実相寺御書 第一章
建治4年(ʼ78)1月16日 57歳 豊前房
新春の御札の中に云わく、駿河国実相寺の住侶・尾張阿闍梨と申す者、玄義の四の巻に涅槃経を引いて小乗をもって大乗を破し大乗をもって小乗を破するをば盲目の因なりと釈せらるるの由、申し候なるは、実にて候やらん。
反詰して云わく「小乗をもって大乗を破し大乗をもって小乗を破する者盲目ならば、弘法大師・慈覚大師・智証等は、されば盲目となり給いたりけるか。善無畏・金剛智・不空等は盲目と成り給うとのたもうか」とつめよ。
玄義の四に云わく「問う。法華に麤を開し、麤は皆妙に入る。涅槃は、何の意もてさらに次第の五行を明かすや。答う。法華は、仏世の人のために権を破して実に入る。また麤有ることなく、教意整足せり。涅槃は、末代の凡夫の、見思の病重く、一実を定執して方便を誹謗し、甘露を服すといえども、事に即して真なること能わず、命を傷なって早夭するがための故に、戒・定・慧を扶けて大涅槃を顕す。法華の意を得ば、涅槃において次第の行を用いざるなり」。
籤の四に云わく「次に料簡の中に『戒・定・慧を扶けて』と言うは、事戒・事定なり。前の三教の慧はならびに事法を扶けんがための故なり。つぶさには止観の対治助開の中に説くがごとし。今時の行者、あるいは一向に理を尚ぶときは、則ち己聖に均しと謂い、および実を執して権を謗ず。あるいは一向に事を尚ぶときは、則ち功を高位に推り、および実を謗じて権を許す。既に末代に処して聖旨を思わざれば、それ、誰かこの二つの失に堕せざらん。法華の意を得れば、則ち初後ともに頓なり。請う。心を揣り臆を撫で、自ら沈浮を暁れ」等云々。
この釈に迷惑する者か。この釈は、詮ずるところ、「あるいは一向に理を尚ぶ」とは達磨宗に等しきなり。「および実を執して権を謗ず」とは華厳宗・真言宗なり。「あるいは一向に事を尚ぶ」とは浄土宗・律宗なり。「および実を謗じて権を許す」とは法相宗なり。
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現代語訳
新春の賀状を拝見すると、駿河国岩本実相寺の住僧の尾張阿闍梨という者が、法華玄義巻四に涅槃経を引いて、小乗教をもって大乗教を破し、大乗教をもって小乗教を破するのは、盲目の因である、と解釈されていると言っているそうであるが、事実であろうか。不審なことなり。
もし、小乗教をもって大乗教を破し、大乗教をもって小乗教を破する者が盲目となるというならば、弘法大師・慈覚大師・智証大師等は、それでは盲目となったのであろうか、善無畏・金剛智・不空等は盲目となったと言われるのかと反詰しなさい。
尾張阿闍梨は、法華玄義巻四に「問う、法華経で麤法を開会して皆妙法に帰入せしめたのに、涅槃経ではどのような意味で、更に次第の五行を明かすのか。答う、法華経は、仏在世の人のために権教を破して実教に入れてしまったので、麤法は無くなり、仏の化導は完了したのである。涅槃経は、末法の凡夫の見惑・思惑の病が重く、唯一の実教に執着して方便教を誹謗し、甘露を服しても、事に即して真を悟ることができず、命を傷つけて早く死んでしまうために、戒・定・慧の三学を扶けて大涅槃の悟りを顕すために説かれたのである。法華経の意を悟れば、涅槃経の次第の五行を用いる必要はないのである」とあり、法華玄義釈籤巻四に次の料簡の中で『戒定慧を扶けて』というのは、事の戒、事の禅定、蔵通別の三教の智慧、並びに事法を扶けることである。詳しくは摩訶止観の『対治助開』の中に説かれているようなものである。今日の行者を見ると、或は、一向に理を尚ぶ者は、自己を仏に等しいというとともに、実教に執着して権教を謗じている。或は、一向に事を尚ぶ者は、修行の功徳は高位の人に推り、実教を謗じて権教を許している。既に末法に入って、仏の真意を理解できず、そのために、誰がこの二つの過失に堕ちないことがあるだろうか。法華経の意を悟れば、初めの者も後の者もともに仏である。願わくは、仏道修行をする者は、心を思量し、思いをめぐらし、自分の浮沈を暁らかにすべきである」とあるのを読み違えている者であろう。
この解釈の結論は、或は「一向に理を尚ぶ」とは禅宗と同じであり、および「実に執して権を謗ず」とは華厳宗・真言宗である。或は「一向に事を尚ぶ」とは浄土宗・律宗である。及び「実を謗り権を許す」とは法相宗である。
語句の解説
駿河の国
東海道15ヵ国のひとつ。現在の静岡県中央部。駿州ともいう。富士の裾野の要衝の地で、古代から農耕文化が開け、平安時代には上国となり、伊勢神宮の荘園が設けられた。鎌倉時代には北条得宗家の領地となっている。日興上人はこの地の四十九院で修学されている。身延入山後の布教の展開地でもあり、熱原法難の起こった地域でもある。
実相寺
静岡県富士宮市岩本にある寺院。岩本山と号する。久安年間(1145~1151)智印によって開基され、天台宗寺門寺派に属していた。一切経を蔵していたので、日蓮大聖人は、正嘉2年(1258)当寺を訪ねられ、一切経を具に閲読され、立正安国論の構想を練られている。また大聖人の同寺滞在中に日興上人が弟子となり、上人の化導で、何人かの学僧が大聖人門下になっている。現在は日蓮宗寺院になっている。
尾張阿闍梨
生没年不明。大聖人御在世当時の岩本実相寺の僧。建治・弘安年間に法門を歪曲し、大聖人門下を誹謗している。
玄義
天台三大部のひとつ。妙法蓮華経玄義。全10巻からなり、天台大師が法華経の幽玄な義を概説したものであって、法華経こそ一代50年の説法中最高であることを明かしたもの。隋の開皇12年、天台55歳において荊州において講述し、弟子の章安が筆録した。本文の大網は、釈尊一代50年の諸教を法華経を中心に、釈名・弁体・明宗・論用・教判の5章、すなわち名・体・宗・用・経の五重玄に約して論じている。なかでも、釈名においては、妙法蓮華経の五字の経題をもとにして、法華経の玄義をあらゆる角度から説いており、これが本書の大部分をなしている。
涅槃経
釈尊が跋提河のほとり、沙羅双樹の下で、涅槃に先立つ一日一夜に説いた教え。大般涅槃経ともいう。①小乗に東晋・法顯訳「大般涅槃経」2巻。②大乗に北涼・曇無識三蔵訳「北本」40巻。③栄・慧厳・慧観等が法顯の訳を対象し北本を修訂した「南本」36巻。「秋収冬蔵して、さらに所作なきがごとし」とみずからの位置を示し、法華経が真実なることを重ねて述べた経典である。
小乗
小乗教のこと。仏典を二つに大別したうちのひとつ。乗とは運乗の義で、教法を迷いの彼岸から悟りの彼岸に運ぶための乗り物にたとえたもの。菩薩道を教えた大乗に対し、小乗とは自己の解脱のみを目的とする声聞・縁覚の道を説き、阿羅漢果を得させる教法、四諦の法門、変わり者、悪人等の意。
大乗
仏法において、煩雑な戒律によって立てた法門は、声聞・縁覚の教えで、限られた少数の人々しか救うことができない。これを、生死の彼岸より涅槃の彼岸に渡す乗り物に譬え小乗という。法華経は、一切衆生に皆仏性ありとし、妙境に縁すれば全ての人が成仏得道できると説くので、大乗という。阿含経に対すれば、華厳・阿含・方等・般若は大乗であるが、法華経に対しては小乗となり、三大秘法に対しては、他の一切の仏説は小乗となる。
弘法大師
(0774~0835)。平安時代初期、日本真言宗の開祖。諱は空海。弘法大師は諡号。姓は佐伯氏。幼名は真魚。讃岐国(香川県)多度郡の生まれ。桓武天皇の治世、延暦12年(0793)勤操の下で得度。延暦23年(0804)留学生として入唐し、不空の弟子である青竜寺の慧果に密教の灌頂を禀け、遍照金剛の号を受けた。大同元年(0806)に帰朝。弘仁7年(0816)高野山を賜り、金剛峯寺の創建に着手。弘仁14年(0823)東寺を賜り、真言宗の根本道場とした。仏教を顕密二教に分け、密教たる大日経を第一の経とし、華厳経を第二、法華経を第三の劣との説を立てた。著書に「三教指帰」3巻、「弁顕密二教論」2巻、「十住心論」10巻、「秘蔵宝鑰」3巻等がある。
慈覚大師
(0794~0864)。比叡山延暦寺第三代座主。諱は円仁。慈覚は諡号。15歳で比叡山に登り、伝教大師の弟子となった。勅を奉じて承和5年(0838)入唐して梵書や天台・真言・禅等を修学し、同14年(0847)に帰国。仁寿4年(0854)、円澄の跡を受け延暦寺の座主となった。天台宗に真言密教を取り入れ、真言宗の依経である大日経・金剛頂経・蘇悉地経は法華経に対し所詮の理は同じであるが、事相の印と真言とにおいて勝れているとした。「金剛頂経疏」7巻、「蘇悉地経疏」7巻等がある。
智証大師
(0814~0891)。比叡山延暦寺第五代座主。諱は円珍。智証は諡号。慈覚以上に真言を重んじ、仏教界混濁の源をなした。讃岐(香川県)に生まれる。俗姓は和気氏。15歳で叡山に登り、義真に師事して顕密両教を学んだ。勅をうけて仁寿3年(0853)入唐し、天台と真言とを諸師に学び、経疏一千巻を招来し帰国した。貞観10年(0868)延暦寺の座主となる。著書に「授決集」2巻、「大日経指帰」一1巻、「法華論記」10巻などがある。
善無畏
(0637~0735)。中国・唐代の真言密教の僧。もとは東インド烏仗那国の王子で、13歳の時国王となったが、兄のねたみを受けたので、王位を譲り出家した。ナーランダ寺で密教を学んだ後、中国に渡り、唐都・長安で玄宗皇帝に国師として迎えられ、興福寺、西明寺に住して経典の翻訳にあたった。中国に初めて密教を伝え、「大日経」七巻、「蘇婆呼童子経」三巻、「蘇悉地羯羅経」三巻などの密教経典を訳出した。また、一行禅師に大日経を講じて「大日経疏」を造ったが、その中で、法華経の一念三千の法門を盗んで大日経に入れ、理同事勝の邪義を立てた。同時代の金剛智、不空とともに三三蔵の一人に挙げられる。
金剛智
(0671~0741)。インドの王族ともバラモンの出身ともいわれる。10歳の時那爛陀寺に出家し、寂静智に師事した。31歳のとき、竜樹の弟子の竜智のもとにゆき7年間つかえて密教を学んだ。のち唐土に向かい、開元8年(0720)洛陽に入った。弟子に不空等がいる。
不空
(0705~0774)。中国・唐代の真言密教の僧。不空金剛のこと。北インドの生まれで幼少のころ、中国に渡り、15歳の時、金剛智に従って出家した。開元29年(0741)帰国の途につき、師子国に達したとき竜智に会い、密蔵および諸経論を得て、天宝5年(0746)ふたたび唐に帰る。玄宗皇帝の帰依を受け、浄影寺、開元寺、大興寺等に住し、密教を弘めた。「金剛頂経」三巻、「一字頂輪王経」五巻など百十部百四十三巻の経を訳し、羅什、玄奘、真諦とともに中国の四大翻訳家の一人に数えられている。
次第の五行
菩薩の五種の行法のこと。涅槃経巻十一に説かれる。聖行・梵行・天行・嬰児行・病行をいう。聖行とは、戒定慧の三学等によって修する自行の菩薩行。梵行とは、浄心をもって衆生を救う菩薩行。天行とは、天然の理によって成ずる菩薩行。嬰児行とは、人天小乗の小善に示現してこれを救う菩薩行。病行とは、凡夫の煩悩に同じ病苦を示して凡夫を救う菩薩行をいう。この五行のおのおのに順序次第がある。故に次第の五行という。
見思の病
見惑・思惑を病にたとえたもの。見惑は意識が法境に縁して起こる煩悩で、物事の理に迷って起こす身見・辺見・邪見・見取見・戒禁取見等の妄見をいう。思惑は五識(眼・耳・鼻・舌・身)が五境(色・声・香・味・触)に縁して起こる煩悩で、事物に執着して起こす貧・瞋・癡等の妄情をいう。
甘露
①梵語のアムリタ (amṛta)で不死・天酒のこと。忉利天の甘味の霊液で、よく苦悩をいやし、長寿にし、死者を復活させるという。②中国古来の伝説で、王者が任政を行えば、天がその祥瑞として降らす甘味の液。③煎茶の上等なもの④甘味の菓子。
戒・定・慧
「戒」は戒律、防非止悪。「定」は禅定、心を静めて悟りを開くこと。「慧」は智慧、煩悩を断破して真理の本性をえること。日蓮大聖人の仏法においては、定を本門の本尊、戒を本門の戒壇、慧を本門の題目とし、三学を三大秘法とする。
釈籤
法華玄義釈籤のこと。天台の法華玄義を妙楽が注釈した書。10巻からなる。
持戒
「戒」とは戒・定・慧の三学のひとつで、仏法を修業する者が守るべき規範をいう。心身の非を防ぎ悪を止めることをもって義とする。戒を受け、身口意の三業で持つこと。
事定
事相の禅定のこと。小乗・権大乗の爾前の諸教で説く一切の禅定のこと。
前三教の慧
天台の立てた化法の四教の中の円教を除く蔵教・通教・別教に説かれる智慧のこと。蔵教の智慧とは、諸法を分析して空と観る智慧。通教の智慧とは、諸法の本体に即して空と観る智慧。別教の智慧とは、諸法は但空・但仮・但中であるという隔歴の三諦と観る智慧。
止観
摩訶止観のこと。天台大師智顗が荊州玉泉寺で講述したものを章安大師が筆録したもの。法華玄義・法華文句と合わせて天台三大部という。諸大乗教の円義を総摂して法華の根本義である一心三観・一念三千の法門を開出し、これを己心に証得する修行の方軌を明かしている。摩訶は梵語マカ(mahā)で、大を意味し「止」は邪念・邪想を離れて心を一境に止住する義。「観」は正見・正智をもって諸法を観照し、妙法を感得すること。法華文句と法華玄義が教相の法門であるのに対し、摩訶止観は観心修行を説いており、天台大師の出世の本懐の書である。
対治助開
天台大師が立てた十乗観法の第七。摩訶止観巻七に説かれる。助道対治ともいう。比較的身近で浅い修行を助けとして用いることによって、止観の礙げとなるものを取り除くこと。多く六波羅蜜、五停心(不浄観、慈悲観、因縁観、界分別観、数息観)が修される。
一向に理を尚ぶ
明楽の法華玄義釈籤9で、法華玄義巻4下の「一実を定執して方便を誹謗す」を釈した文中の文。差別の事相を遺れて、専ら平等の理のみを尊重することをいう。現実を離れ、空理や観念の世界にとらわれてしまうこと。禅宗では、座禅という一種の瞑想修行により、自分の心を内観することに専心し、自分を仏にひとしいとするが故にこれにあたる。
達磨宗
禅宗のこと。禅定観法によって開悟に至ろうとする宗派。菩提達磨を初祖とするので達磨宗ともいう。仏法の真髄は教理の追及ではなく、坐禅入定の修行によって自ら体得するものであるとして、教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏などの義を説く。この法は釈尊が迦葉一人に付嘱し、阿難、商那和修を経て達磨に至ったとする。日本では大日能忍が始め、鎌倉時代初期に栄西が入宋し、中国禅宗五家のうちの臨済宗を伝え、次に道元が曹洞宗を伝えた。
執実謗権
「実を執して権を謗ず」と読む。妙楽大師が法華玄義釈籤巻9で、法華玄義巻4下の「一実を定執して方便を誹謗す」を釈した文中の文。実教に執着して権教を謗ずること。華厳宗・真言宗では法華経の法理である即身成仏・一乗真実三乗方便の理を説くが、一乗のみを強調し、三乗を一乗に開会するとは説いていない。故に事と理、差別と平等、方便と真実等が一体不二であるという相互の関係を無視して、一方に徧する誤りをおかしているために、これにあたる。
華厳宗
華厳経を依経とする宗派。円明具徳宗・法界宗ともいい、開祖の名をとって賢首宗ともいう。南都六宗の一つ。一切経の中で華厳経が最高であるとし、万物の相関関係を説く法界縁起によって悟りの極致に達するとする。東晋代に華厳経が中国に伝訳され、杜順、智儼を経て賢首によって教義が大成された。賢首は五教十宗の教判を立てて、華厳経が最高の教えであるとした。日本には天平8年(0736)に、唐僧の道璿が伝え、同12年(0740)に、新羅の僧・審祥が華厳経を講じて日本華厳宗の祖とされる。
真言宗
大日経・金剛頂経・蘇悉地経等を所依とする宗派。大日如来を教主とする。空海が入唐し、真言密教を我が国に伝えて開宗した。顕密二教判を立て、大日経等を大日法身が自受法楽のために内証秘密の境界を説き示した密教とし、他宗の教えを応身の釈迦が衆生の機根に応じてあらわに説いた顕教と下している。なお、真言宗を東密(東寺の密教の略)といい、慈覚・智証が天台宗にとりいれた密教を台密という。
一向尚事
「一向に事を尚ぶ」と読む。妙楽大師が法華玄義釈籤巻9で、法華玄義巻4下の「一実を定執して方便を誹謗す」を釈した文中の文。事相・形式を重んずることをいう。一向尚理に対する語。浄土宗および律宗が、現実の差別の事相にとらわれて、円融円満の妙理を知らず、浄土宗は穢土を厭離して浄土を願い、律宗は煩瑣な戒律を構えるが故に、これにあたる。
浄土宗
阿弥陀仏の本願を信じ、その名号を称えることによって阿弥陀仏の極楽浄土に往生することを期す宗派。中国では、東晋代に慧遠を中心とする念仏結社の白蓮社が創設された。白蓮社は、念仏三昧を修して阿弥陀仏を礼拝したが、これが中国浄土教の始まりとされる。南北朝時代に、曇鸞がインドから来た訳経僧の菩提流支から観無量寿経を受けて浄土教に帰依し、その後、道綽、善導らに受け継がれて浄土念仏の思想が大成された。日本では法然が選択集を著して、仏教には聖道浄土の二門があり、時機相応の教えは浄土門であるとして浄土宗の宗名を立てた。そして、正依の経論を無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経と往生論の三経一論として開宗した。
律宗
戒律を修行する宗派。南都六宗の一つ。中国では四分律によって開かれた学派とその系統を受けるものをいい、代表的なものに唐代初期に道宣律師が開いた南山律宗がある。日本では、南山宗を学んだ鑑真が来朝し、天平勝宝6年(0754)に奈良・東大寺に戒壇院を設けた。その後、天平宝字3年(0759)に唐招提寺を開いて律研究の道場としてから律宗が成立した。更に下野(栃木県)の薬師寺、筑紫(福岡県)の観世音寺にも戒壇院が設けられ、日本中の僧尼がこの三か所のいずれかで受戒することになり、日本の仏教の根本宗として大いに栄えた。その後平安時代にかけて次第に衰えていき、鎌倉時代になって一時復興したが、その後、再び衰微した。
謗実許権
「実を謗じ権を許す」と読む。妙楽大師が法華玄義釈籤巻9で、法華玄義巻4下の「一実を定執して方便を誹謗す」を釈した文中の文。実教を謗じ、権教を許容すること。法相宗では権教である解深密経を依経として三乗真実、一乗方便と立て法華経を謗じているが故に、大聖人は謗実許権にあたると立てられた。
法相宗
解深密経、瑜伽師地論、成唯識論などの六経十一論を所依とする宗派。中国・唐代に玄奘がインドから瑜伽唯識の学問を伝え、窺基によって大成された。五位百法を立てて一切諸法の性相を分別して体系化し、一切法は衆生の心中の根本識である阿頼耶識に含蔵する種子から転変したものであるという唯心論を説く。また釈尊一代の教説を有・空・中道の三時教に立て分け、法相宗を第三中道教であるとした。さらに五性各別を説き、三乗真実・一乗方便の説を立てている。法相宗の日本流伝は一般的には四伝ある。第一伝は孝徳天皇白雉4年(0653)に入唐し、斉明天皇6年(0660)帰朝した道昭による。第二伝は斉明天皇4年(0658)、入唐した智通・智達による。第三伝は文武天皇大宝3年(0703)、智鳳、智雄らが入唐し、帰朝後、義淵が元興寺で弘めたとする。第四伝は義淵の門人・玄昉が入唐して、聖武天皇天平7年(0735)に帰朝して伝えたものである。
講義
本抄は建治4年(1278)正月16日に、日蓮大聖人が、駿河国賀島庄岩本(静岡県富士市)の実相寺の住僧・豊前房に与えられた御手紙である。御真筆は現存していないが、日興上人の御写本が存している。
豊前房については、日興上人の本尊分与帳に「駿河国岩本寺住の筑前房は豊前公同宿也日興の弟子也」「高橋筑前房の女子豊前房の妻は、日興の弟子也」という記述がある以外は明らかではない。実相寺の住僧で、日興上人によって大聖人門下となったものであろう。
本抄の内容は、実相寺の住侶である尾張阿闍梨が、法華玄義の文を曲解して、大聖人の折伏を経釈に背くものであるといって非難しているとの豊前房の報に対し、大聖人がその誤りに対し、正しい釈義を示して破折されたものである。
実相寺について
岩本実相寺は智印によって久安年間(1145年~1151)に開かれた比叡山横川の流れを汲む天台宗の大寺院で、如意輪観音を本尊としていた。智印の弟子末代が全国より集めた一切経の写経が経蔵に納められていたため、正嘉2年(1258)に日蓮大聖人が閲経され、その折に日興上人が御弟子となっている。
日興上人が幼少の折、最初に修学された蒲原庄の四十九院は、富士川をはさんで実相寺の対岸にあり、同じ天台宗として両寺一寺のような関係で、互いの交流も頻繁だったようである。本抄でも、末文で「四十九院等の事、彼の別当等は無智の者たる間……」等と、四十九院の内情にふれられているのも、実相寺の関係からすれば決して不自然ではない。
実相寺の三代院主・道暁は、源頼朝の弟・阿野全成の五男であったが、権勢におごって乱行の限りを尽くし、遂には真弟に実相寺を相続させようとした。その非を寺僧が幕府に訴えたために、長い間の紛糾の後に交替させられたのである。ところが、そのあとに幕府によって他所から天下りで来た第四代の院主は、更に悪行を重ね、実相寺を興廃させている。
そのため、文永5年(1268)8月、実相寺の大衆が幕府へ愁状を提出している。その実相寺大衆愁状の、日興上人の執筆されたものが北山本門寺に現存している。当時の公用文の漢文体で五千余字にわたる長文のもので、その内容は、実相寺に下ってきた幕府任命の四代院主が、僧にあるまじき非行を重ねている事実を五十一箇条にわたって述べ、このような不法の院主をやめさせて、実相寺内から院主を選ぶよう訴えている。
院主の非行の例としては、本堂や諸堂・経蔵・鐘桜・庵室・浴室などが破損しても修理をせず、必要な食堂も建てず、仏前に供える灯明の油や香を欠かし、仏事に酒盛りをやり、学頭も招かず、寺の庭を芋畑にかえ、池を埋めて田を作り、院主の坊に遊女を迎えて魚や鳥肉を食べ、寺僧をそうした醜事にこき使い、寺僧の坊や土地を奪いとって俗人に貸し与え、寺男や住民を責め殺すなどが挙げられている。日興上人がそれを執筆なさったのは寺僧から依頼されたということもあったろうが、幼少のころより縁の深い実相寺の醜状を憂えられ、自ら院主の追放と山規の粛正を訴える文案を草されたものであろう。残念ながら、愁状が提出された結果については明らかではない。
当時、日興上人は、四十九院に住坊を持っておられ、鎌倉で日蓮大聖人にお仕えするかたわら、しばしば四十九院、実相寺を中心に富士地方の縁故をたどって折伏・弘教に励まれた。そして、大聖人の佐渡流罪にお供して帰られてからは、一層駿河弘教に力を注がれた。その結果、四十九院では日持、日位、日源、実相寺内では筑前房、豊前房、肥後房、円乗房、下方庄熱原郷にあった同じ天台宗の滝泉寺では日秀、日弁、日禅などが、日興上人の門下となったのである。
こうして、四十九院、実相寺、滝泉寺と、富士地方の天台寺院に相ついで正法を信ずる者が生まれたことで、脅威を感じたのはそれらの寺の住職達だった。このままでは一山の大衆がことごとく日興上人の弟子となり、大聖人の仏法を信ずるようになってしまうと、怨嫉し憎悪の念をたぎらせて迫害を始めたのである。
建治2年(1276)ごろ、熱原の滝泉寺で「滝泉寺申状」に「日秀・日弁等は当寺代代の住侶として行法の薫修を積み天長地久の御祈祷を致すの処に行智は乍に当寺霊地の院主代に補し寺家・三河房頼円並に少輔房日禅・日秀・日弁等に行智より仰せて、法華経に於ては不信用の法なり速に法華経の読誦を停止し一向に阿弥陀経を読み念仏を申す可きの由の起請文を書けば安堵す可きの旨下知せしむるの間、頼円は下知に随つて起請を書いて安堵せしむと雖も日禅等は起請を書かざるに依つて所職の住坊を奪い取るの時・日禅は即ち離散せしめ畢んぬ、日秀・日弁は無頼の身たるに依つて所縁を相憑み猶寺中に寄宿せしむ」(御書全集852頁16行目)と記されているように、院主代・行智によって日興上人門下は不当にも住坊を奪われたのである。
四十九院や実相寺でも、日興上人に信伏する僧も少なくなかった半面、反対する大衆も多かったようで、実相寺では尾張阿闍梨、四十九院では院主の厳誉や小田一房などが中心となって、日興上人門下に非難中傷を加え、大聖人の仏法を誹謗していた。建治四年正月に新春を寿ぐ書状を身延の大聖人に差し上げた豊前房が、その中でそうした中傷の一端を御報告したことに対して著されたのが本抄なのである。
駿河の国・実相寺の住侶尾張阿闍梨と申す者・玄義四の巻に……
大聖人は、尾張阿闍梨が天台大師の法華玄義の文を曲解し、それを根拠にして大聖人が諸宗を破折することを非難していると聞かれ、玄義の文とそれを更に釈した妙楽大師の法華玄義釈籤の文を引かれて正しい意味を示され、尾張阿闍梨の誤りを打ち破られている。
はじめに、小乗をもって大乗を破し、大乗をもって小乗を破する者が盲目となるというならば、それぞれの教判を立て、自己の依経こそ一代仏教の中で第一であるとして諸経を破折した弘法・慈覚・智証や善無畏・金剛智・不空等の真言密教の諸師も盲目になったと言われるのか、と反論せよと仰せである。これは、実相寺が天台宗であり、尾張阿闍梨が台密の僧だったために、その謬義が自宗や真言の諸師を破することになるのにも気づかぬ愚かさを指摘されたものであろう。
次に、法華玄義と釈籤の文を引かれて、尾張阿闍梨を「此の釈に迷惑する者」と破折されているのである。
玄義の文意は「法華経において爾前の諸経で説かれた麤法麤行を開会して、妙法妙行に帰入させたのに、涅槃経でなぜ再び爾前経で説くような次第の五行を明かしているのか」という問いに対して、「法華経は仏が在世の人々のために爾前権教の理を破って法華実教に入れたので、それ以後は麤法はなくなって仏の化導が完成したのである。涅槃経は末法の凡夫が見惑や思惑によって円教の理にのみ執着して法華に至る方便である爾前権教を誹謗し、そのために法華を信じながら五波羅蜜等の事の修行に即して真理を悟ることができず、かえって成仏の命を損ってしまうので、爾前で説いた戒定慧を再び説いて権即実の大涅槃の悟りを顕したのである。故に法華経の権即実の意を悟ることができれば、涅槃経の次第の行を用いる必要はないのである」と答えているのである。
釈籤の文は、玄義に「戒定慧を扶く」とあるのを更に釈して「それは、五戒・八戒・二百五十戒等の事戒や、爾前経で説く種々の禅定や、蔵・通・別の三教に説かれる智慧のことで、ともに事行を助けて円教の理に入らしめるためである。詳しくは摩訶止観の巻七上の対治助開の中で説かれているとおりである。今日の行者をみると、ある者は一向に理を尚んで我が身が仏に等しいと思い、円教に執着して権教を誹謗し、あるいは一向に事行を尚んで法華経の修行は上位の人に限るといい、実教を誹謗して権教を許している。既に末法に入って仏意に迷い、すべての人がこの一向に理を尚ぶか一向に事を尚ぶという二つの失(とが)に堕ちることを免れないであろう。法華経の権実不二の意を悟れば、初心後心ともに成仏できるのである。そのことを心を量り胸をなでて自らを見つめて明らかにすべきである」と述べているのである。
尾張阿闍梨は、玄義に「末代の凡夫の見思の病重く一実を定執して方便を誹謗し」とあり、釈籤に「実に執し権を謗ず」とある文意に迷って、大聖人が爾前権教に依る諸宗を無得道の邪義であり謗法の宗であると呵責され、法華経のみ唯一の成仏の法であると主張されていることを批判したものと思われる。しかし、この文はあくまでも権即実という絶待妙の立場から権教の修行を実教の悟りに入る助けに用いることを論じたものであって、実教の妙理をもって爾前権教を破することを批判したものでは決してない。そのために「法華の意を得れば涅槃に於て次第の行を用いざるなり」とあるのである。
だからこそ大聖人は、釈籤の文にある「一向に理を尚ぶ」とは禅宗がそれに当たり、「実を執して権を謗ず」とは華厳宗、真言宗のことであり、「一向に事を尚ぶ」とは浄土宗、律宗であり、「実を謗じて権を許す」とは法相宗であると、当時の諸宗こそ、天台大師、妙楽大師から仏意に背くものと指摘されているとおりの謗法に堕していることを明かされているのである。
禅宗を「一向に理を尚ぶ」とされるのは、「蓮盛抄}に「禅宗は理性の仏を尊んで己れ仏に均しと思ひ 増上慢に堕つ定めて是れ阿鼻の罪人なり」(御書全集152頁7行目)と破されているように、一切衆生に本然として具わっている仏性を尊び、見性成仏といって坐禅により直ちに悟れるとすることによる。故に「己れ聖に均しと謂い」とあるのである。
華厳宗・真言宗を「実に執して権を謗ず」るものとされるのは、爾前経である華厳経や大日経の中の円教の一分に執着して諸経の中で華厳第一、あるいは真言第一等と立てて諸経を誹謗していることである。彼らはそのため、ひいては法華経をも誹謗したのである。浄土宗・律宗を「一向に事を尚ぶ」とされるのは、浄土宗は専修念仏の一行にのみとらわれ、律宗は小乗の戒律にこだわるからであろう。「実を謗り権を許す」のを法相宗とされたのは、一乗方便・三乗真実と立てて、法華経を誹謗し、爾前経を用いているからであろう。