実相寺御書 第二章

実相寺御書 第二章

 建治4年(ʼ78)1月16日 57歳 豊前房

———————————–(第一章から続く)———————————————–

夫れ、法華経の妙の一字に二義有り。一は相待妙、麤を破して妙を顕す。二は絶待妙、麤を開して妙を顕す。爾前の諸経ならびに法華已後の諸経は、「麤を破して妙を顕す」の一分これを説くといえども、「麤を開して妙を顕す」は全分これ無し。しかるに、諸経に依憑する人師、彼々の経々において破・顕の二妙を存し、あるいは天台の智慧を盗み、あるいは民の家に天下を行うのみ。たとい「麤を開す」を存すといえども、破の義免れ難きか。いかにいわんや、上に挙ぐるところの「一向に権を執す」あるいは「一向に実を執す」等の者をや。
しかるに、彼の阿闍梨等は、自科を顧みざる者にして嫉妬するのあいだ、自眼を回転して大山を眩ると観るか。まず実をもって権を破し権執を絶して実に入るるは、釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀なり。
実をもって権を破する者を盲目となせば、釈尊は盲目の人か、乃至天台・伝教は盲目の人師なるか、いかん。笑うべし。返す返す。
建治四年正月十六日    日蓮 花押
駿河国実相寺豊前公御房御返事

 

現代語訳

そもそも法華経の妙の一字に二つの義がある。一つは相待妙といって、麤法を破して妙法を顕す義。二つは絶待妙といって、麤法を開会して妙法を顕す義である。法華経已前の諸経並びに已後の諸経は、「麤を破して妙を顕す」義の一分は説いているけれども、「麤を開して妙を顕す」義は全く説いていない。それなのに、法華経以外の諸経に依っている人師は、それぞれの経々に破麤顕妙・開麤顕妙の二妙の義があるとしたり、あるいは天台大師の智慧を盗んだりしている。これは民の家で天下の政治を執るようなものである。たとえ麤法を開会する義があるといっても、真の開会ではなく、麤法を破す義を免れることはできない。まして上に挙げた一向に権教に執着したり、一向に実教に執着する等の者はいうまでもない。

しかるに尾張阿闍梨等は、自分の誤りを顧みない者であり、他人を嫉妬したあまり、ちょうど、自分が眩いしているのを知らずに大山が回っていると思うようなものである。まず実教をもって権教を破し、権教の執着を絶って実教に入れるのが、釈迦・多宝・十方の諸仏の常儀である。実教をもって権教を破する者を盲目であるというならば、釈尊は盲目の人であるというのか。また天台大師、伝教大師は盲目の人師となるのか。まことに笑うべきである。

語句の解説

相待妙

天台法華玄義に説かれる教判。法華経と爾前権経を対比して、法華経以外を麤と為す教判。麤とは不完全や粗悪という意味で、法華経からみるとそれ以前の教えは完全ではない事を言う。法華経は随自意の教えで、爾前権経は衆生の機根に合わせた随他意の教えであり、勝れた法華経を選び、爾前権経は捨てねばならないと立てる。

 

絶待妙

天台法華玄義に説かれる教判。麤法を妙法を対比させるのではなく、そのまま麤法は妙法と開会し、爾前権経の教えをすべては妙法から生じた教えであり、全体である法華経が説かれたならば、爾前権経は全て法華経に帰入るすという教判。

 

破麤顕妙

「麤を破して妙を顕す」と読み、麤法を破して妙法を顕示すること。麤はあらい・粗末・劣悪などの意で、権教をさし、妙は実の義で法華経のこと。相待妙の立場から法華経の妙なることを説いたもの。

 

開麤顕妙

「麤を開して妙を顕す」と読む。絶待妙の立場から麤法を開会してそのまま法華経の理として用いること。

 

破顕の二妙

破麤顕妙と開麤顕妙の二つをいう。

 

一向執権

「一向に権を執す」と読む。一向とはまったく、ひたすらの意。もっぱら爾前権教に執着し、実教である法華経を謗ずること。

 

一向執実

「一向に実に執す」と読む。もっぱら実教に執着すること。実教とは蔵・通・別・円の四教の中の円教。開麤顕妙・会三帰一の妙理は全く説かれていない。

 

多宝

多宝如来のこと。東方宝淨世界に住む仏。法華経の虚空会座に宝塔の中に坐して出現し、釈迦仏の説く法華経が真実であることを証明し、また、宝塔の中に釈尊と並座し、虚空会の儀式の中心となった。

 

十方の諸仏

十方とは上下の二方と東西南北の四方と北東・北西・南東・南西の四維を加えた十方のことで、あらゆる国土に住する仏、全宇宙の仏を意味する。

 

常儀

常に変わらぬ儀式のこと。仏の説法の順序・次第は常に変わらないことをいう。

 

天台

天台法華宗の事。法華経を正依の経として、天台大師が南岳大師より法をうけて「法華玄義」「法華文句」「摩訶止観」の三大部を完成させ、一方、南三北七の邪義をも打ち破った。天台の正法は章安大師によって伝承され、中興の祖と呼ばれた妙楽大師によって大いに興隆し、わが国では伝教大師が延暦3年(0784)に入唐し、妙輅の弟子である行満座主および道邃和尚によって天台の法門を伝承された。帰国後、殿上において南都六宗と法論を行い、三乗を破して一仏乗の義を顯揚した。教相には五時八教を立て、観心には三諦円融の理をとなえ、理の一念三千・一心三観の理を証することにより、即身成仏を期している。伝教大師の目標とした法華迹門による大乗戒壇は、小乗戒壇の中心であった東大寺等の猛反対をことごとく論破し、死後7日目に勅許が下り、比叡山延暦寺は日本仏教界の中心として尊崇を集め、平安町文化の源泉となった。しかし第三・第五の座主慈覚・智証から真言の邪法にそまり、かつまた像法過ぎて末法となり、まったく力を失ってしまったのである。

 

伝教

07670822)伝教大師のこと。韓は最澄、わが国天台宗の開祖であり、天台の理の一念三千を広宣流布して人々を済土 させた。父は三津首百枝で先祖は後漢の孝献帝の子孫・登万貴王であるが日本を慕って帰化した。最澄は神護景雲元年(0767)近江国滋賀郡(滋賀県高島市)で生まれ、12歳で出家し、20歳で具足戒を受けた。仏教界の乱れを見て衆生救済の大願を起こし延暦7年(0788)比叡山に上り、根本中堂を建立して一心に修行し一切経を学んだ。ついに法華経こそ唯一の正法であることを知り、天台三大部に拠って弘法に邁進した。桓武天皇は最澄の徳に感じ、弱冠31歳であったが内供奉に列せしめた。その後、一切経論および章疏の写経、法華会の開催等に努めた。36歳の時高雄山において、桓武天皇臨席のもと、南都六宗の碩徳14人の邪義をことごとく打ち破り、帰服状を出させた。延暦23年(080438歳の時、天台法華宗の還学生として義真をつれて入唐し、仏隴道場に登り、天台大師より七代・妙楽大師の弟子・行満座主および道邃和尚について、教迹・師資相伝の義・一心三観・一念三千の深旨を伝付した。翌延暦24年(0805)帰朝の後、天台法華宗をもって諸宗を破折し、金光明・仁王・法華の三大部の大乗教を長講を行った。桓武天皇の没後も、平城天皇・嵯峨天皇の篤い信任を受け、殿上で南都六宗の高僧と法論し、大いに打ち破って、法華最勝の義を高揚した。最澄は令法久住・国家安穏の基盤を確固たらしめるため、迹門円頓戒壇の建立を具申していたが、この達成を義真に相承して、弘仁13年(082264日辰時、56歳にして叡山中書院において入寂。戒壇の建立は、死後7日目の611日に勅許された。11月嵯峨帝は「哭澄上人」の六韻詩を賜り、貞観8年(0856)清和帝は伝教大師と諡された。このゆえに、最澄を根本大師・叡山大師・山家大師ともいう。大師の著作のなかでとくに有名なのは、「法華秀句」3巻・「顕戒論」3巻・「註法華経」12巻・「守護国界章」3巻等がある。また、大師は薬師如来の再誕である天台大師の後身といわれ、50代桓武・51代平城・52代嵯峨と三代にわたる天皇の厚い帰依を受けて、像法時代の法華経広宣流布をなしとげ、輝かしい平安朝文化を現出せしめた。しかし、その正法は義真・円澄みまで伝わったのみで、慈覚・智証からは、まったく真言の邪法にそまってしまったのである。

 

人師

人々を教導する人。一般に竜樹・天親等を論師といったのに対し、天台・伝教を人師という。

講義

次に大聖人は、法華経の妙の義に、相待妙と絶待妙の二義があることを示されている。

そして、法華以外の諸経には相待妙の一分はあっても絶待妙はないのに、この両義があると主張する諸宗の誤りを破られている。

相待妙と絶待妙については、諸宗問答抄に次のように明かされている。

「天台の教相を三種に立てらるる中に根性の融不融の相の下にて相待妙・絶待妙とて二妙を立て候、相待妙の下にて又約教・約部の法門を釈して仏教の勝劣を判ぜられて候、約教の時は一代の教を蔵通別円の四教に分つて之に付いて勝劣を判ずる時は前三為麤・後一為妙とは判ぜられて蔵通別の三教をば麤教と嫌ひ後の一教をば妙法と選取せられ候へども此の時もなほ爾前権教の当分の得道を許し且く華厳等の仏慧と法華の仏慧とを等から令めて只今の初後仏慧・円頓義斉等の与の釈を作られ候なり、然りと雖も約部の時は一代の教を五時に分つて五味に配し華厳部・阿含部・方等部・般若部・法華部と立てられ前四味為麤・後一為妙と判じて奪の釈を作られ候なり」(御書全集376頁4行目)。

「次に絶待妙と申すは開会の法門にて候なり、此の時は爾前権教とて嫌ひ捨らるる所の教を皆法華の大海におさめ入るるなり、随つて法華の大海に入りぬれば爾前の権教とて嫌わるる者無きなり」(御書全集377頁1行目)。

相待妙とは「麤を破して妙を顕す」と仰せのように、比較相対して教えの勝劣を判じ、麤法を破って妙法を顕すもので、蔵通別円の四教を立てて蔵通別に対し円教の妙を顕し、また五味を立てて法華の醍醐味の妙を顕すことがそれにあたる。

絶待妙とは「麤を開して妙を顕す」と仰せであり、法華玄義巻二下に「権を開し実を顕さば、諸麤皆な妙なり、絶対妙なり、若し上に説くが如くんば、法華は衆経を総括して而も事は此に極まる、仏の出世の本意なり、諸の教法の指帰なり」とあるように、比較相対して麤法と妙法を立て分けるのではなく、爾前権教の麤法を開いてそのまま法華経の理として用いることをいう。

しかし、あくまでも妙理の一分として用いるのであって、爾前権経をそのまま成仏得道の法として許すわけではないのである。

そのことを、諸宗問答抄には「開会の後も麤教とて嫌い捨てし悪法をば名言をも其の所詮の極理をも唱へ持つて 交ゆべからずと見えて候・弘決に云く『相待絶待倶に須く悪を離るべし円に著する尚悪なり況や復余をや』云云、文の心は相待妙の時も絶待妙の時も倶に須く悪法をば離るべし円に著する尚悪し況や復余の法をやと云う文なり」(御書全集377頁17行目)と仰せになっている。

法華以外の諸経でも破麤顕妙の一分、すなわち円教の一分を明かして蔵通別の三教を破す等の相待妙は説かれてはいても、すべての経教を開会して受け容れる究極の妙理は説かれていないのである。にもかかわらず、華厳宗や真言宗などの人師は、その依経に相待妙・絶待妙ともに説かれていると主張し、あるいは天台大師の理の一念三千の法門を盗み入れて即身成仏の義を立てているのである。

それを観心本尊抄には「華厳経・大日経等は一往之を見るに別円四蔵等に似たれども再往之を勘うれば蔵通二教に同じて未だ別円にも及ばず本有の三因之れ無し何を以てか仏の種子を定めん、而るに新訳の訳者等漢土に来入するの日・天台の一念三千の法門を見聞して或は自ら所持の経経に添加し或は天竺より受持するの由之を称す」(御書全集246頁4行目)と述べられている。

どのように絶待妙が説かれていると主張しようとも、諸経には相待妙の一分が説かれているにすぎないのである。まして、権教のみに執着して実教を誹謗したり、円教の一分に執着する諸宗に絶待妙の義が存するわけがないのである。

尾張阿闍梨は、大聖人と門下の折伏弘教に怨嫉するあまり、玄義や釈籤の文意に迷って、愚かにも自らが一向執権や一向執実という謗法を犯していることに気づかずに大聖人を誹謗しているのである。

大聖人は、最後に、実教をもって権理を破し、権教に対する執着を断って実教に入らしめるのは仏法の常儀であり、それが誤りであり盲目の因になるというならば、釈尊も、天台大師・伝教大師も盲目の人ということになろう、とその笑うべきことを指摘されている。

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