしたくらいであるから、念仏者と対論させるなどという公平なことはしなかったであろう。とすると、朝直ということになる。朝直も念仏を信仰していたので、念仏者と対論させようとしたことは、類推できる。
この朝直が武蔵前司と称していた期間は、康元元年(1256)から文永元年(1264)までであり、このことからも、本抄御執筆と推定できる正元元年(1259)の期間と符号する。また本抄中に出てくる「十郎」についても末詳であるが、幕府の役人であったのではなかろうか。
さて、大聖人は建長5年(1253)の立宗以来、特に念仏を中心に強く破折された、そこでこのころ、念仏者との対論も多かったのであろう。大聖人がどれほど一切経に精通しておられたかを知らない諸宗の者達は、大聖人何するものぞと、たかをくくっていたのかも知れない。
大聖人は今後、本格的な対論の機会もあるかもしれないとお考えになり、守護国家論、さらには立正安国論の御述作に進まれたものと拝される。
ここで本抄で触れられている十住毘婆娑論について、守護国家論を中心にして、少し述べておきたい。十住毘婆娑論は、竜樹の造とされており、華厳経の十地品の解釈の書である。
この十住毘婆娑論のなかに、易行について述べられた箇所がある。菩薩の行に難行と易行があるとし、仏・菩薩の名号を称えて祈念することにより不退の位に入ることを述べている。ここでは一切諸仏、諸菩薩であって、特定の仏を念ずることをのべたのではないが、中国浄土教の一人・曇鸞は、その著・往生論註において阿弥陀仏を易行としたのである。その後道綽は同じくその意を受けて聖道門と浄土門の立て分けをしていた。
大聖人は守護国家論で十住毘婆娑論でこうした構成を述べられた後曇鸞や道綽の修行を難行・易行や聖道・浄土道綽に分けたが、ともに法華・涅槃をこの両者に含めないことを指摘されている。つまり、十住毘婆娑論の立て分けは法華・涅槃以前の経について難行・易行を立てたものであるということである。
そうであるのに、日本の法然は選択集でこれらの論をさらに拡大解釈して、法華・涅槃をも雑行・聖道門の教えにしてしまった。選択集に「之に準して之を思うに応に密大及以び実大をも存すべし」と述べ、密大乗経や実大乗経まで雑行のなかに入れてしまったのである。
しかし、これは誤りであり、そのことは十住毘婆娑論に二乗作仏を許してないことから明白であり、「若し二乗地に堕すれば畢境して仏道を遮す」等の文がそうであると仰せである。
大聖人は、法然が十住毘婆娑論を援用し、また曇鸞や道綽の教えを用いながら、実は己義をまじえて邪見を展開したことを、十住毘婆娑論の文証を引用して破折されているのである。
念仏者達は、盛んに十住毘婆娑論を援用し、曇鸞や道綽等の義を借りて念仏の正当性を主張していた。その根源は法然の邪義にある。大聖人は十住毘婆娑論の確かな証拠をもって、念仏、なかんずく法然の邪義を破折するため十住毘婆娑論の収集を武蔵公に依頼して求められたのであろう。
なお、武蔵公については不詳ではあるが、本抄で十住毘婆娑論の収集を依頼されていることや、次の御抄「武蔵殿御消息」で法華八講をいつ行うのか尋ねられていることから考えると、天台の学僧ということも考えられる。また、兵衛志殿御返事に「鵞目二貫文・武蔵房円日を使にて給び候い畢んぬ」(1089:01)とあり、もし、この「武蔵房日円」と同一人物であるとすれば、池上家と姻戚か縁故の人であったことも考えられる。
後半は武蔵公の返書であろうと思われる。すなわち、大聖人から依頼のあった十住毘婆娑論を14巻拝上する旨を述べている。1巻だけは不足していたものか。十住毘婆娑論は現在大正新脩大蔵経に収められているものは17巻であるが、他に16巻・15巻のものがあり、武蔵公が所持していたものは全16巻のうちの15巻であろう。大聖人が御覧になった後は草々に返却してほしい旨依頼されていることから考えると、よほど貴重な資料であったのだろう。
昨日の論断を大変にありがたく思ったと述べ、五十展転の随喜であると語っている。五十展転の功徳は直接聞いた者の功徳でなく、人づてに聞いた者の随喜の功徳であるから、武蔵公も又聞きだったのかもしれない。
「昨日」の「論談」が大聖人が仰せの念仏者との対論であるのか、全く別のことであるかは、明確でない。対論が頻繁に行われたとは考え難いから、法門に関する説法とも考えられる。袴品を賜りたいとのべているが、袴品が何を意味するかも不明である。
また大聖人の御手紙に「十月十四日」とあるのに対し武蔵公の返書が「十月一日」とあり、矛盾が生じるが、当時の暦からすると正元元年十月には閏月があり、武蔵公の返書は閏十月一日であったかもしれない。